第28話 命短し歩けよ乙女
チンチラ――それは原産国イギリスのペルシャ猫。
長く柔らかい毛並みと毬のような丸っこさを持つ、愛くるしい動物である。毛色は主に銀色だが、ときに黄金色の毛並みを持つ品種もいる。
人はそれをチンチラゴールデンと呼ぶ。
(ふふふ……終わりました、何もかも)
命の下半身に生息するチンチラゴールデンが顔を出してから、約二時間が経過した。もうお嫁に行けないでは済まない。火あぶり打ち首待ったなしである。
あれからどう帰ったかは覚えていないが、気がつけば宿屋アミューゼにいた。
見知らぬ異国で安らげる場所はここしかなく、命は力なくベッドの上で寝返りを打つ。
なぜもっとうまく立ち回れなかったのか。
なんでルバートの肩を持ってしまったのか。
そもそも何故にノーパン状態だったのか。
後悔先に立たずとはいえ、もう反省も間に合わない。
(反省はしても後悔はするな、なんて綺麗ごとなのですよ)
やさぐれた命は、深くベッドに沈み込んでいく。人間は何度後悔しても懲りない生き物なのだ。
◆
魔力枯渇したルバートと青褪めたリッカが仲良く気絶する演舞場。ここは必殺仕事人の腕が試される場面といえた。
(目撃者は一人、早急に口封じが必要な状況です)
物言いこそ物騒だが、命は何もリッカの玉を取る気はない。ノーパン女装による陰部露出に加えて殺人まで犯したら、それはもう火あぶりでも文句を言えない。両親とは違う意味で、伝説として語り継がれる。
(まずは吐しゃ物の掃除! 私、毎日神社の境内を掃除していたので、お掃除は得意なのです)
前科者になる恐怖から、命は錯乱していた。
部屋の角にある用具入れから掃除道具一式を取り出す。次いで水飲み場からバケツで水を運ぶと、板張りの床をピカピカに磨き上げた。
良い仕事をしたと、満足気な命の顔が足元に写る。
これぞ四十八の乙女技の一つ、甲斐甲斐しい乙女の掃除である。わずかな塵も埃も残さない。小うるさい姑をも唸らせる、すげえ掃除だ。
(証拠隠滅☆)
日課の掃除で多少落ち着きを取り戻すと、続いてルバートを現場から遠ざけることを試みる。
命とリッカの修羅場にルバートまで混ざると、さらにややこしい話に発展するなどと、浮気男みたいな思考を広げていた。
(今すぐ1階窓口に行って、預けねば)
本日三度目ともなると、窓口への問い合わせも慣れたものだ。もはや命は、黒髪の窓口マスター乙女と言っても過言ではない。困ったら窓口嬢に相談だ、の精神を遺憾なく発揮する。
「……嘘。大丈夫ですか」
ただ、今回は窓口に向かう必要はなかった。
演舞場の窓口嬢はすでに現場にいた。目前に広がる光景が信じられないと、ぽかんと口を開いて、開放された扉の前に立っている。
(あっ、お客様の元に自ら足を運ぶ、新しい窓口スタイルですね)
――そんなわけがなかった。
数秒後、演舞場の窓口嬢は慌てて首を振る。魔法少女のために開放した施設なので、こういう事態は皆無ではないが、慣れるかどうかは別問題である。窓口嬢は逡巡した末に、救援を呼ぶことにした。
「直ぐに人を呼んできますので、待っていて下さい。大丈夫です、これは訓練中の事故であって、貴方に責任はありませんから」
加害者へのアフターフォローも忘れず、窓口嬢は昇降口を下っていった。
「あ、あのっ!」
命が弁解する間もなく、責任感の強い窓口嬢の背中が消えた。訓練の際に起きた悲劇だと勘違いしたことだけが幸いだが、それ以外は最悪だった。
この時点で命は完全に詰んだ。
為す術もなく状況に流されている間に、二人の魔法少女は運ばれてしまった。
保健室送りになったルバートはまだ良いが、口封じ対象のリッカは、車でどこかにドナドナ。命はその手厚い搬送を見送るだけだった。
見送りの際、妖精猫運輸からの荷物を学院事務室で預かっていることを聞いた命は、一歩間に合わなかったキャリーケースを引き取る。放心状態でガラガラと荷物を引いて、帰路についた。
行き着いた場所は、宿屋アミューゼ。
リッカが連泊しているという僅かな希望に賭けるも、それも空振り。翠の風見鶏の行方は、依然として不明であった。
失意のどん底のなか、命は宿泊予約を取った。
朝食、夕食つきで一泊一万五千イェン。宿と食事の質を考えれば正直高いが、今の命にとって金など大した話ではない。
「この宿で一番良い部屋を頼みます」
「大変申し訳ありませんが、当宿泊所に部屋のランクはありません」
「……そうですか」
命の背中があまりに情けなかったのか、受付嬢は夕食のグレードを上げてくれた。
自室に運ばれてきたホワイトシチューは、クリッグ耕地で放牧されたクリッグ豚をふんだんに使った一品であった。
「何があったか知らねえけど、暖かい飯食べて、身体暖かくして早く寝れば?」
「……受付嬢さん」
ショックで食事の味はわからなかったが、ホワイトシチューと受付嬢の優しさは、傷心に染みた。
インコ嬢などと陰口を叩いた自分を恥じると、命は彼女を信じて相談をもちかけた。
「つかぬことをお伺いしますが、もしもスカートノーパン状態で下半身を晒してしまった場合、どうすれば良いと思いますか」
「大変申し訳ありませんが、当宿泊所では、お悩み相談は受付けておりません」
足早に去る受付嬢を見て、しょせんは他人なのだと、命は肩を落とした。
◆
それから命は、ずっとベッドにうつ伏せになっていた。悪いことばかりが頭に浮かび、無気力な状態から抜け出せずにいた。
(やっぱり、火あぶりですよねえ)
一酸化炭素中毒や首絞め窒息死は嫌だなあと、命は生々しい死に様を思い浮かべていた。こんなときも現実寄りの自分の思考に嫌気が差す。
(やり残したこと、沢山あるのですけどねえ)
両親との約束は果たせなかった。
宮司になる夢も果たせなかった。
卒業後に玖馬と再開する約束もそうだ。
実家に積んだ映画や小説も消化していない。
白レンガ基調の街並み巡りもできていない。
(そういえば、根木さんと那須さんとも、きちんと仲直りしてなかったな)
今から第二女子寮に謝りに行くことも考えたが、深夜遅くは迷惑になると思い直す。
何より明日には火あぶりになる変態が、許しを請うのもどうかと気が引けた。
(……死にたくありませんねえ)
死が身近になって初めて気づいた。
命が考える以上に死ぬことは怖かった。
当たり前のように訪れる日々が唐突に断絶する。それがどれだけ恐ろしいことか。
落ち着いた物腰で澄まし顔をしても、命はまだ高校生だ。人生の続きが、まだ明日が欲しかった。
――わかった風な顔で言えれば楽ですがねえ。努力した以上、努力したからこそ簡単に諦めがつかないことだってあります――ッ!
皮肉にもルバートを奮起させるための言葉が、今になって自分に返ってきた。
命は自嘲するように口元を緩める。
(我ながら、良くこんな綺麗ごとを言えたものだ)
もう最善を尽くすのは無理な状況だ。
けれど、次善は尽くすには遅くない。状況は悪くとも、命はまだ生きていた。
深い事情は知らないが、少なくともルバートは逆境から立ち上がってきた。ならば発言主が簡単に諦めるは無責任だろう。
(……もう少し頑張ってみますか)
ベッドでうつ伏せになる時間は過ぎた。
命は、明日に向けて動き出した。
ひとまずはベッドから離れる。
睡眠という甘い誘惑に飲まれる前に、デスク前の椅子に腰かけた。
ノートを広げて、今後の方針を書き連ねる。平静とはほど遠い状況なのでまとまりは悪いが、いくらか思考に整理がついた。
結論を出すと、時間が惜しかった。
命は必要最低限の荷物をまとめる。外出を伝えて、窓口嬢にキーを預けた。
「こんな時間にお出かけか」
「ええ。ちょっと自分探しの旅へ」
「いるといいな、自分」
命は夜の街へと繰り出す。
夜も短し、命も短し。黒髪の乙女が歩き出す。




