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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1週間チュートリアル ―黒ホス計画編―
16/113

第16話 カフェ・ボワソンの女神

 時刻は午後二時半。

 初日の日程を超特急で消化した命は、那須とともに学食を訪れていた。

 

 海辺駅カフランから女学院へ向かうバスの移動中、お弁当が提供されていたようだが、残念ながら食事にありつけていなかった。


 那須は体調を崩していたので食欲がわかず、命はそもそもバスに乗らず、箒での移動だった。二人は遅めの昼食をとりながら、根木を待つことにした。

 

 セントフィリア女学院には、学食のためだけの建物――食堂棟が存在した。


 親元を離れて来た女生徒も多いため、食堂棟を食の生命線とする女生徒は多い。なかには三食とも学食で済ます、学食フリークもいるほどだ。

 

 早速二人が訪れたのは、ここ食堂棟3階の日本食エリアだ。各国の料理を取り揃えている食堂棟であるが、とりわけ人気が高いのは日本食だという。

 セントフィリア女学院で初めて日本食を口にして、ファンになる子も多い。

 

「自国の料理以外に手を出すなら、まずは食堂棟3階の日本食エリアだ。一通り何でも美味しいが、あたしのオススメはカツ丼だな。しっとりとした衣の中に隠れる、柔らかくてジューシーなクリッグ豚。それを包む卵の絶妙なふんわり具合といったら、筆舌に尽くしがたい。三食カツ丼でも良いと思うほどの味だ」

 

 と、いうのが担当教員の評だ。

 マグナが初日の授業で一番時間を割いたことといえば、いかに日本食エリアのカツ丼が美味しいかという話だった。

 

「本当にあの教師、大丈夫なのですかねえ」

「将来への不安を隠せない、そんな授業の出来でしたね」

 

 横を歩く那須の言葉も、彼女にしては珍しく辛辣だ。期待の左腕が思いのほか活躍しなかったときの、解説者のような口ぶりだった。

 

(那須さんは、真面目そうですしね)

 

 食堂棟3階の日本食エリアに辿り着くと、二人は窓口へと向かう。


 窓口で購入した食券を提供カウンターに置いて、食券と引き換えに料理をいただく、よくある食堂の購入スタイルだ。

 

「あら、お嬢ちゃんたち早いねえ。まさか講義をフケてきたんじゃないの」

 

 窓口にいたのは、恰幅の良いおばちゃんだ。

 一年生のカラーである赤が制服のポケット、長袖シャツに走っているのを目ざとく見つけると、おばちゃんは窓口から一歩前に出る。新規顧客獲得に余念がない様子である。


 相手は愛想の良いおばちゃんではあったが、人見知りの那須が背中に隠れるものだから、命が答えた。

 

「不真面目な担当教員だったので、講義は全て宿題になりました」

「ああ、可哀想に。あの席に座っている奴の生徒か」

「そうそう。あんな感じのショートパンクのオレンジヘアで、上下赤ジャージを着た教員ですね」

「あの……どっからどう見てもマグナ先生なの」

 

 言われずとも命も気づいていた。

 窓際席という優良席を独占し、担当教員はカツ丼をはふはふ食べていた。

 

「あっ、お前らも私の熱弁を聞いて来たのか。おばちゃーん、二人で食券一枚の約束だったろ。まずは一枚だ、一枚よこしやがれ」

「……あはは、悪い子じゃないんだけどねえ」

 

 大声で食券を催促する声が響くと、窓口のおばちゃんは苦笑いだった。二人は汚い目論見をする大人を、濁った魚のような目で見つめた。

 

「まあ美味しければ、構いませんよ。初回サービスなんてしていただけるなら、私たちも宣伝しちゃうかもしれませんよ」

「可愛らしいのに、抜け目のないお嬢ちゃんだねえ。ようし、今日だけ初回サービスだ。今日はドーンとタダにしてあげる!」

「ありがとうございます」

 

 二人分のカツ丼代は、こうしてタダになった。

 思わぬ形で昼食代を浮かした命は、してやったりと笑みを浮かべていた。ひょこりと影から出てきた那須は、対照的に少し申し訳なさげだ。


「気にする必要はないですよ」と、命は声をかけておいた。

 

「ギブアンドテイクです。生粋の日本人である私たちが美味しいと言えば、それなりに宣伝効果はあると思いますよ」

「私、このお店は美味しいって宣伝します」

「まあ……美味しいかどうかは、食べてからですけどね」

 

(先生の舌が馬鹿である可能性もありますし、下手に旨いとうそぶいては詐欺行為に当たりますしねえ)

 

 商売繁盛するお店の商品が、必ずしも優れているとは限らない。大事なのは宣伝効果と、お客様に良かったと認識していただくことだ。

 場の空気に流された意見であっても構わない。それが偽物の満足感であっても、満足感であることには変わりがないのだ。

 

(決して嘘はつかず、言葉巧みにに誘導すれば良いのです)


 ……などと、命が黒い思考を巡らす間に、カツ丼が提供された。

 

 マグナの触れ込み通りで、悪くない見栄えだ。味噌汁とお新香付のカツ丼をお盆に置き、セルフサービスのお水を用意すれば昼食は完成である。

 

 均等に置かれた長机のどの席に座るか、視線を巡らせていた命と根木だったが、元よりそのような自由は二人にはなかった。

 

「おい、何突っ立てるんだよ。遠慮することないから、こっちにこいよ」

 

 バンバン机を叩くマグナからご指名が入った。

 無自覚に権力を振りかざす教員相手に、二人は為す術もなかった。

 

「三番テーブルのお客さまからご指名です」

「あの……チェンジとかないの」

「気持ちはわかりますが、親と教師は選べないのです」


 正確には上司だが、学生にとっては同じである。権力に屈した二人は、マグナの向かいに座った。

 

「げえっ。黒髪ポニーは、蜜柑色の悪鬼の手下かよ」

「うわあ、黒髪の乙女と蜜柑髪の戦姫ですわ。今ここに、最悪の組み合わせができたと言っても過言じゃないですわ」

「黒髪の眠り姫の担当教員は、血染めの橙色(ブラッドオレンジ)なのか」

 

 この女学院の生徒は、他人にあだ名を付けるのが好きなのだ。そう自分に言い聞かせることで、命は周囲の雑音は聞き流した。もう一々とりあっていたらキリがないと、黒髪の乙女は諦め気味である。

 

「マグナ先生も、随分なあだ名をお持ちですね」

「勘違いすんな。あたしは、蜜柑髪の戦姫しか公式認定してねえよ。この名前だけは姫と入ってて、ちょっと可愛いので許す」

「先生……ちょっと可愛らしい」

 

 那須の中で、マグナの評価が少し上向いた。

 乙女とは、何時いかなるときも可愛いらしく見られたい生き物である。その共通認識が、共感を呼んだようである。

 

「まあ、まずは食いながら話そうぜ。冷める前に食え」

 

 促されるままに、二人はカツを口に運ぶ。

 口に運んだ瞬間、カツが舌の上で溶けた。二人がそのような錯覚に陥るほど、柔らかくてジューシーな歯ごたえだった。

 

「こっ、この味は――ッ!」

「次の一口が待ちきれなくなる……そんな味です」

 

 衣はサクサク派と言う人間でも、価値観が変わる味だった。味を吸って湿った衣が絶妙なクッションとなる。舌の上に置く度に溶けていくので、さらに一口と手が進んでしまう。

 カツ丼の魅力に取り憑かれると、次第に箸の回転が上がり、あと一口が止まらなくなる。

 

 危うくがっつく態勢に移行しかけたが、二人は踏みとどまる。一介の乙女として、そのようなはしたない真似はできなかった。

 

「ふふふ、恐れいったか。日本食エリアのカツ丼の味に死角はない」

 

 自慢気に告げるマグナの表情は、命にとって見覚えがあるものだった。セントフィリア上空の風景を自慢した時と同じ顔をしていた。


 小さいものから、大きいものまで、この国にあるものは全て、マグナにとって自慢に値する宝なのだ。

 

「お見逸れしました、先生。この味についてはもっと時間を割くべきです」

「宣伝しなければならない……私の胸にふつふつと湧くのは、使命感にも似た何かなのです」

「関心関心。自分の否をすぐに認めるとは、お前らは見どころがある」

 

 腕を組んでうなづくマグナは、満面の笑みを浮かべていた。

 

「もっとも、あたしの舌をバカ扱いした罪は消えないがな」

「――なっ! 何故それを」

「カマかけたんだよ。やっぱりか、このバカたれ目!」

 

 マグナは、命の頬をみょんみょんと左右に引っ張った。

 

「ふわあ。謝るので離して下さい」

「良いか八坂。お前は他人を軽視するな。いつでも物事が自分の思い通りに運ぶなんて、決して思い上がるなよ。痛い目に合ってからじゃ遅い」

 

 頬を引っ張っていた手を離すと、マグナは視線を那須へと伸ばした。びくりと、那須が背筋を震わせた。

 

「お前はそれだ、那須。直ぐにビビって退くな。誰かが何時でも守ってくれるなんて甘えるな。お前が大切なモノを守りたきゃ、決して震えるな」

 

 真っ直ぐに那須の目を見据えるマグナは、教師の目をしていた。

 

「現状に甘んじることなく、愚直なまでに努力を重ねろ。そうすれば、間違いなくお前らは一流の東洋魔術師になれる。超一流だったあたしが保証する。お前ら二人はダイヤの原石だ」

 

 その言葉が胸にすとんと落ちるまでには、時間がかかった。


 一流の東洋魔術師、ダイヤの原石。

 真面目な顔でマグナは、惜しみなく最高級の賛辞を送るのだ。言われた二人はむしろ恐縮してしまう。


「一流の東洋魔術師は言いすぎでは」

「あの……さすがにヨイショがすぎるの」

「あたしは世辞が嫌いだ。たとえ自分が受け持つ生徒にでも、嘘を言うつもりはない。無闇やたらに褒めるのは、ときに残酷だからな」

 

 イマイチ伝わっていない女生徒たちを見て、マグナはため息をつく。まだ入学初日ということもあり、信頼関係が築けていないのことも大きかった。

 

「一応言っとくが、無根拠な訳じゃないからな。根拠ぐらいは教えてやるから、後は自分で調べとけ」

 

 命には『魔力枯渇(パンク)』、那須には『戦乙女の門(ヴァルキリイゲイト)』」という単語を調べる宿題が出された。

 ヒントは上げるが、勉強は自主性に任せるのが、マグナ流の勉強方法だ。

 

 宿題を出し終えると、三人の間からは自然と会話が消えた。あれほど褒めちぎっていた日本食エリアのカツ丼を前にしても、二人の手は動かない。


 ぽかんと開けた口は、カツ丼を食べるためのものではない。目の前の出来事を消化し切れない、締りのないものだ。

 

 食事の邪魔になるかと思い、マグナは席を立った。

 

「それじゃあな。荷物が届くまで時間を潰しておけ」

「もう行くのですか?」

「こう見えても教師なんだ。クソガキ相手に講義がある。もしカフェに行くなら、4階のカフェ・ボワソンがオススメだとだけ言っておく。じゃあな」

 

 堂々とした背中を見せて、マグナは遠ざかっていく。

 

「……格好良い」

 

 自重で氷柱がポロリと落ちるように、自然と落ちた言葉。その那須の言葉に、不覚にも命も同意してしまった。

 

(あんなにちゃらんぽらんなのに、ズルい人ですねえ)

 

 急上昇するマグナ株であったが、窓口でおばちゃんに食券をねだる姿を見て、二人は少し幻滅した。結局マグナの評価は、ほど良い位置で落ち着いた。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 自宅から送り届けた荷物を受け取るため、命と那須は午後五時まで時間を潰す必要がある――らしい、と命は先ほど知った。

 

「えっ、荷物って午後五時に届くのですか」

「あの……八坂さんが1-Fに来る前に説明してたよ。でも、入学式でも説明したって言ってたのになあ」

「私は、相対性理論の勉強をしていたのですよ」

 

 あとは犯罪行為に走る友人の身柄を確保していた。そこまで考えて、命はもう一人の友人を思い出す。

 

「そういえば、根木さんはどうしてますかね」

「入学初日の日程が三時半までだから、そろそろ授業を終えたと思いますが。迎えに行きますか」

 

(むう……どうしますか)

 

 那須の提案に賛成するのは、やぶさかではない。

 だが、命には極力1-Bに立ち入りたくない理由がある。あの教室にはフィロソフィアという猛犬がいるのだ。足を踏み入れるのは危険だと、警鐘が聞こえる。

 

 根木を一人にするのも危険に思えるが、命はその点は心配していない。

 フィロソフィアと一戦交えた命には、彼女に対して妙な信頼があった。プライド故に勝者の友人に危害を加える真似はしないだろう、という信頼だ。

 

(というか、手出ししようものなら、問答無用で張っ倒しますけどね)

 

 頭のなかで色々と考えをこねこねした結果、命は根木のお迎えを那須に一任することにした。

 

「私は4階のカフェ・ボワソンで席を取っていますので、迎えに行って貰ってもよろしいですか」

「あの……わかりました」

 

 何かを察した那須は、それ以上は何も言わなかった。頭空っぽで付き合える根木と違えども、一緒にいて落ち着く類の友人だった。

 

 日本食エリアのカツ丼を堪能した二人は、食器を流しに運んでから別れた。

 

(それじゃあ、私は席取りと行きますか)

 

 食堂棟4階に上がると、命はマグナお墨付きのカフェ・ボワソンを探す。

 4階にはカフェや、有名ファストフード店が軒を連ねていた。世界シェア一位を誇るファストフード店がセントフィリア王国にまで出店していることには、命も驚いた。

 

(たぶん、あれだろうなあ。なかなか好みの外装ですね)

 

 命はカフェ・ボワソンを見つけた。

 他の大規模なお店に比べると、小ぢんまりとしている。カフェ・ボワソンは手作り感溢れる、個人経営店といった趣だ。隠れ家的なお店を好む命にとっては、自分の好みにスマッシュヒットだった。

 

「いらっしゃいませ。何名さまでしょうか」

「三名です。十分位したら、連れがあと二名来ます」

「それでは、あちらのテーブルまでご案内します」

 

 金髪青目の欧州人風のウェイトレスが、命を四人掛けの席へと案内した。

 書入れ時だということもあり、案内された席は中央付近。あまり落ち着けるような席ではなかった。

 

(席が取れただけ、良しとしますか)

 

 カフェ・ボワソンは盛況だった。

 敷地面積こそ狭いものの、空き席は見当たらない。

 命が4階をちらほら見た限りでは、空き席がある店は幾つかあった。それを考えると、女学院内での評判が悪くないことが伺える。

 

 先ほどのウェイトレスがてんてこ舞いで働く姿を目で追っていると、不意に命の目は一点で止まった。

 

(うわあ。スラリとした美脚の美人ですねえ)

 

 命が彼女に抱いた第一印象がそれだった。

 モデル体型の彼女が足を組む姿は、絵になった。同姓の女生徒ですら、コーヒーをすすりながらも横目で盗み見てしまうほどの美脚だ。

 

 見た目の美しさは、脚ばかりに限った話ではない。

 少し癖のある緑色のナチュラルヘアの下には、鷹のように鋭い目がある。柔らかさと気高さが、ちょうど良い具合で混ざっている。

 

 彼女は二人掛けの席に一人で座り、静かに読書にふけっていた。片手で文庫本を読みながら、間に間に文庫本を置いて、コーヒーを飲む。

 その姿があまりにも様になるので、まるでカフェの住人のような女生徒だった。

 

 視線が集中しすぎると不快なのか、時おり鋭い視線で周囲を威嚇し、読書へと戻る。どうやら読書にご執心の様子である。

 

(あまりジロジロ見るのは止めましょうか。一人の時間も大切ですからね)

 

 彼女の読書タイムを尊重し、命は手作りのメニュー表へ手を伸ばしかけた。


 問題が起きたのは、その時だった。

 

「――はあ? 何でお店に入れないんだよ。空き席があるだろ」

「申し訳ございません。お待ち合わせのお客様もいますので」

 

 三人組の女生徒が、ウェイトレスに文句をつけていた。


 この店外でのやりとりを聞いて、命は申し訳なさそうな顔をした。二人掛けの席ならともかく、四人掛けの席を一人で独占しているのは、命だけだった。


「何だよ、一人で独占しているのは黒髪ポニーかよ」

「ああ、お客様お待ち下さい」

 

 ウェイトレスの制止を振り切り、三人組は命の元に来た。


 静寂に包まれていたカフェ・ボワソンがざわめく。

 三人組のリーダー格と思しき少女が、命の顔を覗き込んだ。

 

 カフェで読書にふける綺麗な女生徒を見た後に見るには、不快な顔つきであった。顔の良し悪しではなく、その性根の汚さが命の癇に障る。


 不機嫌さを露わにしても良かったが、命はカフェ・ボワソンの雰囲気を第一に考えて微笑んだ。

 

「私に何か御用でしょうか。相席の相談ならば、大変申し訳ないのですが、ご学友が参りますので、断らせていただきます」

「おーおー、黒髪ポニー様は違うねえ。周りに迷惑をかけても、席を譲る気がない」

「さすがは東洋人の山猿。恥を知らないなあ」

「店もお客も迷惑しているって、気づいてねえのか」

 

 すらすらと難癖をつける様を見れば、命にもわかる。ゆすりやたかりに慣れた人間の絡みだ。この手の輩と何度か口論した経験があるので、命は間違いないと断定する。

 

(参りましたねえ。もうすぐ二人が帰ってくると思うのに)

 

 いっそのこと畳むことも視野に入れるが、命はマグナの言葉に従うことにした。

 過信はするなと、あの担当教員は言った。相手の実力は未知数の上、三対一という劣勢。相手が同じ外部入学生でなければ、間違いなく劣勢なのは命だった。

 

 少し考えた末。退くのも惜しいので、命は中間をとって頭を下げた。

 

「本当にすみません。ですが、もう二人の学友が来ますので、この場所を使わせていただけませんか」

 

 それは、本来であれば必要のない断りである。

 この三人組にカフェ・ボワソンの使用許可を取る必要などないことは、頭を下げた当人も重々理解している。相手を立てれば帰る思っての行動だった。

 

 ただ命の思惑と違い、三人組は引き際を知らなかった。リーダー格の少女は、頭を下げた命の胸倉を掴み上げた。

 

「そうじゃねえだろう。本当に申し訳ないという気持ちがあるなら、即座に退出するのが礼儀だろうが」

 

(あっ、これはダメですね)

 

 交渉ミスに気付くと、命は撤退する道を選んだ。

 マグナ先生お墨付きのカフェ・ボワソン。そこに、二人の友人を招けないことは残念だが、諦めるほかなかった。

 

 ――もし、カフェ・ボワソンの女神が立ち上がらなかった場合、命はそうしていただろう。

 

 バシンと、テーブルに文庫本を叩き付けると、静かな怒りとともに一人の女生徒が立ち上がる。先ほど命が見惚れていた、緑髪の女生徒だ。


 美脚が伸びると、身長170cmほどの高さになったが、大柄という印象は抱かせない。すらりとした、スレンダーなシルエットだった。

 

 カツカツとローファーを鳴らし、騒動の中心へ向かう姿には、一切の気負いも恐怖も見られない。長い足でウォーキングをする彼女は、カフェ・ボワソンの視線を一身に集めた。それは客やウェイトレスに限ったものでない。命に難癖を付けた三人組の視線もだ。

 

「……ぅあ」

 

 三人組は純粋に狼狽していた。口から漏れたのも、声にならない呻き声だった。

 

 緑髪の彼女は、鷹のような目でリーダー格の少女を睨み付ける。

 

「いいご身分だな、ルバート」

「……いや、リッカがいるなんて知らなくて」

「へえ。あたしがいなければ、手前はカフェ・ボワソンで好き勝手できる権利があるのか」

「……悪い」

 

(目付き悪っ! どこの組の文学少女ですか)

 

 三人組のリーダー格――ルバートは蛇に睨まれた蛙だった。


 もはや、これからの逆転劇なんて微塵も期待できない。見ている命が申し訳なさを覚えるほど、どちらが優勢なのかは明らかだった。

 

「なあ、ルバート。食堂棟4階の高さって知ってるか」

「……知らねえよ」

「手前、ちょっと飛んできて測るか?」

 

 リッカと呼ばれた女生徒が、ルバートにとどめを刺した。ルバートを含めた三人の顔は、青ざめている。

 

 カフェ・ボワソンに緊張が走るなか、リッカは薄い笑みを見せた。財布から取り出した500イェン硬貨を親指で弾くと、ルバートに受け取らせた。

 

「冗談だよ。別の場所で茶をしばきな」

「……けっ、今回だけは退いてやるよ」

 

 三人組はカフェ・ボワソンを退店した。

 そうせざるを得なかった。この場の格付けは、すでに済んだ問題だ。カフェ・ボワソンの女神は無敵だった。

 

「ウェイトレスさん、エスプレッソ」

 

 カフェ・ボワソンの女神はそう告げると、自席へと戻る。彼女の勇姿を見た店内には、静かに歓喜の渦が広がった。パチパチと拍手を送る者まで現れる始末だった。

 

 だが女神様は読書をご所望だったので、できるだけ静かにだ。命の胸にも、静かに熱いものが込み上げていた。

 

 これがカフェ・ボワソンの女神こと――ウルシ=リッカと命の出逢いだった。

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