第13話 天翔ける黒髪の乙女
人が住まないアウロイ高地と違い、クリッグ盆地には農業従事者がいる。
彼らは額に汗して畑を耕し、春の作物を収穫していた。緑の葉に包まれたキャベツやブロッコリー、なかには命が見たことがない作物も含まれていた。
「あっ、箒に乗ったお姉さんだ」
大はしゃぎで手を降る子供に、命は手を振り返した。この異郷の地において、箒で空を飛ぶ者はさして珍しくない。
こうやって可愛らしい反応を見せるのも子供だけである。喜び、飛び跳ねる子供の姿には癒やされるが、あまり他人に構う余裕がないのが本音でもある。
(もう風景すらあまり目に入らないですね)
ナタリー城壁を目前に控えた現在、命の一人旅は続いていた。
魔法弾による加速を控え、ただ飛行魔法だけを頼りに飛び続けて、18km地点まで来た。
攻撃魔法にくらべて、飛行魔法は魔力消費量が少ないとはいえ、命の魔力量は着実に目減りし続けている。
(――来る)
風の音が聞こえた。
魔力の匂いを嗅ぐ前に、命は後方から迫る脅威に感付いた。
最後まで一人旅ができればベストだったが、その望みも敢え無く砕けた。
【烏】の式神との使役リンクはとうに切れている。この先、命は【烏】という戦力を欠いた状態で、名家の魔法少女と渡り合うことを余儀なくされた。
「私をコケにした罪は重いわよ、野犬」
ごうごうと唸る風のなか、静かに告げる言葉には怒りが滲む。ナタリー城壁を目前に控え、命はフィロソフィアと合流した。
「随分と苦しそうな顔していますよ。無理せず棄権してはどうでしょう」
「あら、野犬の国には鏡という文化がないのかしら。その言葉そっくりそのままお返ししますわ」
命も顔を取り繕う余裕がないが、それはフィロソフィアも同じだった。
執拗に【烏】から妨害を受けた彼女もまた、先行する命に追いつくために無理な加速を続けてきた。
追い付くと同時に【風の槍】を解除したのも、残存魔力の少なさの現れである。
――屈辱。
余力を考えるという守りの行為は、フィロソフィアにとって屈辱以外の何物でもなかったが、彼女は耐え忍ぶ。
全ては、前を走る命を抜き去るため。
温室でぬくぬくと育った、たかだか一外部進学生に負けるなど、彼女を流れる血は決して許さない。
二人の魔法少女は、お互いの様子を伺いながら並走する。【風の槍】が解除された今、命がフィロソフィアの後ろに付く理由もなかった。
ナタリー城壁の足元に近付くほどに、その灰色の壁は街の景色を覆い隠す。
城壁の上を飛行魔法で通ることは禁止されているため、二人の魔法少女は低空飛行を保ったまま、城門目がけて速度を上げる。
チェックポイントの検問所が、二人の視界に入った。城門前には皮鎧を着た女性が槍を構えていたが、別段検査を受けることもなかった。
彼女は、加速する二人の魔法少女を笑顔で見送る。
「ようこそ、セントフィリア王国へ」
錆びた鋼鉄の門扉に吸い込まれるように、二人の魔法少女が消えた。
順位は再び逆転し、フィロソフィアが先行する。
市街地に突入した現在、両者の距離は僅差。ゴール地点までの距離は、残り2kmを切った。
◆
セントフィリア王国の建築技法は燃やされた。
マグナの言葉通り、そこに広がる街並みは歴史を感じさせた。白を基調としたレンガ造りの建物は薄汚れ、蔦が這う建築が目立つ。改築と修繕で保たれた街並みには、目新しい建造物がなかった。
時が止まったような街並みだが、命はその景色が綺麗だと感じた。これから三年間の生活を送る土地を、好きになれそうだとも思った。
(街なかは、後で時間の許す限りゆっくり見させてもらいます)
建築物が密集した街の道幅は狭い。
建物の間にあるのは、欧州諸国に見られるような小径。そこは、現地人しか行き先を知らない魔法の通路である。散歩大好きの命に、その小径に迷い込んでしまいたいと思わせる、魅惑的な小径がこの街には無数あった。
だが観光は、やるべきことをやってからだ。
命は小径ではなく、道幅の広いメインストリートを突き進む。
ただ道幅が広いとはいえ、雑多な街なかはクリッグ盆地とは勝手が違う。先行するフィロソフィアは、危うく移動販売の花屋に衝突しかけていた。
「ちょっと貴方、気をつけなさい!」
「花なんて、明日にでも全部お買い上げするわ」
「すいません。私も今度買いに行きます」
宙に舞う色とりどりの花びらのなかを、命は苦笑交じりで突っ切った。
続いて見えてきたのは、噴水広場だ。
丸くぽっかりと開いた憩いの場には、ボール遊びに興じる子供たちがいた。その上空を、二人の魔法少女は飛び去っていった。
風に煽られるボールになど見向きもせず、子どもたちははしゃぐ。
子供は素直だ。興奮と憧憬が混じった瞳をぱちくりとさせている。昔、命がテレビの魔法使いに向けていた目と同じものだった。
ここで、ゴール地点までの距離は1kmを切った。
古城じみたセントフィリア女学院の正門は、黒い鋼鉄で編み込まれた芸術品のようだが、あまりに人集りが多くて全貌は見えない。
正門前には、セントフィリア女学院の女生徒が押しかけていた。
空中レースの噂を嗅ぎ付けた人間が、一人また一人と集まった結果だ。ゴール地点を空けるくらいの気遣いはありそうだが、どうやら野次馬根性まで隠すつもりはなさそうである。
入学式前なのに席に付かない一年生から、暇を持て余している三年生まで。多種多様なメンツで構成されたゴール地点は、異様な盛り上がりを見せていた。
「超頑張れー、八坂さん!」
数百m先から聞こえる根木の声援は、命に気力を振り絞らせる。言いたいことは多々あるが、今の命の心には感謝の気持ちしかない。
「走れー、お前が負けたら一文無しだ」
抑揚がないのによく通る、エメロットの声が聞こえた。並走するフィロソフィアが、静かに眉間のシワをピクピクと動かした。
チキチキ魔法少女入学杯は、賭けの対象となっている。その事実が、二人の心に火を付ける。
反りが合わない二人ではあるが、この時ばかりはお互いの思考が一致していた。
(私に賭けなかった人には、死ぬほど後悔させてやる――ッ!)
市街地のデッドヒートは、その溢れんばかりの熱量を引きずったまま、ゴール終盤のラストパートへと雪崩れ込んだ。
「よくやったわね。ここまで付いて来れたことを褒めてあげるわ」
自力で勝るフィロソフィアは依然先行したまま、切り札を行使する。
「けれど、これで終わりよ、野犬――ッ!」
フィロソフィアの前方に【風の壁】が展開する。
【風の槍】とは用途が異なる防御魔法は、今は道幅すべてを塞ぐ障壁と化す。
アウロイ高地の自然城壁、灰色のナタリー城壁。二つ城壁を越えた先、最後に命に立ちはだかった壁は、追い越し禁止のフィロソフィアの風壁だった。
(来たッ――!)
それは、予見通りの展開だった。
アウロイ高地を抜ける際に、フィロソフィアは真横の命を吹き飛ばしたが、一度たりとも後方に向けては突風を吹かせなかった。
ここまで材料が揃えば、ある程度の推理は可能だ。命は十中八九、彼女の切り札を見抜いていた。
臆病者の彼女は、必ず最後は安全策で勝ちにくると賭けていた。
命の反応は早かった。
フィロソフィアが【風の壁】を築くと同時に、黒い靄を半径一メートル級の魔法弾へと整形した。【風の壁】が遮る以上、当然その用途は加速ではない。
そもそも、観衆は命独自の加速方法を知らない。
となると、頭に浮かぶ用途は一つ。純粋な攻撃魔法だけであった。
この娘は、競争相手を後ろから撃ち抜く気だ。その恐怖が、正門前の集団に伝播する。海辺駅カフランの魔法合戦の光景を再現するように、悲鳴を上げた魔法少女は潮のように引いていった。
フィロソフィアの頬を汗が伝う。
脳裏にフラッシュバックする光景と、幾度と無く嗅いだ魔力の匂い。
後方の命の動きが手に取るようにわかる。また、あの黒い魔法弾をリロードしたのだと。
加速目的を除くと、空中レースで二度目となる黒い魔法弾。
一度目にアウロイ高地で放った一発は鳥をけしかけるためであり、その裏の目的には【烏】の媒体である羽を手に入れる目的があった。
そして――その裏の目的の奥には、更なる保険があった。
森の鳥類を刺激したとき、命がリスク覚悟でフィロソフィアの足元を狙い撃ったのは、相手の反応をつぶさに観察するため。ふざけた技名を叫んだ理由も、臆病者の反応を良くするための演技であった。
全ては――このときの仕掛けのため。
(もっとも、使わないに越したことはありませんでしたが)
事前の調べで、フィロソフィアが黒い魔法弾に怯えるのは確認済みだ。ゴール前で彼女を確実に怯えさせる自信が、命にはあった。
一秒にも満たないわずかな時間、フィロソフィア身体は硬直する。その隙があれば十分だった。
黒い魔法弾が上空へ射出されると同時、
「――えっ」
絶えず安定飛行を続けていた、フィロソフィアの体勢がブレた。
わずかに減速した彼女の空間座標を捉え、命が最後に発動した魔法――物を動かす魔法が、彼女のバランスを崩していた。
一度は空中で耐えたものの、勢いは止まらない。
フィロソフィアの身体は樫の杖から離れ、ゴール地点を過ぎても、彼女の身体は上空に放り出されたまま止まらなかった。
「退いて下さい――ッ!」
次いでゴール地点を突っ切った命は、減速することなく正門通りを駆け抜けた。黒い魔法弾で散らしたギャラリーの穴に飛び込み、空に投げ出されたフィロソフィアを空中で捕まえる。
両手にかかる重みが、不安定な身体を揺らす。巻き添えになる寸前まで身体は大きく揺れたが、命の最後の意地が転倒を拒んだ。
その意地は、最後ぐらいは格好良く締めたいという意地だ。
徐々に減速した命は、ゴール地点より百m程離れた敷地内でに着地。腕のなかで怯えて丸まるフィロソフィアに、命は微笑んでみせた。
「貴方のお城にご到着ですよ。お姫様」
肩を震わせたフィロソフィアの顔を、屈辱と恥辱が赤く染めていく。
先にセントフィリア女学院の門を潜ったのはフィロソフィアだが、ゴール条件は敷地内に足を踏み入れることである。
お姫様抱っこされたフィロソフィアは、まだその足を敷地内に踏み入れてはいなかった。
その事実に気付くと、観衆か遅れて沸き立った。フィロソフィアの大量の賭け札が空を舞うなか、チキチキ魔法少女入学杯の栄光は命の頭上に輝いた。
それは、後にセントフィリア女学院で語り継がれることになる、黒髪の乙女伝説の一ページ目を飾る出来事だった。




