第34話 カボチャの馬車は燃え上がる
白亜の城、5階教員エリア。
無数の教員部屋が廊下に並ぶそのエリアにおいて、彼女は自分ネームプレートが掛けられた部屋の扉を開ける。
部屋主の名は、マグナ=リュカ。
教職者らしかぬ風貌の持ち主だ。
橙色のカジュアルショートの髪型は悪目立ちするパンク風味。その意志が強そうな双眸といい、反骨精神が透けて見えるような教職者だ。
曰くかつて女学院を半壊させた女。
曰く在籍期間二年の元魔法少女。
曰く理事長から寵愛を受ける特別な存在。
話題と噂に事欠かない、女学院が誇る屈指の問題教師でもある。
そんな彼女も、今日は大人しめの紺色のスーツ姿だ。普段だるだるの赤ジャージに包むその引き締まった身体の線が、はっきりと浮かび上がっている。
「あら、お帰りなさい」
マグナを出迎えたのは、理事長付きの秘書である菖蒲=ブラッサムだった。三十代前半ながらも、その柔和な表情は幼く見える。また秘書という仕事柄か、非常に物腰柔らかで凛とした佇まいをしていた。
「……お前、またあたしの部屋を掃除してんのか?」
「はい。理事長からお暇をいただいたもので」
菖蒲の無駄な気遣いに、マグナはげんなりする。
部屋が散らかっているぐらいがちょうど落ち着くのだが、彼女にそれを言っても無駄なこともよく知っていた。
「まあ別にいいけどよ。いつも悪いな」
「いえ、お気になさらず。私が好きでやっていることですから」
マグナは感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配を窺う。元魔法少女とはいえ、魔力探知程度は未だにお手のものである。
(どうも部屋に狐がいると、落ち着かねえな)
私室に妙なものは仕込まれてないようだった。
マグナは乱暴にカバンを投げ捨てた。
本人はベッドに落とすつもりだったのだが、中継に入った菖蒲が勝手に受け取りハンガーポールの足元のカゴに入れた。
カバンの場所はここだ、と暗に示していた。
「……お前さー、疲れないのか」
「いえ、お気になさらず。私が好きでやっていることですから」
そう言う菖蒲は、今もマグナが脱ぐスーツを自然に受け取っていた。皺を伸ばしハンガーにかける手つきは、よくできた新妻のそれだ。
結婚した覚えも女中も雇った覚えもねえ、とマグナは胸の内で毒づく。菖蒲の世話焼きは大きなお世話だった。
(そう正面切って言えりゃあ楽なんだがな)
菖蒲は、大恩ある理事長の秘書である。年上なのにいつも腰が低いこともあって、どうもやり辛かった。
「あのよう。もっとさ、年下なのにため口利くんじゃねえとか、ガンガン言ってくれていいんだぜ」
「そうですか……それでは僭越ながら」
すうっ、と大きく息を吸い込む。
次の瞬間、菖蒲はカッと目を見開いてよく通る声で叫んだ。
「カバンを投げてはいけません! 私が決めた場所に置いて下さいと何度も言ったでしょう!」
「お、おう」
「スーツも寝かさない! 皺になる前に直ぐ脱ぐ! 面倒でもアイロンがけと、定期的なクリーニングは絶対に欠かさないで下さい」
「わ、悪かった」
「部屋も週に一回は掃除する! 何ですかこの書類と書籍の山は! 埃を被っていますし、衛生上好ましくありません。忙しいのはわかりますが健康第一に!」
「……今度片付けます」
「そして氷冷蔵庫! 買ったら食べる。食材を得体の知れないスライム状にするなんて神経を疑います。週に一度は掃除をですね」
「わかった、わかった。そういうのは全部任せる!」
自堕落な生活をガンガン非難され、マグナは根負けした。こうなると、好きに掃除してくれた方が互いのためだ。
「ありがとうございます。お暇なときには掃除に伺いますね」
「お前が良いなら構わねえよ」
「どうせ」とマグナは挑発的な口ぶりで言う。
「見られて痛いものなんて、はなっからこの部屋にはねえからな」
「そういう掃除はお得意ですからね、貴方は」
威圧されようと、菖蒲の笑みは崩れない。
あの理事長付きの秘書である。能力はもちろんのこと、並大抵の心臓と神経の持ち主では務まらないことは、マグナも重々承知している。
「ばっちゃんの手先が、何を探りに来たんだかな」
「はて? なんの話でしょうか。私はただ部屋の掃除に来ただけですが」
「そうかい。ならさっさと帰っていいぞ。お仕事ご苦労、理事長付き秘書さん」
シッシッ、とマグナは煙たげに手を払う。
あまり気分の良い状況でない。
理事長から秘書が離れているということは、逆もしかり。今、理事長の動向を知る者もいないということだ。
(ばっちゃん目、さては水面下で動いてやがるな)
最近のマーサの行動は妙である。
校務と称して、女学院を外すことも多い。マグナもそこまでの情報は掴んでいたが、古狐は肝心なところで尻尾をみせなかった。
どいつもこいつも油断ならない。
マグナは口元を押さえて考えに耽る。
険しい顔つきをする不良教師だったが、傍らで変わらず微笑み続けている菖蒲を放っておくこともできなかった。
「おい、まだ何か用があるのか」
「できれば、お掃除代ぐらいはいただこうかと」
部屋掃除の代価とばかりに、菖蒲は質問する。
「どうして八坂命を健康診断から外したのですか?」
菖蒲の静かな緊張感が室内に染みわたるなか、マグナは不毛な視察戦を早々に切り上げて、簡単に口を割った。
「別に大した理由じゃねえよ」
「へえ。随分と大切にしているようですけど」
――素性を隠すだけでなく、魔力総量を隠すほどに。
追求するように菖蒲がそう続けると、マグナは白い歯を見せて獰猛に笑った。
「勘違いするなよ、菖蒲。今のあいつには、隠すほどの魔力はねえよ。恐らくはアイアンのLv.3程度じゃねえか」
「でも、将来的には必ず膨れ上がる。貴方はそう信じているのでしょう」
「間違いないな。あいつに格付けなんか無意味だ」
どうせ、ブラックなんて天井にならん。
そう告げると、初めて菖蒲の仮面がわずかに崩れた。
――ブラックカード。
魔力総量の最高域を示す、絶対強者の領域だ。本日の健康診断を終えた結果では、この階層に位置したのはわずか二名のみである。
その化け物の領域を踏み越える才能。それが、あの一東洋魔術師にあると、目前の体育教員は本気で言っていた。
「……にわかに信じ難い話なのですが」
「別に信じる必要はないさ。あたしの勘だから」
その不確かな返答に、菖蒲は一層疑念を深めた。彼女には掴めない。目前のマグナが何を期待しているのか。
「なあ」
菖蒲の動揺を面白がるように、マグナは楽しげに唇を持ち上げた。
「あたしが、一から十まで計算通りの女だなんて思わないほうが身のためだぞ」
マグナは、自分を買い被る相手に警告を送る。
「何から何までもが全部あたしの掌の上か? お釈迦さまじゃあるまいし、そんなわけねえだろ」
もちろん計画通りに物事が動いていたときもあるが、それは全体から見ればほんの一部分に過ぎなかった。
マグナの想像以上に、八坂命はトラブルメイカーだった。この短期間で何度も便宜を図り、軌道修正を試みたのも事実である。
「その場その場に応じて、面白い出目が出るように工夫しているだけさ。良い目が出ることもあれば、悪い目が出ることもある。ただそれだけの話だ」
マグナは根っからの直情型の女だ。
気に入らなければ殴りたいし、頭も使いたくない。
ただ、それだけでは届かない領域がある。
拳一つ突き立てるにしても、嫌いな策を弄する必要があることを知ってしまった。大人の喧嘩とはひどく面倒な作業だ。マグナは皮肉げに笑った。
「正直言うと、八坂は未知数だよ。だがあいつは良い。背筋に来る奴だ。期待をかけたくなる背中をしてる。なんでかわかるか?」
投げられた難問に困惑し、菖蒲は眉をひそめる。
「……八坂命が、男性の魔法使いだからですか」
「残念。その答えはちと古いな」
数日前までは、マグナもそう考えていた。
リッシュ=ウィーンと同じ男性の魔法使いということで期待をかけていた。だが今の答えは違う。
「あいつが、あたしと同じ大馬鹿野郎だからだよ」
信じるのは、その底知れぬ特異性ではない。
八坂命という個人そのものであり、彼を型作る人間性である。
「ふふっ、馬鹿って……そんな」
その答えに、菖蒲は小さく吹き出した。
他人に信頼を預ける。誰もが行う何よりも難しい行為。それを平然とやってのけるマグナの馬鹿さ加減もおかしかった。
「なるほど、シンプルで良い」
「だろう。深読みしても無駄なんだよ」
菖蒲が緊張感を解くと、冷戦状態だった二人の間にも次第に和やかな雰囲気が漂いだした。
「それでは、最後にもう一つだけ質問」
やわっこい空気に飲まれたのだろう。
仕事熱心な秘書は、珍しく仕事を忘れていた。
「どうして八坂命に生活苦を強いるのですか? 貴方であれば、彼の学費を免除することも、生活費を負担することもできたでしょう」
「そりゃ、ばっちゃんからの宿題か?」
「いえ、個人的な興味ですね。面白そうな理由が聞けると思いまして」
今度はマグナが小さく吹き出す番だった。
目の前の堅物も大分わかってきたものだ。
この問答を通じて、彼女は初めて快く答えた。
「学院生活が楽しくなるからだよ」
「それは何よりですね」
金策に奔走する苦学生は、必ずこの狭い島国を回る。
きっと命はこの島国を好きになってくれるだろう。そう信じて、マグナは愛をこめて彼を崖の上から突き落とす。
◆
マグナと菖蒲が問答をくり広げるころ。
場所は宿屋アミューゼに戻る。
ツインベッド仕様の部屋のなかで、命たちは談笑していた。
命がエリツキーにこってり説教された話。
根木と同じ1-Bに所属するフィロソフィアが、妖精猫の図鑑を眺めていたこと。そんな彼女を根木が昼食に誘おうとするも、いつも断られてしまう話。
那須に新しい友達ができたこと。所在なさ気に健康診断を回る彼女に、1-Fの中華組が声をかけてくれた話などを広げていた。
「あっ、私も新しい友達ができた系」
「なんて名前の方ですか」
「青菜ちゃんっていう子。二人目の野菜フレンズゲットだぜ!」
女三人寄ればかしましい(ただし女装を含む)。
口を開けば話題は尽きなかった。命の知らないところで、根木も那須も新しい生活を満喫しているようだった。
女学院トークに花が咲くなか、根木は通学カバンの中から缶詰を取り出した。それは彼女が常に持ち歩いている桜桃の缶詰だった。
「やっぱり、病人にはこれだよね」
病人には桜桃の缶詰を食べさせる。自分のなかで半ば常識となった考えに従い、根木は缶詰を開けにかかったのだが、
「えっ……あれ」
通学カバンのなかを、制服のポケットのなかをと探し尽くしたのちに、根木は悲鳴を上げた。
「缶切りがなーい! 人類の叡智を紛失系!」
「えっと、さすがにそれは大袈裟では」
「そんなことないよ。八坂さんは缶詰と缶切りの誕生日がどのぐらい離れているのか知ってるかな?」
「缶切りと缶詰ですか。同時期じゃないのですか」
「ぶー、残念無念系! 缶詰は一八一〇年、缶切りは一八五〇年生まれだよ」
実に四十年もの歳月に差があるという雑学に、命は素直に感心する。缶詰とは缶切りで開けることを想定して作られた物だと勘違いしていた。
「じゃあ、四十年の間はどうしていたのですかねえ」
「ナイフなんかを用いて開けていたとか。そんな缶詰暗黒期に舞い降りた救世主こそが缶切りさん、いわば人類の叡智なのです!」
「へえ。那須さんならナイフでも開けられそうですねえ」
声高らかに缶詰賛歌が歌われるなか、命は那須へと視線をやった。変なことが特技の彼女であれば、缶切りを用いずに缶詰を開けられそうだ。
「あの……すいません。ご期待に添えそうにないです」
「七つ道具めいたものをお持ちでは」
「えっと……刃物の所持は危ないので」
そう悲しげにうつむかれた。
ピッキングをするのがセーフで、刃物の所持はダメ。その那須の倫理感が命にはいまいち理解できなかった。
「あうう。病人に桜桃を振る舞えないなんて」
「変な子なのに……缶切りなしで缶詰を開けられないなんて」
落ち込む二人を見て、命は明日の予定を決めた。
(まあ、一日ぐらいは良いでしょう)
元よりそこには用があった。
土日のうち一日を浪費しても問題はないだとうと判断すると、命は女子寮問題の謝罪の意味も込めて提案する。
「でしたら、土曜日は王都に出かけませんか。きっと缶切りも売っていますよ」
「王都! なんだか楽しげなお誘いが来た系!」
「綺羅びやかな都……そんな匂いがします」
命の提案に好奇心の塊である二人はノリノリで賛同した。命の最初のお休みには、王都で買い物をするという予定が埋まった。
第二女子寮で新生活を始めた二人は、生活用品やインテリアを集めようと、一度は下がった気分を盛り上げていく。
(良かった。仲良く生活しているようで)
女子寮入居問題が尾を引き、二人の関係が険悪になっているのでは。命のそのような心配も無用だった。
「まあ、迷惑かけっぱなしなので、お昼ご飯ぐらいはごちそうしますよ」
「迷惑って、何の話かな」
根木と那須は揃って首を傾げた。
メトロノームの針みたいに左右に頭を振りながら考え、答える。
「特に迷惑をかけられた覚えは皆無だよ」
「ええ……むしろ私たちが迷惑かけっぱなしで。先日も人質にされてしまいましたし」
「ああっ、あの後は大丈夫だったのですか!」
命は一番大事なことを忘れていた。
演舞場での騒動において人質にされた彼女たちの、その後の顛末をすっかり聞き忘れていたのだ。
「全然大丈夫だったよー。丁重に運ばれた上に、翌日にはアルバイト代とお菓子をいただいた系」
「あれは……菓子折りですね」
律儀。命の頭に浮かんだのがその単語だ。
ルバート一味は、拘束時間×八〇〇イェンの代金を支払った上で、菓子折りを渡していた。未だかつて、命はここまで礼儀正しい誘拐を聞いたことがない。
深々と頭を下げる彼女たちを、二人は特にお咎め無しで許したそうだ。
「あのクッキー、メチャクチャ美味しかった系。八坂さんは食べた?」
「いえまだ。良ければお茶うけにいかがですか」
「当然いただく系! あの感動をもう一度」
イエイと、根木と那須がハイタッチを交わす。
二人はどこまでも脳天気であり、透き通るような純真さを持っていた。
(全く、本当にこの二人は)
人が良すぎる彼女たちに呆れながらも、命はついつい頬を緩めてしまう。
それから菓子折りのクッキーをお茶うけにして、談笑すること二時間。
時計に目をやり、ハッと那須が驚いた。その可愛いらしい仕草は、時間を忘れたピーターラビットのようだった。
「大変です……夕飯の時間を忘れていました」
「女子寮は食事の時間が決まっているのですか?」
「うん。女子寮の夕食は六時半スタートで、遅れた者は何人たりとも飯にありつけない系! ……って、大変だー!」
説明しながら、根木は事の重大さに気づく。
時刻はすでに六時を回っている。宿屋アミューゼから移動する時間を踏まえれば、ギリギリのラインだ。
大変だ、大変だ、と二人は慌てて帰り支度を済ませた。
「慌てて転けないように気をつけて下さいよ」
「ありがとう。土曜日は楽しみにしてる系!」
命は簡単にお見送りを済ませた。
足止めをしては悪いとの気遣いだったが、当の二人はどうも足が鈍かった。もじもじと肩を揺すり、小声で何やら言い合っていた。
「ダメだよ、昨日そう決めたでしょ」
「でも、やっぱり……恥ずかしいです」
何をしているのだろうか。
命が何となしに眺める間に、話は付いたようだ。
声を合わせて、二人は別れの言葉を告げた。
「じゃあね、命ちゃん」
呆気にとられている内に、二人は扉を抜けて消えていった。
(あはは。次会った時はどう呼ぶべきですかねえ)
下の名前にちゃん付けなのか。
少し恥ずかしげな表情を浮かべながら命は困る。
今度は彼女たちの部屋にも行ってみようと考えながら。
「結局、色々あるものですねえ」
今日は穏やかな日だと思っていたが、二つの小台風に巻き込まれた。騒がしくて落ち着きのない、でも不思議と気持ちの満たされる時間であった。
「さて、勉強の遅れでも取り戻しますか」
命は一日の精算とばかりに疲れた体を伸ばす。
今日はこれ以上なにも起こらないだろう。そう油断していた命がマグナの手紙に気づいたのは、数十分後のことだ。
王国に金銭の記録を残さないよう、命のカードを永久封鎖する旨。
それに伴い、カードに含まれている学費――計四〇〇万円を求める旨が、その手紙には淡々と書かれていた。
文面はどこまでも事務的で、それ故に救いがない。
ようこそ借金地獄へ。
黒髪の乙女は血反吐を吐きそうな気分だった。




