第56話 奪われた自信
中等部の派閥争いなんて、ませた子供の遊びである。
一気に熱を上げたものは、急激に熱を失うのが常だ。
面倒だ、飽きた、興味をなくした。理由は何でも良いが、いつの日か唐突に終わりを告げる遊びだと、そう楽観していた。
「誰か、早く――ッ! 誰でもいいから、先生を呼んできて」
校門を潜って直ぐに聞こえてきたのは、眠気に突き刺さる叫び声だった。
欠伸で霞む視界には、人だかりが映る。
朝っぱらから何してるんだと、あたしは軽い気持ちで上から現場を覗きこんだ。
「……はっ?」
現実が受け容れられず、何度か瞼を擦るも景色は変わらない。
人集りの中心には、太った女生徒が倒れていた。
声はでけえし、人の背中はバンバン叩くし、大飯食らい。
ハラカン=モフスキーが、苦悶の表情を浮かべていた。
制服から露出した肌という肌を脂汗が伝っていたこともだが、何よりも目を引いたのは下半身の方だった。
あれ……人の足って、そんな方向に、曲がるんだっけ。
「おい――ッ! 退けよ!」
頭が茹だち、荒々しい口調で人集りに割って入った。
何もできないと知っていても、動かずにはいられなかった。
「何してんだよ……お前。こんな何もねえところで、転けたのかよ」
反射的に揺すろうとした手を引っ込めると、ハラカンは笑っていた。
脂汗に塗れてくしゃくしゃになろうとも、力強く笑ってみせた。
「転けた……デブの自重を舐めていた」
その場にいる誰一人として笑えなかった。
本当に笑う奴がいなくて良かった。そんな奴が目の前にいたら、あたしは何をしでかすかわからなかった。
やがて、教員四人がかりでハラカンが運ばれると、後は元通りだった。
朗らかな朝の空気が流れ、何も知らない女生徒たちが挨拶を交わして校門を潜っていく。血液のように人が流れるなか、ただ事件を知る集団だけが淀みのように止まっていた。
歩けるかよ、こんな状況で。
おはよう、なんて爽やか挨拶交わして、教室に行けるかよ。
「誰がやったか……知ってる奴いるか」
歯ぎしり交じりの質問には、怯えを孕んだ弱々しい声が返ってきた。
「モモ……ハイルフォン=モモ」
声の主が誰かは判別がつかなかった。
「ありがとう」
ただ勇気を振り絞ってくれた女生徒に、感謝の意を告げた。
彼女の怯えは、怒りで顔を強ばらせるあたしに向けたものでなかった。
もっと上、遥か上に立つ超越者に向けた恐怖。
御三家のご令嬢にして、特待生としても君臨する暴君――ハイルフォン=モモ。
平時のあたしなら、名前を聞いただけで背筋が寒くなる相手だった。
噂のみで震える女生徒と違って、あたしはモモと魔法を交わしたことがある。彼女の恐怖を肌で感じ、生で知っていた。
――はあ? ここで逃げるなんて言ったら、特待生の……いいえ"リッカさん"の名折れよ。行きなさいよ、ぶっ飛ばしなさいよ、謝らせなさいよ!
脳内の怪獣ナナカゴンが、ギャースカと喚き散らす。
行け行け、GO! GO! と縮み上がる脳みそに活を入れていた。
わかってる。たとえ勝ち目がなくたって、ナナカなら飛び込む。
あの日、無謀にも上級生のクラスに殴り込んできた彼女なら。
情けなくとも、いざというとき浮かぶのは妹の姿だった。
あたしがナナカから距離を置いたのも、偏に彼女が強過ぎたからだ。このままでは、妹に寄り添うだけの姉になってしまう恐怖があった。
あたしは、ナナカに嫉妬していた。
嫉妬してしまうぐらいに妹は強くて、勇気を与えてくれる。
このときだって、あたしに前に進む力を与えてくれた。
怒りで吊り上がる目に、通り過ぎる女生徒がぎょっとした顔をするが、気にしない。ナナカならこう言うだろう。「あまりにあたしが美人で、見惚れたんじゃないの」と。
誰もいないはずの右側に、妹が立っている気がした。
誰も握っていないはずの右手が暖かくて、怖いものなんてなかった。
肩で風を切って歩いていいんだ。一段一段、階段を踏みしめるたびに勇気が湧いてくる。バクバク鳴り響く心臓が、あたしを急き立てた。
1-A組。目標の教室前に立つと、深呼吸を一つ入れた。
そして、教室の前扉を吹き飛ばした。
レールから外れた扉が、教壇にぶつかりながら転がった。
突然の乱入に1-A女生徒が騒然とするなか、ただ一人。
教室中央の席でふんぞり返る女生徒がいた。
そのデカ過ぎる態度は、彼女の小柄な身体を大きくみせる。
ポニーテールを更に二つに分けた、ピンク色のフォーテールが揺れた。
家柄にも美しさにも恵まれた才媛が、こちらを見ていた。
「あら、何のようかしら。デカ女」
「テメエの膝を折りに来たんだよ、チビ女」
どれだけ怒気を撒いても、モモは涼しい顔を崩さない。
埒が明かないので、一度舌打ちを入れてから問い詰めた。
「どうして、ハラカンの骨を折りやがった」
「あら、そうなの」
初めて聞いたとばかりの空惚けた態度だった。
「お気の毒とは思うけど、急に来るなり酷い言いがかりね。ねえ、みんな」
モモの友好的な笑みとは裏腹に、クラスメイトの頷きは必死だった。
この光景をひと目見れば、みんなが当てにならないのは明白だ。
「悪いがみんなの意見ってのは聞いてねえし、仮に発言しても信じねえ。あたしは、目撃者の証言だけ信じさせてもらう」
「私」じゃなくて「あたし」。
虚像の"リッカ"さんを演じて強気で押すも、モモは軽く流した。
「そうね、何か勘違いしてるんじゃないの。きっと目撃者の子が見間違えたのよ。誤解を解かなくちゃだから、その子の名前と特徴を教えてくれないかしら」
寒気がするような微笑だった。
この教室の女生徒が震えている理由が、ここにいた。
1-Aにはモモの恐怖政治が余すことなく蔓延していた。
「誰が教えるかよ」
右手の温もりが、ぎゅっと強くなった気がした。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせて口喧嘩を再開した。
「言いなりなんて並べて、随分と必死なんだな」
モモには、この国に住む者なら誰でも知る泣き所があった。
誰もが目をそらす暴君の脛を、あたしは思いっきり蹴り上げた。
「そんなことしてまで、ローズに追いつきたいのかよ」
希代の天才魔法少女――ハイルフォン=ローズ。
モモの妹の名前を挙げた次の瞬間、目の前の空間が沈んだ。
1メートル手前。凹む足元には、椅子と机だった残骸が落ちていた。
「あー気分悪い。本――っ当に気分悪い。さっきのデブといい、このデカ女といい、何なの。本当に何なの? 馬鹿なの、身の程知らないわけ?」
弁慶の泣き所を蹴ったのか、地雷を踏み抜いたのか。
どちらの表現が的確かはわかないが、ただひとつ明らかなのは、
「相手見て喧嘩売りなさいよ、うぞーむぞー」
桃髪の暴君の怒りに油をぶっ込んだということだ。
整った顔立ちは怒りに染まり、どす黒い魔力が漏れる。
覚悟を決めるしかない。とうにモモは本気だった。
決してあたしとて、何の覚悟もなしに来たわけではなかった。
だが、肌がひりつくこの重圧感を前にしては、容易く動けない。
モモの本気を前にして躊躇なく前に行く奴など、
「ど――ッ!」
あたしは、この馬鹿の他に知らなかった。
「わっしょおおおおおおおおい――ッ!」
後ろ扉をぶち抜き、四角い炎が教室を走った。
真正面の窓を破るだけでは飽きたらず、窓ガラスの破裂音が続く。
後ろ扉の直線上に机が並んでいたら……考えただけで、ぞっとした。
「きゃあああ、リリィが焼けました――ッ!」
事実、運悪く一人巻き込まれていた。アーメン。
まあ【羽衣】や【噴出】を展開すれば、火属性の魔法でも簡単には焼けない。
とはいえだ。こうも躊躇なく火祭に上げるなんて、人のすることじゃねえ。
「相手見て……喧嘩売りに来たぜ――ッ!」
真紅のベリーショートの持ち主は、無邪気に笑っていた。
中性的を通り越して男性的ともいえる凛々しい顔は、命の対極とも言える。
後方から豪快に登場した挑戦者は、熱を上げていた。
比喩じゃなくてマジである。
全身に炎をまとった特待生――アレク=ウォンリーの特攻は、1-Aを恐怖のどん底に落とした。
それもそうである。節度を知らない喧嘩馬鹿に巻き込まれたら、火傷では済まない。何せこの馬鹿は、入学式早々に全校生徒に喧嘩を売るようなイカれ女だ。
「何の用よ、赤バカ。言っとくけど、あんたの喧嘩なんて買う気ないから」
「今日という今日はそうは行かないぜ、モモ。あたしが何回誘っても、鍋もなく断りやがって!」
「にべもなくな」と、一応訂正しておいた。
「そうとも言う」
そうとしか言わねえよ、タコ。
「ともかくだ。リッカの喧嘩が買えて、あたしの喧嘩が買えないとは言わせないぜ」
「燃えるぜ、ヒートアップ」と、アレクの逆立てる炎が天井を焦がしていた。
不味い。この三つ巴は予期せぬ展開だった。
モモを相手取るだけでも荷が重いのに、アレクが加わるとなると。
アレクを誘導して、実質2対1の状況に持ち込むべきだろうか。
思考がまとまり切る前より早く――四人目が空から降ってきた。
「え」
上階から落下してきた生徒会長が、破れた窓から飛び込んできた。
彼女はこの1-Aの2階上に当たる3-Aにいるため、確かに理論上は可能だ。
しかし、杖も箒もなしに普通飛び降りてくるか。
「いい加減にしないか、この馬鹿どもが――ッ!」
凛とした声が鼓膜をびりびり震わせた。
中等部の生徒会長――オルテナ=シルフィードは酷くご立腹だった。
「騒ぎを聞きつけて駆けつけてみれば、何だこの有り様は」
モモは鬱陶しげに耳を塞ぎ、アレクは興味なさげ。
あたしはその中間の立ち位置で静観していた。
「君たちが入学してから、どれだけ生徒会に苦情の投書が寄せられたと思っている。私が二年間でいただいた優に倍以上だぞ、倍以上!」
生徒会長さまの言葉に動じることなく、アレクが尋ねてきた。
「なあなあ、投書って何だ?」
「さあな。馬鹿には出せない代物なんじゃねえか」
「あー、リッカお前、あたしのことバカだと思ってるだろ。バカって言う奴がバカなんだよ。バーカ、バーカ」
「私の話を……ッ、聞けえええええええええ――ッ!」
生徒会長の吠え声が、教室中を震わせた。
やけに通る美声には耳塞ぎも意味を成さず、モモが不快を露わにした。
「どいつも……こいつも」
ゆらりと、暴君が幽鬼のごとく立ち上がった。
「黙って私に従ってれば良いのよ、豚どもが」
「弱くても懸命に生きる者を豚と蔑むか、ハイルフォン=モモ。それ以上の蛮行に及ぶのであれば生徒会長として、いや、人として私は正義を振――」
「面白え! 4対1ってやつだな。喧嘩が捗るぜ」
「最後までキメ台詞を言わせろ」と生徒会長が吠え、
「五人目はどこから持ってきたんだよ」とあたしが呟き、
「大変だ、一人増えたぞ!」と指折り数えたアレクが驚嘆し、
「この、うぞーむぞーどもが」とモモが眉間ビキビキ言わせながら、
かくして中等部の歴史に残る"1-A大乱闘"が勃発した。
1-A教室が全壊するまでの大騒動に発展したが、幕切れは呆気無いものだった。
この場にいなかった特待生の一人――ユメリア=エクシリアが似非聖女ぶりを発揮し、教員と女生徒を扇動して押し寄せてきたのだ。
結果、最後は数の暴力に負けて、ユメリアの一人勝ちである。
これだから"五人の才媛"というやつは嫌いだ。
◆
四つ巴の結果は満足のいくものではなかったが、憤りを覚える余裕もなかった。
魔力欠乏症。
魔力枯渇手前の状態は、ガンガンと頭に警鐘を鳴らしていた。
気怠さが身体を満たし、前に進む足は鉛のように重い。
自室に戻ると同時に、あたしは意識を手放してベッドに沈んだ。
「……ちゃん、……なさい」
ナナカの声が聞こえたが、眠気が優っていた。
後の五分と持ちかけるも、交渉は失敗に終わった。
「ぐぼあ!」
妹のボディプレスは、一気にあたしの意識を覚醒させた。
さすがに軽いといっても、小等部5年生の重みは堪える。
「なに寝言たれてんの。夕食しまっちゃうわよ」
イライラ、とナナカの顔には書かれていた。
ご機嫌斜めなのが一目で見て取れたので、あたしは素直に従った。
触らぬナナカさまに祟りなし。さっさと居間に向かうのが吉である。
「そういえばさあ」
直ぐに背中を向けると思ったナナカは、扉前で立ち止まった。
「御三家や生徒会長と喧嘩してきたって噂、本当なの?」
随分と耳が早いと思ったが、小等部と中等部は同じ敷地内にある。
あれだけ派手に暴れれば、噂がそこら中に回るのはむしろ当然といえた。
「まあな」
と、一言述べるだけに留めておいた。
本当は四つ巴という構図に大分救われたのだが、その辺はぼかすことにした。
姉には姉の意地があるのだ。
「ふうん。なかなかやるじゃない」
腕を組んだナナカから、そうご講評をいただいた。
この妹から褒められるとは、我ながら成長したものだ。
なんて悦に浸っていると、ナナカの口から予想外の言葉が飛び出した。
「けどリッカちゃん、あんま無茶しちゃダメよ。怪我したら元も子もないんだから」
あの鬼軍曹が優しい言葉をかけるとは、夢にも思わなかった。
もしや夢の続きではないのかと、この現実こそ疑わしかった。
「……何よ、その顔」
「いや、意外だなって思ってさ」
目の前の妹と、あたしの脳裏に浮かぶ妹の間には齟齬があった。
「ナナカだったら、後先考えずに行ってこい、って言うかと思って」
「うっわ。リッカちゃんたら超失礼。あたしだって色々考えてるわよ」
ナナカが色々と考えている姿……悪いが、あまり想像がつかなかった。
思わず鼻で笑ってしまうと、妹はあからさまに気分を害したと顔で訴えた。
これは元より妹の機嫌が悪いことを失念していた、あたしのミスだ。
「ふんっ、だ。泣き虫リッカちゃんの心配してあげたと思ったら、これよ。恩を仇で返すとは、まさにこのことね。あたしが何回リッカちゃん助けてあげたと思ってるのよ」
最初に油を注いだのはあたしだ。だからあたしが悪い。
そうわかっていても、その言い振りにはカチンときた。
「もう結構だっての。別にナナカに助けて貰わなくても、あたしは強いから」
「何よその言い草。あたしは純粋にリッカちゃんの心配してあげただけじゃない。あんな化け物どもに囲まれたら、いつかリッカちゃん壊れちゃうわよ!」
「だから、それが大きなお世話なんだよ。あたしは平気なの」
ここまできたら、もう互いに退けない。
油の掛け合いはまだまだ続くものかと踏んでいたが、この舌戦は予想外に早く決着を迎えた。
ドカン、と油を掛けられたナナカが爆発したのだ。
「あたし、あたしって、ナナカの真似しないでよ――ッ!」
ナナカは直情的だからよく怒る、だから当然よく叫ぶ。
けどその日の妹の叫び声は、今までに聞いたことがないほど大きかった。
アレクの雄叫びより大きくて、生徒会長の声より響き渡った。
叫び終えると、ナナカは振り返ることなく階段を下っていった。
どたどたと必要以上に立てる足音には、間違いなく怒りが乗っていた。
「なっ」
一瞬呆気にとられたが、怒りの感情が再熱しだした。
「なんなんだよ、あいつ――ッ!」
負けじと大声を上げて、あたしは枕を壁にぶん投げた。
図星を突かれたことを隠す、ただのパフォーマンスで八つ当たりだ。
"リッカさん"が、ナナカの真似をしていたのは確かである。
けれど、誰かの期待に応えようと必死に努力する姿勢まで否定されるは嫌だった。
街なかで長女を誇る母親を失望させたくなかった。
勘違いとはいえ、"リッカさん"とあたしを慕ってくれる女生徒たちの期待を裏切りたくなかった。
引っ込み思案で今まで自己主張が弱かった子が、前に立って何が悪い。
人並みに見栄を張って、人並みに自信を持とうとして、その何が悪いのか。
――リッカちゃん、泣かないの。あたしがやってあげるから。
――大丈夫よ。ナナカに任せておいて。
人から散々自身を奪っておいて、あたしだけ何も奪っちゃいけないのか。
「だったら……私のこと、お姉ちゃんって呼んでよ」
弱々しく漏らした声を、あたしは直接ナナカに言うべきだった。
そうしていれば、ナナカはまだあたしの妹だったのかもしれない。




