第62話 猶予クロッキング
3日後には、三学期が迫っていた。
正月に降雪祭。街の至るところには楽しかった日々の余韻が残っていたが、浸っている暇はない。予定になかった宿題を片付けようと、あたしは慌ただしく動いていた。
PTSDだか心の病だか知らないが、そんな柔な女じゃいられない。
三学期になれば、特待生訓練だって再開する。
冬休み明け一発目の訓練では、モモに一発かますというスケジュールが既に組み込まれているのだ。足踏みしている暇を予定に差し込むほど、悠長にしてはいられなかった。
診療所からの帰宅後。
あたしは母親を「大丈夫」の一点張りで制した。
母親は不安げではあったが、最終的には折れてくれた。夜中には概ね回復していため、肌ツヤも体調も問題なし。娘の健康な姿は、母親を大いに安心させたようだった。
母親の説得が終わると、次はハラカンの冬休みの差し押さえだ。
善は急げと、魔法石にコールを入れて協力を乞うた。
「……困るぜリッカ。こんな時間に」
「あたしが頼れるのは手前だけなんだ!」
「悪いな。お前の気持ちには答えられない」
――と昼メロごっこを30分ほどしていた。
最終的には、お弁当を一週間献上することで協力を取り付けた。
どうやら彼女は、昼メロよりも昼飯派らしかった。だったら最初から下らねえ小芝居に付きあわせんじゃねえよ。弁当にうさぎさんリンゴ入れんぞ、と通話を叩き切ってやった。
数時間前の不安が嘘だったかのように、全ては順調に回っていた。
そももそもこの島国にメンタルヘルスという概念が存在するのかも怪しいものだった。引きこもりという単語だって、まだ市民権を得ていないのだ。
多少聞きかじった知識があるといっても、あの医者だって門外漢だ。そんな彼女の診断を重く受け止める方がどうかしていたのだろう。
その日は枕を高くして眠り、翌朝は何事もなかったように目を覚ました。
悪いことなど何も一つない。強いて挙げれば寝起きで少しばかし機嫌が悪いのと、寝ぐせが酷いぐらい。これはいつものことなので、洗面所で解決可能。医者要らずである。
お弁当が入ったスクールバッグを持って意気揚々と歩いていると、相変わらず寒そうにしているハラカンの後ろ姿を発見した。
「よーす。昨日は悪かったな」
ハラカンの顔は、まるで柳の下の幽霊でも見たかのようだった。
なんだ、その顔。
「えっと……思ったよりも元気そうだな」
「だな。かつてないほど絶好調かもしれん」
「本当かよ。昨日死にそうな顔してたじゃねえか」
不安を拭えないのか、ハラカンはあたしを上から下まで眺めた。
「……縦に長いな」
「手前は横に広いけどな」
「連れがのっぽだから目立つだけだ。もっと太れ」
「やなこった。手前が縦に伸びろ」
何の益もない会話をだらっと続けながら、通学路を歩いた。
会話のキャッチボールを何度か繰り返していると、ようやくハラカンは一安心した様子だった。これで調子がわかるというのだから、大した女房役である。
「そこまで憎まれ口叩けりゃ、大丈夫そうだな」
「まあな。心配ごとがあるとすれば、あの医者がヤブだと評判にならないかだけだ」
「散々世話になったくせに、ひっでぇ奴」
そう言うハラカンも、ガハハッと大口開けて笑っていた。
変わるものなど何もなかった。
二人の間を流れる空気も、体育館へ向かう足取りも、何もかも。
全てはいつも通りのテンポで、日常は流れていく。
鍵の開いた体育館に荷物を置くと、あたしたちは示し合わせたように動き出す。ラインで長方形に区切られたコートへ入った。
そう、全ては同じ。
ハラカンに促されて、ゆったりした調子で開始線に着く。
風と土の魔法弾の相殺現象。大きな破裂音が開始を告げる。
ハラカンは【羽衣】を纏って、キュッキュと体育館の床を鳴らす。
昨日の展開をなぞるように【土塊弾】が飛ぶ。
空気に溶かした魔力が風を吹かせ、迫り来る魔法弾の軌道をわずかに反らした。
【土塊弾】は体育着の裾に掠りながら、後方の壁に着弾。
土の塊が崩れる音がポロポロと落ちた。
室内の空気を裂く【土塊弾】、床を走る大玉【土団子】。
ハラカンが攻めの手を緩めることはなかった。魔法弾を吹き流し、自走する大玉をやり過ごし、あたしは虎視眈々と反撃の機会を伺っていた。
狙うは【突風】による、コースアウト。風の魔法少女のスマートな勝ち方といえば、これである。相手の不意を突いて吹き飛ばすのは、最高に気持ちが良い。
【土の壁】を警戒して、魔法の繋ぎ目に照準を合わせる。
チクタク、チクタク。メトロノームが揺れるように、彼女のリズムを図る。
チクタク、チクタク――針と黙詠唱のタイミングが重なる。
間隙を縫う【突風】がハラカンの側面を捉え、枠外へと追いやっていく。
そして、最後に見えた景色はブツンと落ちて、あたしは先の見えない暗闇へと誘われた。
そう、何も変わらない。
チクタク、チクタクと、時計の針とあたしが空回りしていくだけ。
脳裏に焼き付いた、カーチェの迷宮での光景が蘇る。妹の命と引き換えに夢を殺した風の音は、鳴り止むことがなかった。
吹き荒ぶ風のなか、誰かが呪詛じみた言葉を繰り返した。
飽くことなく、許すことなく。「妹の夢を奪ったのは、お前だ」と。
◆
冬休みになってから診療室に来たのは、もう何度目だろうか。
「わかってないようだから言わせて貰いますが。医者っていう生き物はね、万能の救い手じゃない。ましてや助かる気もない患者なんて、どうあがいても救えない」
もはや客人に対する最低限の虚礼すらない。
医者は腹から溢れた呆れをため息にして落とした。
「……わかりました。貴方がそういう患者だということは十二分に理解できたので、薬を処方いたします。手元にある分は少ないですが、時期に外の世界から届きますので気にせず服用して下さい」
「あの、薬って副作用とかあるんじゃないですか」
呼び出しを受けて駆けつけた母親が、恐る恐る尋ねた。
母親はいざとなれば医者も頼るが、基本的には古いセントフィリアの人間だ。この国が長い間敵視してきたものには、どうしても懐疑的だった。
「ありますよ。万能薬なんてありませんから」
なにを今更と、医者は当たり前のように並べ立てた。
「代表的なところだと、微熱、吐き気、不眠、食欲不振……その他には、お通じが悪くなったり、倦怠感を覚えたりですかね。この手の薬としては比較的副作用は軽いですが、脳から全身の神経にいたるまで回る種類の薬ですから。多少のリスクは覚悟して欲しい」
わずかにたじろいでから、母親はがなり立てた。
「……なんですか、それ。そんなものを、私の娘に与える気ですか――ッ!」
「ええ。だって大事な娘さんが死ぬよりはマシでしょう」
横合いからバケツ一杯の水を被されたように、母親の怒りは一気に鎮火した。死の一文字が娘の辺りを漂うことに、動揺を隠せていなかった。
「ちょ、ちょっと待って下さい、先生。話が違うじゃないですか。この前は命には関わらないって」
「それはリッカさんが、常識の範囲内で生活してくれた場合の話です」
暗にあたしのことを非常識と罵りながら、医者は説明を続けた。
「こう短期間で何度もフラッシュバックを起こしては、どうなってもおかしくありません。副次的な過呼吸にしたって、あれを患うというのがどれだけ苦しいと思って……正直、死にたくだってなるんですよ!」
いつも澄ましていた医者が、顔を背けて表情を隠した。
「私だって……好きで嫌なことばかり言っているわけではありません」
医者が正しくて、あたしたちが馬鹿だった。
母親は喚くばかりで、娘は言うことを聞かずに好き勝手ばかりするときたら、主治医は頭を抱えて当然だった。
医者と患者たちの間に、しばし沈黙が流れた。
母親はばつが悪くて黙っていたが、懇願するために口を開いた。
「すいません。それでも、娘の健康を脅かすものを入れるのが怖くて」
「わかっています。投薬するよりも、自然治癒するに越したことはありません。だからこそ、私も手を打っておきました」
「入って下さい」と医者が声を張ると、呼ばれた女性はノック一つなく扉を開けた。
「ふうん。リズが言ってた患者ってのは、お前のことか」
品定めするような視線であたしを舐め回しながら、彼女は入室した。
四大元素から外れた橙色の髪色。タイトなパンツスーツにねじ込んだ無駄のない細身。紹介を受けるまでもなく、あたしは彼女を知っていた。
栄光と転落を味わった女。
かつて"法の薔薇園"の一員だった元魔法少女――マグナ=リュカは、屈託のない笑顔を浮かべて、尖った犬歯をのぞかせた。
「良いな。人の言うことを聞かなそうな顔をしてる」
それは不良教師なりの褒め言葉だったのだろうが、娘を侮辱された母親は明らかにムッとした顔をしていた。医者は母親の意図を汲むように、横に立つ教員の足に蹴りを入れた。
「痛っ! せっかく来てやったのに、何しやがる」
「是非にと頼んだ覚えはないけど」
「テメエ、そういう口聞いてると帰るぞ」
「どうぞご自由に。そのときは、貴方との約束を反故にするだけだから」
ぐぬぬ、と呻きながらも不良教師は折れた。
この約束というのが何なのか、今であれば推理は可能だ。
ちょうどこのころ、高等部は入学願書が集まってくる時期だった。どういう経緯かは定かでないが、不良教師はあいつに目をつけて、医者を求めていたのだ。なにせ男子禁制の国に魔法使いを招くのに、医者の助力は不可欠であろう。
「わあーったよ。今日のところはリズに負けてやらあ」
鬱憤晴らしに、不良教師は椅子にどっかと腰を下ろした。
診察室という空間には、どう見ても不似合いな粗暴な人種。
母親は目を丸くしながらも、乱入者に問いかけた。
「あのう……貴方は一体」
「おっと、挨拶が遅れたな。マグナ=リュカって言う、高等部で先公やってる者だ」
あたしと母親は、呆気にとられて言葉を失った。
絵に描いたような反面教師が、教師をやっているというのだ。あたしも彼女が元魔法少女だということは知っていたが、再就職先までは知らなかった。
真意を確かめるべく医者に視線を寄せると「残念ながら、本当です」と、心底残念そうな声音で返答した。
「何が残念だ。こんな立派な公僕捕まえて、失礼しちゃうぜ」
誰一人として賛同することもなければ、頷くこともなかった。
こほんと、医者は咳払いをして場の空気をリセットした。
「マグナ先生に同席して貰ったのは、リッカさんに提案があってのことです」
唐突な提案に戸惑っていると、不良教師が一枚の書類を差し出した。
太字で『特別滞在届け』と題字が書かれた書類の内容は、要約するとこうだ。何がしかの事情か条件を満たした者を、一時的に高等部に受け入れるという物だった。
「はっきり言って、今の中等部の環境はリッカさんに宜しくない」
以前に比べれば落ち着いたが、中等部には問題児が揃っていた。
医者は悪質な環境ばかりに言及していたが、どうもあたしの立ち位置を知っているように見受けられた。特待生訓練が再開すれば、要らぬ意地を張るのも見透かされていたようだった。
「飛び級というわけではありませんが、先行して高等部の世話になることを勧めます。誰に急かされることなく、落ち着いた環境で治療に励むべきです」
中等部卒業のために一定の学業を収めるという制約は付いたが、悪い条件ではなかった。魔法実技が本格化する高等部には、養護室の数も設備も整っているので環境としては文句の付け所がなかった。
「女子寮も一部屋押さえておいたから、なんなら明日から使っても良いぞ」
くわわ、と不良教師が欠伸混じりに言うと、即座に母親が噛み付いた。
「女子寮! 女子寮って何ですか。なんで家族が離れて住む必要があるんですか。それが、病の治療に何の関係があるんですか――ッ!」
「お母さま。お気持ちはわかりますが、環境を改める必要があると言ったはずです。本当にリッカさんのことを思うのであれば、彼女に一人で自分を見つめ直す時間を与えてあげて下さい」
荒ぶる馬を宥めるように、医者が間に入った。
感情的な人間に飲まれることなく、彼女は淡々とそれらしい言葉を連ねた。冷静になって聞けば辻褄が合わない説得だったが、母親は平常心を欠いていた。
全ては娘のために――最終的にはその一言だけで、母親は納得した。
医者は、とうに母親の異変に気づいていた。
妙な行動力を発揮したかと思えば、相手に批判的な物言いをして突っかかってくる。娘を守ろうという義務感は、母親は危うい位置に追い立てていた。
恐らくこの場にいて知らないのは、母親だけである。
彼女はあたしの保護者として呼ばれたのでなく――もう一人の患者として扱われていた。
「安心して下さい。何もずっと離れ離れになるわけではありません。そうですね……週に一度は自宅に帰るというのはどうでしょうか」
もはや女子寮に入るのは、規定事項のようだった。
あたしのためにも、母親のためにも、二人は離れた方が良い。それが医者の診断結果であり、同意を求められていた。
「大丈夫だよ、母さん。あたしは居なくならないから。少し寂しくなるだろうけど、一週間に一度は必ず帰ってくるよ」
リッカ、リッカとすすり泣きながら、母親はあたしの腰に腕を回した。細腕は締め付ける蛇のようにきつく、つめ先が服の上から刺さった。
「特別滞在の件、喜んでお受けします」
頭を下げて、医者の提案を飲んだ。
冬休み最後の三日間。あがきにあがいて、この病気は一朝一夕では完治しないことを嫌というほど思い知らされていた。
あたしは心の病にも、情緒不安定な母親にも少し疲れていた。
責め立てる時計の針から逃げたくて、希望を求めて逃走の道を選んだ。
宿題の提出期限は延長された。その事実は、少しだけあたしをホッとさせた。




