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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1週間チュートリアル ―春祭り編―
39/113

第39話 春の季節に君想う(Scene3~Scene4)

Scene3 お嬢さまと従者

 一等地に店を構えるペットショップ。

 硝子張りのゲージが壁一面に広がるその店内で「うへえ」と締りのない声を漏らして、没落お嬢さま――フィロソフィアは呆れていた。


「何ですの、このふざけた価格は」


 蒼い瞳を持つ蹴鞠のような猫が、ガラス張りの向こう側にいる。

 気位高そうで可愛げのない猫は、セントフィリアにのみ存在する固有種、妖精猫(ケットシー)である。


 一〇〇万イェンと書かれた値札を見て、フィロソフィアは一蹴する。

 その値段はふざけてますわ、と。


「お嬢さま。妖精猫の相場から考えると、そうおかしな価格ではありません」

「わかってるわよ」


 銀髪の従者、エメロットの言葉は正しい。

 そのことはフィロソフィアも重々理解していた。『妖精猫と生きる』を読破したお嬢さまは、妖精猫の相場もしっかり熟知している。


 だが、こうして目の当たりにするとにわかに信じがたいものがあった。


「ウチの穀潰しがここまで高級だなんて」

「お嬢さま。自分の価値を低く見積もるのは止めて下さい」

「……貴方は、私と穀潰しを無条件で紐付けるのを止めなさい」


 無一文で要求ばかり高いフィロソフィアも十分穀潰しなのだが、今回の対象は違う。ここで言う『ウチの穀潰し』とは、先日とある経緯で拾い飼いした妖精猫、フィーのことである。


 主人との折り合いは悪いが、自分には懐いて擦り寄ってくる。そんな家猫を思い浮かべながら、エメロットは悩ましげな声を出した。


「はあ、さすがにもう一匹は飼えませんよね」

「当たり前ですわ! 何さらっと恐ろしいこと言ってるの!」

「冗談ですよ。フィーとお嬢さまで我慢します」

「私と畜生を同格にしないで欲しいわ」


 主人の威圧もどこ吹く風と、エメロットは店内を散策する。気怠げな瞳の従者がここに来店した目的は、新たな妖精猫の購入するためではなかった。


「こっちにありましたよ。猫用品」

「……本当に必要なのですか? この際だから言っておきますが、我が家の家計に余裕はありませんわ」

「ええ、お嬢さまのお陰ですね」


 半眼で睨むエメロットに押され、「ぐぬぬ」と主人フィロソフィアは口を結ぶ。二人の家計が火の車である原因の大半は、お嬢さま育ちのフィロソフィアにあるからだ。


「わかったわ。今日は貴方の好きになさい。寛大なご主人様に感謝することね」

「ご主人様が好きになさいと言ったから、4/6はエメロット記念日」

「作らないわよ、そんな記念日――ッ!」


 心のメモ帳に記念日を書き留めると、エメロットは店内角の妖精猫コーナーを物色する。ペットフードや缶詰、ブラシなどが棚に陳列されていた。


「うっ、どういうことよこれ」


 苦い顔でフィロソフィアが呻く。

 春祭りセール対象外と記載されたプライス。

 それを見つけた時点で嫌な予感はしていたが、特別扱いされた商品郡の価格は桁が一つ違った。


 ――高級猫缶、二千イェン。


 妖精猫に比べれば安いとはいえ、完全にブランド商法に乗っかった商売だ。よく見れば周囲の客層も身なりの整った者ばかりだった。


「……さて、帰るわよエメロット」


 三十六計逃げるに如かず。

 フィロソフィアは透かさず撤退命令を出すが、あいにく彼女の従者は従順な兵隊ではなかった。


「レッツゴーフィーバー、エメロット」


 鼻歌混じりに、ガラガラと何かが崩れる音がした。

 嫌な予感にフィロソフィアが振り返ると、高級猫缶の雪崩が起きていた。崩れ落ちた缶詰がジャックポットとばかりにエメロットの持つ籠へと落ちていく。


 +2,000イェン

 +2,000イェン

 +2,000イェン

 +2,000イェン……。


「ギャアアア! 貴方なんて恐ろしいフィーバータイムに突入しているのですか」「エメロット散財するの巻」



 Scene3.5 エメロット散財する



「変な見出しをつけてる場合ですか! それ一缶二千イェンですわよ!」


 籠に落ちるのは高級猫缶だけではない。一万イェン以上するヘアブラシや爪切りなども、さも当然のように籠に放り込まれた。


 無一文のお嬢さまには信じ難い光景だが、従者はケロリとした顔で言いのける。


「大丈夫ですよ。家計とお嬢さまを切り詰めれば」

「私の何を切り詰めるつもりなのかしら!」


 フィロソフィア家の家計簿を預かる従者へ、主人は不安そうに問いかける。


「……ねえ。目算でも三〇万イェンは硬いのだけど。それだけあれば、食券が三〇〇枚は買えるわ」

「お嬢さま、随分と庶民的な感覚を養いましたね。その成長に、私の喜びもひとしおです」


 御三家という恵まれた家庭に生まれ、家出同然でセントフィリア王国へ旅立ったフィロソフィアは、その後文字通り一文無しになった。


 そのため、嫌でも自分が嫌っていた庶民に身をやつす他なかった。そんな没落お嬢さまの残念な進化を見て、エメロットは濁った瞳からほろりと涙を落とす。


「で、その後ろ手に隠した目薬は何かしら」

「乙女の武器とでも言っておきましょうか」


 どさくさで会計を済ます計画は看過されていた。エメロットの進行は、フィロソフィアに阻まれる。主人のレジ前ディフェンスは鉄壁だった。


「エメロット、誰の許可を得て先に行くの?」

「嫌だなお嬢さま。端金ですよ、端金。ほんの紙切れ三十枚」

「騙されないわよ、エメロット! それだけあれば、鶏肉のフォーやバインミーが食べ放題だということを私は知っているわ」


 最近のマイブームであるベトナム料理を引き合いに出して、フィロソフィアが噛み付く。「ちっ」とエメロットは小さく舌打ちをした。

 金銭感覚のない阿呆お嬢さまだったときは、同じ手口で何度かお金を降ろせたが、ここ最近は口座の警戒(セキュリティ)レヴェルが上がったようである。


「……仕方がありませんね。この手は使いたくなかったのですが」


 これ見よがしにため息をつき、エメロットは切り札を切った。


「お嬢さま。私が何でこれほどの資金をお持ちか、おわかりですか?」

「そうですわ、貴方も同じレッドカードなのにおかしいじゃないの。一体何ですの、この貧富の差は!」


 魔法少女がお買い物に用いるカード。

 その最低辺に位置するレッドカード保持者は、一イェンの買い物すらできない。にもかかわらず、二人の間には埋めがたい格差があった。


「その答えはこれです」

「なっ、何ですの。その紙幣は――ッ!」


 広げられたエメロットの財布の札入れには、何重にも分厚くなった紙幣が入っていた。すべて一万イェン札の現ナマである。


「これは、お嬢さまが勝つと信じて止まなかった人間の希望です」

「私が? 何を訳がわからないことを」


 途中まで言って、ふと思い当たる。

 それは入学初日のできごと。

 杖と箒で女学院まで競争を繰り広げたときに、密かに開催された賭博。その元締めに銀髪の従者がいたことを。


「どうやら気づかれたようですね。そう、これはお嬢さまが勝負に負けたことで勝ち取った、不名誉な資金なのです」


 ボキリと、フィロソフィアの背骨(プライド)が折れる音がした。


「まさか……今までの生活費も」

「ええ。私たちは今までお嬢さまの負け分で食い繋いでいました」


 無駄に挟持(プライド)が高いお嬢さまにとって、その事実は屈辱以外の何物でもない。込み上げる感情からギリと奥歯を噛み締めた。


「何て……ふざけた生活資金ですの。腸が煮えたぎる思いですわ」

「そうでしょうお嬢さま。しかし、この資金こそが私たちの命綱なのです」


 己の挟持(プライド)と交換に金を手に入れる。

 その行為の不甲斐なさを見過ごすことなど、フィロソフィアにできようものか。幾ら積んでも買えないほどに高いのだ。彼女の挟持は両替などでは崩せない。


「これが命綱なんてふざけてるわ! そんな物に縋って生きる者は家畜ですわ!」

「その通りですお嬢さま。不肖エメロット、今からお嬢さまの恥を全て溶かしてきます!」

「そうね。全て溶かし……あれ?」


 ディフェンスの一瞬の隙を突き、エメロットはレジへと華麗にドライブイン。

 溶かした恥は、猫の糧へと変換されていく。一点、二点と高級猫缶を数える声が、敗北者の耳へと追い討ちをかけた。


「嫌ああああああああああああああああああああ」


 ホクホク顔で戻ってきたエメロットとは対照的に、フィロソフィアは顔面蒼白で立ち尽くしていた。


「お嬢さま、しっかりして下さい」

「この状況でしっかりなんてできないわよ」

「ほら、妖精猫ナデナデ券をあげますから」


 一万円のお買い上げ毎に貰える特別券。妖精猫ナデナデ券を即座に引ったくると、フィロソフィアは店員を呼び付けた。


「ちんたらしてんじゃないわよ! ほら早く三〇匹用意してみなさいよ!」


 私は上客よ、と半ば壊れ気味で叫ぶと、店員は慌てて三〇匹の猫妖精を解放した。

 三〇匹の猫妖精で自分を囲い込む異空間。ここは店内にあって店内にあらず。フィロソフィアのニャンニャン帝国であった。


「あはは……うふふ」


 気位の高さと同じ位に知能も高い妖精猫は、イカれた猫狂いお嬢さまに哀れに思ってか、珍しく媚を売るように擦り寄ってきた。


「あー見て、猫ちゃんいっぱい!」

「可愛いー。独り占めしてズルいよ!」

「ねえねえ。お姉ちゃん何者なの!」


 妖精猫三〇匹を囲う猫富豪の姿は目立つ。

 無邪気な子供たちが輪のなかに混じってくる。

 普段なら問答無用で追っ払うところだが、放心状態のフィロソフィアには余力がない。好きにすれば良いと見過ごしていた。


 ただ一人、その見知った顔を見るまでは。


「ふふふ」


 上品に人を小馬鹿にする笑い声。

 そこにはフィロソフィアが野犬と呼ぶ天敵――黒髪の乙女の姿が見えた。

 耳あて付きの鹿撃ち帽を被った彼女を視認し、フィロソフィアの怒りが沸騰するまでには一秒もかからなかった。


「何……見てんのよ、野犬があああああああああああ」


 渦巻く風で妖精猫が乱れ飛ぶなか。

 黒髪の乙女は、大慌てでその場から退散した。




     ◆




Scene4 翠の風見鶏

 テント屋根の下に大量のカートが続く古本市。

 そこで「うわあ」と感動の声を漏らし、翡の風見鶏――リッカは静かに興奮していた。


 人混みを嫌う彼女がこのような催しに参加するのは稀だが、春祭りは別である。

 乱雑に本が積まれたカートは、リッカにとって金銀財宝が詰まった宝箱にも等しい。鷹にも似た鋭い瞳も今日は柔らかで、無愛想な顔もどこか穏やかに見える。


(ああ、全て持ち帰りたい)


 じゅるり、と心のなかで舌なめずりをする。

 しかし、当人もそれが叶わぬ夢だと知っていた。


 ゴールドLv.1に相当する魔力を持つリッカは、学院内でも指折りの優秀な魔法少女である。今後の生活が多少逼迫することさえ恐れなければ、カート買いも不可能ではない。ただ問題があるとすれば、それは財産とは別の場所だった。


(まさに場所がねえんだよな)


 読書家について回る悩みの種。

 本の管理には、例外なく才女も苦しめられていた。実家の私室は本が溢れかえり、母親にも烈火のごとく怒られる始末だ。


 才能を盾にとり、借り上げた女子寮の一室もあるにはあるが……見るも無残、今や惨憺たる状況となっていた。

 数ヶ月を保たず、本の山は雪崩を起こし、ベッドの上以外は足の踏み場もない有様である。もはや生活空間として機能しているかも怪しい。


(片付けるさ。いつかな)


 ただ、酷い生活環境に嫌気が差すときもある。

 そんな時リッカは部屋の掃除を始めるのでなく、アミューゼという宿屋へと逃走を図る。この行動を本人は密かにフライアウェイと名付けているが、要は単なる現実逃避である。


(だが現実逃避(フライアウェイ)し過ぎた感は否めない。さすがにもうこれ以上は見て見ぬふりをするわけには……)


 非常に由由しき事態である。

 すでに収納魔法【小袋(ポケット)】には数十冊の本を入れてある。

 どうしたものかと首をひねるが、簡単な解決策がないわけではない。実家には一つだけ空き部屋があった。


(いや、あの部屋はダメだ)


 脳裏に浮かぶ妹の自室を振り切り、リッカは古本漁りへと意識を戻した。大方目ぼしい物は買い漁ったつもりだが、グルグル何度も同じ場所を回る。まだ買い逃がしあるに違いないという、業深き人間の無駄な行脚である。


 こうして無駄に無駄を重ね過ぎたせいで、人混みを避けて早朝から王都に訪れた意味も薄れた。時刻はすでに昼食時へと移ろいつつある。


(人混みがうざいが、見逃しがあっては……)


 昼食時からの時間帯は、春祭りの集客ピークだ。

 本来はこの手前で春祭りからエスケープし、カフェ・ボワソンで優雅に一服する予定だったのだが、当然そんな甘い計画はご破算である。


(ええい。こうなりゃ徹底抗戦の構えだ)


 まだ見ぬ掘り出し物はないかと鷹の目を光らせ、同じような読書家たちをかき分け回る。その途中、ふとリッカの目は一冊の本に止まった。


『新たな出会いと恋の始まり。春の最新スタイル』


 目を落としたのは先にあったのは、ファッション誌。女学生が多いこの国での需要は高い商材であり、日本発の物の多くも魔法文字に翻訳されている。


(いやいや、これはない)


 リッカは右手を団扇のように扇ぐ。

 ファッションへの興味は皆無ではないが、彼女はどちらかと言えばオシャレには無頓着な人間である。制服を着用しているのも学割目当てというより、手抜きが占める割合の方が大きい。


(大体なんだよ恋の始まりって。ウチの国は女しかいねえっての)


 リッカはシニカルに笑うも、腹の底からは笑えなかった。


 いるのだ、男子禁止のこの国にも。

 性別を偽り女学院に侵入する秘密の男子生徒が。

 そして奇しくも彼女はその人物と縁薄くない。


(まさかあの馬鹿、春祭りには来てねえよな)


 人の密集する春祭りである。危険を冒してまでも来ないだろうと思う反面、絶対と言い切れない怖さがある。

 彼は鋭い読みをする人物である反面、たまに抜けている。リッカとしては、そこに一抹の不安を覚えてしまう。


 どこか間抜けで、人の良い小悪魔。

 彼は不思議な人物だった。


 ――大丈夫です。私はリッカの味方です。


 リッカは、昨日の言葉を思い出す。

 この二日で幾度となく頭のなかをリフレインした言葉は、まだ頭をしつこくループしている。真っ直ぐに心を覗き込むような黒水晶の瞳と、その整った顔立ちが頭に焼き付いて離れない。


 そっと、固定した左腕を見遣る。

 これは保健室で固めた恥の証である。

 本来なら見るのも嫌になる怪我の象徴なのだが、付き添ってくれた彼の顔を思い出すせいか、つい熱っぽい頬が緩んでしまう。


(違う! そういうんじゃねえから、これ!)


 ぶんぶんと振る頭に合わせて、緑のくせっ毛が踊る。

 外見から誤解されがちだが、リッカは文学少女寄りのインドア派である。読書で培った有り余る妄想力が発揮され、それを取り払うのに一苦労していた。


(……はあ。なんか疲れた)


 こんなファッション誌にうつつを抜かす暇はない。リッカは一歩踏み出してから止まり……キョロキョロと周囲の様子を窺った。


 見知った顔はなし。視界はオールグリーン。


(春のファッションを知るのも、女学生の務めだ)


 一歩戻り、恐る恐るファッション誌を開いた。

 その横を狙い澄ましたように黒髪の乙女が横切ると、リッカは噴きかけた。なぜならそいつは、思い浮かべた人物と合致する容姿の持ち主だったからだ。


 即座にファッション誌を叩きつける。店主に睨まれたが気にする余裕はない。目下の問題は、どうやって申し開きをするかだった。


「き、奇遇だな命」


 呼ばれて、黒髪の乙女は振り返る。

 どこかキョトンとした顔付きだった。


「えっと……リッカ?」

「いやこれはだな、女学生の流行を掴むためにだ。たとえば、今どんなものが流行っているのかとか知っておくべきだと、あたしは思うんだよ。ほら、カフェにいるばかりじゃさ、あれだろ。たまには外の風をなんて。あははは」

「女学生がファッション誌を読むのは普通では?」


 最もな言葉の前に、リッカ丸は撃沈した。

 言い訳がましい言葉は恥の上塗りでしかなかった。


 リッカは染めた頬を隠すように俯き、頭を掻いた。その様子があまりに微笑ましかったのか、対面の彼女は微笑みをこぼした。


「ふふふ。貴方のような方も、この様な物を読むのですね」


 黒髪の乙女は、ファッショナブルである。

 頭にのせた鹿撃ち帽子は、かの名探偵を髣髴とさせるようなアイテムだ。ただ、帽子より目を惹いたのは、右手に持っていた突拍子のない持ち物だった。


「手前、何で高級猫缶を持ってんだ?」

「ふふふ。推理してみたまえ、ワトソン君」

「手前はいつからベーカー街の探偵になったんだよ」

「私のことはシャーロック八坂と呼び給え」


 ふふんと胸を張るシャーロック八坂。

 しかし、彼女が高級猫缶を手に入れた経緯は酷いものだった。怒らせたお嬢さまから投げつけられたという、身も蓋もない残念な理由である。


 そんな自称探偵はファッション誌を読み耽り、リッカを大いに呆れさせた。


「手前までファッションにご執心かよ」

「ファッション誌を読むのは当たり前でしょう。これは義務ですよ、ワトソン君」

「まあ、そうなんだろうけどな」


 女人国に紛れ込む。

 その目的を鑑みれば、別段おかしくない行動ではある。しかし、喜々として読み耽るのは危ない。その姿は不気味の一言に尽きた。


(いや、こいつのHENNTAIは今に始まったことじゃない)


 他人の趣味に口を挟むべきではない、とリッカはこの行いに目をつぶることにした。複雑な感情が、彼女を少し盲目にしたようだ。


「後で渡すつもりだったんだが……まあいいか」


 【小袋】を展開し、リッカは黒い穴から一冊の本を取り出した。『はじめての東洋魔術』と書かれた古本だ。


「昨日は世話になった。その……なんだ。お礼だと思って貰ってくれ」


 急に差し出されたプレゼントに逡巡するも、ややあってから黒髪の乙女はそれを受け取った。


「……東洋魔術ですか」

「手前の目的とは少しズレるかもしれないが、持っておいて損はない」

「ああ、なるほど。そうでしょうね」

「絶版だから、その、古本で悪いがな」

「いえ、そのお気持ちが何より嬉しいです」


 感謝の品を収納するため【小袋】の行使に移り……その寸前で、黒髪の乙女は魔法の行使を思い留まった。


「どうした。遠慮してるのか? 別にあげた物を【小袋】に突っ込まれても、あたしは気にしない質だから大丈夫だぞ」

「いや、せっかくいただいたものですし」


 ギュッと両手で本を抱きしめる。

 彼女の愛くるしい姿に、リッカは喉を鳴らして小さく笑った。


「そういや昨日は、大丈夫だったのかよ」

「何の話ですか?」

「だから、昨日の共通実技の話だよ。手前、あたしに付き添うって言いながら、午後の講義で自分が足ひねってたじゃねえか……全くどっちが付き添いだか」

「ええ、おかげさまで」


 問題ない、と彼女は足を振る。

 リッカは賑わう街の様子を確認する。春祭りの集客ピークの時間帯を迎えたため、幅広の中央通りも窮屈そうだった。


「それじゃあ、飯でも食いに行こうぜ。ここで会ったのも何かの縁だろ」

「ええ。喜んでお供しますよ」


 連れ立って歩く直前、何気なくリッカは尋ねた。


「そうそう。一ついいか、シャーロック八坂」

「なんだね、ワトソン君。食事の相談かい」

「手前『最後の挨拶』って小説を知ってるか?」


 黒髪の乙女の柔和な顔が固まった。

 コナン・ドイル著『最後の挨拶』を読破したことがある彼女は、その物語の全容を知っていたからだ。


 時系列上、シャーロック・ホームズ最後の事件に当たる物語。そのなかで名探偵に与えられた役柄は、一風変わったものであった。


 名探偵は――米国人スパイに扮していた。


「手前は何者だ」


 鋭い鷹の目が、黒髪の乙女を睨みつけた。

【第39.5話 春の季節にあの味想う】


「不味いですわ」


 臆面もない言葉にスタッフは顔をひきつらせていたが、そんなことはフィロソフィアの知ったことではなかった。

 

 4区まで運んだ足が勿体なかった。

 そう言わんばかりに、お嬢さまは不機嫌をあらわにする。


「だから、別のお店にしようと言ったじゃないですか」


 お嬢さまが突っぱるならば、恐れるものはなにもないと、エメロットも続く。それなりに舌が肥えた従者も、この店の味には不満そうであった。


 シャーロック八坂の捕獲に失敗した後。

 フィロソフィアは気を取り直して昼食を取ることにした。

 この怒りを収めるためには食事。それもベトナム料理が必要である。お嬢さまは密かにマイブームを起こす料理を欲していた。


「ベトナム料理を食べにいくわよ、エメロット」

「はあ。ありますかね、ベトナム料理」


 無数の人種が入り交じるセントフィリアであるが、料理店の割合は人口に比例する傾向がある。実際二人はベトナム料理専門店を見つけられず、最終的にアジア料理のダイニングキッチンを謳う料理屋に入店していた。


「クアンの足元にも及びませんわね」

「お嬢さま、本当にあそこ好きですね」


 クアンは、女学院の食堂の一階アジア料理エリアに構える店だ。

 入学数日は「私の口に合いませんわ」と、エメロットと食堂巡りをする日々が続けていたが、そのグルメ旅もクアンと出逢い終わりを告げた。


 クアンに入り浸るのが、ここ最近のお嬢さまの日常だった。


「あそこは素晴らしいわ。私が大成した暁には、あそこのスタッフを専属料理人にしてあげてもいいと思うほどよ」

「そのときは、従者も何人か増やしてくれると助かりますね」


 食後の会話の合間に、お茶を啜るもそれもハズレ。

 フィロソフィアは、グラスを机に置いて会計を呼びつけた。以前は待っていれば勝手に料理が食卓に並ぶ生活だったが、こういうことにも最近は慣れた。


「ロータスティーの香りも薄いし、もう出ましょう」

「そうですね。カフェは別の場所でとりましょうか」


 会計が来ると、フィロソフィアはエメロットを見る。

 見られるとエメロットは一回ウィンクを決めてみせた。


「そういうのはいりませんから、早く出しなさい」

「えっ、私持ち合わせありませんよ。お嬢さま出してくださいよ」

「今……なんて言いましたの?」

「だから、私持ち合わせありませんよ」


 春祭りで散財したエメロットの財布は空である。

 もちろん猫用品だけでなく、春祭りで買い込んだ生活用品も【小袋】にたんまり入っていた。

 

 エメロットはてっきり、事前に渡したお小遣いからお嬢さまが奢ってくれるものだとばかり勘違いしていた。


「なんで、そんな都合の良い妄想ができるの!」

「だって4/6はエメロット記念日ですよ」

「認可した覚えがない記念日が施行されていますわ!」

「まあ、無い袖は振れないわけですよ、お嬢さま」


「ここはひとつ」と伝票を差し出すエメロットだったが、お嬢さまは顔を曇らせていた。


「まさか……あの短時間で」

「あれは、私のお小遣いですもの」


 『妖精猫と生きる―春の増刊号―』から化粧品まで、フィロソフィアは良いなと思った瞬間に買い物を済ませていた。即決で買い物をするスタイルもあり、エメロットはお嬢さまの散財を見落としていた。


「あの、お客さま……会計は?」


 テーブルに不穏な空気が流れる。

 二人が散々文句を言っても許されたのは、ひとえに彼女たちが客だったからである。無一文とスタッフの間の空気は、ますます気まずさを増していく。

 

 その無言の見つめ合いに終止符を打ったのは、フィロソフィアだった。


「ちょっと待ってなさい」


 机の脇にあるとペンを取る。

 フィロソフィアはアンケート用紙に裏書をした。

 記入する名前は当然『フィロソフィア=フィフィー』。没落したとはいえ、今なお御三家と呼ばれるフィロソフィア家の威光を振りかざすのが目的だ。

 

 渡された裏書を拝見し、スタッフは目を見開いた。


「悪いわね、今日は持ち合わせがないの」


 その反応に気を良くしたのか、フィロソフィアは上機嫌で続ける。


「でも、このフィロソフィア=フィフィー。たとえ不味い食事といえども、食い逃げなんてちゃちな真似はしません。日を改めて倍返ししますわ」


 ――当然、捕まりました。

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