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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
112/113

第111話 失せ物の行方

 1-Cを訪問した明くる日の午前。命はセントフィリア史の講義を受けていた。シルスターとの対立が表面化してからというもの、命の講義の出席率はどちゃくそ悪かった。このままでは、私の優等生というイメージが……。

 アイデンティティの危機を覚えた命は、ともかく講義には出席するようにした。無論、依然としてシルスターへの警戒は続けているが、それでも一時期に比べたら真っ当な学校生活を送っていた。


 ぽつりぽつりと降る雨声(うせい)に耳を傾けながら教科書をめくっていると、騒がしい日常がどこか遠くに感じられる。

 雨季の風情と学びの時が、絡み溶け合い消えていく。

 ああ、なんと美しい静けさ。黒髪の乙女は、日常の隙間に流れる静寂を愛していた。


「大変っ! 大変だよ命ちゃん!」


 扉バァン! 根木がダァン!


 静寂は金魚すくいのポイより簡単に破れた。……しかしまあ今回は長く保った方である。命は頭を切り替え、駆け寄ってきた根木を見遣った。


「どうしたのですか、急に」

「あのね、大変……大変なんだよ命ちゃんっ!」


 3号棟まで走ってきたのだろう。肩で息をする根木は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。これは何か大変なことが起きたのかもしれない。命は心して次の言葉を待った。


「フィロちゃんの……フィロちゃんのペンダントが、着替えの間に無くなっちゃったの!」

「へえ」命は構えを解いた。


 これは大変だぞー。犬のおまわりさんに電話しないと。


「興味なさすぎでしょ、命ちゃん――ッ!」

「いやありますよ、ええありますとも。ただこの気持ちを何と呼ぶのでしょう。凪いだ海のように心が穏やかなのです」

「ただの無関心――ッ!」


 だって腐れお嬢さまに興味ないんだもん。素直にそう吐露したい命であったが、根木の必死さに免じて話だけは聞くとした。

 まあ座りなさい、と命は横の椅子を引いた。幸いにもちょうど昼休憩に入ったところである。根木は「よいしょ」と腰掛けようとし、


「こらっ」


 命がそれを制した。何を思ったのか、彼女は命の膝に腰掛けようとしたのである。全く油断も隙もない……。

 根木は渋々隣に座り直すと、大変な用事を思い出したのかまた慌てだした。


「大変! そう大変なんだってば! フィロちゃんの大事なペンダントが無くなっちゃったの!」

「大事とは、どれぐらい?」

「親の形見級!」

「……ううん、親の形見ですか」


 親の形見と言われては、そう邪険にできない。と、そこで命が思ったよりも事態を深刻に受け止めたからか、根木がすかさず訂正を入れた。


「うそ! 親の形見は言いすぎたかも!」

「良かった。親の形見をなくしたゾンビはいなかったのですね」

「さらっと腐らせた――ッ!」


 食堂棟に向かおうとする命の腕を掴んで、待って待ってと。根木はどうにか命を引き止めた。これはきっと私がおっぱいを当てているからだ、と根木は思ったが、命はただ無を感じていた。

 そんなディスコミュニケーションはともかく。根木は命の説得を続けた。


「親の形見ではないかもだけど、お姉ちゃんから貰った大事なペンダントなんだよ!」

「そんな……ゾンビが二匹も」

生物災害(バイオハザード)!? 違うよ。れっきとしたお姉ちゃん……じゃないけど、姉妹(ソロル)! 義姉だよ」

「ああ、血のつながっていない姉ですね」

「……そこに安心するんだ」


 するのである。あんなゾンビが二匹もいたら、命としてはたまったものではない。


(それにしても、お姉ちゃんか……)


 命は一度だけ、ゾンビの姉に会ったことがある。あれはクルトとドドスと部活動巡りをしていたときのこと。オールバックの髪型とワンレンズ型のサングラスが、やけに記憶に残っていた(彼女が、ゾンビの姉であると知ったのはもう少し後のことだが)。


 当たり前のことであるが、自分に宮古がいるように、ゾンビにも姉がいるのだ。ゾンビがまともに人と共生できる訳がない。命はそう思い込んでいたが、あれも生物学上はヒトなのである。

 どのような糸かは知らないが、ゾ……腐れお嬢さまと彼女の姉の間にも確かな絆があるのだろう。


「あの人は……」


 自分と置き換えるのであれば、宮古がくれた大切なものをなくしてしまったのだ。どこを探しても見つからないと気づいた瞬間、私は青ざめて、それから慌てふためくのだろう。

 たぶんそれは……彼女も同じなのかもしれない。


「血の通った人間だったのですね」

「そこから――ッ!?」


 そこからである。命にとってフィロソフィアは、人間によく似たゾンビという認識であった。近づくと噛まれるので成るたけ遠ざけていたのだが、彼女はゾンビによく似た人間だということがわかった。

 これは大きな進歩である。命はフィロソフィアの上っ面しか見ていなかったことを反省し、彼女のことをこれからは『腐りかけのお嬢さま』と呼ぶことに決めた。そして、


「血の通った人間なら仕方ありませんね」

「命ちゃん!」


 黒髪の乙女は立ち上がる。今の今まで忌み嫌っていた相手のために。

 和を以て貴しとなす。それに越したことはないのだ。

 そうか……発酵食品……発酵食品だと思えば、もう少し愛着が湧くかもしれない。


「良かった。命ちゃんなら、そう言ってくれると信じてたよ。さすがに大事なものを二つもなくしちゃうのは、かわいそうだもんね」

「……二つ?」

「あれ、命ちゃん知らないの?」


 根木の反応は、テレビのトップニュースを知らない人を見るそれだった。


「前にシルちゃんの友だちとフィロちゃんが喧嘩したんだけど――」


 それは知っている。春の嵐が上陸した日のことだろう。シルスターはその日、その天候と同じぐらい荒れていた。そこへ通りすがったのがこれまた不機嫌なフィロソフィアだった。

 二人の偶然の出逢いが何をもたらすのか? それは火気と爆薬を近づけたら何が起こるか試すようなものだった。

 挑発から始まり口喧嘩にいたり、やがて罵詈雑言が飛び交ったと思えば、しまいにゃ魔法の颶風(ぐふう)が吹き荒れる。

 魔法少女お得意のどんぱちである。

 幸か不幸かシルスターが手を出さなかったため、そこまで酷い事態にはならなかったが、あわれ、腐りかけのお嬢さまはシルスターの手下にコテンパンにやられたとさ。

 ――と、ここまでは命も知っていたが、


「フィロちゃんね、そのとき大事な杖を折られちゃったみたいなの」

「杖……ああ、あれですか」


 命は、今となっては懐かしいとすら思う空中レースのことを思い出していた。


 ――なに物欲しげに見ているの。あげませんわよ。


 本当に、彼女は返事一つとっても嫌な人だった。……いや、昔のことを蒸し返すのはやめよう。今着眼すべき点は、フィロソフィアが樫の杖を大事にしていたことだ。風のうわさで彼女が箒部に入ったと聞いたときは首を傾げたものだが、命にはそれと同じぐらい不思議に思っていたことがある。


 箒部に入部して尚、彼女はどうして頑なに杖を使い続けるのか?


 その問いに対する答えを、今まさに根木が口にしようとしていた。


「その杖ね、フィロちゃんはハッキリとは言わないけど……どうも誰かの形見みたいで」

「えっ」

「だから形見をなくしたって話は、あながち嘘でもないの」


 形見。亡くなった人がこの世に残していった唯一形あるもの。それが修復不能なほど砕け散る様を、彼女はどんな顔で見ていたのだろうか。考えるだけで胸が痛くなる思いだった。

 そしてよくよく考えてみると、命は一つの答えに辿り着いた。


 あれ、これ……原因私じゃね?


 バタフライ効果(エフェクト)――ッ! それは一匹の蝶が中国で羽ばたくとカリブの海でハリケーンが巻き起こり、ひゃあ大変となるアレである!

 つまるところ、どんな物事にも遠因があるという寓意を含んだ言葉なのだ(カオス理論やら予測困難性やらの内容はカオスだし説明困難なので省く!)。


 では、フィロソフィアの形見が木っ端微塵のミジンコちゃんになった遠因はどこにあったのか? 命は結果から原因をトレースする。一つの計算を終えるとまた一つ、さらに計算が終わればもう一つ。パラメータを調整し、考え得るルートを全て辿ってみたが、


(どうあがいても私……っ!)


 何度やっても答えは「おめーのせぇだから!」一択。命とシルスターの対立が遠因であることは火を見るより明らかであった。

 どころか、ペンダントをなくした件も命が遠因である可能性が高い。心清らかな根木は「なくした」と言うが、命は九分九厘「盗まれた」ものとして捉えていた。

 共通実技の着替えの間にペンダントをなくす? そんなことあり得るのか? いや、あり得んてぃー(若者言葉で「ありえない」の意)。


「…………」


 胸の内にふつふつと罪悪感が湧いてくる。事ここに至って、無関係だと言えるほど非情な人間ではない。命は、今度こそ文字通り立ち上がった。


「行きましょう。失せ物が消えてしまう前に」


 腐りかけのお嬢さまのため、何より自分の心の安寧のために。


「命ちゃん!」


 根木が弾けるような笑顔を見せた。命はその眩しさに、一瞬目を眇めた。やめて……私、そんなピュアな人間ではないのです。


「命ちゃんなら、きっとそう言ってくれるって信じてたよ! でも、どうしてかな。命ちゃん、急に汗かいてない?」

「これは心の涙です。大事なものを失う悲しみを、私もひしひしと感じているのです」


 ひしひしと感じているのは罪悪感であるが、命は体裁を繕った。黒髪の乙女は見栄えも大事なのである。

 双方の間に多少のすれ違いはあれど、向いている方向は同じである。そうとなれば話は早い。二人は一緒に3号棟の講義室から飛び出した。




     ◆




 これは命も友だちゲームの最中(さなか)に知ったことだが、命と根木はなかなかに相性が良い。理論派の命は慎重になるあまり初動が遅れることがある一方、行動派の根木は初動こそ早いが途中で迷子になることがあった。

 しかしその問題も、二人が手を取り合えばいとも容易く解決してしまう。

 いつも先に手を差し出すのが根木で、走り出したら考えるのが命の役目だった。それが最適解であることを二人はどちらからともなく認め、実践していた。


 それを合理的の一言で片付けてしまうのは、あまりに味気ない。何より根木が合理性を追求しているとは、命にはどうしても思えなかった。

 なら、どうしてこのような役割分担が成り立つのか考えると、心から返ってくる答えは至ってシンプルなものだった。


 根木が走り出した道に、命が意味を与える。

 こうして二人で雨のキャンパスを駆けて、講義棟の階段を上り下りする、ただそれだけのことが楽しかった。

 根木と一緒に走ることは、命に原初の楽しさを思い起こさせた。

 それは命の背丈が今の半分にも満たないころに感じたものだ。

 寂れた神社を、鬱蒼とした野山を、何もないただ優しい時間だけが流れる田舎町をひたすらに駆け回っていた、あのころ。

 何が楽しかったのかと問われれば、何もかもが楽しかった。目に映るすべてが新鮮で、息を切らすことすら楽しかった、あのころのおぼろげな記憶がよみがえった気がして。

 命は童心に帰ったように駆けた。


 東にボドゲ研がいれば、ナローゲートで遊ぶ約束を取り付けた後、ペンダントの捜索協力も取り付け。

 西に山田がいれば、スパイごっこに興じ「こちら命、オーバー」「こちら山田、オーバー」。ついでに偵察報告を受けた後、追加ミッションも与え。

 南に青菜がいれば、通り過ぎ。「いやいや、ちょっと待って!」と根木の一声で来た道を戻った後は、やはりペンダントを探してとお願いし。

 北に中華コンビがいれば、根木は小喬に抱きつき、命は紅花のお団子頭をポンポンして殴られ。根木と小喬は相変わらずの仲の良さを発揮して談笑する傍ら、命は気を取り直して「今日もおキレイですね!」と挨拶しさらにもう一発。途中、廊下を這いつくばったりもしたけれど、事情を話すと中華コンビも快く手を貸してくれた。


 そうして東行西走(とうこうせいそう)南行北走(なんこうほくそう)した果て。二人が辿り着いた先は1-D、灼熱の貴公子――アレク=ウォンリーの所属するクラスだった。

 しかし、そこに1-Dの代表格とも言うべきアレクの姿はない。灼熱の欠けた教室はモモやウィルのいるクラスと比べると活気に欠けたが、別段問題はない。命が用があったのもアレクではなく、別の女生徒であった。


(ああ、いたいた)


 その女生徒は探すまでもなく見つかった。灼熱と対をなす闇は、ただそこに(わだかま)るだけで異彩を放つ。顔にラインストーンをあしらう好き者なんて、彼女ぐらいのものだろう。


「おや、これは珍しい」


 ランチボックスからサンドウィッチを運ぶ手を止める。命たちと目が合うと、闇商人――ポーシャ=マルティーニは薄く微笑んだ。


「ポウちゃん、おひさーたーあんだぎー!」

「やあ、おひさーたーあんだぎー。プレーン、黒糖、きなこに紅芋。甘くて、おいしいサーターアンダギーはいかがかな。ほっかほかのサーターアンダギー」

「石焼き芋みたいに売り始めた!」

「買った!」

「しかも買った――ッ!」


 おひさーたーあんだぎーとは一体……なんて思っている間に、根木とポーシャの間で売買が成立していた。放課後までにブツ(砂糖天ぷらのこと。中毒性はない)を用意して受け渡すとのことだった。

 相変わらず商魂たくましいというか、骨の髄まで商人というか。微苦笑を浮かべる命に対し、ポーシャは流れるように売り込みをかけてくる。


「お前さんもお一つどうだい?」

「いえ、私は遠慮しておきます。今日は別の用事で来たもので」

「ほう……別の用事」


 一瞬、ポーシャの瞳が妖しく輝いたのを、命は見逃さなかった。黒髪の乙女としては反社会的な人物とはあまりに関わりたくないところだが、彼女ほど有用な人物はそうはいない。命は黒い繋がりから目を背けつつ、本題に移るとした。


「ええ。実は失せ物を探していまして」

「そうなの。フィロちゃんが大事なペンダントをなくしちゃって。えーっと、えーっと……インペリアル・トースター・エッグってやつ!」


(皇室の朝ごはんかな?)


 命はやんわりと訂正を入れた。正しくは、インペリアル・イースター・エッグ。鶏卵の形を模した工芸品であり、フィロソフィアが無くした物は首飾りの形を取っていた。


「ああ、更衣室で一悶着あった件か。それなら聞き及んでるよ」


 さすが闇商人。耳が早いし、話が早い。ポーシャは一流の商人がそうするように、客の要望を先読みして話を進めた。


「それで、私に手がかりになる情報を売って欲しいってところかい?」

「そ――」


 あと一瞬遅れていたら首肯していたであろう根木を制し、命は首を横に振った。


「いえ。私が欲しいのは、無くした物と同じ型の首飾りです」


 命のそのオーダーに一番困惑したのは、ポーシャでなく根木だった。根木は目を白黒させていた。


「命……ちゃん? ちょっと待ってよ……。それじゃあ、まるで――」


 根木の声なき声をはっきりと聞き取った上で、


「ええ。偽物とすり替えようと言っています」


 命は堂々とフィロソフィアを欺くと言い切った。


「そんな……。大事な、大事な物なんだよ。フィロちゃんとフィロちゃんのお姉ちゃんの思い出を、命ちゃんは偽物にすり替えるの?」

「……私だって、好きでこんなこと言っている訳じゃありません」


 根木の非難は痛かった。命は一度目を伏せようとしたが、強い意思を持って根木と向き合った。


「でも……これだけ探してもないということは。茜ちゃんだって、薄々は気付いているのでしょう?」


 根木は命の問いに答えようとしたが答えられず、ただもどかしげに唇だけを動かしてから口を閉じた。アホの子の彼女だって、本当はわかっていた。

 善意しか溢れていない世界なんてありはしないことは。

 フィロソフィアはペンダントを落としたのではなく、誰かに盗まれたのだということも。そしてそのペンダントをかれこれ一時間近くも探しているのに見つからないということは、それを見つけ出すことが極めて難しいということも。


 セントフィリア女学院の広大な敷地面積に加え、本校のキャンパスを行き交う二千人規模の女生徒たち。このなかから一つのペンダント、一人の犯人を探すことなんて……。

 いや、広さや人数すらも問題ではないのかもしれない。

 悪意を持った誰かが犯行に及んだのであれば、フィロソフィアのペンダントはもう……。嫌な想像が頭をよぎる前に、命は結論を下した。


「大丈夫です。後のことは私が上手くやっておきますから」


 命のどこか弱々しい笑顔を見ていると、根木の唇は心とは裏腹に沈黙を守ってしまう。

 この嘘がバレれば、フィロソフィアは烈火のごとく怒るに違いない。彼女は命を叩きのめしに来て、命は無抵抗でそれを受け入れるのだろう。後に残るのは誰も報われない結末だけかもしれない。

 それでも、彼は嘘をつくと決めたのだ。

 たとえ偽物のハッピーエンドだとしても、誰も泣かなくて済む可能性(せかい)があるならば、そちらに賭けなくては嘘というものだ。


「…………」


 二人の間に流れた数秒の沈黙が答えだった。腹は決まった。話も決まった。ポーシャの方へと向き直り、命が商談に臨もうとした、そのとき、


「お前さんは本当にそれでいいのかい?」


 意外にも、命の行動に待ったをかけたのはポーシャだった。


「私はこれでも商人の端くれだ。お客さまが望み欲するものがあれば、用意するのが筋さね。でもね、何でもは売れない」

「……同じ物がないのですか?」

「探せばあるだろうよ」


 インペリアル・イースター・エッグなんて代物が、闇商人の手を介さずに流れたとは思いがたい。売買に携わったのがポーシャでなくても、アガルタ商会の伝手を使えば同じものを入手することは可能だろう。


「では、なぜ」


 揃えられる品物を客に売ってくれないのか。命の問いかけに、ポーシャは即答する。


「簡単なことさ。私が売れないものは二つ。一つは仕入れられないもの、もう一つはお客さまが心から欲していないもの。買い手が本当は欲しくないものを売る……そんな虚しい商売をするぐらいなら、私は闇商人なんて明日にも辞めるさね」


 ポーシャにも闇商人としての挟持がある。ヤクザな商売だと後ろ指を差されることには耐えられても、闇商人としての務めを全うできないことは我慢ならなかった。


「私が取り扱ってるのは商品であって商品じゃない。モノの形を借りた人の欲望だ。だから遠慮会釈なく言えばいい――お前さんが本当に欲しいものを」


 命は瞠目せざるを得なかった。闇商人なんて名乗るからには(よこしま)な人物だろうと思っていたが、ポーシャの業の深さは命の想像を遥かに超えていた。

 人であって人でない。人の形をした悪魔に囁かれている気すらする。だが今だけはこの悪魔に魅入られてもいい。命は一度唾を飲むと、無意識の内に欲望を垂れていた。


「インペリアル・イースター・エッグを……彼女が無くしたペンダントを下さい」

「それは無理さね。言っただろう、仕入れられないものは売れないって」


 闇商人がくつくつと喉を鳴らす。命は虚を突かれた思いがした。私はこのトンチのような遣り取りをどう考えたらいいのか自問し、ややあってからスカートのポケットに手を伸ばした。すっと、命が取り出したのは手のひら大の陶器。自警団の双子、レッドラム姉妹からもらった乙女のオカリナだった。


 これを9時17時(くじごじ)の間にぴーひゃら吹くと、自警団がすっ飛んでくるという素晴らしい逸品である。

 きっと闇商人なんてヤクザな商売をしているのだから、叩けば埃なんていくらでも出てくるだろう。命は哀愁を帯びた目で、


「短い付き合いですが、お世話になりました」

「待て! ちょっとした冗談さね――ッ!」


 さよならを告げたが、ポーシャが光の速さで演奏を阻止した。飄々とした闇商人にしては珍しく、その顔に焦りの色が見えた。


「頼むから本当にやめてくれ。本当に……あの生徒会長だけは洒落にならんさね」

「洒落にならんって……大げさな」


「大げさなものか」命の言葉を打ち消すかかのごとく、ポーシャは何度も首を横に振った「あれは、私の姉弟子をブタ箱にブチ込んだ女だぞ」


 ポーシャの姉弟子ということは、闇商人を追放したということか。オルテナの正義感の強さを思えば、あり得ない話ではないが。


「でもその人、悪いことしていたのでしょう?」

「……まあ、アイスとか野菜とか売ってたけど」


(それ両方とも麻薬の隠語ですよね……)


 闇商人が闇をのぞかせる傍らで、「ほへぇ。アイスと野菜って売るのに資格がいるんだね」と根木が感心していた。命は面白いので放って置いた。


「それ、10:0(じゅうぜろ)で貴方の姉弟子が悪いのでは?」

「ふっ……善悪の基準なんて時代によって変わるもんさね」


 この女、いけしゃあしゃあと……。思うところはあったが、命は胸の内に留めておいた。違法薬物の売買について語りたい訳ではないし、それは相手も同じであろう。


「ともかく、問題はその後だ。姉弟子ごとき小物が捕まろうとどうでもいいが、こっちにも面子ってもんがあるさね」

「ははん。さては貴方、姉弟子のこと嫌いですね?」

「コメントは控えるさね」


 控えたことがコメントの全てであった。ポーシャは一呼吸置いてから話を再開した。


「詳細は伏せるが、アガルタ商会はオルテナを商売の邪魔になると見て圧をかけた」

「……うわぁ、一高校生に対して大人げない」


 オルテナ本人か、家族か、あるいはもっと大きなコミュニティか。いずれにせよ、オルテナが不利益を被るような行為に及んだのだろう。


「私も当時はそう思ってたよ。当時はね」


 どこか含みのある言葉の後、ポーシャは三本指を立てた。


「三人だ……その日の内に三人がブタ箱にブチ込まれることになった。診療所を経由した後にね」


 それは命のものか根木のものか、ひゅっと息を飲む音が聞こえた。


「その三人には悪いが、私は自分が標的じゃなくて良かったと心の底から思ったよ。肌が粟立った……私はあんなに綺麗な半殺しを見たことがない」


 綺麗な半殺し。その言葉の意味するところを、命も根木も問うような真似はしなかった。

 そこで、ポーシャの話は終わった。中途半端なところではなく、本当にそこで話は終わりなのだろう。命はオルテナが闇商人に狙われているなんて話、聞いたこともない。そこから導き出される答えは一つだ。アガルタ商会は、オルテナから手を引いたのだろう。


 命はほんの少し青ざめたポーシャを見つめたまま、


「…………」


 そっと口元にオカリナを近づけた。


「悪魔かっ!」

「悪魔とは失敬な。どちらかといえば、ラッパを吹く天使です」

「なおのことタチが悪い――ッ!」


 天使のラッパは七度鳴らすと人類を滅亡に追いやると言うが、命のオカリナは一吹きで闇商人をブタ箱に追いやる。


「さあ、二つに一つです! 快く私たちに協力するか、潔くお縄につくか、どちらか選んで下さい。私は前者を勧めますけどね」


 タチの悪い天使は、悪魔も真っ青な笑みを浮かべていた。ヘイヘイヘイヘイ! オカリナは吹いたことがないけど、ドかファかミかソか、何だかよくわからない音を奏でるぞ! オカリナをチラつかせながらポーシャに迫る命を、根木は冷ややかな目で見ていた。


「命ちゃん……さすがにそれは悪役すぎない?」

「大丈夫です。お上だって司法取引とか言って、似たようなことしています」


 魔法少女の四大組織の一つ”法の薔薇園(ロウズガーデン)”に聞かれたらぶっ殺されかねない発言だが、命も手段を選んではいられなかった。


「それに……時間がないのです」


 命は横目で教室の壁掛け時計を見る。その時針は昼休憩の終わりに近づいている。


「ふむ」と同じく時計を見遣ったポーシャが小さく頷いた「そろそろ、ちょうどいい頃合いか」


 命たちが過ぎ去る時を惜しむ一方で、彼女は時が満ちるのを待っていた。急ぐばかりが能ではない、休むもまた相場である。


「お前さんは何をそんなに焦っている?」

「何をって……」


 それはフィロソフィアのペンダントが永遠に失われてしまうことを――そこまで考えて、命は目を見開いた。


「……そうか」


 かすかな笑みを浮かべるポーシャと、命は同じ発想に至った。

 矛盾している。そもそも仮説を立てた時点で間違えていたのだ。

 命には人の裏を読もうとするきらいがある。それの良し悪しはともかく、今回はそれが裏目に出ていた。


「突発的な犯行なんだ、これ」


 この犯人の行動(コイン)には表しかない。必死に裏を読もうとすればするほど、命と犯人の思考は食い違う。思考回数を重ねるほどにその差は広まり、命は危うく犯人を見失うところであった。

 だいたいにおいて、犯人はどうしてフィロソフィアに嫌がらせなんて働いたのだ?

 シルスターの手下が犯行に及んだのだとしたら、それはもう愚行と呼ぶほかない。


 シルスターとの対立を深めることは、命たちとフィロソフィアを近づける一助となる。敵の敵が味方になるかは怪しいが、共通の敵を持つ者が一時的に手を組むのはよくあることだ。


 つまるところこれは、


(頭の悪い犯行……っ!)


 バカと断ぜざるを得ない。カモがネギと鍋と調味料一式を背負ってやってきたようなものである。一石二鳥どころか、一鳥捕らえるだけでカモ鍋の一丁上がりだ。この機を逃す手ははい。命は一度頭をリセットする。同じレヴェルでものを考えようとするから、すれ違うのだ。バカだ。もっとバカになれ。IQをあと30ぐらい下げた発想が要る。


「茜ちゃん!」


 他意はない……他意はないが、命は根木を指名した。


「仮に、仮にですよ。茜ちゃんが犯人だったとしたら、どうして盗みを働いたのだと思います?」

「盗む……盗むのは良くないけど、どうしても欲しかったとか」

「惜しい! けど他に理由があったとしたら?」


 いいぞ、会話のIQが落ちてきた。命は逸る気持ちを抑えながら、回答を待つ。根木は右に左にメトロノームのように首を振りながら考えていた。


「ううん……私が欲しいわけじゃない。だとすると、それを盗ることで…………誰かが喜んでくれるとか」

「それだ!」


 来た。完全に来た。もつれた糸が解けるような快感が頭を巡る。最初から考えるべきはペンダントの在り処ではない。犯人の動機だったのだ。煙るような雨の向こうに、命は犯人の姿を捕らえた。


 命の表情から何かを読み取ったのか、根木はニッと笑う。彼が考えたのなら、今度は彼女が信じて走り抜ける番だ。


「善はハリー! レッツラゴーだよ、命ちゃん」

「はい、行きましょう!」


 束の間の休憩を終えた二人は、また動き出す。幼児が息切らすまで走って、疲れて、また走り出すように。弾かれたように、二人は1-Bの扉から外に出ていった。

 引き戸がレールを滑る音。勢い良く飛び出した根木が見当違いの方向に走り出して命が引き止める声。それらの慌ただしさが風のように過ぎ去った後、ポーシャはふっと笑った。




 何の変哲もない空き教室に二人の女生徒がいた。一人は机に腰掛けぶらぶらと足を揺らし、もう一人は背筋をしゃんと伸ばして立っていた。

 行儀の悪い方――斉藤=シカコは鼻を膨らませ、得意げな顔をしていた。

 やけに上機嫌だ。何か良いことでもあったのだろうか。

 行儀の良い方――エゾ=ロモフは、無言でシカコを観察していた。

 ころころと変わる友人の表情は見ていて飽きない。それがうれしそうな顔だと、自分の乏しい表情まで少し明るくなるのだ。


 機嫌が良い理由を聞くべきか、聞かざるべきか。エゾが考えていると、先にシカコがしびれを切らした。もったいぶってみたはいいものの、彼女は何かをもったいぶれるほどの我慢強さを持ち合わせていなかったのだ。


「じゃじゃーん!」


 ありきたりの効果音。しかし、それとともにシカコがポケットから取り出した物は、エゾの乏しい表情に驚きの色を塗った。

 二度、そして三度見たが、間違いない。

 シカコが手にしている物は、フィロソフィアがなくした……いや、正確には盗まれたペンダントだった。


「それ……どうしたの?」

「盗ってきちゃいましたー!」


 アケビやキノコじゃないんだから……、エゾは頭が痛くなりそうだった。

 シカコは知らないのだ。あのペンダントがなくなった後、どれほどの騒ぎに発展したのか。


 フィロソフィアは怒り狂い、嫌疑が晴れるまで何人たりとも更衣室から出るなとわめいた。当然、反発する女生徒もいたが、あのワガママお嬢さまが言うことを聞くはずがなかろう。怒りのままに風を巻き起こし、更衣室は制服に下着、それに怒号が飛び交う事態となったのだ。

 エゾなんてお気に入りのパンツが糸くずと化す憂き目に遭ったのだ。その事件の犯人が、まさか目の前にいようとは。エゾはわずかに眉根を寄せた。その顔を見て、シカコが不思議そうに首を傾げた。


「どったの?」

「……何でもない」


 恨み言を言おうかとも思ったが、お気に入りのパンツの話をするのは恥ずかしい。エゾは下着のことはあきらめて、今目の前にある問題に目を向けるとした。


「いや……何でもある」

「だから、どったの?」


 方や口下手、方や舌足らず。第三者が聞いたら難解極まる二人の会話も、二人にとってはただの日常会話だ。エゾは気にせず言葉を紡いだ。


「返そう、それ」

「え」


 シカコは分かりやすく驚いた。彼女がこんなに驚いたのは、大根の葉っぱが食べられることを知ったとき以来、実に昨日ぶりのことであった。


「どうして? 私……頑張ったのに」

「それは、危険すぎる」


 エゾならまだしも、シカコ一人ではフィロソフィアには及ばない。あの荒れ狂う風のようなお嬢さまが真相を知ったとなれば、シカコの身が危険だ。

 それに……デメリットが大きすぎる。

 仮にフィロソフィアへの嫌がらせが成功したとして、シルスター陣営が得られるものは皆無に等しく、むしろリスクを買うようなものであった。

 エゾはそのことを正しく理解した上で、口をつぐんだ。一度吐いた言葉は飲み込むことができない。エゾはそのことをよく知っていた。


「そっか……喜んでもらえるかなって思ったんだけど、駄目か」


 ぽつりと。雨が地面に染み込むように、シカコが独白した。


「この前さ、私たちがフィロソフィアをボッコボコにしたとき、シルスターが珍しく褒めてくれたじゃん。だから今度も褒めてくれるかなって思ったんだけど。役に立てたかなって思ったんだけど……やっぱダメか。私、頭悪いもんね」


 ぎこちなく笑う。シカコの良いところはそのわかりやすさだと、エゾは思っている。だが、今は彼女の笑顔が、ほんの少し胸を締めつけた。

 誰かのための思って行うことが、必ずしも誰かのためになるとは限らない。

 シカコのやっていることは根本的に間違っているし、呆れ返る人もいるだろう。

 でも、


「ダメじゃ……ない」


 誰かのことを想うこと。それ自体は間違っていないのだ、とエゾは信じていた。いや、そう信じたかった。

 口下手なエゾは「ありがとう」と何に対してか曖昧な感謝を述べ、シカコの頭を軽くなでた。友だちの顔が少し和らいだのを確認する。そののち、エゾはシカコに向けて手を伸ばした。


「これは、私が預かっておく」

「……大丈夫? 危ないんじゃないの?」

「大丈夫。上手くやる」


 イルゼに報告を上げる前に、フィロソフィアの耳に真相が届く前に、私が全てを片付ければ問題ない。

 そのエゾの判断は概ね間違っていなかった。惜しむらくは、彼女には想像力と周囲への警戒心がほんの少し足りていなかった。

 エゾがシカコのペンダントを受けとった瞬間、


 ――見イツケタ。


 雨季の湿気よりもじとりした視線が、エゾの肌をなでる。エゾは半ば強引にシカコからペンダントを奪った。

 カラカラと教室の引き戸が静かにずれる音。

 視線の先には、長く美しい黒髪を持つ乙女が立っていたが、エゾにはそれが柳の下の幽霊にしか見えなかった。




 ビンゴ!

 心中でそう叫ぶぐらいには苦労させられたが、犯人を探し当てた喜びが勝る。命と根木は、エゾとシカコのいる教室に今まさに足を踏み入れたところだった。


「あー!」と声を上げ、根木がエゾを指差す「フィロちゃんのペンダント!」


 現物を知る根木のお墨付きだ。間違いないだろう。命は精緻な装飾が施された卵型のペンダントをちらりと見てから、視線をエゾへとずらす。

 相手は人の大事なものに手をかける悪党だ。そう思えば、意地の悪い態度をとることは簡単だった。


「いけませんねえ。人のものを盗るのは、れっきとした犯罪ですよ?」


 女装して女子校に潜入するのもれっきとした犯罪であるが、それはさておこう。命はゆっくりとした足取りで、一歩また一歩と二人に近寄る。


「八坂、命……っ!」

「はい、八坂命です」


 笑顔で自己紹介を終える。これ以上の挨拶は不要だろう。犯人の動機が止むに止まれぬものだろうとお涙頂戴であろうと、命のやるべきことは変わらない。犯人が兇行に及ばない程度に「人間のクズめ!」と糾弾し、取るもの取ったらさっさと帰る。火曜サスペンス的展開はノーセンキューである。この後も予定が詰まっているのだ。


(それにしても、人は見かけによりませんねえ。あんなにも美しい立ち姿の人が盗みを働くとは)


 命たちが教室に入って初めに見た光景は、エゾがペンダントを手にした姿だ。だから、二人の意識は自然とエゾに向いていた。


「私の言いたいこと、わかりますよね?」


 エゾの前で立ち止まる。命はすっと手を伸ばした。手の届く距離であったが、命は泥棒ではない。彼女が自発的にペンダントを返してくれることを期待していた。それは、今なら穏便に事を収めようという意思表示であったが、返答は命の意に沿わぬものであった。


「……嫌だ、と言ったら」


 静かだが確かな拒絶。命の眉がぴくりと動いた。


「仕方ありませんね。そのときは力尽くで……と言いたいところですが、見ての通り私、かよわいですから」


 命はクスリと微笑う。弱さのなかにどこかいやらしさを湛えて。


「そのときは泣く泣く帰って、真相だけでも世に広めますか」

「……っ!」


 チクリ戦法! それは絶大な威力を誇る一方で、卑怯者だと後ろ指を差されるリスクも孕んだ、いわば諸刃の剣である。しかし、今日の命には正義がある。奪われたペンダントをゲットバックするという正義が!

 正義があれば怖くない! 正義は多少の不義不正を覆い隠してくれるのだ。


 教師にチクるも良し、身近な女生徒から拡散するも良し、新聞部にリークするのも乙である。命にはいくつも選べる手段があった。しかしまあ、そのどれを選んだとしても、確実に動くのは被害者である、彼女であろう。


「きっと真相を知ったら黙ってないでしょうね、あのお嬢さまは」


 フィロソフィア=フィフィーが黙ってない。


 一度はコテンパンに叩きのめしたとはいえ、あれは相当に執念深い。野生のお嬢さまが幾度となく襲いかかってくれば、この二人だってタダでは済まないはずだ。それは、エゾの険しい表情が物語っていた。彼女はしばし逡巡した後、どうにか言葉を絞り出した。


「卑怯者……っ!」

「どっちが?」


 はい、カウンター。命は的確な攻撃もとい口撃を加えた。平時であれば苦言を呈されたかもしれないが、今回ばかりは根木も命の味方だった。


「そうだよ! フィロちゃんがあんなに大切にしてたペンダントを盗るなんて、卑怯だよ! 卑怯そのものだよ!」

「…………」

「エゾちゃんだって知ってたでしょ? フィロちゃんがどれほどあのペンダントを大事にしてたか。いつものシャツの下に隠してるのに、時々見せびらかすように取り出して、意味もなく磨いてたでしょ! しょっちゅう!」


(うわあ……)


 そういうことしているから、目をつけられるのだ。当人にも問題があると思う反面、フィロソフィアのその行動は憎めなくもあった。

 事実、命の直接的な(そし)りより、根木の情に訴える言葉の方がエゾには効いている風に見えた。


「あんまりだよ……人の大事なものを壊して、次は盗むの?」

「ちが――」

「シカコは黙って――ッ!」


 黙していたシカコが口を開くと同時に、エゾが抑えた。根木の指摘はこれっぽっちも間違っていなかった。

 形見の杖を折り、贈り物のペンダントに手をかけた。誰の指示であろうと、それを実行したのは他ならぬエゾとシカコの二人である。

 それは自覚しているからこそ、エゾは苦しい。罪の意識に苛まれていた。落ち着けようとするほどに呼気が荒くなり、目つきが険しくなる。


「…………」


 命はじっとエゾの顔を見る。目を逸らさず、今度ははっきりと要求した。


「返して下さい」


 対するエゾの返答は、


「……帰って」


銀の剣(アゾット)】とともに命の首筋へと向けられた。

 奇しくもそれは、命とシルスターが演じたコートマッチの終局と同じ構図であった。命が望めば、あの日の続きを演じることもできるだろう。

 だが、命はあの日舞台を降りた。あの日間違いなく主役だった彼は、どこにでもいる誰かへと戻り、あてどない道を歩くのだと決めた。見たいのはあの戦いの続きではない。その先にある未来だ。


「ていっ!」


 気合一発。命はエゾの手首めがけて手刀を放った。隙だらけの手首が容易に揺れる。力ない手からペンダントが滑り落ちる。命は床に着く前になんとかそれを捕まえた。傷でもつけようものなら、あの腐りかけのお嬢さまに何を言われるかわかったものではない。


「小手、一本。私の勝ちです」


 どやぁ。これが剣道初段の力である(ただし破門済)。命は一本取ってやったと言わんばかりに得意げな顔で言った。


「このペンダントは、たまたま私が拾った。それでいいですね?」

「…………」


 やはり返答はない。だがそれで良い。エゾから発せられる張り詰めたものが、ほんの少し緩んだ。命にはそう思えた。


「別に言いふらしやしませんよ。私だってこれ以上の面倒ごとは御免です。ただ――」


 そこで一呼吸置く。


「やった側は直ぐ忘れても、やられた側はなかなか忘れないものです。たとえば、そう、そこで黙りこんでいる貴方」


 命の視線の動きに合わせて、シカコがうつむいていた顔を上げる。その顔は「私?」とでも言いたげであった。


「お恵みいただいた消しゴム、今でも持っていますよ。まあ、消しカスなので使い道はありませんが」


 お前の顔は覚えている……。

 4月最終週の水曜日。水魔術基礎A-3の講義。大胆にもクラスメイトでありながら、後列から消しゴムのカスをぶつけてきた女。

 斉藤=シカコ……お前のことだ。


「……っ!」


 まさかそんな(第92話)のことを引っ張り出してくるとは。シカコは喉元までこみ上げてきた情けない声を呑み込む。「シカコは黙って――ッ!」と言われたので、彼女は律儀にその約束を守っていた。


 静まり返った教室には、ひそやかに降る雨の音だけが満ちていた。

 エゾとシカコから敵意は感じられない。少なくとも、今は。

 この辺りが潮時であろう。雨音で多少の雑音は薄れるとはいえ、二つ三つ離れた教室では講義をしている。大ごとになれば立場が悪くなるのは、命たちも同じだ。


 取るものは取った。もうここに留まる理由もない。命はエゾとシカコに背中を向けて歩き出した。途中、ふくれっ面の根木(怒っているのだろうが、お餅のようにしか見えない)の肩を叩いて、退却の意を示す。

 別れの言葉を交わすこともなく、二人は無言で教室を後にした。


 廊下を歩き階下へ降りたところで、ようやく根木が口を開いた。


「ペンダント、見つかって良かったね」

「ええ、全くです」


 壊されている可能性も、永遠に見つからない可能性もあった。だが命はもう一つの可能性に賭けていた。

 フィロソフィアの首飾りは、盗品であると同時にも首級でもある。敵将の首を上げたところで、その首が誰の物かわからなければ、意味がない。犯人の原動力が誰かに喜んでもらうことならば、形ある手柄をぞんざいに扱わないだろう、と踏んでいた。


「それにしても、どうして犯人の場所がわかったのかな。とっても不思議系」


 ただ命を信じて突っ走ってきた根木には、どうしてもそれがわからなかった。1-Bから一直線に犯人の居場所まで向かった命の行動は、魔法のようですらあった。


 うーん、と命が唸る。目を輝かせる根木には悪いが、あまり面白い理由ではない。どう説明したものかと、少し考えた。

 命がやっていたことは、基本的に地道な絞り込みである。

 多人数で同じ場所を探しても仕方がないので、命は捜索中に会った友だちには特定の範囲を調べてもらうようお願いをしていた。

 連絡がないということは、そこは望み薄の可能性が高い。そうして、1号棟、2号棟と候補を削っていく。


 幸いにも天候も味方してくれた。密談をするのであれば、人気のない建物の裏で行われる可能性もあったが、この雨であれば外を利用する可能性はグッと下がる。


 これらの情報を整理して、割り出した候補が白亜の城であった。食堂棟……という線もあったが、これは除外。犯人も人が密集する食堂棟で、盗品をおおっぴらに出すほど大馬鹿ではないだろう、と信じることにした。


 最終的に残った白亜の城には、クラス単位で講義が行える小教室が無数ある。このなかで講義が行われていない教室は、密談をするにはうってつけだろう。

 と、そこまでは絞り込みは完了したのだが、ここでもまた問題が一つ発生した。


 一口に空き教室と言っても、それはどこだ?


 命だって、全講義のスケジュールを押さえている訳ではない。これは片っ端から探すしかないかとあきらめかけたが、思いがけぬことが犯人の居場所を探す決め手となった。


「あの教室、三週間前ぐらいに使った覚えありませんか?」

「三週間? 私、あの教室で講義受け……」


 そこで根木はふと三週間前という具体的な時期に引っかかり、思い出した。


「あっ、あああああああああああああー! メロンパン食べた教室だ!」

「……それも合っていますが」


 命としては、友達ゲーム参加合意書を取り交わした教室だと答えて欲しかった。あそこは友達ゲームの始まりの場所である。それ故に因縁が集まる……訳ではなく、シルスター陣営もあそこを定期的に活用していたのだろう。

 今日、この曜日、この時間帯に限っては。


 ――そろそろ、ちょうどいい頃合いか。


 本当に、あの闇商人には頭が下がる。人の心理や癖を読み取る技量に関しては、秀でたものがある。今回ばかりは、ポーシャが味方であることに感謝するしかない。


「人間は、無自覚に同じ選択を繰り返す生き物だということです」

「何だかよくわからないけど深イイ~」


 なんて浅い感想……、命には理解できない感覚であったが、理解できないままに理解するとした。思考の深さがときに仇になることは、今日身をもって思い知らされている。

 それに、無自覚に同じことを繰り返すということは、命にとっても笑えない話である。


 同じことを繰り返すのは安心できる。でもときには一歩外に踏み出して、新しいことにチャレンジしないといけない。

 たとえば、大嫌いな少女と仲良くなる努力をするとか。


「それじゃあ、拾い物を困ったお嬢さまに返しに行くとしますか」

「うん!」


 二人は意気揚々と1-Bの教室に向かったが、大切なことを見落としていた。それはフィロソフィアもまたペンダントを延々と探しているということを。

 命たちは幸運にも恵まれてペンダントを取り返すことができたが、幸と不幸は裏表のコインである。

 次に「やあ」と不幸が顔を出しても、文句をいうことはできない。


 命たちはフィロソフィアを探した。フィロソフィアはペンダントを探した。そして乙女たちは延々とすれ違った。

 フィロソフィアの目撃談を頼りに向かった先では、お嬢さまはもういないと聞かされ。そこで得たお嬢さまの目撃談を頼りに向かった先では、またお嬢さまはもういないと聞かされ……。

 お前はどこのサマルトリアの王子だと言わんばかりの追いかけっこをしている内に、気がつけば放課後を迎えていた。


(あんの、腐りかけのお嬢さまがああああああああああああああああああああ――ッ!)


 最初から最後まで面倒をかけるとは何ごとだ! 命は表向きこそ平静を装っていたが、その苛立ちが伝わったのだろう。根木は頻りに命の顔色をうかがっていた。


「落ち着いて、命ちゃん。あとちょっとで見つかるよ!」

「見つかるといいのですが……私とあのお嬢さまは縁がないですから。星の巡り合わせが悪い、とでも言うのでしょうか」


 出会いは最悪だし、何をやってもすれ違い、たまに引かれ合ったと思えばやはり反発し合う。ここまで来ると、もはや相性という言葉では片付けられない。黒髪の乙女と金髪お嬢さまは、星の配置レヴェルで相容れないのかもしれない。そんな思いを命は抱いていた。


「そっか、星の巡り合わせか……でも何だかそれ、ロマンチックだね」

「えっ」

「だって織姫と彦星みたいだもん。会えないときは寂しいけれど、会えたときの喜びは一塩ってやつだよ」

「……織姫と彦星、ね。雨が降っている日は会えないらしいですけど」

「なら晴れた日なら会えるんだね!」


 晴れろー、晴れろー、と根木は手のひらから窓の外の雨雲に向けて、謎の気を送り出した。その光景が何だかおかしくて、命は知らずの間に苛立ちを手放していた。

 彼女はポジティブシンキングの天才で。

 太陽のような女の子である。

 雨雲に覆われて見えないものとばかり思っていた太陽が、まさか直ぐ側にあるとは。命は思わず感心してしまう。

 でも、それはそれ。


「会えるといいですね。でも会えなかったときは約束通りこのペンダントは預けるということで」

「ええ~! 直接渡してあげようよ」

「後の予定もあるでしょう。そちらは間に合わなくなっても良いのですか?」


 元より二人はこの日、大事な予定があった。お嬢さまには悪いが、この件は早く片付けて次に向かわなければいけない。


「……うー、わかった」


 根木は不承不承ながらも頷いた。その顔には不満がありありと見えたが、それはフィロソフィアを早く安心させたい一心から出たものであることを、命も理解していた。


「大丈夫ですよ。仮に会えなくても、あの人なら悪いようにはしませんよ」

「そうだよね……うん」


 不安が和らいだのだろう。根木の表情が心なし明るくなった。

 彼女が心配に思うのは無理もないことだ。

 フィロソフィアにはとにかく敵が多い。あの傲岸不遜な態度が気に触るのだろう。預ける人を誤ると、二度とペンダントが返ってこない恐れもある。

 お嬢さまの従者でありルームメイトでもあるエメロットに預けるのがベストな選択だが、あいにく今は彼女に会うことができない。

 友達ゲームと運営であるエメロットと、その参加者である根木と命。両者が下手に接触すると、不正を疑われかねないからだ。


 となると次点で選ぶべき相手は、あの人しかいない。

 いや、次点という言い方は失礼だろう。彼女とフィロソフィアの間にある絆は、命が思う以上に固いのかもしれない。

 命と宮古がそうであるように。

 姉妹(ソロル)の絆というのは、特別なものである。


 階段を、廊下をトレーニング施設代わりにして走る女生徒たちを避けて歩く。すると、ちょうど命が頭に思い描いていた人物と階段の踊り場で遭遇した。


Foo(フー)。これは珍しい風が訪れたな」


 そう言って命たちを出迎えたのは、セントフィリア女学院でも随一の体育会系と呼ばれる部活動、箒部の副部長――リア=ロンバルディであった。


「わっ、グラサン!」


 根木は見たままの感想を漏らすと、リアはフッと唇のふちに微笑を浮かべた。


「あまり目に頼りたくない質でね。風を感じていたいんだ。今日はいい風が吹く。そうは思わないかい?」

「思う! 雨の日に吹く風も乙だよね」

「ほう……これはなかなか見どころのあるお嬢さんだ」


 根木とは通じ合うものがあった様子だ。リアがうんうんと頷く向かいで、命は曖昧に笑っていた。初めて会ったときにも思ったが、リアの感性はなかなかにユニークで風のように掴みどころがない。

 一枚のレンズで作られたサングラスに、緩やかに流れる真ん中分けの翡翠の髪。そのスレンダーな体型も相まってモデルのような風貌の持ち主であるが、その性格は風変わりでどこか近寄りがたい。


 命としてはもう少しお近づきになりたい人物であるが、なかなか心の距離を詰められずにいる。そんな末っ子の気持ちを汲み取ってか、リアの方から声をかけてきた。


「久しいな、風に愛された妹よ」


 風に愛された妹……、命は 妙竹林(みょうちくりん)なあだ名に戸惑いながらも礼を返す。これも不器用な姉の愛情表現の一種なのだろう。リアは命の黒髪が風になびく様が大のお気に入りで、初めてその光景を目の当たりにしたときは感極まって「シナツヒコ」と呟いたほどだ。


 命も後で知ったことだが、シナツヒコとは日本神話に登場する風の神である。その別名を志級長津彦命(しなつひこのみこと)とも書く。

 シナツヒコについて教えてくれた宮古曰く、それはリアからの最大級の賛辞であろうとのことだった。

 歴史のことをカビ臭い、年増と毛嫌いしていても、愛する妹のためならば日本神話まで勉強するのが姉の姉たる所以(ゆえん)である。


「……あれ? リアさんはフィロちゃんのお姉ちゃんなのに、命ちゃんのお姉ちゃんでもあって。でも命ちゃんには姉ヶ崎先輩がいて……あれ?」

「あー、茜ちゃんは知りませんでしたね」


 既知のことのように話していたが、根木とリアは初対面である。命は補足した。


「リアさんとお姉ちゃんは……いや、宮古先輩は姉妹(ソロル)なのです。正確には、去年契りを交わした姉妹ですが」

「ほへえ」と根木が間の抜けた声で感心する。


 去年、宮古はリアと姉妹の契りを交わし、そして今年は命と姉妹の契りを交わした。二年連続で姉役に選出される女生徒は珍しいが、いない訳ではない。

 言われてみればすんなりと納得できる話である。

 命とリアの間に直接の姉妹関係はないが、家系図ならぬ姉妹図を書くと繋がる関係なのだろう。

 と、根木はそこまで頭で整理したところで命に確認する。何か薄ぼんやりとした糸が、もう一本見えた気がしたのだ。


「命ちゃんは、姉ちゃん先輩の妹」

「そうです」

「リアさんは、姉ちゃん先輩の妹でもある」

「そうです」

「そしてリアさんは、フィフィちゃんの姉でもある」

「その通りです」


 根木はそこで一度口を閉じ、頭の中で導き出した答えを口にした。


「命ちゃんとフィフィちゃんは、従姉妹では?」

「…………っ!」


 それは盲点であった。命は驚愕を隠そうともせず口をあんぐりと開けた。なんだろう、この家系図に犯罪者が加わったような気分は……。

 その表情が普段とかけ離れていただめだろう。命の顔を見て、リアが忍び笑いを漏らしていた。


「ふっ……ふふFoo……フィフィーと繋がることがそんなに嫌か?」

「い、いえ。そんな!」


 命はあわてて手を振った。妹のことを貶されたら、姉として好い気はしないだろう。

 そう思ったのだが、


「そんな……そんなことはありますね」

「命ちゃん――ッ!?」


 代わり番こで驚く根木を尻目に、命は正直な気持ちを吐露した。これもシルスターとの対立を通じて得た心境の変化だろう。

 取り繕うことはたやすい。だが嘘で築いた関係は脆い。必要とあらば嘘をつくことも厭わないが、必要なければ嘘をつかないに越したことはない。


 彼はいつだって嘘のベールを被っている。誰と向き合っても、誰と話しても、この国にいる限りは姿形を偽ることからは逃れられない。それは命を縛る鎖であり、同時に命綱でもある。彼はひどく不自由で、黒髪の乙女でいることを止められない。


 だが、課せられた不自由のなかにも限られた自由がある。

 たとえそこが地獄であろうと女人国であろうと。

 自分がいかに振る舞うか。

 その、人間が持ち得る最後の自由だけは誰にも奪わせはしない。


「あの人は――」


 命はありのままの気持ちを語る。それがリアに示せる誠意だと信じて。


「わがままだし尊大です。きっと自分を中心に世界が回っていると思っているのでしょうね。私の大嫌いなタイプです」


 リアの表情はうかがえない。暗い天候も相まって彼女の瞳はサングラスの奥に隠れていた。一拍の間。運動部特有の猛々しい掛け声。床を蹴る音。一際強い風が窓を叩いた。


「大嫌いですが……ほんの少し羨ましくもあります」


 風向きが変わる。風は命の告白を掻き消しはしなかった。


「私は、ああは成れないから」


 周囲の目を気にして、自分を押し殺して生きることばかりが得意だから。まばゆい光が不快に思えて目を閉じてしまう。

 でも今なら、前よりほんの少し目を開けるかもしれない。


「私の大嫌いのなかには嫉妬や憧れや……わずかばかりの好きが含まれているのだと知ることができました。たぶんそれは、彼女に会わなければわからなかったことかもしれません」


 フィロソフィアのペンダントを探す道中は、お嬢さまの心の欠片を拾い集める旅でもあった。

 依然として大多数の女生徒は彼女のことを忌み嫌っているが、根木やリアのように彼女のことを好いている者もいる。

 箒部という大所帯の部活に所属していて。

 ベトナム料理店のニャー・ハン・シンチャオに足繁く通っていて。

 姉妹の契りを交わすときには一悶着あって。

 形見の杖を折られても、姉から贈られた大切なプレゼントをなくしても気丈に振る舞おうとして。

 それでも心のどこかで泣いていて。


 命には命の、フィロソフィアにはフィロソフィアの学園生活があって。自分も彼女も、知らぬ間に変わっていくのだと知った。

 だから今――彼女に会いたい。

 傷一つ付けないように丁寧に。命は【小袋(ポケット)】からペンダントを取り出して尋ねる。


「落とし物をお届けにまいりました。貴方の妹はおいでですか?」


 リアは短い沈黙の後、


「……悪いね。私の妹は風来坊なものでね」


 自らの手を差し出した。もしも曇天が空を覆っていなければ、もしもリアがサングラスを掛けていなければ、命はリアの不自然な目の動きに気づけたかもしれない。しかし過ぎ去った風を追い求めても意味がないように、過去の仮定には何の意味もない。


「ありがとう。それは私が預かっておこう」


 そう言われれば他に選択の余地はない。フィロソフィアに会えなかったときは、そのペンダントをリアに預ける。命が自ら口にした言葉を破る訳にはいかなかった。後ろ髪をひかれはするが、仕方がない。仕方がないのだ。


 お願いします、と一言告げて踵を返す。その命の背中を見て、リアがFooと長い息を吐いた。


「一ついいかな?」


 命を引き止めたのは半分はお節介で、半分は好奇心に寄るものだった。


「風の便りに聞いたが、君たちは友だちを探してあてどなくさまよっているそうじゃないか。どうだろう、私が口添えして一つ貸しにするというのは?」


 それは悪くない提案であった。ペンダントを届けたことを貸しにすれば、フィロソフィアはまず間違いなく貸しを返しに来るだろう。あのお嬢さまが貸しをつくったことを良しとするとは思えなかった。しかし命は首を横に振った。


「やめておきましょう。貸しにするほど大したことをした覚えはありません。それに――」


 命は根木を見遣る。普段は言葉数が多いのに、ときに命の気持ちを汲んで口をつぐんでくれる友だちのことを。たぶん命は自分が思うよりも多くのものを彼女から与えられている。


「これから友だちになろうという相手に、貸しだの借りだの言っていたら笑われてしまいます」


 それでは部活中に失礼しました、と。命は一礼する。満足げな笑みを浮かべる根木と連れ立って歩き階段を降りていった。

 それから程なくして、


「だ、そうだよ?」


 リアは階上の踊り場から降りてきた妹に声をかけた。返答はない。気難しいお嬢さまは雨季にあっても輝きを失わない金髪を揺らし、しゃなりしゃなりと歩く。リアの前に立つと、引ったくるようにペンダントを取った。

 流れるようにペンダントを首につけようとしたが、プレゼントをくれた本人の目の前で付けることに何か思うところがあるのか、スカートのポケットに無造作に突っ込んだ。


「連れないねぇ」


 これもまた無視。連れないからこそのお嬢さま。その辺の雑魚とは違うのだ、と彼女の尊大な態度だけが語っていた。

 仁王立ちになっているお嬢さま――フィロソフィア=フィフィーはむっつりとした顔で腕を組んでいる。

 たぶん何も話したくないし、何かを話したいのだろう。言葉にしなくともその程度のことが伝わるくらいには、二人は姉妹だった。


「人との縁は風の交わりと同じ。知己を持つというのは悪いことじゃない」

「友達? 冗談じゃないわ」


 フィロソフィアはリアの言葉を一蹴する。

 これは彼女の持論だが、人間関係は糸に似ている。人は糸が絡まることを煩わしいと思う反面、どこかで糸が絡まることに安心している。

 ――下らない。

 絡んだ糸はいずれ解け離れていくというのに、人はどうして繋がりを求めて止まないのか。

 フィロソフィアには、自分が選ばれた人間だという自負がある。その辺の有象無象が色のない糸だとすれば、自身のことは金の糸だと捉えていた。

 金の糸は絡まない。彼女は色のない糸の移り気と薄情さにうんざりしていたから。人との繋がりを人一倍恐れていたから。

 だから彼女は、


「あんなの……友達じゃないわ」


 孤独の城から抜け出せない。彼女の心は遠く、北の地にある白雪(しらゆき)の城に今もなお囚われている。

 主従関係も、姉妹関係も結んだ。戯れに猫を飼ってみたり、箒部とやらに所属してみたりもした。それでも、彼女の人間関係にそこから先はない。

 彼女が結んだ関係はいずれも上下関係のあるものばかりで、対等な関係を築いたことはなかった。当然、クラスにも箒部にも友達はいない。

 お嬢さまは自らが認めた者をたった数名だけ城内に招いたに過ぎない。客人は客室で歓待されるも彼女の自室(こころ)にまでは到らない。唯一自室に入ることを許された者も女中であり、その女中もまた真の意味ではお嬢さまの心には踏み入らない。


 お嬢さまの自室へと続く門は狭く、重く、未だに他者を拒絶している。何かの拍子で野犬が一匹紛れ込んだところで、彼女は気にかけもしなかっただろう。

 ほんの少し前までの彼女であれば。


「だから、これは借りよ。借りたものは必ず返すわ……必ず」


 扉を開けるまでは至らなかったが、誰かの思いは確かに彼女の扉をノックしていた。フィロソフィアに寄り添うようにして立つリアは、微かに口元を緩めた。

 災難続きの妹のことを案じていたが、どうやらそれは要らぬ心配だったのかもしれない。彼女はリアが思うよりも強い。向かい風すら受け入れて、この子は嵐を起こすのだろう……そう思えるほどに。


 空は相変わらずの曇天、時おり吹き込む湿った風は生温く肌にまとわりつく。

 それでも、


「今日はいい風が吹く」


 リアの常套句(クリシェ)は変わらない。

 四角い窓の向こう側に、彼女は未来を見ていた。

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