第36話 君が味方と言ってくれたから
休憩時間はイルゼの天下だった。
二人の教員が一旦引き上げると、彼女の周りには人集りができていた。
「イルゼってば、本当に凄い!」
「あの不良教師相手によく強く出られるね」
「別に怖かないわよ、あんな不良教師。強く出なくちゃ、のさばるだけよ」
気分良く右拳を突き出し、イルゼは笑う。
「こうガツンと言わないとダメよ、ガツンと!」
ファイティングポーズを取る自分の姿に黄色い声援が上がると、イルゼはご機嫌だった。彼女は饒舌にしゃべる。
「教員は魔法少女を引退した不良教員。オマケに1-Fの中心人物がアレだと思われちゃね」
イルゼの見下す目を追うように、取り巻きの下卑た視線がスライドしていく。彼女たちが見つめていた人物は、黒髪の乙女――1-Fで一番の知名度を誇る、命だった。
「東洋人の猿に魔法は難しすぎるのよ。あれだけ出来れば、猿なら大したものよ。ねえ、黒髪のお猿さん」
クスクスと嫌味な笑い声が起こると、命は不思議そうな顔で那須に尋ねた。
「えっ、もしかして私って……嫌われていますか?」
「あの……」
那須が答え辛そうに逡巡していると、横から紅花がズケズケと入った。
「当たり前ネ。問題児が何を抜かすヨ。小喬、ここに馬鹿がいるヨ。馬鹿が!」
「……それはさすがに言い過ぎだよ、紅花」
中華組の弁はどちらも正しかった。入学当初から注目を集めていた命だが、なにも集まる視線は良いものばかりでない。
――クラスの中心人物でいたい。
そう強く願うイルゼは、1-Fの誰よりも命の活躍も快く思っていなかった。
「滑稽ね。黒髪の猿同士、戯れていると良い」
さも当然のように見下すイルゼの態度が、反感を買うのは何ら不思議でなかった。
「……おい、ちょっと待つヨ」
猿。その最大級の侮蔑の言葉を受けて、紅花が黙っていなかった。背中から怒りと共に黒い霧が立ち昇る。
「誰が猿ヨ。踏み潰されたいのカ?」
「直ぐ逆上するのが、猿の証拠じゃない」
挑発するイルゼは余裕の笑みを浮かべていた。
「ちょっと止めなよ、紅花!」
「あの……喧嘩いくないです」
「ええい、離すヨ、小市民コンビ!」
小喬、那須がすかさず紅花の両腕に抱き着く。
紅花は鬱陶しそうに身体を揺すって抵抗したが、小市民コンビに押さえ込まれていた。
「あら、黒髪のお猿さんは来ないの」
静観していた命は微笑んでみせた。
「結構です。私、結果の見える喧嘩には興味ないですから」
一歩、二歩と背筋を伸ばして命が歩く。
イルゼの目前で立ち止まると、親切心から命は忠告する。
「これ以上は止めておいた方が賢明ですよ」
「へえ。この猿、面白い言葉を知ってるのね」
イルゼが眉間に怒り皺を寄せると、命は溜息をついて諦めた。
この人には何を言っても無駄だと。
「なら、これをお貸ししますよ」
「ハンカチ? 何の真似よ」
命がイルゼに差し出したのは、何の変哲もないウサギ柄のハンカチだった。
「必要でしょう? 貴方、これから床の上を転がる予定がお有りでしょうから」
怒りで頬を染めたイルゼが、命の差し出す手を払った。
遅れてひらひらとハンカチが宙を舞う。
「……調子に乗るなよ」
眼前で睨み付けるイルゼだったが、命の目は別方向を向いていた。集団の中でも目立つ、すらりとした長身の女性。視線に気づいたリッカは癖のある緑髪を掻いた。
「ったく、仕方ねえなあ」
小さくぼやきながらも視線に応え、リッカは当事者二人の間に割って入った。
「トイレ行くぞ、命」
長い歩幅で歩いて来た女神に続いて、命は堂々とイルゼに背を向ける。相手が五人の才媛の一人とあっては手が出せず、イルゼは下唇を噛んで二人を見逃した。
「この際だから言っとくが、あたしは手前の用心棒じゃねえからな」
「ええ。知っていますとも。そう言って助けに来てくれるのでしょう」
演舞場の昇降口へと向かう途中、命はイルゼの叫び声を背中に浴びる。
「調子に乗るなよ、黒髪の猿が! 出来損ないの御三家にまぐれ勝ち――」
うるさい、と命は昇降口へ続く扉を閉めた。
普段開け放たれたその扉を閉めたのは、千の言葉にも勝る反抗の意志を示していた。
◆
お手洗いがある演舞場1階に辿り着くと、先行する命が扉に手をかけた。
「えっ、手前まさかトイレに入るのか」
「……今更その点について聞かれても」
リッカの怪訝そうな顔を命は苦笑混じりで流す。男子禁制のこの国で男子トイレなど探すだけ無駄だった。
「あれ、リッカは入らないのですか」
「このHentai! 何の嫌がらせだ」
意地悪く命が問いかけると、リッカは頬を赤らめ、鷹の目を尖らせた。
「当然入るさ! 私はちょうどトイレに行きたかったからな」
自分が遠慮する必要はないと意地を張り、リッカは躊躇いがちに入室した。
(あ、あれ、本当に入って来てしまいました)
冗談とはいえ先に吹っかけた以上、命も撤回し辛かった。一度は退出を試みるも、リッカに睨みを利かされて退路も塞がれた。
「……あの」
「……なんだよ」
二人は別々の個室に無言で入り、不毛なチキンレースを繰り広げた。
用を足す間。リッカは耳を塞ぎながら、無駄にレバーを引いて水音を出し続けた。それが乙女としてのせめてもの抵抗だった。
顔の火照りが収まるまで待機した後、リッカは個室の外に出た。洗面台には一足先に用を済ませた命がいる。
「……酷い辱めに合った」
「貴方が変なところで意地張るからでしょ!」
二人は鏡越しに会話を交わす。まだ先ほどの熱が尾を引いているのか、リッカは恥ずかしげに、命の隣の洗面台に着いた。
「意地っ張りは手前だ。イルゼに喧嘩売っといて。先に言っとくが、あたしは助けないからな」
「ああ、顔見知りですか」
「内部進学生は大体知ってるけどな。顔見知りって……そんな呑気な」
リッカとしては仕返しのつもりだったのだが、堪えた様子が見られなかった。命は淡々と指先を絡めて手を泡立てている。
「手前がイルゼの喧嘩を買うとは意外だったな」
「買った覚えはないのですけどねえ。まあ、どの道何度も顔を合わせるわけですし」
入学初週、つまり本日の講義を終えれば、女学院の新入生向けカリキュラムは終わりだ。クラス単位の講義数は減少し、代わりに履修した講義へ参加することとなるが。
「クラス単位の講義も完全には無くならないでしょう。なら、この先ずっと絡まれるよりはマシかと思いまして」
「確かに。手前、ずっと絡まれそうだしな」
リッカの指摘は命の思考と合致していた。イルゼからは傲岸不遜なお嬢さまと似た匂いがした。命にとっては天敵の匂いだ。
「それは勘弁願いたいものです」
「ふうん。そう言う以上は勝算があるんだな」
洗い流した手から水滴を飛ばしつつ、命は気負うことなく言いのけた。
「まあ――勝率100%でしょうねえ」
リッカは言葉を失った。
性格面には難があるが、イルゼの魔法少女の実力は確かだ。リッカが見る限りでは、ルバートと同格、あるいは一枚落ちる程度である。
「それは、あたしの援護を期待に入れてか?」
「まさか。助けなんて不要ですよ」
じゃれ合い程度に手を合わせたとはいえ、リッカから見た命は未知数である。魔法の腕前はお世辞にも高いと言えないが、どこか妙な才能を感じさせた。
妙な才能。
その言葉をリッカは噛み砕けない。
機転が利く。読みが鋭い。人目を惹く。幾つかの才能があるのは確かだが、統合して言い表せない不快感があった。
この小競り合いを良い機会だと捉え、リッカは命を黙って見守ることにした。
「あっ」
命は間の抜けた声を出した。
「ハンカチ貸して貰えます?」
「……手前、馬鹿だろ」
隣の魔法使いは、どうにも食えない人物だった。
遅刻、休講の常習犯である二人は、二限開始の鐘の音が鳴るも、気にも留めなかった。
◆
演舞場1階の片隅にある休憩所。
そこで命は女性トイレの件の謝罪代わりにコーヒーを奢っていた。相手はソファーで長い脚を組む女神さまだ。
「あんま美味しくないし、安い」
「そりゃあ、カフェ・ボワソンで淹れた物とくらべれば格は落ちますよ」
紙コップを傾けるリッカは、文句を言いつつ、不満と一緒にコーヒーを飲み込んでいく。味より、安い女だと値踏みされたことが不満なのだが、リッカは口には出さない。
「……あんま美味しくない」
「二回も繰り返さないでも。一応聞きますけど、カフェ・ボワソンで淹れたコーヒーとくらべてどう違いますか」
「ボワソンのコーヒーは、もっと美味しい」
「そうですねえ。もっと美味しいですねえ」
具体性の欠片もない感想を流すと、命は躊躇いがちに口を開いた。
「その……腕は固定しないのですか」
「大丈夫だ。動く気はねえ」
顔を合さずにリッカは即答した。
相変わらずこの手の話題には、取り合ってくれない。その頑な姿勢に命は苦笑する。
「昨日も言いましたが、固定しないと腕の骨が綺麗に接着しませんし、治りも遅くなりますよ」
「……わかってるよ」
実技の講義でも、リッカは怪我を隠していた。
彼女相手にどこまで踏み込むべきか、昨日カフェ・ボワソンで拒絶されたこともあり命は悩んだが、腹を決めた。
「魔法少女の選抜合宿ですか」
振り向くリッカの顔。
瞳孔が開く翡翠の瞳は動揺を露わにしていた。
命が気付いたのは今朝の会話からだ。
1-F筆頭生徒、ヴァイオリッヒ=シルスター。彼女の不在理由が合宿参加だと知ったことで、命のなかで点と点が繋がった。
ウルシ=リッカは、不思議な生徒だった。
セントフィリア女学院で特別待遇を受けているにもかかわらず、常にカフェ・ボワソンに居着き、魔法少女に興味がないと口にしておきながらも、正規の魔法少女についてルバートと語り合う。
そのどこか矛盾した言動をとるキャラクターを、命は妙に思っていた。彼女はなぜこうもチグハグなのか。突き詰めていく内に、命はある一つの結論に辿り着いた。
彼女は、魔法少女が嫌いなのではない。
好きで好きで大好きで……それ故に苦しんでいるのだ、と。
「貴方は、選抜合宿に参加できなかったのでしょう」
選抜。その言葉が表す意味は残酷だ。
上を掬い上げ、下を切り捨てる言葉だった。
「……手前は嫌な奴だな」
消え入りそうな声だった。
そっぽを向いたリッカの肩は震えていた。
「貴方が腕を固定してくれるなら、私は喜んで嫌な奴になります」
命は多くは聞かないし、多くも語らない。
選抜時に骨を折ったであろうことも、敢えて本人に確認しなかった。
その骨折の意味は骨だけに留まらない。特別待遇生としての名折れをも示す。大っぴらに怪我を晒せというのは、リッカに恥を晒せというのも同義だった。
「もし貴方の傷を笑う不届きな輩がいたら、私がタダでは置きません。だから――」
命は伝えるべき言葉を絞り出す。
「大丈夫です。私はリッカの味方です」
あの日、助けてくれて嬉しかった。
正体を隠して生きる命を許容してくれた。カフェ・ボワソンの女神の優しさに報いるよう、命は力強く笑ってみせた。
自分が不甲斐なさは百も承知だが、命にはそれしかできない。
今はただ、一心に、翡翠の瞳に訴える。
「……放課後」
拗ねた子供みたいな顔で、リッカが続けた。
「放課後、保健室まで付き添ってくれ。一人は……恥ずかしい」
「お安いご用です。カフェ・ボワソンの女神さま」
リッカに仕える執事のように頭を下げると、命は安堵の溜息を心中で漏らした。これでようやく彼女に恩返しができた、と。
この日、二人は初めて対等の立場となった。
命は一人の頼もしい魔法少女を味方に迎え入れ、そして、その代償として一つの難題を抱えることとなった。
命が背負った難題の重みは、借金四〇〇万より遥かに重い。




