第53話 小さなその手に引かれて
あたしの妹は無敵だった。
子供の言うことだから。――そうやって大人が鼻で笑ってしまうような夢物語だって、きっと叶えられると信じていた。
姉妹で"鐘鳴りの乙女"に入るのだと言って、聞きやしなかった。
人参やらコップやら、妹は何かをマイクに見立てては"鐘鳴りの乙女"の曲を歌う。気分屋が勝手に歌いだせば、我が家のリサイタルの始まり始まり。あたしも母さんも呆れた顔をするが、うちの太陽さんはお構いなしでキラキラ燦々。元気に眩ゆい光を振りまくだけだ。
巡る。調子はずれの明るい声が、頭のなかを。
つまらなそうな顔をするあたしと、唇の端をわずかに上げる母親がいて。
テーブルの上に素足で登る、ひどく音痴な歌姫がいて。
消える。まぶたを上げれば、泡沫の夢であったようにあの日が。
うっとうしくて大好きだった歌声も、もう聞こえない。
ひっこめ音痴と、野次をぶつけられる相手ももういない。
見上げた白い天井。
ここは、どこまでも白い部屋。
――あんまりオススメはしないけど、薬を処方しようか。
なんであたしは、こんな場所にいるのだろうか。
あたしたちは、どうしてこうなってしまったのだろうか。
◆
「なんでリッカちゃんは、そういう弱気な発言するのよ!」
ぷんすか。ナナカはそんな擬音がよく似合う妹だった。
大口叩いては周りが笑うものだから、「うがあ」と両手を上げて吠えるのだ。プライドが高いというより、夢や野望が大きいタイプだった。
子連れママの集会――要は子供を口実にしたお茶会がお開きになってから、あたしはナナカに怒られていた。我が家だというのに、なぜか隅っこに丸まって。
気弱な姉のあたしより、むふーと鼻息荒く仁王立ちする妹のほうが、よっぽどお姉ちゃんらしかった。しかし、怖くても妹は妹である。あたしはママ会の同年代の子供には文句を言えなくても、妹には正面切って文句をつけられた。
「だって……みんな、なれないって言うんだもん」
「ぜったい、なれる。少なくともわたしは!」
「えー! だったら、わたしはなれないじゃない!」
「だからよ。ダメダメなリッカちゃんがそんなこと言ったら、もっとなれるはずがないじゃない! もっと自分に自信を持つこと、いいね!」
顔を近づけるナナカの勢いに押されて、小さくうなづいた。
こうやって、あたしは自信を植えつけられていったのだ。今のあたしの神経が図太いというなら、それはあたしのせいではない。ナナカのせいである。
「ほらほら、可愛い顔が台無しよ」
子供同士で喧嘩してたときは無関心だった母親が、あたしに近寄った。他の母親との関係性もあるから、無関心を装っていたのだろう。体裁を気にする母親にも、ナナカはむくれていた。
「ナナカは、おこっててもカワイイもん!」
ナチュラルボーンお姫さま。
今思い返せば、この妹も大概である。
「おかあさんも、おかあさんよ! リッカちゃんがバカにされてるのに、なんで助けないの? もしかして血がつながってないの?」
「ええ! あたし、ひろわれてきたの!」
目を細め、真剣な顔つきでナナカは言う。
「……ありえる。ナナカがこんなに優秀なのに、似てないもん」
おいこら、妹。
このときのあたしは、本当に言われたい放題だった。
実は拾い子である恐怖に襲われて、涙目になるあたし。
その顔を見て慌てるも、取り繕えないナナカ。
二人まとめて、母親は広げた両腕で抱きしめた。
「二人とも、私の可愛い可愛い娘に決っているでしょ」
ふわっと温かいものに包まれると、意味もなく落ち着く。
たぶんものすごく意味があるのだろうが、母親の愛なんて子供にはよくわからないし、未だに説明はできない。母親とは安心感なのである。
「お菓子をもらったから、一緒に食べましょう」
こんな風に優しく懐柔されると、あたしたちの負けだ。
渋々という体をとりながらも、お菓子を一口運べばごきげんになってしまうのだ。お菓子と大人はズルい。
世間体を気にするきらいがあるが、心優しい母親。
世間体という檻を食い破る怪獣のような妹、ナナカ。
あたしはこの二人に囲まれて育った。父親不在なので囲むというには少々寂しいが、この国では珍しいことではない。道行く老婆も母親も、誰もが魔法少女だった過去を持ち、大通りを走る子供もいつかは地を蹴り空に舞い上がる。
外界と隔絶した、閉じられた世界。
ただ果てなく広がる海の青に四方を囲まれ、ぽつねんと浮かぶ島国――セントフィリア王国。男子禁制のこの国にいれば、父親不在でも娘は勝手に育つというものだ。
静かに時が流れるこの島国で、あたしは育った。
◆
教育を受ける権利はあっても、この国には学校を選ぶ権利がなかった。
子供は一律セントフィリア女学院に放り込まれるシステムだ。小中学生は王都の2区にある施設に。高校生は第二都市ヴァレリアにある、白亜の城が聳えるキャンパスに入れられる。
昔は白亜の城があるヴァレリアに憧れたものだが、施設生活が数年にも及ぶと、隣の芝生を見て文句を言うことにも飽きていた。施設は王都にあるので何不自由なく生活できるし、何より図書室の蔵書が充実していた。
「貴方は、アンロップちゃんみたいな子ねえ」
図書館のおばあちゃん先生は、しみじみと言った。
昔の卒業生を懐かしんでいたのだろうが、あたしはその名前が嫌いだった。
あの本にも、この本にも。どの本の図書カードにもアンロップの名前が書かれていた。まるで知らない世界を先取りされているようで、気に食わなかった。
「でもね、その子のおかげでこの図書室が充実したのも確かよ」
おばあちゃん先生の話によると、件のアンロップ氏が毎日せっせと購入希望を投書したことが、この図書室の充実に一役買っているらしかった。
「ねえ、リッカちゃん。その子は右利きだったのに、ある日を境に両利きになったの。なんでだと思う」
なぞなぞか何かだと思い、私はカウンターの向こう側に気軽に答えた。
「前に読んだ小説の主人公が左利きだったから、とかかな」
「……両手で購入希望用紙を書くためよ」
悪魔の自動書記の完成だった。
アンロップ氏は、げに恐ろしき文学少女だった。
おばあちゃん先生の存在はやけに希薄で、柔らかな日差しに乗って天へと昇りそうな風ですらあった。口から魂がはみ出そうな老婆から、あたしは数点の本を借りて逃げていった。
もうアンロップ氏をライバル視するのも、同列視するのも止めよう。
そう考えた筈だったのに、あたしは彼女と嫌なところが似てしまった。
「――え」
昼休み明けの算数の授業。寝る前に鞄に入れた筈の教科書が消えていた。
忘れたのでないことだけは確かだ。あたしの教科書は校庭の土に塗れていたのだから。
純粋な子供が初めて遭遇する人の悪意。
どれだけの涙を零したのか覚えてもいない。根暗の文学少女がイジメられやすいのは、いつの時代も共通だった。
霞む視界におぼつかない足取り。
なんであの日、家まで帰れたのかは不思議で仕方ない。
真っ赤な膝小僧は土を被り、おろしたてのスカートもくたくた。泣き腫らした顔なんか酷いものだったが、母親とナナカは優しく出迎えてくれた。
◆
こんなに学校に行くのが嫌だった日はない。
オロオロする母親は我が子の身を案じながらも、それでも休めとは言わなかった。
セントフィリア王国は引きこもりの王国のくせに、引きこもりという概念が一般的ではなかった。登校拒否などしようものなら、狭い島国中に噂が回ってしまう。それを母親は恐れていた。
――大丈夫よ、リッカちゃん。あたしがついているから!
根拠の無いナナカの励ましは、虚しく響いた。
二学年下のクラスも違う妹に何を期待しろというのか、そう思っていた。
「うちのリッカちゃんイジメた奴ら、全員起立」
あたしが間違っていた。
ウルシ=ナナカという人物は、一介の妹でなかった。
上級生のクラスに我が物顔で入ってきたナナカは、誰の目も気にすることなく椅子の上に立つと、教壇の上に両手をついて物々しい言葉で朝礼を始めた。
賑々しい朝の空気はぶち壊されて、ざわめきが教室を満たす。
唐突に朝から君臨した下級生に誰もが身動きをとれずにいた。もう少し待てば何か反応があったかもしれないが、生憎とうちのナナカは五秒と我慢ができない性格だった。
「じゃあ、うちのリッカちゃんイジメた奴ら、全員着席」
当然こんな不意打ち、誰も反応できるわけがなかった。
「よろしい――見て見ぬ振りした人も、全員同罪ってわけね」
教壇に上履きで登った身勝手クイーンは、高みから35名の上級生を睥睨していた。ニッコリとした満面の笑みはかえって怖かった。
日焼けした薄緑のカーテンが揺れるのは前兆。重い風の魔力が垂れ込め、ナナカの手元には風の塊という名の暴力があった。
「何勝手に人の教室に――」
「お前かああああああああああああああああああああ――ッ!」
講義した女生徒は、頬に【風衝弾】がめり込み、意識を根こそぎ奪われた。
この躊躇のなさがナナカの恐いところだ。まさに風雲児といえよう。
「どうよ! リッカちゃんのかたきを討ってやったわよ!」
「いや、わたし死んでないけど」そんな反論を挟む余地すらなかった。
あたしの反応が芳しくないと見るやいなや、暴徒と化した妹は次弾の準備にとりかかった。
「なに、違うの? じゃあ、こいつね!」
指差された女生徒が小さな悲鳴を上げた瞬間、ガラガラと呑気に引き戸が開いた。朝礼の開始を告げる鐘の音。レールを跨げず固まる担当教員とナナカの視線が絡み合う。
数秒の沈黙を共有したのち、先に口を開いたのは担当教員だった。
「ちょっと、あなた何をしているの」
「うるさい、このメガネ――ッ!」
そして、先に口を閉ざしたのも担当教員だった。
お手手のシワとシワを合わせて合掌。理不尽な一撃で沈んだ担当教員は、すでにメガネですらない。何故ならかち割れているからだ。
魔法教育が本格化する中等部、高等部と違って、小等部には魔法が使える人材がごく少数であり、この人はすでに魔力摘出を済ませた身だった。
「なっ――ッ!」
しかし、魔力摘出の有無は大した問題ではなかった。
問題は小学生にとって絶対の存在である教員が倒れたということ。この緊急事態にクラス中は息を呑み、動揺は一気に広がった。
先生という法なきここは、もはや無法地帯。
身の危険を察知していの一番に立ち上がる者もいた。
そう、あたしをイジメていた主犯格である。
「なに調子のってるのよ、下級生のくせに。たかだか教科書捨てられたぐらいで」
「はあ? 一年二年早く生まれただけのボンクラのくせに、いばらないでよ。リッカちゃんをばかにするだけならまだしも、ナナカをバカにしようなんて、あんた何さまのつもりよ。このデコちん!」
おでこを出して、空色の髪をハーフアップにした少女――イルゼ=ヴェローゼは怒りで顔を真っ赤にしていた。負けじと空気中の水分を掻き集めると、ぼこぼこと音を立てながら水の魔法弾をつくりあげた。
「誰がデコチンよ、調子に乗るな――ッ!」
「のわっ!」
ナナカが教壇から跳ねて、斜め前の女生徒の席に着地。遅れて黒板に着弾した【水泡弾】が水しぶきを上げたときには、もう何がなにやら。あたしなんか、完全に蚊帳の外に追い遣られていた。
「危ないじゃない! 人にそんなもの向けん――なッ!」
口と行動が伴わないナナカは、待望の魔法弾をリロードと同時にぶっ放すが、なにぶん的は動く。イルゼが横っ飛びでかわした魔法弾は、風を巻き起こして女生徒の服の裾を揺らした。
「言ってることと、やってることが違うじゃない!」
「ナナカは良いのよ! ナナカは特別なんだから!」
ひび割れた黒板の下からのぞく灰色の壁。
春風に舞う千切れたカーテンは、意図せず空いた窓ガラスの穴から流れていく。椅子も机もあっちこっちに横倒し。ああ、今日もナナカさま日和である。
太陽燦々。私の自慢の妹の輝きを、砕けたガラス片が照り返していた。
◆
「うがあ! 納得いかない、ナナカ超納得いかない!」
あっちこっちに生傷こさえたナナカは、怪獣みたいに叫びを上げた。
VS上級生クラスという大立ち回りをみせた怪獣も、健闘むなしく保健室送りだった。あたしの記憶が定かなら、勢いで半数ぐらいはイッた気がするが、あとはジリ貧。「囲め、囲め」と追い詰められていた。
「リッカちゃんがいけないのよ! もっと援護しなさいよ!」
勝手に助けにきたと思ったら、この言い草である。
この無茶苦茶加減がナナカらしいといえばそうなのだが。
「いぃ――ッ!」
思いっきり傷薬を塗りたくられて、ナナカが悲鳴を上げた。
向かいに座る養護教員は、保健室常連という嬉しくない女生徒にため息をついた。
「無茶言わないの。貴方とリッカちゃんは違うんだから。リッカちゃんも、たまにはガツンと言ってやっていいのよ」
今なら暴言を並べてナナカと舌戦をくり広げただろうが、当時のあたしは違う。それはそれは深窓のご令嬢のごとくお淑やかだったので、保健室のベッドに腰掛けて所在なさ気に目を伏せていた。
「先生ひどい! あたしとリッカちゃん、どっちの味方なのよ!」
「心情的には、間違いなくリッカちゃんね」
「あたしの味方になりなさいよ! 絶対その方がお得よ。なんたってあたしは、将来の"鐘鳴りの乙女"の一員だからね」
「……貴方も、本当に大変ね」
口角から泡を飛ばす勢いで自分を売り込むナナカ。
養護教員は上半身を背けながら、あたしに同情の眼差しを向けていた。
「今回の一件で問題が起きたら、先生に言ってね。養護教員なんてどこまで力になれるかわからないけど、助けてあげるから」
「なによ、それ。全員保健室送りにしてあげるから、ぐらい言ってよ」
絶句。養護教員も呆れ果てて物が言えない様子だった。
ナナカは絶対に医療関係者になってはいけないと、子供心にそう思った。
「大丈夫、半殺しにしてから治すから」とか真面目に言いかねない。
「もう行こう、リッカちゃん。大人なんて頼りにするより、あたしが"鐘鳴りの乙女"になった方が万倍早いわ。そうと決まれば特訓よ、特訓!」
丸椅子から勢い良く立ち上がると、ナナカはあたしの手をとって急かした。こんな薬品臭くて清潔な部屋にはいられないと、全身でアピールしていた。
「あっ、待ちなさい。まだ治療は」
「大丈夫、大丈夫。ありがとね先生」
妹に手を引かれて、前のめり気味になる。危うく転けそうになりながらも、保健室から飛び出していった。
「無茶しないのよ。貴方とリッカちゃんは」
――違うんだから。
最後の言葉を聞きたくなくて、あたしは保健室の引き戸を後手で閉じた。
風のごとく廊下をかけるナナカには、きっとわからない。妹に手を引かれる、情けない姉の気持ちなんて。本当はナナカに感謝しないといけないのに、あたしの心には後ろ暗い感情が積っていく。
もっと強くなりたかった。妹に手を引かれるのでなく、あたしが妹の手を引けるぐらいに。




