第30話 夜明け前ネゴシエーション
命は、朝を告げる目覚まし時計を止める。多少念入りに叩いたのは八つ当たりである。
寝起きが良い方とはいえ、さすがに二時間睡眠は堪えた。身体はもっと寝たいと訴えているが、命裁判長はその要求を却下する。このまま寝ていては、死刑判決が下ってしまうからだ。
(まだ説教が頭のなかを回っていますねえ)
酒乱のエリツキ―から受けた説教は、まるで二日酔いのように命の頭から抜け切らない。
規則を守り、五分前行動を心がけろと、今なお厳格な副教員が脳内で叫んでいるようだった。
(私の頭のなかの消しゴムで、ごしごしと)
四十八の乙女技『乙女は後ろを振り向かない』を発動することで、命は昨日の説教を吹っ切る。
頭をポジティブシンキングで埋め尽くす、お手軽な自己催眠である。
成功率は60%前後だが、弊害としては一時的に知能が低下し、語尾に『☆』がつくのが玉に瑕だ。
(ああ、なんて素晴らしい目覚め☆)
頭に残る説教を振り切り、命は辺りを見回す。
マグナの教員部屋には、うず高く積まれた書類や書籍が乱雑している。
昨夜は宿屋に戻るのも億劫だったため、マグナの申し出に従い、命は教員部屋で寝ることにした。
理事長の紹介ということもあり、宿屋も融通が利いた。そのおかげで、多少は眠れたと思えばまだマシだったといえる。本来なら宿屋に戻った時点で睡眠時間など、ほぼ皆無だった。
(少しでも寝られただけ良しとしますか)
マグナから借りた灰色のスウェットをたたみ、命は黒髪の乙女に着替えを始める。
教師受けを気にして、昨日は制服で訪れたのが功を奏した。女装道具を詰めたバッグも手元にあるので、準備はバッチリである。
(何より今日はパンツがある。パンツがある生活とは、かくも素晴らしきものですか)
命はパンツに感謝を込めながら、黒いショーツに両足を通す。
黒をセレクトする理由は、単純に透過率が低いという現実的な理由だ。
命の下着は基本的にダーク系統が多いが、なかには純白にピンクの花刺しゅうが入ったものなども存在する。これは母親のススメに従い、購入したものだ。
いわく、乙女は純白であるべしというのが母の弁である。
(息子に女物の下着を嬉々として勧める母親も、いかがなものとは思うのですがねえ)
命は続いて慎ましいジェルパッドを装着し、その上をセットの黒のブラジャーで包み込む。肉の寄せ方ひとつで見栄えが変わるのだが、特に大きさにはこだわらないので、あくまで自然体を重視する。
(乙女は慎ましやかに。見栄を張らず。物理的に胸を張らず)
母さまの教えを頭で復唱しながらワイシャツを羽織り、スカートに手をかける。手を入れずにロングスカート状態で履くと周囲から浮くため、このあたりも特訓済みである。
まず、スカートを膝上5cmまで巻き上げる。
丈の短くする方法については、外巻き、内巻き、ベルト派、裁断派など多くの手法が存在するが、命の場合は外巻きと内巻きを併用するタイプである。安易な方法に頼らずとも、慣れた手つきで綺麗にスカートを巻き上げた。
制服姿になると、次は髪のブラッシング。
霧吹きに水を入れてから、背中半ばまで伸びる黒髪に吹きかける。
湿らせてからは、特級白豚毛の木製ブラシで丁寧にすいていく。これで就寝時に乱れた黒髪は息を吹き返した。
ポンポンとタオルで髪の表面上を叩いていき、水気をとれば髪の手入れは終了。極力ドライヤーには頼らないのが八坂流である。
(よし、ここまでは順調ですね)
最後に化粧ポーチとタイマーを取り出す。
タイマーを10分設定で走らせると、命は即座に肌の下地の塗りに入った。
化粧の乱れは、心の乱れ。
純然たる乙女の心があれば、たとえ5分であろうと、一糸乱れぬ化粧ができる。その母さまの教えに従い、命は10分での化粧を心がけている。5分の壁を切れないのは、まだ命が発展途上の乙女だからだ。
下地を薄く均等に伸ばしていく。
顔の凹凸を滑るように命の両手が優しくなでた。更にファンデーションを使い、下地の上に薄い膜を張っていく。
下地の出来はこのときにわかる。
今日は塗りムラを感じることがない。
いい出来だと、命は心中でつぶやいた。
眉にペンシルでなめらかな線を引く。
このとき、命が手を迷わせることはない。数秒先の眉を見据えて線を引き、わずかに太眉風味なナチュラルラインを作った。
流れるように眉の下へと移行。
元より長いまつ毛をマスカラだけで、整えていく。
一本一本流れるまつ毛に統一感を持たせ、最後に赤みがかったリップクリームを唇に引けば、華麗にフィニッシュ。タイマーストップ!
(7分36秒ですか、まずまずのタイムですが)
5分の壁は厚いと、命は吐息する。
限りなく素材と若さを活かす命と違い、母さまの場合は別工程が複数あるにもかかわらず、5分の壁を容易く切る。
母さまの域は未だに遠い。
わずかな憂いを帯びて、そして今日も黒髪の乙女が偽装された。
(さて、行くとしますか)
――この日、選択を誤れば首が飛ぶ。
戦場への身支度を済ませると、ドアを叩く音がした。
命が玄関を開けると、外には瞼を重くしたマグナがいた。鍵を取り出すのも億劫な彼女は、迎え入れられると、ふらふらと中に入った。
「もう無理。今日は授業サボる。今回ばかりはあたしに非はねえよ」
バフンと勢い良くベッドに倒れる。マグナにはすでに意識がなかった。命は犠牲となった教員を寝かしつけ、布団をかける。せめてもの恩返しだ。
「お勤めお疲れ様です」
マグナの教員部屋を抜けると、命は寝静まる白亜の城を後にした。
◆
誰もいないキャンパスは、心なしかいつもより広い。道幅いっぱいに広がる女生徒の姿はなく、まだ女学院が寝静まっているを感じさせた。
(こっちもまだ寝ているようですね)
命が訪れた演舞場の窓口嬢も、夢の世界にいた。
早朝からの時間貸しがあるとはいえ、今はまだ午前六時を回らない時間帯だ。受付嬢の頭は、自然とコクリコクリと動いてしまう。
(寝かせておいてあげましょう)
予約シートを覗くと、命が予約を取らずとも、すでに早朝枠で予約を取っている先客がいる。マグナから貰った前情報通りである。
命は、予約先の演舞場地下2階に向かう。地下は地上階と違って窓がないが、基本構造はどの階層も変わらない。
(いましたね)
地下2階には、運動着に身を包む女生徒がいた。
彼女はその場から一歩も動かず、フロア内に散在するカラーコーンを1本、2本と鮮やかに風を吹かせて倒していく。
地下で吹く筈がない風は、その場に溶け込むように違和感なく流れる。やがてフロア中のカラーコーンが全て倒されると、それらは演舞場の中央に吸い寄せられた。
【竜巻】
突如発生した【竜巻】に飲まれて、空を舞ったカラーコーンは、すべて重ねた状態でストンと地面に落ちた。
命はその芸当に感嘆し、賞賛の証として拍手を送ったが、緑髪の彼女――リッカは不機嫌そうだった。
「やっぱり凄いですねえ」
「変態に褒められても嬉しくねえ」
昨夜、命の正体を知ったリッカが、彼と顔を合わせることはない。顔を合わせると、あの日のゴールデンチンチラを思い起こすからだ。
取り付く島もないと話にもならない。命は恐る恐る距離を詰めるも、目前には拒絶を示す【風の壁】が張られた。
「と、とりあえず、それ以上は寄るな」
「うーん。嫌われたものですねえ」
そう言って困り顔を浮かべるも、ある意味想定通りの状況だった。
(マグナ先生の言う通りです。思ったよりは感触は悪くない)
担当教員の目に狂いはなく、リッカにはまだ歩み寄る余地があった。
――そもそもお前は、すでに死んでいて然るべきなんだよ。
説教の合間を縫って、マグナが囁いた言葉がよみがえる。
早く手を打たねばという考えは、そもそも遅かった。
魔法使いという存在は、命の想像する以上に罪深い存在だ。
リッカが命の秘密を吹聴した場合、すでに命は絶命していて然るべしというのが、マグナの主張だった。
(でも、私生きているのですよね)
リッカにはまだ迷いがあり、権利を行使する気がなかった。
彼女が単純にお人よしなのか、あるいは他の理由があるのか。その辺りの詳細な内容は、エリツキーの説教で阻まれたので、命にはわからない。しかし、まだ交渉可能ということは、まぎれもない希望であった。
(まだ巻き返し可能です。パスタのように)
一部界隈で流行っている魔法の呪文で己を鼓舞して、命は正面からリッカを見据える。相手は少したじろぎ、一歩下がった。
「何が目的だ。このHentai女装露出狂」
「……一応弁解しておくと、露出狂については貴方が、私のパンツをとったからですよ」
命の返答を受け、リッカは首をひねる。
「なんであたしが、変態のパンツを取るんだよ」
「貴方、一昨日アミューゼに泊まりましたよね」
命の指摘を受けて、リッカは小さく声を漏らす。少し思い当たる節があった。具体的には、昨日シャワーを浴びたときにだ。
「ちょっと待て……あのパンツは」
「すいませんが、私の大切なパンツです」
「ななな、何を履かせるんだよHentai!」
「いや、自主的に履いたのは貴方ですよ」
うるせえ、とリッカは言い返す。
頬が紅潮すると、風の壁がひどく歪んだ。動揺している証拠である。少し落ち着いてから、彼女は慌てて続けた。
「ちょっと待て、私のパンツは」
「ご心配なく。アミューゼに預けてありますよ」
「そうか……だから手前。って、待て。何でパンツが一枚しかないんだよ」
「それについては、海よりも深い事情がありまして」
命が『妖精猫運輸』という単語を挙げると、「あー」と、リッカが間延びした声で応答した。地元出身者にしてみれば深くもなく、わりかし日常的に起こる浅い出来事だった。
勘の良いリッカは、そこで事情を察すると、少しバツが悪そうな顔をした。一概に命を責めにくい状況になり、【風の壁】も解除した。ガードが一枚緩んだ状況である。
(これはイケる。感情に訴えれば何とかなります)
命は心中で静かにガッツポーズを取る。
リッカの怒りと申し訳なさが入り混じる顔を見ると、生存ルートが現実味を帯びてきたのがわかった。
「……露出狂と言ったことは全面的に謝る。安易にあたしのパンツを履かなかったことにも敬意を表そう」
「つかぬことを伺いますが、もし履いていたら」
「【風の刃】で首スパンだよ」
思わぬところに死亡フラグが転がっており、命は内心冷や汗まみれになっていた。なんで使用済の布を履いたら殺されるのかわからないのが、なお命の恐怖を煽った。
(怖っ! あの極限下でパンツ履いたら死亡とか、わけがわかりません)
感情への訴え方を誤ると死ぬ。
命はいっそう兜の緒をきつく締めた。本題はこれからだ。
露出狂の嫌疑が晴れたのは喜ばしいことだが、それはそれ。命が抱える最大の罪は、決して消えはしないのだ。
「ただ、手前は魔法使いだよな」
ほらきた、と命は予想通りの返しを、うんざりしつつも受け止める。存在が犯罪だ、と何度も言われては嫌な気がしないでもないが、決して顔には出さない。今は大事な交渉の真っ最中である。
「正直に申しますと、確かに私は魔法使いです」
「なら入学した目的は、魔力摘出か」
「その通りです」
男性の象徴である、ゴールデンチンチラを晒した今、もはや嘘は役を成さない。ならばと開き直り、正直な人間を演じる。言葉は嘘偽りなく、視線は真っ直ぐに、命は打算的に純粋を貫いた。
一心に見詰めていると、リッカはやり辛そうな顔をした。あまり直視すると、昨日の情景が鮮明になりそうだった。
ぶんぶん頭を振って、リッカは仕切り直す。
「わかったよ、それは信じてやるから。じゃあ話題を変える。手前はリッシュ=ウィーンを知っているか」
「知っているから、困っているのですよ」
セントフィリア王国建国の立役者にして、最大の背信者と名高い人物――リッシュ=ウィーンは、災厄の象徴と呼ばれて忌み嫌われている。命が苦境に立たされるのも、元を辿ればリッシュのせいだ。
「まさか、リッシュ=ウィーンの縁者か」
「血縁関係にはありませんよ。私は生粋の日本人ですから。虎刈りの宮司と、元東洋魔術師の専業主婦の間に産まれた、いたって普通の子供です」
「……いや、普通じゃねえからなそれ」
今のやりとりを通して、リッカは二つの情報を手に入れた。
一つは個人的に気になるが、瑣末な情報。そしてもう一つは、彼女にとって都合が良い情報だ。
口元を押さえて、リッカは何かを呟く。思考を整理する手段であるが、命にはその声までは聞こえない。
数秒後、リッカは思考をまとめてから口を開いた。
「手前、日本人って言ったよな」
「はい。出身は片田舎ですけどね」
「なら人捜しを頼みたい。もし引き受けてくれるのなら、今回の件は目をつぶってやっても良い」
交換条件を提示され、多少面食らったが、今の命にノーを突きつける自由はない。むしろ好都合と捉えて、交渉を続ける。
「期限と捜索対象は?」
「期限は二年目の夏休み最後まで。探して欲しいのは、あたしの妹だ。名前はわかるが……苗字はわからない」
「わかりました。引き受けましょう」
「本当か」
「猶予中まで足掻いてみますが、過度な期待はしないで下さいよ」
命が即答したのは猶予があるからだ。
まず避けるべきは、問答無用の処刑を避けることだ。一年半の猶予というのは何より魅力的だった。
(ただ実質、私は動けませんからねえ)
魔法少女としてセントフィリアに足を踏み入れた場合、機密保持の観点から、基本的に三年間は自国への帰還が許されない。
それを踏まえると、命は戦力にならない。
(仕方ありませんねえ。玖馬を頼るとしますか。愛しているぜ親友)
持つべきものは友であると、命は微笑む。この業務は玖馬に任せることにした。アウトソーシングという名の丸投げだ。
拳と拳で会話した仲である。
玖馬なら、きっとこの窮地から救ってくれるに違いないと、命は少年漫画的展開を期待しておいた。
(……これでどうですかねえ)
可能な限りの要求を飲み込むと、命はリッカの元へと歩み寄った。
【竜巻】で、洗濯機の衣類のように回されたことは記憶に新しい。命は一度は目をつぶったものの、リッカからの攻撃はなかった。
目を開けると、リッカが手のひらを差し出していた。
握手とはまた違った、仲直りの儀式だ。
「一先ずは手打ちにしてやるよ」
「……助かります」
重なる二つの掌が、和解を打ち鳴らした。
「そうと決まれば、善は急げだ。早速カフェ・ボワソンで朝食セットでも摘みながら、打ち合わせといこうか」
「へえ、朝食セットがあるのですか」
「常連客のあたしが作らせた」
ニヒルな笑顔を見せるリッカと並び、命は演舞場を出て行った。
薄暗い地下室から外に出ると、春の柔らかな陽射しが差し込んだ。昨日から続く長い夜を抜けて、ようやく命にも朝が訪れた。




