第112話 失せ人の行方
ぴしゃりと窓を閉める。換気をすれば多少気分も変わるかと思ったが、温い空気がじとじとと肌にまとわりつき、湿気に敏感な水の魔法少女の神経を逆なでするだけであった。
「で、お前らはのこのこと帰ってきたと?」
エゾの話を全て聞き終えると、イルゼは苛立ちを含んだ声でそう言った。
返事はない。
事態を重く受け止めているからこそ、唇が重いのだろう。言い訳をしない姿勢は立派だし、その真摯さを否定するつもりはない。
ただ、どうしてだろう。その正しさすらも今は苛立ちを誘う。エゾの頬でも叩けば、この気分は晴れるのだろうか?
暴力的な考えが頭をかすめるも、理性が歯止めをかけた。仲間内で暴力を働けば、碌なことにならないことは目に見えていた。それに怒りに任せて暴力を振るったところで、この気分が晴れやしないことは、イルゼにもわかっていた。
じめじめとしている。何日も何日もじめじめとしている。
雨が降っている。何日も何日も雨が降っている。
ざあざあ……ざあざあ、雨音が頭のなかで何度も何度もリフレインしている。
がりがりと頭を掻いた。
手入れが行き届いていないオールバックの髪は以前よりも傷み、眼光も日に日に鋭さを増していく。イルゼにその気がなくとも、周囲を威圧するようなものがあった。
三人の間に沈黙が降りる。何も語らない雨音が続くなか、最初に口を開いたのはシカコだった。真っ先に沈黙に耐えきれなくなったともいえる。
「エ、エゾのことを責めないで。悪いのは……八割方、私だから」
イルゼは返答に詰まった。シカコの友達を想う気持ちに胸を打たれたからではない。この期に及んで二割の責任を転嫁する、シカコの神経の図太さに言葉を失ったのだ。
ふう、と。一呼吸置いてからイルゼは聞いた。
「……残りの二割はどこに行った」
「えっ、シルスターじゃね? 悪いの」
(この女すげえな……)
もはや『すげえ』以外の形容が思い浮かばない。呆れを通り越して尊敬の念すら覚える。申し訳なさそうに目を伏せるエゾには、同情の念を禁じ得なかったが。
「そうだな。間違っちゃねーかもな、お前の言うことも」
その馬鹿さ加減は嫌いじゃない。喉の奥がくつくつと鳴っていることに、イルゼは少し遅れてから気付いた。
「だしょー!」
シカコが得意げな顔を寄せてくると、イルゼはすかさず脳天チョップをくれてやった。
「ぐああああああああああ――ッ!」
シカコは頭を抱えたまま床を転げる。
「調子に乗るな」
「痛っ! いったー! これ絶対IQ110ぐらいまで落ちたよー!」
「上がってんじゃねーか」
「え、マジ!」
……ダメだ、この女。エゾの手を借りて起き上がっているところまで含めて、ダメだ。怒る気も削がれてしまい、イルゼはため息をこぼした。
「元よりシルスターとフィロソフィアは敵対してた。この一件が無くたって、フィロソフィアが敵側に回る可能性は高かった。なあ、そうだよな、エゾ」
「……そうだね」
それは論理立てた說明というよりも、自分を納得させるための言い訳だった。エゾに同意を求めたのも、ただ後押しが欲しかったからである。
……わかっている。自分がやろうとしていることが間違いであることは。
だが、いつも正しいことだけがまかり通る訳ではない。
人を苛立たせる正論よりも、人を惑わす邪論の方が通るときもある。
これもまた自己弁護であろうが。イルゼはちっと舌打ちをした。
「ならいいだろ。あんなの仲間に引き入れたところで、どうせ問題を起こすのがオチだ」
「それな。無能な味方はデキる敵より恐ろしいかんね」とシカコ。
それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?
思うところは多々あったが、多々ありすぎてイルゼは何も言えなかった。エゾはあいも変わらず真顔だが、その顔にはどこか申し訳なさが滲んでいるようにも見えた。
……本当に調子が狂う。イルゼは心のなかでため息をついた。もう家のベッドでごろごろしながらファッション誌でも読み漁りたい気分だったが、そうもいかない。イルゼは事務的にエゾに尋ねた。
「終わったことはもういい。それで、敵の動向はちゃんと掴んでんだよな?」
「それは大丈夫。今日も演舞場にいるみたい」
「……演舞場」
「うん。昨日、予約を取ってたことも確認済み」
イルゼは顎に手を添えて考える。友達ゲームを間近に控えたこの時期に、二日も続けて演舞場に足を運ぶことに何の意味がある?
「また、バレーかな」とシカコ。
イルゼは無視した。
「……何か仕掛けてくるかもな」
「どうして?」
「昨日が下見だとしたら、今日何かしてきてもおかしくないだろ」
嘘か真か。命はシルスターとのコートマッチで床にワックスを撒いたなんて噂もある。それに――。
「会場に何か仕掛けるのは、ルールに抵触しない」
シルスターがあまりに人のことをバカ呼ばわりするものだから、イルゼは穴があくほど友達ゲームの契約書を読み込んでいた。
「何かって?」
「そこまでわかるかよ。私がわかるのは、あいつらが何か仕掛けてきそうだってことと、その場合の対処だけだ」
そうさらりと言えるのはイルゼが変化した証だろう。シルスター陣営の全権を委ねられたことは、良くも悪くも彼女を変えた。本人の望む望まないにかかわらず、だ。
友達ゲームが始まってから、根木と命相手に五分以上に立ち回っていたのは、シルスターではない。ほかでもないイルゼ其の人だった。
「監視、一人だったよな」
「うん」
「もう一人増やしといてくれ。ごねたら、シルスターの名前で脅していい」
「あいあいさー!」
調子の良い返事をすると、シカコは嬉々として通話用の魔法石を取り出した。脅迫と恐喝は、人が当たり前のように備えている良心をどこかで落としてきたシカコの十八番である。彼女がシルスターの威を借れば、ものの一分もかからず話が付くだろう。
要は適材適所なのだ。『誰が』を変えることは難しいが、『誰に何をさせるか』を変えることはできる。
その役割を考えること、与えることこそが、自分の果たすべき役割なのだとイルゼは自覚するようになってきた。
「いいか、絶対に目ぇ切んなよ。あいつらが外に出たら、速攻でガサに入れ。こっちに不利益なもんがあったら秒で捨てろ。逆に利用できそうなもんがあったら徹底的に利用しろ!」
イルゼの指示は洗練されているとは言い難いが、悪くない線をいっていた。だからこそ、尚のこと惜しまれる。
(……ああ)
あと五分、いやあと三分早くこの指示を出せなかったことを、イルゼは悔いた。
不意に教室の扉が開く。
扉の前に佇む女生徒の顔は僅かに青ざめていて、視線を宙に泳がせている。
その感情が伝播したのか、エゾの顔にも青みが帯びていった。
シルスター陣営の取りまとめとして何十、何百と報告を受けてきたイルゼには直ぐにわかってしまった。
彼女がこの後口にするであろう報告は良くないもので、彼女が根木と命を監視していた見張りであるということは。
「…………報告が、あります」
扉の前で突っ立っていても意味がないことを悟ったのだろう。女生徒は意を決し、震える声で話し出した。
「八坂命、根木茜……両名の……両名の、行方を見失いました」
「……そうか」
イルゼは淡々と報告を受けながら考えを巡らせる。
演舞場に固執したことが間違いだった。演舞場は友達ゲームの会場である。そこに二度も足を運ぶということには、必ず何か意味がある。そう思い込ませること自体が、命の目的だったのだろう。
尾行が用をなすパターンは大きく分けて二つある。
一つは、尾行そのものに尾行対象が気付いていない場合。
これが最善のケースだが、尾行対象に全く気付かれず、かつ尾行対象と全く面識がない人物なんてそうはいない。それこそ存在感皆無で誰にも気付かれない人物でもいない限り、成立しないだろう。
だからこそ、尾行を生業とする探偵という職業が成り立つのだ。
事実、命も友達ゲームの早い段階で、つけられることに気づいた。シルスターの手下の尾行がお粗末だということもあるし、命がもっとたちの悪いストーカー被害を受けた経験も活きた(14歳の可愛い男の子にしか興奮できない露出狂とか、自称アストラル界からやってきた前前前世の恋人とか、挙げれば切りがない)。
かくして尾行を見破られたことで、シルスター陣営の命たちに対する尾行は次善のケースに移行した。
たとえ命たちに気付かれていようが、お構いなしに尾行をつけるようになったのだ。
これがストーカー被害であれば訴えれば済む話だが、学校内における学生同士の諍いの場合はそうもいかない。
命たちはつけられていることを知っていながらも黙認するしかなかったし、イルゼたちも命たちの動向が掴めるのであればそれで良しとした。
無論、命もやられっぱなしは腹が立つのでエージェント山田を送り込んで、スパイ合戦に乗り出した。
ときに誤報を流し、ときに心理戦を仕掛け、水面下では激しい情報線が繰り広げられた。だがそれは水面下の話であり、決して表にまで影響が及ぶことはなかった。
表向きは穏やかなもので、相互監視はこのまま続くものかと思われたところで、命たちは監視の目を外しにかかった。
尾行そのものに気づいていなければ為す術もないが、つけられていること自体を知っていれば尾行を外す方法は幾つかある。
「大方、裏口から逃げられたってところか」
問われた女生徒は肩をすぼめながら「はい」とだけ答えた。
やはりか。イルゼは得心する。
幾らお構いなしに尾行をするにしたって限度がある。たとえば、命と根木しかいないだだっ広い空間に尾行者が入ってくれば、それは明らかにおかしい。
命たちだって睨みを利かすし、場合によっては実力行使で尾行者を排除しにかかるかもしれない。
そういった空間を意図的に作り出すために、命は演舞場のワンフロアを借りたのだろう。案の定、尾行者は二の足を踏み、命の目論見通り演舞場の表玄関で待機してしまった。このとき尾行者の頭がもう少し回れば裏口の存在に気づけたかもしれないが、残念ながらそうはならなかった。
(……惜しいな)
読みそのものは外れたが、監視を増やすという考え自体は間違っていなかった。先んじて手を打っていれば裏口までカバーできていたかもしれないが、それは結果論に過ぎない。後からなら何とでも言えるのだ。後からなら。
ふう、とイルゼは嘆息する。その吐息に何がのっていたかはわからないが、おいそれと口を挟めないことはその場にいる誰もが理解していた。
こちらの失策でフィロソフィアが敵陣に回ったであろうこと。命と根木が姿をくらましたこと。この二つの悪報を、イルゼはシルスターに上げなければいけないのだ。罵詈雑言を浴びせられる程度ならまだ甘い。暴行を加えられることも覚悟しなくてはいけない。
その悪報を作り出した者をイルゼが許すはずがない。死なばもろともではないが、痛みを分かち合うようにこの場にいる者たちに制裁を加えるだろう。
どうして私が! お前らのせいで――ッ!
黒い炎に焼かれるままに人格を否定する言葉を吐き出し、水の魔法で暴行に及ぶに違いない――その場にいる誰もが、そう思っていた。
「お疲れ」
だから、エゾとシカコ、監視の女生徒を含めた三人は、初めイルゼの言葉をすんなりと飲み込めなかった。おつかれ? それはどこの惑星の言葉だろうとすら思っていた。
「お前ら疲れてんだよ。だから今日はもうウチ帰って寝ろよ。あとは私が片しとくから」
それは優しくて、どこか諦観の漂う言葉だった。
「……いいの? 今からでも二人を探した方が――」
「ぶわぁーか。どこ探すってんだよ。私たちが探して直ぐ見つかるような場所なら、尾行撒く必要ねーだろうが」
エゾはイルゼが自棄になっているのかと思ったが、そうではなかった。
「今日は私たちが出し抜かれた。ただ、それだけの話だ。こんなところで局地的に勝とうが負けようが、大局には影響しねーよ」
自棄になるどころか、イルゼは非常に冷静で理性的であった。一度監視の目を外されこそしたが、命たちの情報は概ね押さえている。大局的に見ればこちらが圧倒的優位にあることをイルゼは把握していたし、同じくそれを把握しているエゾにも目で同意を求めた。
「失敗を取り戻そうなんて下手な色気だされて、もっと致命的な失敗してみろ。それこそ目も当てらんねー。これ以上は私も庇いきれねーからな。つーか、そんときは私が先にキレっから!」
「ほれ、帰った帰った」と。イルゼは野良犬でも追い払うように手を振った。
「…………」
恐らくイルゼはシルスターに報告を上げるつもりがないのだろう。本日も戦前に異常なしとか、自軍が圧倒的優位にあるといった、ポジティブな報告だけで済ますに違いない。だがそれを否定する気はエゾにはなかった。
揉み消しという行為は悪いイメージだけが先行しがちだが、手段として有利に働くときもある。
シルスターのご機嫌を取りつつ、手足となるエゾやシカコのモチベーションを保ちつつ、もちろん自分も守りつつ、大局的に勝利を収める。
イルゼはこの場にいる誰よりも打算にまみれていて、冷めていた。
「…………っ!」
だからこそ――――ゾッとする。
その冷静さが危うさから来るものではないかと、喜怒哀楽を無くし心を壊す寸前の人間のそれではないかと勘ぐってしまう。
帰り支度を済ませ何となしに振り返った先にいたイルゼの顔から、エゾは目を離せない。顔のない少女が、インテリアみたいに佇んでいた。
「……んだよ」
その苛立ち混じりの声すらも作りものではないかと疑ってしまう。海は青く塗るものと、そんな安易さで色を塗ったような声音だ。
これが青である内はまだ良い。
だが。
もしも。
彼女が海を赤で塗り始めたら――。
「エーゾっ! 何してんのー。早くかーえろっと」
思考を遮るように、シカコがエゾを急かす。一切の迷いなく帰り支度を済ませた彼女は、早く自宅に帰りたくていそいそしているようだった。
「ひっさびさの休みだよー。イルゼの気が変わらない内に早く帰って、ゴロゴロしようよー」
「ほれ、連れもああ言ってんぞ。さっさとあのIQ70の猿、連れて帰れよ」
「低すぎいいいぃぃ――ッ! 私、IQ90はあるんですけどー!」
「順当に下がってんじゃねーか」
イルゼにしっしっと手を払われてから、ようやくエゾも帰り支度を済ませた。シカコと肩を並べて教室の扉の前に立つ。イルゼを一人残して先に帰っていいものか。多少の後ろめたさはあったが、彼女の好意を無碍にもできず帰るとした。
扉を閉める直前、エゾはもう一度だけイルゼの顔を見る。そこには、妙な人間がいた。木の洞のように奥を覗けぬ顔をしているのに、目だけが獣のように光っている。イルゼは身じろぎ一つせず虚空を見つめ、ただ雨音に耳を澄ませていた。
わからない。エゾには、イルゼの本心がどこにあるか。
一見して空っぽのようだが、内に黒く煮えたぎるものがあるようにも見える。
エゾは固まっていた腕を動かし、静かに扉を閉めた。自分にできることなど何一つありはしないという諦観があった。
エゾの心の在り処もだが、命たちの所在すらもわからない。前からずっとそうだ。私は見失ってばかりいる。シルスターの姿も見失い、今や影も形も掴めない。
何がどこにあるのか、本当にわからなかった。
「どったの? 暗い顔して」
シカコに声をかけられて、エゾはようやく我に返った。「大丈夫」と唇は機械的に動いた。上手く微笑えた自信はなかった。
◆
うわっ、という驚きの声で目が覚めた。すわ奇襲かと命は寝ぼけ眼で身構えたが、それは徒労に終わる。
運転手を除けば、根木と命しかいないバスのなかに敵が現れる訳がなかった。
隣に座る根木は車窓にべったりと頬をくっつけていたが、命が起きた気配を察して振り返っていた。
「大変っ! 大変だよ命ちゃん!」
「どうしたのですか、急に」
「あのね、外に変な人がいたの」
「変な人ですか」
命は抑揚のない声で言った。変な人は山ほど見てきたので、あまり動じなくなってきたのかもしれない。命の変人番付には相当の猛者が名を連ねている。大抵の変人では驚かない自信があった。
「変とは、どれぐらい?」
「へんな生き物ずかんに登録されてもおかしくないぐらい!」
「ううん……へんな生き物ずかんですか」
これはなかなかの猛者かもしれない。しかし根木が大袈裟に言っている可能性もある。命が訝しむと根木は直ぐさままくしたてた。
「ホントだって! だってこの雨のなか、逆立ちで歩いてたんだよ。足も雪男みたいに白くて! しかも口にはトースト咥えてたんだよ!」
「……何ですか、その珍種は」
曲がり角でぶつかっても絶対に恋に落ちない人種なのは間違いない。命は窓に向かって身を乗り出す。長い黒髪が鼻に触れたようで、根木がくすぐったそうに声を漏らした。
「あっ、失礼」
「大丈夫、いい匂いだから!」
何が大丈夫なのかわからないが、根木が自信満々に答えた。命は臭いよりマシかとポジティブに考え窓の外へと目を向けた。
ヴァレリアの街中は雨にけぶっている。ぽつりぽつりと傘を差す人はいたが、件の人物は見当たらなかった。とうに離れてしまったのかもしれない。命は身を引いて自席に戻った。
「うー、本当にいたのに」
「わかっていますよ。本当にいたのでしょう」
「うん……起こしちゃってごめんね。気持ち良さそうに寝てたのに」
根木に申し訳なさそうに見つめられ、命は微笑んだ。
「気にしないでください。もう少しで目的地でしょう」
命は僅かに乱れた髪を整え、首を左右に曲げた。疲れがたまっているのだろう。知らずの内に眠りこけてしまった。女装潜入している身としては些か不用心であったが、それも仕方がないといえる。
友達ゲーム開催まであと幾ばくもない。根木と行動を共にしていない間も、命は情報収集にあたっていた。その日暮らしを送っている命はアルバイトだっておろそかにする訳にはいかない。
朝昼は根木と友達を作ることを最優先にしつつ学業にも打ち込み、夜はカフェ・ボワソンのアルバイトに精を出した。収集した情報の分析するのはそれからのことで、ときには一睡もせずに朝を迎えることもあった。
友達ゲーム開催までに設けられた期間は、セントフィリア女学院の治安を緩やかに回復させると同時に、参加者を疲弊させつつあった。
命だけではない。シルスター陣営の動向を見張っている山田や昼夜根木の友達の警護に当たっている紅花の疲労は相当なものだろう。
二人とも強情なので疲れたとは口が裂けても言わないが、顔を合わせる度に疲労の気配が色濃くなってきていることがよくわかった。
それが根木の陣営に限ったことでないことも、山田の報告から知れている。敵も味方も例外なく疲弊していた。皆、泥のような疲れに腰まで浸かっている。
だが、そのような状況下だからこそ輝きを放つ者もいる。
その筆頭は間違いなく根木だろう、と命は思っていた。
根木の心身の強さは異常である。命は初め彼女のことをただのお気楽な女子高生だと思っていたが、それはとんでもない勘違いであった。
不死身の身体でも持っているのかとすら思う。命は根木の隣にいる機会が増えたが、彼女が疲労の気配を漂わせたことは一度としてなく、心は常に笑っていた。
一度、命はそれとなく友達ゲームのことを聞いてみたが、根木の答えはただ一言「楽しい!」だった。
思えば根木は、【階層工事】で地下42階に飛ばされたときですら、笑みを絶やさなかった。
この時点で気付くべきだったのだ。
彼女は日常の象徴にして、日常に潜む怪物である。コミュ力モンスターなだけでなく、体力モンスターであり、メンタルモンスターでもあった。
そうでもなければ、友達ゲームも大詰めというこの時期に、こんなことをしようなんて思い付きもしないだろう。
プシューッと炭酸が抜けるような音とともに旧型のモノコックバスが停まる。
停留所の名前は、ヴァレリア診療所前。先日、命もお世話になったあの女医がいる診療所である。
まさかシルスターたちも、根木と命が診療所にいるとは思わないだろう。
栄子ちゃん(旧名:女生徒A)のお見舞いに行こう! なんて根木が言い出さなければ、命もここには足を運ばなかっただろう。
今は一人でも多くの友達を集めないといけない時期だというのに悠長なことだ、と思う。でも、そんな根木の友達想いなところが命は好きだった。
根木が友達ゲームなんてうってつけの勝負で負けるはずがない。命はバスを降りると気を引き締めた。
たとえ自分が途中棄権するようなことがあろうと、根木だけは守らなくてはいけない。
命の表情が微かに強張っていることに、根木は気づいたようだった。
「どうしたの、命ちゃん。緊張してる?」
「ええ。これまでのことをエリちゃん先生に話したら、大目玉食らいそうだなと思って」
「そっか、エリちゃん先生のとこにも顔出さないとね」
嘘である。入院している副担任――エリツキー=シフォンのところに顔を出そうと思っていたことも、これまでの経緯を話したら大目玉を食らいそうなことも本当だが、命の表情が強張っていた理由は彼女ではない。
アレク=ウォンリー。五人の才媛の一人にして、灼熱の貴公子の名をとる魔法少女の存在が、命の頭の片隅にあった。
今さら才媛ガチャでSSRを叩き出そうとは思わないが、向こうに回したいとも思わない。才媛の恐ろしさはここ数日で身を以て思い知っていた。できることなら関わり合いになりたくないが、今回ばかりは避けて通れないかもしれない。
栄子やシルスターと同じく、アレクもまたこの診療所に入院しているのだ。
命も退院した後で知ったことだが、選抜合宿で両足の骨を折ったアレクはこの診療所に担ぎ込まれたていたのだ。しかもアレクの足を圧し折ったのが宮古だと知り、命は二度驚いた。
どうしてお姉ちゃんがそんなことを……、初めてその事実を知ったときは戸惑いを覚えたが、命は宮古を問いただすようなことをしなかった。
何かそうせざるを得なかった理由があったのだろう。
あの妹大好きお姉ちゃんが暴力に頼ったのだ。断腸の思い、いや泣いて馬謖を切る思いで手を上げたに違いない。
命は宮古のことを信じて、この一件には口を出さないと決めていた。
ただ、この問題が命に飛び火しないか否かはまた別の話である。宮古の妹である命を目の敵にしてもおかしくはない。
命はもう数え切れないほど宮古とコートマッチをしてきたが、姉が本気を出したことは一度としてなかった。
その姉が足を圧し折らなければ止められなかった怪物と対面するかもしれない。そう考えるとどうしても顔が強張ってしまう。
あれは春の嵐が上陸した日のことだったか。リッカと仲良く学校をサボタージュした日に、それとなく才媛の話を聞いた。
そのときの命はまだ才媛ガチャでSSRを狙っていたからだ。
リッカが、才媛の危険度を信号になぞらえて教えてくれたことをやけに覚えている。魔法少女の口から信号機というワードが出てきたことが面白かったからかもしれない。あたしは半分日本人だぞ、とリッカは口を尖らせながらも説明はしっかりしてくれた。
青は渡れで、黄色は止まれ、赤は言うまでもなく止まれとのことだった。
信号の色は才媛の髪色を指しているようで、青が自分と青猫のウィルだと言った。今にして思えばウィルが本当に青信号だったのか、命は訝しんでいる。そしてヅラ疑惑も根強い。
黄が名門エクセリア家の令嬢ユメリア。新興宗教ユメリア教の教祖であり大勢の信者を抱えている、とリッカは冗談混じりに言っていた。その口ぶりから察するに、両者の仲はあまり良くないのだろう。
黄の時点で嫌な予感しかしなかったが、それを上回る赤がさらに二名も控えていた。
一人が暴君モモ。彼女についてはもはや説明不要であろう。リッカはモモのことをただ一言、董卓と評した。
いや、でも董卓は歴史書では必要以上に悪く書かれている節がある。モモも意外と話がわかる人物かもしれない。そう思ってアポなしで謁見に臨んだ命が愚かであった。結果として酷い辱めに遭ったし、リッカにもしこたま怒られた。
あのエロ暴君からは当分距離を置こう、と命は心に決めていた。
(あれと同格……)
いや、それ以上に危険な女がこの先にいるのかと思うと気が滅入る。モモの髪色はピンクだが、アレクの髪色は鮮やかな赤――シグナルレッドである。
危険度は、五人の才媛で随一。
リッカはアレクのことをただ一言、呂布と評した。
いや、でも呂布は歴史書では必要以上に強く書かれている節がある……なんて希望的観測はもう命の口からは出はしない。
呂布なのだろう。
この数メートル先の診療所にいるのは、呂布アレクなのだろう。
下手なことをする気はないが、一戦交えることも考えておいた方が良い。命は静かに唾を飲む。落ち着け。相手は両の足を骨折している怪我人だ。近づかなければどうということはない。しかし、そうとわかっていても冷たい汗が滲み出て来る。
こんなにも緊張感あふれるお見舞いがかつてあっただろうか? というか何で私は知人のお見舞いで、ここまでの緊張を強いられなくてはいけないのだ。
命は、半ば八つ当たり気味に足を踏み出した。馬の毛で編まれた玄関マットに足が乗る。きちんと足裏の泥を落とす。医療施設を清潔に保つのは、人として当然のマナーである。
(よしっ!)
意を決して命は診療所の扉を開く。ただの両開きの扉が、虎牢関の入り口のように思えた。重い扉の向こうは……混乱の渦中にあった。白衣のナースが受付前を行ったり来たりしている。
「一体何が……」
何かが起きていることはわかったが、何が起きているかはわからなかった。一見して急患の姿も見当たらない。
プシュッ、プシュッ。
命たちはポンプ式の消毒剤を押して手に刷り込んだ。これも大事である。
「何だか大変そうだね」
「そこのソファーで待っていますか」
この様子だと直ぐに面会を受け付けてくれるとは思えなかった。長引くようであれば紅茶でも買おうかなんて考えていると、見知った顔の女性が駆け寄ってきた。命も先日お世話になった女医である。彼女の顔には汗とわずかばかりの怒りが滲んでいた。
「貴方たち、今さっき来たとこよね?」
「そうですが」
「アレク=ウォンリーさん見なかった?」
命は奇妙な質問をされて面食らった。
「えっ、だってアレクさんってここに入院しているのでは」
「してたわ。ついさっきまで」
「まさか……脱走したのですか」
「ええ、そのまさかよ。両足を骨折したままね」
命は絶句した。両足が折れているというのに、どうやって脱走したというのだ。それこそ逆立ちでも――。
「あっ」
命と根木は無言で目を合わせた。
「何か思い当たることがあるのね?」
「えっと、私は直接見ていないのですが」命は根木に目配せする。
「バスの窓から逆立ちで歩いている人を見かけました。雨でよく見えなかったけど、足が真っ白くて、口にはトーストを咥えてました」
真っ白いのはギプスであろう。女医は微笑んで次を促した。
「そう。その子はどっちの方向に向かっていったのかしら?」
「バスの行く道と反対方向だから、セントフィリア女学院の方かと」
女医は簡単にお礼を述べてから腰に手を当てた。上体をわずかに曲げて大きく息を吐くと、カッと目を見開いた。
「そいつがアレクだあああああああああああああああああ!! 確保おおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!」
玄関脇にいたナースが慌てて外に駆け出していった。転けそうになるナースの背に向けて、「抵抗したら麻酔で仕留めろおおおおおおおおおおおお――ッ!」と女医が吠えた。
この診療所においてはアレクよりも女医の方が恐いのかもしれない。命は認識を改めるとした。
かくして当面の危機は去った。気を揉んだ割に空振りの終わったという感は否めないが、何事もなかったのならそれに越したことはない。これで安心してお見舞いに行けるというものだ。
命たちは窓口でお見舞いの手続きを済ませると、まずエリツキーが入院している病室へと足を運んだ。エリツキー=シフォンの名札が下がった部屋の扉を三度ノックする。「どうぞ」の声が返ってくると、命が扉を開けた。
「どうも。お加減はいかがでしょうか」
「エリちゃん先生、おひさー!」
見舞い客が生徒だと思っていなかったのか、エリツキーはかすかに片眉を上げた。
「見ての通りだ。それにしても暇な奴らだな。わざわざ私のところに来るとは。まあいい、ちょっと待ってろ。今、椅子を出す」
ベッドから立ち上がろうとしたエリツキーを、二人は慌てて制止する。命が代わりに壁際にあった折りたたみ椅子組み立てた。
「大丈夫だというのに。それにしてもやけに手際が良いな」
「私も先日入院していましたからね。まあ、勝手知ったる病室です」
「ああ、そうか。日帰り旅行の件か。魔力枯渇したんだったな。しかも二段底まで落ちたと聞いた」
「ええ。二日間は寝たきりでしたが、今はピンピンしています」
「ほう」とエリツキーは感心したような声を出した「八坂は有望な魔法少女かもしれんな。普通、二段底まで落ちたら、回復するまでもっと時間がかかるもんだ。一ヶ月近く不調を訴える者だっている」
エリツキーの指摘は、命にとって目から鱗落ちるようなものだった。確かに人と較べて身体は頑丈な方かもしれない。宮古に師事してからはその傾向が一層顕著になった気もする。姉の修行は過酷を極めたが、一晩経てばケロリとしていることが多い。さっきだってバスで十数分寝ただけなのに、睡眠不足の身体がとうに癒えていた。
命は自分のことをあまり優秀な魔法使いだと思ったことはないが、少しは自信が持てる。身体が頑丈だということは、優秀な魔法使いもとい魔法少女の資質の一つなのかもしれない。
そうすると。命は根木を横目で見る。
「茜ちゃんはもっと有望な魔法少女かもしれません。とっても体力があるのです」
「えっ、ついに私の秘められた力が覚醒しちゃう系!?」
「うーん……」
エリツキーはベッドに座ったままぬうっと顔を突き出した。根木のことを上から下まで舐め回すように見ると、彼女は渋い顔をして言った。
「お前は、その、何だ……この道はあまり向いてないかもしれん」
「ズコー」
秒で茜ちゃん終了のお知らせが届いた。根木は一昔前の漫画みたいに転けかけたが、命が身体を支えることで事なきを得た。
根木は体勢を立て直すと両手で顔を覆う。スンスンと鼻をすする音が聞こえた。
「ううっ……知ってた、知ってたけどもおおぉぉぉ」
「エリちゃん先生!」
「悪いな。はっきりとものを言う質でな。それに嘘をついたって、根木のためにはならんだろ」
エリツキーは動じることなく続けた。
「そのままでいいからよく聞け。高く険しい道を行くというのなら私はそれを止めるつもりはないし、別の道を選んだっていい。ただどの道を選んだとしても、私はお前たちの味方だ」
「エリちゃんせんせぇ……」
「魔法の才能なんて鼻で笑ってやれ。才能があったとしても夢敗れる者もいるし、一滴の魔力も通わさずに魔法を使う者だっている」
一滴の魔力も通わさず魔法を使う……その言葉が、鐘の音をように命の心に響いた。どうして魔法少女はいずれなくなる奇跡を追い求めているのか。その答えが朧気ながら見えたような気がした。大人になっても、きっと魔法は終わらないのだ。
「お前には人を笑顔にする魔法があるだろう。やる気もあるし元気もある。それに――」
「……いわきぃ」
「政界進出を狙ってる――ッ!?」
「いわきはわからんが、あと泣きまねが上手いな」
根木はびくりと反応し、顔を覆う両手を離した。果たしてそこにあったのはいつもと変わらぬ笑顔であった。
「気をつけた方がいいぞ、八坂。こいつ意外と嘘つきだぞ」
「エリちゃん先生、ひどーい!」
しばらく三人の歓談は続いた。エリツキーと根木のじゃれ合いに、ときに命も加わったりした。会話が学業に及ぶと根木は口を固く閉ざし、「お前らちゃんと中間考査の勉強はしてるんだよな」とエリツキーが問い詰める場面もあった。
助け舟を出すべく命は話を逸らそうとしたが、今度はシルスターとの争いに話が及んでしまい、命が説教を受けるはめになった。
もうにっちもさっちもいかない状況となり、命は苦し紛れに窓際に置かれた花について触れた。すると、エリツキーは見たことないほど渋い顔を浮かべた。
話を聞くと、この花はマグナから贈られたものだとわかった。マグナに花を愛でる心があったのかと命は意外に思った。エリツキーに至っては意外を通り越して不気味に思っているらしく、「なあ、こいつの花言葉は『お前の不幸で飯がうまい』とかじゃないか」と疑っていた。命は、そんな一昔前のネットスラングみたいな花言葉はない、と言うに留めておいた。
(ガーベラのフラワーアレンジメント、ね)
悪くないチョイスである。ガーベラは多年草で入手しやすいし、香りも上品で病室を飾るのに適している。花言葉も前向きなものであるが、命はそれについては伏せておいた。希望や感謝といった花言葉を聞いたら、エリツキーが疑心暗鬼に陥って花瓶ごと花を捨てる恐れがあったからだ。いや……さすがにそこまではしないだろうが。
エリツキーは時折病室の壁時計を目を遣る。頃合いを見計らっていたのか、会話が途切れたタイミングで空咳をした。
「あー、私のところに長居するのもいいが、榮倉の方に顔を出したらどうぞ」
「ご安心を。初めからそのつもりです」
「なんだ、最初から私の方がオマケか」
「あーん、エリちゃん先生すねないでよぅ」
抱きつこうとしてくる根木を、エリツキーは腕を突っ張ってあしらった。
「すねてない……。見ての通り、私はピンピンしてる。明日にでも退院していいぐらいだ」
「ならどうしてまだ診療所に?」
「いい機会だから静養しろ、とな。大したヤブ医者だよ」
命の目から見ても、エリツキーの外見は健康そのものだった。多忙だった時期はどこか調子の悪そうな印象を受けたが、今はそれがない。
エリツキーの診断は打撲傷、いわゆる打ち身である。寝不足がたたり、倒れたときに身体を痛めたとのことだった。元々あまり重い症状ではなく、早く退院させてくれない女医には不満が溜まっているようだった。
「へえ……貴方もそうやって私のことを悪く言うのね」
からからと滑車の滑る音。扉の隙間から、女医が恨みがましい目で見ていた。なんでここに女医が!? エリツキーの目には若干の焦りが浮かんでいた。
「いや、今のは冗談みたいなもので」
女医は、どこかよれた白衣の裾をはためかせながら部屋に入ってきた。エリツキーのベッドの前で立ち止まると、これでもかと顔を近づけ首を傾げた。小首を傾げたなんて可愛いものではない。梟が首を動かすような奇怪な動きであった。
「へえ、ふうん……そう」
「…………」
「そうよね。休みも返上して働く私に対して、そんな酷い口聞かないわよね? もし本当だとしたら私ショックで、実家に帰っちゃうかも」
あー実家に帰ろうかな、実家に。この生活にはもう疲れましたー。旦那には年に一度会えるか会えないかだしー。娘の成長も間近で見ることもできなーい。それでも患者のためと思って働いてきたけど、この仕打ちですかー? 患者はみんな私の言うこと聞かないしー、みーんな私の陰口叩いてる。そうやって私のこと一人悪役にしたら満足ですかー?
女医がエリツキーの耳元で呪詛めいた言葉を唱えていた。
この女医めんどくせえ……、命は心の底から同情したが、エリツキーはやはり大人だった。彼女は直ぐに頭を下げた。
「すみません。私が悪かったです。前言を撤回します」
「……謝んないでよ。憎まれ口叩かれるのも医者の仕事の内よ」
気が晴れると同時に、平静を取り戻したのだろう。患者の病室でくだを巻いて、私は一体何をしているのだろう。そんな悔恨の色が女医の顔に浮かんでいた。
「私が大人げなかったわ。顔見知りだからつい甘えてしまったみたい」
「いえ、お気になさらずに。このところお忙しいことは良く知ってますから」
和解はあっさりとしたものだったが、部屋にはまだよどんだ空気が漂っていた。換気をするように声をかけたのは根木だった。
「エリちゃん先生と女医さんは、顔見知りなの?」
「ええ。面倒をかけられた患者の顔を、医者はよく覚えてるものよ。この子は問題児だったから、尚のことね」
「先生っ!」
エリツキーが懇願するように言った。生徒の前ではカッコつけていたいのだ。
命と根木は、エリツキーの口から出て来る先生というワードが新鮮で笑みをこぼした。
「いいじゃない、これぐらい。私に悪態をついた罰よ。少しぐらい付き合いなさい」
女医は休憩がてら昔話を始めた。
今では澄ました顔で教師なんてやっているが、エリツキーがいかに悪ガキだったのかを女医は赤裸々に語った。
昔は尖っていて、触れるもの皆傷つけるナイフのようだったと言う。
目が合えば睨みつけ、肩が当たればぶん殴り、注意を受ければ机を蹴り飛ばし挙げ句の果てに教室も壊す。
もう手のつけられない問題児だった。
これに対してエリツキーは、それは話を盛っていると抗議した。注意を受けたからと言って毎回教室を壊していた訳ではない、と。教室を壊したことは認めるようだった。
「うひゃー! ドメスティック・バイオレンスだね、エリちゃん先生」
「家庭は関係ないだろ家庭は! あと何度も言うが、この人話盛ってるからな!」
「あら。ありのままの事実を語ってるだけよ」
「そうです。女医さんが事実というなら、それが事実なのでしょう。事実というのは人の数だけあるものです」
今は厳格な教師として通しているが、昔は手のつけられない問題児だったのか。うぷぷ。命はこみ上げる笑いを禁じ得なかった。エリツキーはその命の態度が気に食わないのか、時折射殺しそうな眼光を向けてきた。不良だったというのも頷ける迫力である。
女医は昔語りを続ける。話は、この手のつけられない問題児がいかにして更生したかに移った。
幸か不幸か、エリツキーの世代にはマグナを筆頭に問題児が多数いた。殴ったら殴り返さずにはいられない人種が。口で言ってもわからない相手には魔法で語る連中が。
この世代は、バイオレンスな日常が約束されていたと言っても良い。
魔法少女同士の喧嘩はしょっちゅうのことで、怪我なんて珍しいことではなかった。
「そうだな。今よりもおおらかで、人の心に余裕があった時代に思えるよ」
「エリちゃん先生、ノスタルジックな雰囲気を出してもダメですよ。10年も経ってないでしょう」
「チィ――ッ!」
本場の舌打ちであった。やっぱりどれだけ取り繕っても、根はヤンキーである。生まれつき優等生の私とは違うのだな、と命は思った。
その後は命の期待を裏切ることなく、切った張ったの世界が繰り広げられた。
洒落にならない物的損害。自業自得としか言いようのない人的被害。その度に繰り返される女生徒たちの入退院。女医がエリツキーのことを顔見知りと言うのも頷ける内容であった。
「……若気の至りというやつだな」
エリツキーはそれだけ言うのがやっとだった。
「……エリちゃん先生、まだ23だよね?」
エリツキーは視線を逸した。
「シルスターさんと大差ない……というか、エリちゃん先生の方が酷い」
エリツキーは花に微笑みかけた。花は良い。何も言わない。
「シルスターさん? あんな恵まれた家の子とは比べものにならないから。一匹狼のエリツキーさんは『孤独こそが至高』とか言ってたのよ」
「ああぁあああぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛――ッ! もう勘弁して下さああぁぁああいいいぃぃぃいい――ッ!」
ボフンボフン。エリツキーは枕に向かって何度も頭を打ち付けていた。
人を誰しも触れられたくない過去を抱えて生きているのかもしれない。私もこの学校を卒業した暁には女装していた過去は墓場まで持っていこう。命はそう固く心に誓った。
「うくくっ……あー、面白い」
女医はまだまだ話足りないといった様子であったが、命と根木の「やめたげてよお」と言いたげな視線に気付いたのか、ブレーキを踏んだ。もうエリツキーを轢いてから1キロほど引きずった後だったが。
「エリツキーさん」
女医は急に声のトーンを落とした。
「昔の自分を見ているようで放っておけないんでしょう」
「…………」エリツキーは顔を枕に埋めたまま何も言わない。
「焦る気持ちはわかります。でも、私は一人の人間である前に医者です。貴方を今、退院させる訳にはいきません」
打ち身だから大した怪我ではない、なんて言葉は一切通用しない。打ち所が悪ければ取り返しのつかないことになっていた可能性だってある。
それに転倒したことではなく、失神に至ったこと自体が問題なのだ。その背後に重篤な病気が隠れていることだってある。今回はそのようなことはなかったとはいえ、ストレスや私生活の乱れを引きずったままでは直ぐに再発する恐れもあった。
だから、まだ出せない。女医は人である前に医の悪魔である。患者を守るためなら、彼女は喜んで人の道を外れる生き物であった。
この外道! 悪魔! ロクでなし! 罵倒の言葉は幾つでも思いついたが、そのどれを投げ付けたとしても、蚊の食うほどにも思わないだろう。エリツキーは顔を上げずに問うた。
「……あと何日、安静にしてればいいですか?」
「三日。これ以上は一分一秒たりとも負からないから」
「わかりました」
エリツキーは力なく頷いた。
三日。それは友達ゲームが終わった次の日である。
不意に女医が命たちに視線を遣った。彼女は友達ゲームのことを知っていたのだろう。あとはお前たちが何とかしろ、とその目ははっきり言っていた。
悪を滅ぼすなり何なりして大団円を迎えろ、と。
怪我や病気の温床と化したシルスターのことを、女医は快く思っていないのだろう。それでもシルスターが運ばれてきたら、彼女はきっと全力を尽くして助けてしまうのだろう。
人としては尊敬できない部分もある。
だが、医者としては全幅の信頼を寄せることができる。
頼もしいと思うと同時に、命は少し心が軽くなったような気がした。
友達ゲームは荒れる。命のなかにはそんな予感があった。これまでも幾つか小さなトラブルはあったが、命たちは紳士的にゲームに進めてきた。だがゲーム終盤ともなると、何が起きても不思議ではない。勝つためなら命も手段を選ばないし、相手だってなりふり構わぬ行動に出るかもしれない。
誰かが診療所送りにされてもおかしくはなかった。
それはシルスターか、それとも他の誰かか……あるいは自分か。
賽はとうに投げたが賽はまだ回っている。最後賽が止まるまで、どの目が出るかは誰にもわかりはしなかった。
「じゃあ、お大事に」
女医は束の間の休憩を終えると、あっさりと部屋を出ていった。そのときにはシルスターをからかっていたときの顔は嘘のように消えていた。
丁度良い頃合いである。
エリツキーと二言三言話してから、病室を出るとした。思ったよりも長居してしまった。後には栄子のお見舞いも控えているのだ。
帰り際。
「怪我だけはするなよ」
神妙な面持ちでエリツキーがそう言った。
「大丈夫です。仲良くケンカしますから」
上手く言えたかはわからないが、エリツキーはぎこちない笑顔を返してくれた。
エリツキーの病室を出た後、命たちは二つ隣の栄子の病室に向かうとした。アレクの病室はエリツキーと栄子の病室の間にあったが、患者の姿は見当たらない。
まだ逆立ちで逃げているらしい
あの身体でよくやるものだ。命はむしろ感心してしまった。
「あら」
栄子の病室に入ると、上品な声が二人を迎えてくれた。声の主は栄子ではなく、先客のものであった。
先客――女生徒Bは、うつらうつらとしている栄子の肩を優しく揺すった。
「栄子さん、栄子さん。会長と八坂さんがお見舞いに来て下さいましたよ」
「……ふえ。会長と八坂さん…………会長と八坂さん!?」
初め寝ぼけた様子だった栄子は、二人の姿を認めると一気に意識が覚醒したようだった。
はっ、口元にちょっぴり涎が。乙女ピンチ! 栄子が慌てふためく。
女生徒Bがため息とともにハンカチを渡すと、栄子はいそいそと口元を拭いた。
(……かわいい)
栄子は少し照れた様子でこちらに視線を戻した。
「……お見苦しいところをお見せしました」
「いえいえ。おねむのところお邪魔してしまって、すみませんね」
「そんな! 謝らないで下さい。これは私の心構えの問題なんです。人と会う機会が減っていたものだから、気が抜けていたのかもしれません。一人の乙女として恥じ入るばかりです……」
目を閉じる栄子は悔悟の念に攻められているようだった。常在戦場。一瞬の油断が乙女の危機を招くことを、彼女はよく知っていた。乙女が少ないセントフィリア女学院において、彼女の有り様は輝いて見える。貴方はその道をひた走って下さい、と命は心のなかでエールを送った。
「大丈夫だよ、栄子ちゃん! 今のはかわいかったから乙女的にグーだよ。ねえ命ちゃん……かわいかったよね?」
なぜだろう。同意を求める根木の目が、そこはかとなく恐い。いつも太陽の輝きを放つ根木の瞳は、たまに皆既日食に襲われたように暗くなることがある。こういうとき命は、選択を間違えてはいけない、という妙な緊張感を強いられた。あな恐ろし。
「え、ええ」
無難に慎重に。命はそこはかとなく同意を示した。根木は微笑っている。多分、間違ってはいないはずだ。
「栄子さん、そんなことを言っては却ってお二人に気を遣わせてしまうわ。そういった気遣いはもっと私の方に回してちょうだい」
「あら? 貴方と一緒にいるときに心置きなく眠るのは、友情の証よ」
「……全く。調子がいいんだから」
むすー。女生徒Bは頬を少し膨らませた後、立ち上がる。てきぱきと折り畳み椅子引っ張ってきて、命たちに座るよう勧めた。
「りんごはいかがです? 最近、栄子さんは『りんごは飽きた』なんて嘘ばっかり言いますの」
「嘘だなんて。毎日のように続けば、さすがに飽きるわ」
「……嘘ばっかり。食っちゃ寝の生活を送ってたからお肉が気になるんでしょう。知ってるわよ。栄子さん、最近お腹がぷにぷ――」
「いやああああ――ッ! 積極的にバラしていくスタイルはやめてくださいまし!」
栄子が頭を抱えておののいていた。乙女にとってはデリケートな問題である。命も根木に苦笑するに留めた。
「全く、大げさなんだから。栄子さんは痩せ気味だから少しお肉がつくぐらいで丁度良いいのよ。貴方も食べるでしょ、りんご?」
「ううっ、夜中の果糖は……」
苦悶する栄子を尻目に、女生徒Bはりんごを片手に一度病室を出た。女生徒Bは、命が「糖質は単純に制限すれば良いものではない」と説いている間に戻ってきた。恐らくりんごを洗ってきたのだろう。
彼女は勝手知ったるとばかりに床頭台から紙皿を、ハンドバックからは果物ナイフを取り出し、りんごの皮をむき出した。
割れる心配のない紙皿、果物ナイフもカバー付きと、安全面にもしっかりと配慮している。これは乙女的にポイントが高い、と命は感心した。
「随分と手慣れていますね」
「通い妻ですから」と女生徒Bはいたずらっぽく笑う「栄子さんはうさぎさんなので、頻繁に顔を見せないとダメなんです」
「……寂しがり屋なのは貴方の方でしょう」
栄子は掛け布団で顔の下半分を隠しながら、女生徒Bに半眼を向けた。
「私がいなくて寂しいって素直に言いなさい」
「あー、栄子さんがいなくて寂しい。寂しいわー」
「愛がこもってない! もう一回やり直し!」
二人の遣り取りは夫婦漫才めいていて、つい命と根木も笑ってしまう。闘争のなかに身を置く命たちにとって、この優しい空間は一服の清涼剤となった。
(そうか……)
栄子が入院してから早三週間が過ぎていたのか。思い返せばシルスターと栄子のコートマッチが全ての始まりだったのかもしれない。命とシルスターの間に溝が生まれたきっかけがそれであった。
しゃりしゃり、とりんごの皮を剥く音が止んだ。見ると、途切れることなく一枚に繋がったりんごの皮を、女生徒Bが持っていた。おー、と根木が拍手をした。
それから。ときにりんごを摘みながら、四人はお喋りに興じていた。話題の中心は専ら学校のことで、栄子は命と根木の話を聞きたがった。
もう栄子と女生徒Bの間では話の種すら尽きているのだろう。
根木は最近友達になった子の話や、料理部についての話をしていた。
はて、茜ちゃんは料理部の一員だっただろうか。疑問に思って命が聞くと、根木は我が同好会と料理部の間で提携を結んだんだよ、とない胸を張って答えた。
根木は自らが立ち上げた同好会、黒百合会の会長をつとめている。主な活動は乙女を磨くことという漠然としたものだったが、料理もその一環らしい。近々料理部と合同でお料理教室を開くのだと言う。
会長、さすがですわ会長、と栄子と女生徒Bが囃し立てた。
そういえば、この二人も黒百合会の一員であったことを命は思い出した。二人は先ほどから根木のことを会長と呼んでいた。
一方、命はアルバイトとボードゲーム制作の話題を提供した。
アルバイト経験がない栄子にとって、命のカフェ・ボワソンでの経験は新鮮に感じられたようで目を輝かせていた。
カフェ・ボワソンの女神にコーヒーを運べるなんて羨ましい。そう言って、栄子は悩ましげなため息を零した。
が、ボードゲームの話にはあまり興味を示してくれなかった。夏の量産化に向けて、ナローゲートの開発を急ピッチで進めていること。このナローゲートというボードゲームがいかに魅力的なものか熱弁を振るったが、栄子の琴線にはあまり触れなかったらしい。
それは面白そうなゲームですね。今後機会があるときにぜひ。と、おもくそ社交辞令みたいな返事をいただいてしまった。
……悔しい。必ずやこの四人でナローゲートをプレイしてボードゲーム沼に落としてやる、と命は心に固く誓った。
声が弾むような話やパッとしない話。様々な話題があったが、それら全てを引っくるめて、命は楽しんでいた。こういった何気ない会話こそが心に潤いをもたらしてくれる。
次第に夜が更けてきた。巡回の看護婦からもやんわりと注意を受けたので、そろそろお暇するとした。
「それでは、また来ますね」
「ええ。楽しみにお待ちしておりますわ」
楽しみに……か。後ろ髪を引かれる思いだが、命と根木は栄子の病室を後にすることにした。二人に続いて女生徒Bも廊下に出た。診療所の玄関口までお見送りすると、彼女は命たちに頭を下げた。あんなに楽しそうな栄子さんを見るのは久しぶりだった、と彼女は丁寧に御礼を述べた。
「貴方は一緒に帰らないのですか?」
「私はもう少しだけ一緒にいようかと思います。急にみんな居なくなったら沈んじゃうと思うんです。栄子さん……寂しがり屋だから」
「……そうですか」
女生徒Bの顔には慈愛と、病室では決して見せなかった疲労の色が浮かんでいた。彼女は毎日お見舞いに来ていると言っていた。この三週間、彼女は何を思い、栄子の病室に足を運んでいたのだろう。
それを考えると、命は胸を締めつけられるような思いがした。
「あの」逡巡したのち、命は女生徒Bの顔を正面から見つめた「栄子さん……そんなに悪いのですか」
女生徒Bは表情を変えない。その顔はどこまでも優しくて、それが辛かった。
「……会長から聞いたんですか?」
「いえ、なんとなく。どこも悪いようには見えなかったので、だから――」
自分が思っているよりも悪いのではないかと勘ぐってしまう。
それが自分の思い過ごしでないことは、女生徒Bの表情が物語っていた。
「……ごめんなさいね、会長。疑ってしまって」
「ううん、気にしないで!」
そう言って、女生徒Bが頭を下げた。
根木は栄子の容体について知っていたのだろう。何度かお見舞いに訪れている様子だったから、知っていてもおかしくはなかった。
根木が黙っていたことについて、命は別段責める気はなかった。病気のことなんて無闇矢鱈に言いふらすことではないからだ。根木はおしゃべりのようで、口が堅いところがあった。
下げた頭を上げると、女生徒Bはそのまま診療所の天井を眺めた。何か考えているようにも見えたが、何も考えていないようにも見えた。
「…………」
ゆっくりと頭を戻す。彼女は重い口を開いた。
「会長。栄子さんのこと、八坂さんにも話していただけないかしら」
「……いいの?」
「いい……なんて私が言うのも烏滸がましいけど、八坂さんには知っておいて欲しいと思ったの。だから、大丈夫。栄子さんにも伝えておくから」
後承諾だけど、と女生徒Bはぎこちない笑みを浮かべた。
命は何も言わなかった。何を口にしても言葉が軽くなりそうで嫌だった。
ただ何かを受け取ったことだけは伝えたくて、静かに首肯した。
さよならを挨拶の代わりに、女生徒Bがもう一度口を開いた。
「明後日ですよね」
言うまでもない。友達ゲームの開催日のことだ。
「私、必ずいきますから……必ず」
柔和な表情とは裏腹に溢れんばかりの想いが、右手に集まっていた。
先ほどまで果物ナイフを持っていた右手は強く、固く握り締められていた。
程なくして命たちはバス停に向かい、女生徒Bは栄子の病室へと戻っていった。
「会長たち帰ったの?」
「ええ、たった今」
「貴方も一緒に帰ったら良かったのに」
「あら、一緒に帰った方が良かったかしら?」
「ううん……うれしい」
女生徒Bは皮肉をこめて言ったつもりだが、思わぬ反撃を受けてしまった。
「会長は愉快な人だし、八坂さんのことも好き。でも、貴方と一緒に居る時間が一番落ち着くの」
ずるい、と思う。たまにそういうことを言うから、そばを離れられなくなる。毎日、お見舞いに来たくなる。貴方の顔を……いつも見たいと思ってしまう。
「ふふっ、言葉には気を付けた方がいいわよ。私が殿方だったら、栄子さんは毒牙にかけられたって文句は言えないわ」
「病室で毒牙を立てるような殿方はお断りよ。それに私、殿方には気安くそんなこと言わないわ」
「そうよね。だって栄子さんは、運命の王子さまを待ってるんだもの」
二人で顔を見合わせて微笑う。栄子が女生徒Bと過ごす時間を大切だと思うように、女生徒Bも栄子と過ごす時間を大切に思っていた。
女生徒Bは敬虔なセレナ信者ではないが、時々手を合わせて神に感謝の祈りを捧げることがある。
セレナさまありがとうございます。私と栄子さんを巡り合わせてくれて、と。
女生徒Bと栄子は家族ぐるみで付き合いがあった。二人は出会うべくして出会ったといえるが、女生徒Bはそのありふれた出会いに唯一無二の価値を感じていた。
幼少期を共に過ごしたというのが大きいのだろう。
女生徒Bは栄子とともに居て、ストレスというものをあまり感じたことがない。幼いころは些細なことで衝突することは何度もあったが、いつも先に折れたのは栄子だった。
はじめは栄子のことを弱虫だと思い、次第に彼女の人柄に触れるにつれ考えを改め、いつの日か女生徒Bは栄子と争うことをやめた。
恥、という概念が芽生えたのだろう。同い年でありながら、栄子は自分よりも年上のように思えた。
誰かと争うことを厭い、誰かを助けるためなら助力を惜しまない。そんな彼女の横に立っても恥ずかしくない人間でありたいと願うようになっていた。
どうして栄子はそこまで立派なのか?
ある日、思い切って栄子に聞いてみたことがある。
そのとき、栄子から返ってきた答えは意外なものだった。
――私はね、王子さまを待ってるの。
王子さまを? 栄子が立派であることと、王子さまを待つことにどういった関係があるのか。
一聴して理解できない答えであったが、よくよく聞いてみると話は単純だった。
いつか現れるであろう王子さまに見劣りしないよう、栄子は徳を積んでいるのだと言う。
……王子さまが現れるのは規定事項なのか。女生徒Bはこの時ほど感心半分呆れ半分という言葉が似合う状況に遭遇したことがなかった。
「あっ、この話はナイショよ。広まったらライバルが増えちゃう」
そんなことを大真面目な顔して言うのだから、女生徒Bは笑いをこらえるに必死だった。
栄子はちょっと怒ってもいたので、平謝りもした。
しかしまあ、普通の人で良かったとも思う。
夢みがちなところがあって、夢を笑われると怒って。栄子がただの立派な人でないことを知れて、女生徒Bは彼女のことを一層好ましいと思うようになった。
栄子が秘密を打ち明けたことで、二人の間を隔てる壁はあってないようなものになった。
異性についての話もするようになった。女生徒Bは、異性については父のことしか知らなかったが、外の世界に思いを馳せるようになった。
そこにはどんな殿方がいるのだろう。私の……王子さまもいるのだろうか。
理想の殿方について話したことは数知れぬほどあった。
女生徒Bと栄子の理想の殿方バトルに決着がついたことはない。
いずれ決着をつけねばならないが、殿方に求めることで決まって共通していることもあった。優しい人がいい。二人は必ず口を揃えてそういった。
瓶に想い封じて海に流したこともある。セントフィリア王国は四方を海に囲まれた国である。海の向こうは未知の世界だが、もしかしたらそこに理想の殿方がいるかもしれない。
翌日、瓶が岸に打ち上げられているのを発見した。二人してガッカリした。
花を活けたり、茶を立てたり、歌劇を嗜んだりもした。
花茎を上る小虫に驚いたこと、足を組み直そうとしてお茶をこぼしたこと、恋人同士の悲恋に涙と鼻水が止まらなくなったこと。
乙女には程遠い挙措の数々も、栄子と一緒だから笑い話の種となり、やがて思い出の花となった。
二人の思い出の花畑には数え切れないほどの花が咲いている。
それはこれからも増えるはずで、限りなく鮮やかな花畑が広がっていくだろう。
ずっと……ずっと、ずっと栄子と一緒だった。
「ヴィヴィさん」
不意に栄子が名前を呼んだ。女生徒B――ヴィヴィアン・ヴィヴィエは、束の間の夢から醒めたようだった。
「私のこと、八坂さんにも話したのでしょう」
旧知の仲とは時に厄介なものだ。互いに隠しごとができない。隠したところで手に取るようにわかってしまうのだ。
「ごめんなさい。勝手なことをしてしまって」
「いいのよ。貴方がそうすべきだと思ったのなら、それで」
親友が自分の不利益になるような真似をしまい、と栄子は根っから信じているようだった。きっとヴィヴィさんは私が復学した後のことも考えているのだろう、と。
栄子はぼんやりと窓の外を眺めていた。夜の闇が深い。何も見えない闇の奥から雨の気配が漂ってきた。
「心配しないで」
栄子は精一杯笑った。
「私はただ、一足先に王子さまを探しに行くだけなの」
「……女子校でしょ」
ヴィヴィが上ずった声で言った。すんすん、と二回鼻を鳴らす。彼女は決して顔を上げようとしなかった。
「うん。でも私たちが知らない女子校」
白亜の城もなければ、箒で空を飛び交う魔法少女もいない。敷地の一歩外に出れば、この国で見かけることのない殿方だっている。
外には栄子の知らない未知が溢れているに違いないのに、あまり胸は踊らなかった。一歩外に足を踏み出せば途轍もない喪失感に襲われることだけがわかっていた。
私の横には――――彼女がいない。
「京都聖華女学院って言ってね、セントフィリア女学院の姉妹校に当たるそうよ。当然魔法少女はいないけど、魔法少女への理解があってね――」
万が一にも私が虐げられるようなことなんてない。それに住めば都と言うでしょう。最初の内は慣れないかもしれないけど、直ぐに馴染んでいくわ。だから、貴方が心配するようなことは何一つだってない。
そう言おうとして、言葉は唐突に途切れた。
折り畳み椅子の倒れる音。お腹に当たる人の温もり。窓の外では激しい雨が地面を叩いていた。
「い……だから」
ヴィヴィが覆いかぶさるように栄子に抱きついていた。回した腕は痛いぐらいに力がこめられていて、少し震えている。
理屈ではなかった。ただこうして栄子のことを押さえつけていないと、彼女がどこか遠くに行ってしまいそうで怖かった。
「お願いだから……そんなこと言わないでよぉ」
この国を出るときは二人一緒だと誓ったではないか。
双子の殿方と互いに結ばれ、隣の家に住むのだと。お婆さんになってもずっと……ずっとずっと一緒だと誓ったではないか。
どうして、と愛憎入り交じる想いがヴィヴィの腕に伝わってくる。彼女の頭が、栄子の腹部に一層強く押し付けられた。
「…………」
栄子は慈しむように親友の髪を撫でていた。風のように軽いボブヘアーが、今はどこか儚げに思える。この髪にも、ヴィヴィにも、長い間触れられなくなってしまうのか。
……どうしてこうなってしまったのだろう。栄子だってずっと……ずっとずっと一緒にいられるのだと信じていた。
「ヴィヴィさん、ごめんね……ごめんね。だから泣かないで」
自分のしようとしていることが酷い裏切りのように思えてしまい、栄子は謝ることしかできなかった。親友がそんな言葉を求めているのではないと知っていても、彼女には謝ることしかできなかった。
雨は止まない。次第に激しくなった雨は、どしゃぶりに変わっていた。
◆
雨が降り始めたのは、命と根木がバスに乗った後のことだった。
後部座席に座る命と根木は無言だった。寝ている訳でも、疲れ切っている訳でもない。ただ会話のきっかけを掴めずにいた。しばらくバスは無言の二人を乗せて運んだ。
激しい雨が車窓を叩いている。
雨脚が強くなったところで二人は同時に窓に目を遣り、次いで目が合う。根木が沈黙を破った。
「……雨、強くなってきたね」
「ええ」
「ヴィヴィちゃん、大丈夫かな」
あの女生徒はヴィヴィというのか。何度か顔を合わせたことはあるが、不思議と名前を知る機会のない子だった。
「金髪のボブカットの子、ヴィヴィさんと言うのですね。初めて名前を知りました」
「えー! 命ちゃん、今まで知らなかったの」
この発言が呼び水となり、二人の会話は広がった。
「じゃあ、ヴィヴィちゃんが髪染めてることも知らないでしょ。本当は茶髪なんだって」
「えっ、地毛かと。髪色詐欺は校則違反でしょう?」
「茶から金にするのだけは認められてるんだって。不思議だよねー」
「なんでそこだけ……」
「昔、偉い人が髪を染めた前例があるんだって。先人は偉大系」
その前例を利用し、少なくない茶髪の女生徒が髪を金に染めているそうだ。ヴィヴィもその内の一人であった。
中等部に上がりたてのころ。ヴィヴィは胸躍らせて染髪剤を手にとったが、ここで事件が起きた。手が滑ったのだ。染髪剤がこぼれたのだ。
――あっ。
それが目に入ったのだ。
視界が。世界がじゅーっと焼けた。
ぎぃやあああああああああぁぁああああぁぁああああ――ッ!
尋常ならざる叫び声を聞きつけて、隣家の栄子が駆けつけてくれなかったらどうなっていたことか。
この一件に関して、栄子は珍しく怒ったという。
ヴィヴィは深く反省したが、「それでもオシャレは止められない!」と一貫して主張し、髪を染めることだけは譲らなかった。
あれだけの目に遭ってまだ髪を染めようというのか……。栄子は呆れたが、最後には親友の言い分に一定の理解を示した。
しかし、また一人で染髪させたら同じ惨事を招くかもしれない。そこで栄子は考えた。
「それからヴィヴィちゃんの髪は、栄子ちゃんが毎回染めてるんだって」
「ふふっ。本当に二人は仲が良いのですね」
「ねっ! 私も一緒にいるときはちょっぴり嫉妬しちゃうぐらい仲が良いんだよ!」
根木は声を弾ませたが、
「……でも、栄子ちゃんはもうヴィヴィちゃんの髪を染められないかもしれない」
風船がしぼむように、根木の元気は消えていった。彼女が何か大事なことを打ち明けようとしていることが、命にはわかった。
「命ちゃんは、PTSDって知ってる?」
「……人並みには」
PTSD――心的外傷後ストレス障害の略語である。生命の安全が脅かされるような出来事や強烈な恐怖体験がトラウマとなり、後の生活においても心身の不調が持続的に現れる症状のことだ。
命がその名を知らないはずがなかった。彼のもっとも身近にいる友人であり、才媛の一人でもあるリッカが、PTSDに苦しめられているからだ。
妹の魔法少女生命を断ってしまったことで心に深く傷を残し、リッカは人に向けて魔法を撃つことに対し耐え難い嫌悪感を覚えるようになってしまった。
そこにつけこまれ、あわやシルスターに傷めつけられるという場面もあった。そのときは命がシルスターの前に立ち塞がって、リッカを守ることができたが、
(まさか、ここで)
PTSDの名をまた聞くことになるとは思ってもいなかった。
「栄子ちゃんが……それなんだって。正確には急性なんちゃらって症状らしいんだけど、似たようなものだって言ってた」
恐らくASD――急性ストレス障害のことだろう、と命は推測した。リッカがPTSD患者だと知ってから、命も少しPTSDについて調べたことがある。症状が一ヶ月未満の場合はASD、一ヶ月以上持続している場合はPTSDと区別されるようだ。
一ヶ月未満ということは……、何が原因か命にも心当たりがあった。
「原因はシルスターさんとのコートマッチですか?」
「……うん。私は直接見てないけど」
確かに、あれは衝撃的な光景だった。人が弾け飛ぶという光景を、命は初めて目の当たりにした。もしも白石先生が機転を利かして、黒い網の魔法で受け止めていなかったらと思うとゾッとする。
傍から見ていた命がそう思うぐらいだ。栄子の恐怖は想像を絶するものだっただろう。それこそ、トラウマになってもおかしくないほどの。
「それから栄子ちゃん……魔法がダメになっちゃったの」
根木の言葉が一瞬理解できず、命は固まった。いや、筋の通った話であるが、とても一度で呑み込むことができない。それはあまりにも残酷な言葉だった。
命は縋るように、何かありもしない希望を探して口を開いた。言い間違いだ。そうであって欲しいと願っていた。
「ちょっと待って下さい、茜ちゃん。今……魔法がダメになったって」
「……うん。魔法そのものに関わることがダメになっちゃったの」
魔法を使うこと、見ること、それ自体に耐え難い苦痛を覚えるようになった。だから、外に出ることすらままならない。一歩外に出れば、この国には魔法が溢れているから。
(だから……)
あれほど元気だったのに、入院を余儀なくされていたのか。あのとき覚えた違和感の正体がやっとわかった。それはもはやどうしようもない閉塞感のようなものだった。
でも、病状が快方に向かうことだって……。
いや、と命は楽観的な考えをやめた。
栄子の入院から早三週間が過ぎようとしている。栄子の症状はもはやAEDというよりPTSDに近いものなのだろう。
病状が快方に向かっているのなら、目の前の少女が悲観的な顔をしている訳がなかった。
「出られないのですか、栄子さんは診療所から……ずっと」
「ううん。出られないなんてことないよ!」
根木はぶんぶんと首を横に振った。その仕草にはどこか強がりが透けて見えた。
「魔法とさえ関わらなければ、どこでだって生きていけるんだよ。だから……だからっ!」
これ以上、根木の口から辛いことを言わせたくなかった。
「――この国を出ていくのですか?」
だから、その先の言葉は命が引き取った。根木が静かに首肯した瞬間、命はわずかな間、瞑目した。
魔法少女の国に生まれ、魔法少女として生きることもできない。どうして……どうしてそんな残酷な運命を、神さまは彼女に与えるのだ。
根木の肩が震えている。大きな瞳は微かに潤んでいた。
「私……わたし、なにもできなくて」
命は根木の両肩を抱き寄せた。彼女は抵抗することなく、命の胸に顔をうずめた。身体が触れ合うのが危険だなんて考えもしなかった。そうしなければいけないとさえ思っていた。
温かくて柔らかい。この華奢な身体のどこに、そこまでの力があるのだろう。
根木も人知れず戦っていたのかもしれない。
命には命の、彼女には彼女の戦う理由があった。
根木が泣いている。迷宮の地下42階に飛ばされても涙一滴、泣き言一つ漏らさなかった彼女が。友達の力になれない、と泣いている。
「何もできないなんてこと、ありませんよ」
その涙が輝いて見えた。命は自分のためにしか涙を流したことがない。だから、こんなにも心を震わせるものがこの世にあるなんて知らなかった。
「だって貴方は、誰かのことを想って泣くことができるじゃないですか」
二人の距離が溶ける。根木の心が、身体が、重なっている。甘く、優しい。溺れてしまいそうな温かさをほんの少し遠ざけたのは、彼女の嗚咽が止まった後のことだった。
「…………」
「…………」
再び車中に沈黙が降りた。しかしそれは先ほどよりも重くなく、気恥ずかしいものだった。
二人が口を閉ざしている間にも、バスは土砂降りの雨のなかを行く。どれだけ見通しが悪くても、終点はもう直ぐそこに迫っていた。




