第26話 挑戦状は風に揺れて
魔法実技施設――演舞場。
そこには魔法の応酬をくり広げる女生徒の姿も、絶え間なく空気を震わす魔法音もない。
板張りの間、その中央で彼女は深呼吸を続ける。
吐き出す息と呼応するように、地面から吹き出す赤い魔力が揺らめく。ゆらゆらと穏やかに、静かに闘志が顔を出す。
火の魔法少女――ルバート=ピリカは、来る宿敵との一戦を前にして、粛々と準備を整え、簀巻き状態の命はただ黙って横たわっていた。
五分前。
ルバートは約束を違えることなく、那須と根木を解放した。
「クル、コメリン。お前らも一緒に帰れ。ここから先は少し熱くなる」
「お前は大体馬鹿なのに、たまに有能で、それでいてまれにワガママだから困る」
「悪かったな、ワガママで」
「悪のカリスマが謝るなよ。こっちは好きで付き合ってんだから」
大将の撤収命令を聞くと、忠実な手下Aであるクルトが動いた。解放されたドドスの猿ぐつわを外すと、不安げな顔をする彼女の頭をポンと叩いた。
「帰るぞコメリン。好きにやらせとけ」
「よくわからねえが、ピリカ大丈夫かあ」
「大丈夫だ。負け戦はあいつの十八番だ」
二人は、騒ぎ立てる人質たちを一人ずつ背負う。
昇降口を下る手前、ドドスが命を見つめる。クルトは「大丈夫だ」とフォローを入れた。
「悪いな、八坂つったか。約束通り二人は女子寮に返しとくから、お前はうちの悪のカリスマさまに付き合ってくれ」
「丁重に頼みますよ。大事なお姫さまですから」
「あいよ。それじゃあ面倒ごとに巻き込まれる前にトンズラしますか」
四人が退場すると、演舞場には静寂が満ちていく。
命とルバートの間に会話はない。
簀巻きの命が横倒しになっている間、ルバートは変わらず昇降口を見つめ、深呼吸を続けていた。
(うーん。これどういう状況なのですかねえ)
一時は肝を冷やしたが、事態は最悪から改善しつつある。根木と那須は無事開放され、主犯格のルバートの興味も命には向いていない。
(ひとまずは大丈夫そう……というは楽観しすぎですかねえ)
命は背中に隠して黒い魔法弾を生成する。
豆粒サイズのそれは、コンディションを図るためのものだ。発現と同時に魔力を空気に溶かした。
(精神状態は上々。魔法行使速度もまずまず)
人質にされたときは精神も乱れていたが、今は魔法弾を作る程度の余裕は持てた。ロープを断ち切ることも、相手の背中を狙い撃つことも可能だ。
(那須さんなら出来そうな芸当ですが、精神的に弱っていたのですかねえ)
魔法は精神面に大きく影響される。その考えは間違いではないが、命は前提に誤りがあることに程なくして気づいた。
(あっ、手元でしか出せないのか)
思えば魔法弾を特定座標から生成したのは、命だけだった。
(座標指定で魔法を行使するのは、向き不向きがあるのかもしれませんねえ)
意外な才能を発見するも喜びはない。たとえ座標指定ができたとて、火を揺らめかせるルバートに敵う気は到底しなかった。
(不意打ちは……止めておきますか。お犬さまに続いて、私もこんがりしそうです)
膠着が続くかと思われた矢先、誰かの足音が近づいてきた。
(来ましたか)
人質として捕われた以上、縁のある人物が助けに来ると考えるのが妥当である。
それも、女学院生活二日目の命の知り合いとなると、その数はかなり限られてくる。半ば誰が来るのか、命は当たりをつけていた。
「ようルバート。相も変わらず悪党ごっこか」
予想通り、緑髪の魔法少女が昇降口から現れた。
少し癖がある髪質に、長身細身のシルエット。学食棟にあるカフェ・ボワソンをこよなく愛する少女――ウルシ=リッカが、ルバートの待ち人だった。
「待ち侘びたぜ、リッカ」
不敵な笑みを浮かべるルバートは、やはり命の知らない人物だった。昨日、リッカに呑まれていたのが嘘のように堂々とした態度だ。
「それで、手前は何してんだ」
「見てわかりませんか。絶賛人質中です」
呆れ顔でため息をつくと、リッカは小悪党へと向き直る。
「久々に会ったかと思えば、随分とガッカリさせてくれるな」
リッカの1m手前で赤黒い魔法弾が弾け、砕けた火の粉が流れる。
突然の出来事に、命は目を丸くした。
ルバートが火の魔法弾を撃ち放し、リッカが直撃寸前で防ぐ。高速で展開された攻防は、その単純さ故に、命の背筋を寒くした。
「……ガッカリだと」
歯を食いしばり、ルバートは容赦なく二発目、三発目を放つ。
わずかに逸れた魔法弾は、リッカを避けるように飛び、演舞場の壁に当たる。荒々しいノック音とともに、真っ赤な粘着物質が壁に張り付いた。
「それはこっちの台詞だ。勝手に人の前から消えやがって」
「手前の恋人でもあるまいし、勝手に消えるのに理由がいるのかよ」
「いるね。悪のカリスマにお暇しますと言って、菓子折りを渡すのが礼儀だ」
「……なあ、いつまでこんなことを続ける気だ」
「いつも、いつでも、いつまでもだ」
(どうやら複雑な関係そうですねえ)
リッカの魔力が、大気をかき混ぜる。
風をまとうフィロソフィアとは違う、広範囲を網羅する柔らかな風だ。
(臨戦態勢に入った。早く逃げなくては)
一も二もなく、命は逃走を試みる。
主犯は今、人質への興味が薄れている。カフェ・ボワソンの女神の協力も得られるというのなら、この千載一遇の好機を逃す手はない。
気取られぬよう、命は後ろ手のロープを黒い魔法弾で削る。意外と切れ味が悪くて時間がかかるが、問題は時間だけだ。蚊帳の外にいることを良いことに、黒髪の乙女は静かに逃走の態勢を整えていった。
(あとは若い二人でごゆっくり)
ふわりと、熱気で黒髪が揺れた。火の魔法弾が頭の真横を駆け抜け、黒髪の先端がちりちりと焼ける。
「悪のカリスマからは逃げられない」
視線も寄越さぬ射手に、命は沈黙する。
「おい、命は関係ないだろ」
「関係あるね。こいつを解放すると、不登校のヘタレも一緒に逃げそうでな」
――不登校のヘタレ。
その言葉が、リッカの逆鱗に触れた。
「相も変わらず、お空を飛ぶのが好きなようだな……吹き飛ばずぞ手前」
リッカが、風の魔法少女の常套句を告げると、演舞場の大気が荒れた。
【竜巻】を起こす前兆を察知すると、ルバートは饒舌にしゃべる。待ち望んだ結末が直ぐそこまで迫っていた。
「そうだよな、そう来なくちゃな。今までの黒ホス計画も、全てはこの時のためだ。来いよリッカ、私とテメエの最後の勝負だ」
演舞場の床から四本の【炎尾】が生える。【炎尾】はルバートを中点に置き、円を描いて走った。
酸素を燃やす燃焼音と、口笛にも似た風切り音が混じる。ごくりと、命が次の展開につばを飲むも、緊張の糸は直ぐに切れた。
「……止めた。馬鹿らしくて付き合えねえ」
リッカが、早々に匙を投げたのだ。
演舞場を渦巻く風は勢いを失い、空気へと溶ける。それは、あまりにも呆気ない幕切れだった。
「はっ?」
ただ一言。
ルバートの口から疑問符が零れた。
「ちょっと待てよ、何だよそれ」
「こんな茶番に付き合えるか。さっさと帰るぞ命」
「……私は別に良いですけど」
戸惑いを覚えている間に、命は自由の身になっていた。リッカが器用に吹かせた風は、命の手首、足首のロープを断ち切っていた。
もう、命を縛るものは何もない。
鞄を拾い上げれば、今直ぐにでも帰れる状態だが、後ろ髪を引かれるのも確かだ。命の後ろには、悲痛な表情を浮かべるルバートがいた。
「リッカ、貴方強いのでしょう。なら軽くひねってあげたらどうですか」
なんとなしに、命はルバートを擁護していた。
ルバートは悪役を自称する割には抜けていて、どこか憎めなかった。
そして何より、彼女は必死だった。雨に濡れた子犬のような女生徒を、命は見捨てられずにいた。
「手前まで、何寝ぼけたこと抜かしてんだ」
「第三者が差し出がましいかもしれませんが、きっとこのままじゃダメですよ」
二人がいがみ合う様は、親友との喧嘩を思い起こさせた。目に映らぬ何かに無性に苛立っていた、あの日々のなか。命が曲がらなかったのも、玖馬が道を誤らなかったのも、互いの存在があったからこそだ。
あのとき、命には玖馬がいた。ルバートにも誰かが必要なのだと、命は確信していた。
「事情は良くわかりませんが、このままでは、貴方たちは綺麗に終われません」
「終わるも何も、最初から何も始まっちゃいねえよ。あの甘えん坊を終わらせる義務なんて、あたしにはありゃしねえよ」
一呼吸入れて、リッカは吐き捨てる。
「もうあたしは、興味ねえんだ。魔法少女なんてどうでも良いんだよ」
その一言が引き金だった。
ルバートのなかで、何かが壊れる音がした。湧き上がる黒く粘ついた感情が燃料となり、彼女の足元の炎が燃え盛った。
鮫のヒレにも似た四つの【炎尾】が床を走る。赤いヒレはリッカの足元で次々と誘爆をお越し、爆炎が波状に重なり合った。
「……ふざけるな」
ルバートの怒りは、すでに振りきっていた。仇敵に向けて、彼女は容赦なく火の魔法弾を投げつける。
「ふざけるな、ふざけるな」
赤い速射砲は止まらず、回転し続ける。ルバートの手元が燃えると同時に火炎の礫が飛んだ。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな――ッ!」
ルバートの猛攻が途絶えたときには、前方の空間は燃え盛っていた。しかし、リッカの後方にいた命は、火の粉ひとつすら被らなかった。
たとえ背中を不意打とうと、いくら魔法弾を連射しようが無駄だ。リッカの風は全てを受け流す。彼女にルバートの魔法は届かなかった。
「はあ……はあ……じゃねえぞ」
一気に魔力を放出し、ルバートは肩で息をする。
ペース配分なんて考えてはいない。あの言葉を受けて、先を考えられるほど冷静ではいられなかった。
「ふざけんじゃねえぞ!」
ルバートは叫ぶ。
その行き場のない熾き火のような想いを。
「ならどこに行くんだよ。私の……私たちの夢は。魔法少女になれなくて、それでも無理やり諦めつけて、誰かに預けた夢の行き場はどこなんだよ――ッ!」
「人の背中に勝手に荷物を載せておいて、甘えるな。それに、少なくとも手前の夢なんぞ背負った覚えはねえ」
「リッカああああああああ、テメエえええ――ッ!」
ルバートの怒りの崇は、そのまま燃える【火波】へと還元された。赤い絨毯は、人を丸呑みする高さになって襲いかかった。
「届かねえよ。まだわからねえのかよ」
【爆風】
空気の塊が破裂すると、赤い高波に風穴が開いた。雨となって降る【火波】の一滴すら、リッカにはかからなかった。
「覚悟もねえ奴が、半端なことすんじゃねえ。手前は見苦しいんだよ」
背を向けるリッカへの追撃はない。
ルバートが膝から崩れ、頬を濡らしていたからだ。
(あーあー。さすがに見ていて気分の良いものではありませんね。やだなあ、面倒事ばかりが増える一方で。早く帰りたい)
「気にするな。泣きたいだけ泣かせとけ」
「はいはい。貴方がそう言うなら、そうしますよ」
箒と鞄を抱え、命は小走りでリッカに近寄る。
妖精猫運輸の再配送の行方や、今日の宿場探しなどに気を巡らせる。今日も明日もやることは沢山あるのだ。
「お手数おかけしましたね、リッカ」
「大したことじゃねえよ。気にするな」
命は心中でため息をついた。
どうしてこうも、自分はお人好しなのかと。
「いえ、悪いですが――気にしますよ」
命は平然とだまし討ち、黒い魔法弾でリッカの頬を叩いた。
「――ッ!」
片足が宙に浮くも、リッカは体勢を立て直す。前に戻る勢いを利用して、勢い良く右腕を振りきった。
「おっと」
鞄を捨て、命はバックステップで避ける。
担当教員の殺人クロスカウンターに比べれば、大したことはない。
「おい……何の真似だよ」
「そうですねえ。一言で言うなら、余計な真似ですかねえ」
目の前で女の子が泣いていたら、もう立ち上がるほかに選択肢がない。たとえ恩を仇で返すことになろうが、命の知ったことではなかった。
(増援……なんて都合良く来ませんよねえ)
もう引くことはできない。
黒い魔法弾とともに、命は無謀な挑戦状を叩きつけたのだ。




