第12話 青空を揺れるシーソー
セントフィリアが誇る自然の防壁――アウロイ高地は、王国を取り巻く山々を、魔法少女アウロイが円状に整形したものである。
その一部でもあるユーステス山は、標高1628mを誇る緑の壁として、命たちの行く手にそびえていた。
目前に控える第一の関門を前にし、命はルールに則って高度を低く保つ。
山並みに沿って斜め上に上がるルートは、下手に浮上して山野から吹き返す海陸風を受けるよりも速度が乗った。
(スタートダッシュは好調――ッ!)
海から背中へ吹く海陸風を味方に付けて、命は軽快に加速する。
命の飛行魔法の最大速度は、時速50kmに迫る。
過去の空中散歩で記録した最大速度と比べても、遜色ない出来だ。
この会心の出来に、命は唇の端を上げ――その横にフィロソフィアが並んだ。
「さようなら。一生私の背中でも見ていなさい」
別れの言葉とともに、フィロソフィアは一息の間に命を抜き去った。
その瞬間、命は思い違いに気付いた。
単純な戦闘にくらべて、競争の方が分が良い。
攻撃魔法を一種類しか持たない命にとって、その考えは間違いではなかった。
ただ間違いだったのは、さして勝率が上がらないという点だった。
フィロソフィアの前方には、空気を切り裂く【風の槍】が展開されている。攻撃魔法の一種ではあるが、相手を傷つけないためルールに抵触することはない。
その用途は、空気抵抗の軽減。
速度を出す乗り物は、必ず空気の壁に衝突する。新幹線が流線型なのも、空気抵抗を減らすための工夫だ。
当然命も身を伏せる形で空気抵抗を減らしているが、フィロソフィアのそれとの差は歴然である。
【風の槍】を用いた彼女の最大速度は、時速60kmを上回っていた。
(不味い。ここで逃せば――)
最悪の想像が、命の脳裏を掠めた。
アウロイ高地を下る頃には、フィロソフィアを見失う。続くクリッグ盆地は、起伏が少ない直線の地形である。速度が劣る命は、ここで決定的な距離を空けられることになる。
フィロソフィアの発言通り、背中を終える状況ならまだマシだ。レース序盤にして、彼女の背中を二度と拝めない可能性が浮上してきた。
(ああ、そうか。背中を拝めれば良いのか)
そう決断してからの、命の行動は早かった。
一呼吸すると同時に、魔力を黒い靄へと変換する。
整形された半径1メートル級の黒い魔法弾は、海辺駅カフランでフィロソフィアに射出したものと同種だが、発動箇所が異なった。
黒い球体は、命の箒の穂先に付いていた。
フィロソフィアと魔法を衝突させた瞬間に吹き荒れた風。あれがヒントになり、命を行動させた。
固形の魔力が相殺されたとき、衝撃波になるのであれば。
(意図的に推進力に変えられる筈)
命は、黒の魔力弾を箒の後方で爆発させる。
派生した衝撃波は、加速などというお行儀の良いものではなかった。
無理やり推進力に変えられた爆風に煽られ、命は空中を前転する。
「ひゃっ!」
空の青と、アウロイ高地の緑が視界を回転する。
制御が利かない箒を力尽くで抑えこみ、命は態勢を立て直した。
(予想以上に危ない――ッ! 危うくアウロイ高地の肥料になるところでした)
リスクを孕んだ加速方法ではあったが、危うい賭けに買ったリターンは大きい。
「さようなら、なんて寂しいこと言わないで下さいよ」
「――なっ! この野犬ふざけた加速を」
「空気抵抗無効よりは、マシでしょう」
命は、先行するフィロソフィアの後方に付いた。
彼女にすれば、突如ワープでもされた気分だろう。これをチャンスと見るや、命は揺さぶりをかけた。
「それじゃあ、行きますよ」
命の宣言に合わせて、フィロソフィアは身構える。
後方からの妨害はルールの内だ。この空中レースは一概に先行する者が必ず有利とはいえない。フィロソフィアも、そのことは重々承知している。
「…………」
無言での並走が、アウロイ高地の頂上付近まで続いた。命のあくび声が聞こえると、前方のフィロソフィアは痺れを切らして叫んだ。
「何も起こらないじゃないですか――ッ!」
「そうですかねえ。すでに何かが起こっていると考えるべきでは」
「ハッタリですわ。野犬の浅知恵もここまでですわ」
このとき、命には二つの選択肢があった。何が起きているか説明するか、あるいは説明しないのか。
命は普段であれば、無言で後者を選択する。
子供向けの番組で、悪役はなぜヒーローの変身中に攻撃をしないのか。命は幼少時から、そこを疑問視するような子供だった。
ヒーローは、敵前で変身する必要はない。
必殺技をご丁寧に説明して、鈍らにする必要もない。男の浪漫を全否定するタイプの現実主義者だ。
だが、今回はあえて説明することを選んだ。
「私はただ、この場所にいれば良いのですよ。ここは、貴方が向かい風を切り裂く恩恵をタダで受け取れる場所ですからねえ」
「――なっ!この卑怯者」
「野犬にプライドを求めるのは、無理がありますよ。何なら譲ってあげましょうか。私の後ろ」
「ふざけるんじゃないわ! 最初に言ったはずよ、貴方は最初から最後まで私の背中を眺めていなさい」
命の目論見通り、フィロソフィアはプライド故に後ろに付けない。
鼻から完全勝利しか頭にないから、最後に勝てば良いと割り切れない。
その隙は、命を勝利に近づける隙だ。
(まずは後方の位置取り封鎖と。さてと、もうひと揺すりしておきますか)
「そうですか。それでは、お詫びに良いことを教えてあげます」
「結構ですわ。聞きたくありません」
「では勝手に語りますが――貴方は、私を引き離せませんよ」
高圧的な口調のまま、命は演技を続ける。
「気付いているのでしょう。私と貴方の距離が離れないこと」
「――ッ!」
「空気抵抗の差が無くても勝てるなんて、幻想ですよ」
命が言い当てたのは、フィロソフィアが抱えていた不安だった。
アウロイ高地頂上付近に至るまで、彼女と命の距離は離れない。それは、飛行魔法の速度が同等であることを意味する。
(――なんて思ってくれていると、助かりますねえ)
命の箒の穂先には、隠れるように黒い魔法弾がある。定期的にサイズ調整したそれを爆発させ、小加速を定期的に繰り返す。
この作業を行って初めて、命はフィロソフィアの速度に並んでいた。
(恐らく私のこれは、そう長い時間は保たないでしょうけど)
「貴方の空気抵抗無効は、どこまで保ちますかねえ。それが解かれて、純粋な速さ比べになったときが楽しみですね。一体どちらが上なのか」
命は、フィロソフィアを揺さぶれる相手だと踏んだ。だから、あえて説明をすることにした。真相を隠すより、虚実織り交ぜながら語ることを選んだ。
「勝てるなんて、その言葉ふざけていますわね。勝者は常にフィロソフィア。勝利の栄光は常に私の頭上! 生まれつきそう決まっていますわ!」
アウロイ高地の頂を超えると、フィロソフィアは一気にダウンヒルの態勢へと移行した。更に速度を増す彼女の背中に、命は必死に張り付く。
黒い魔法弾を用いた小加速の頻度は増し、どんどん命の残存魔力は削れていく。
我慢を強いられる展開が続くが、命も多少の無理を承知で魔力を消費するほかない。
【風の槍】を抜きにしても速度が劣ると分かった以上、今は何が何でも喰らいつくしかなかった。
(あと少し、もう少しだ)
高度が低下するのは待ち続けた命は、アウロイ高地の木々の隙間から、煌めく無数の瞳を見つけた。
事前に練り込んでいた魔力を、命は黒い魔法弾に整形する。
「今だ、黒い魔法弾――ッ!」
掛け声にフィロソフィアは背筋を震わせたが、背中を撃たれることはなかった。
手のひら大の黒い魔法弾はフィロソフィアの足元、アウロイ高地へと消えていく。
があがあと生き物の声が上がると、アウロイ高地から数十羽の鳥が飛び上がった。足元から飛び上がった無数の鳥は、フィロソフィアの進行方向の邪魔となった。
「ちょ――ッ、何ですの。離れなさい!」
「それでは、さようなら」
足が止まるフィロソフィアの横を、命が抜きにかかった。
瞬間、空気の壁が命に衝突した。
【突風】――フィロソフィアの持つ最大の妨害魔法が、数十羽の鳥ごと命を薙ぎ払った。
「野犬が、誰の許可を得て先に行きますの」
第一関門、アウロイ高地の下山を間近に控えた現在、二人の順位に変動はない。
空中レースは、まだ始まったばかりである。
◆
アウロイ高地を過ぎれば第二関門、クリッグ盆地が広がっていた。正確には、ここは関門と言えるほどの難易度はない。
長閑な盆地が続く道のりは、特別な飛行技術を必要としない。純粋な飛行速度がものを言う、レース中でもっとも長い道のりである。
アウロイ高地を下った二人の魔法少女は、もつれるようにクリッグ盆地へ突入した。
「よくもやってくれましたわね。鳥をけしかけるなんて」
「鳥がお好きと思ったのですが、嫌いでしたか」
「好きよ。野犬に比べれば余ほど――ねっ!」
地を這う高さまで高度を落とすと、フィロソフィアは樫の杖を加速させる。
平坦なクリッグ盆地を自分の領域と踏み、樫の杖に負荷をかけた。
(やはり、加速方法を隠していましたか)
命の箒加速方法はアイディアであり、純粋な飛行魔法の速度上昇方法ではない。
正しい加速は、箒もしくは杖に更に魔力を練り込むものだが、命にはその魔力を上乗せする感覚が掴めていなかった。
じりじりと距離を離し始めるフィロソフィア相手に、命は少ない手札から次のカードを切らざるを得なくなった。
(那須さん、お株を借りますよ)
命の手に握られていたのは、先ほどけしかけた鳥の羽根だ。突風で煽ってもらったおかげで、労せず大量に舞う羽の一枚を手に入れることができた。
那須は命の説明を聞いて、知らない魔法の行使に成功していた。お互いの力量に開きが無ければ、逆の真似が可能であると、命は希望的観測ながらも、そう考えていた。
――あの……私は烏も出せますよ。
手に握られた鳥の羽を媒介に、命はカラスの心象図を描いていく。
全身黒ずくめの空のハイエナが具現化していく。太い嘴から黒い瞳、そして黒い翼が命の前で象られていく。
「やった、できた。けど……あんまり格好良くないですねえ」
命の式神は、都心の迷惑者であるハシブトガラスに似ていた。日本国内で一番遭遇するカラスをそのまま持ってきた形である。
手品師のハットから鳩でなく、カラスを出した気分に陥る。
「おいおい、ご主人様そりゃあないぜ」
「それでは、できるところは結果で語ってもらいましょうか」
「オーケイベイベー。名も無きカラスが空を往くぜ」
カラスが喋ったという衝撃は、今さらない。
あれは野生のカラスではなくて、式神の【烏】である。【犬】の式神とも話したことがある命にとっては、特に気にならない。
ただひとつ気になることがあるとすれば、それは式神の性格。これだけは、何を基準に決まるのが謎だった。
(難破なカラスに、武士のお犬様……実に謎ですねえ)
「きゃあ! またもや鳥が。本当に何なんですの」
数百m前方から聞こえた叫び声は、【烏】が早々に仕事をした証拠だ。
通常ハシブトガラスの飛行速度は時速40km以下だが、式神の【烏】の飛行速度は時速90kmに迫る。犬の式神がチーターのように走る様も見ているため、命は式神の能力向上については、よく知っていた。
目に見えて速度が落ちたフィロソフィアを捉え、命は並走する。
「鳥がお嫌いでないと聞いたもので。可愛がって下さいね」
「待ちなさい。これを引き剥がしなさい!」
フィロソフィアは【突風】を吹かせようとしたものの、羽根を広げた烏の妨害で、あえなく魔法は発動しなかった。
魔法の源は魔力だが、それを行使するには精神力が大きく関わる。
カラスが付き纏い、かあかあ鳴くような状況では、フィロソフィアは容易に【突風】を吹かすことができない。そして、乱れた精神は飛行魔法の速度にも影響を及ぼした。
カラスの進路妨害に加えて、低下した飛行速度。この千載一遇のチャンスを、見逃すわけがない。
「それではお先に。セントフィリア女学院でフィロソフィアさんは鳥好きだと、広めておきますね」
極上の笑顔を見せてから、命は振り向くことはなかった。二人の距離は一気に開いていき、後ろでキャンキャン吠えていたフィロソフィアの叫び声も、やがて遠ざかった。
膠着状態が続いた空中レースで、初めて大きく勝負が動く。
フィロソフィアが見えない距離まで先行すると、命は大きく息を吐いて、安心して苦悶の表情を浮かべられた。
(何だか、頭が痛くなってきましたねえ)
一見すると、戦況は命の独走状態だが違う。
距離を空けるために払った代償は大きく、予想以上に魔力は削られた。
【烏】の式神も、本来であればクリッグ盆地の終盤で使用する予定だった。
フィロソフィアの速度は、命の想像以上だった。
要所要所で使った黒い魔法弾による加速は、容赦なく命の残存魔力を奪っていく結果となった。
慣れない【烏】の式神も加わり、命の魔力は自身が体験したことがない未知の領域まで低下している。
(体感で残り20%以下といったところでしょうか)
全身はダルくて、鉛のように重い。
呼吸は荒くなり、酸素を吸い込むのが辛い。
頭には、稲妻のような頭痛が走る。
命は低空飛行のまま、道端の石を拾う。
頭には【烏】を浮かべて魔力を込めるのも、反応はない。
すでに式神を出しているからではない。
今の命が、媒体を選べないのが原因である。
慣れた【犬】の式神であれば、媒体は石でも構わない。だが【烏】の場合は勝手が違う。即興で行った不慣れの式神だ。
烏または鳥類を象徴する媒体がなければ、命は烏を使役できない。
(しくりました。無理にでも、もう何枚か回収すべきでした)
事実上切り札を一枚失ったこと加えて、もう一つの不安要素がある。
式神は使役者と距離が一定以上離れると、煙のように消え去る。それを事前に【犬】の式神で実験していた命は知っていた。
使役の限界距離は不明ではあるが、【烏】が消えた瞬間、フィロソフィアは間違いなく速度を上げる。【風の槍】で空気抵抗を無視して追いかけて来る。
(さーて、どこまで逃げ切れますかねえ)
10km地点にして、命の魔力には底が見え始めた。爆弾を抱えた状態で、命はクリッグ盆地を先行する。




