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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
111/113

第110話 ねむり猫と迷い犬と雨のビート

 ――それは舞う蝶のように。

 貴方と白線の向こうに立つ者は、二人で一対の翼である。どちらが欠けても成り立たない。どちらも揃って、始めて美しく羽ばたけるのだから。


 その理念を体現するかのような戦いが、ここ演舞場で繰り広げられていた。

 白線の内に立つ一翼にして一人の黒髪の乙女、八坂命は乱れた呼吸を整える間もなく構え直した。それも無理からぬこと。この白線のなかでは、息つく間もない一進一退の攻防が繰り広げられていた。


 どこか幼さを残す卵顔は火照り、汗で艶めく黒髪はとうに後ろで結っていた。

 命は本気だ。白線の向こうに立つ者たちは、手を抜いて勝てるような相手ではなかった。


 ただ一言――強い。それが、命が彼女たちに抱いた素直な感想である。

 だが、あと少し。後一歩で勝てるところまで、命たちは彼女たちを追い詰めていた。


 熱気と緊張が入り混じるコートで命が感じていたものは、意外にも勝利への渇望ではなく、物寂しさであった。

 今はこうして敵対関係にあるが、彼女たちと出会わなければ始まらなかった物語がここにある。そして長きに渡るその物語は終わりを迎えようとしていた。

 だから、ほんの少し寂しかったのかもしれない。


「命ちゃん!」


 そんな命の一瞬の感傷を突く攻撃であった。根木の呼びかけも虚しく、命の処理は遅れた。

 だが、まだ終わりではない。


「任せて!」


 頼もしい声がした。後衛の根木は宣言通り、すかさずカバーに入った。

 命は呆けた頭を切り替える。

 まだ終わってなどいないのだ、と強く言い聞かせる。

 私が、この手で、今から終わらせるのだと。

 蝶が舞った。

 強く、美しく。この日、誰よりも高く舞った。


 命の最後一撃は、乾いた音を立ててコートに突き刺さった。


 ゲームセット!

 セットカウント2ー1

 勝者、八坂命&根木茜ペア!


「イェーイ!」


 2対2のバレー対決を制した命と根木は、喜びのハイタッチを交わした。

 それにしてもこの黒髪の乙女、自身のアドバンテージを最大限利用して勝ったにもかかわらずノリノリである。

 誰よりも高く舞った?

 当然である。だって命は男なのだ(魔法少女の狭き門基礎知識。八坂命は、生存戦略のために魔法少女育成施設に潜入した男である)。


「ああーん、負けたぁ!」

「くるりがミスばっかするからでしょ」

「どあああぁ! いーちゃんがひどいこと言ったぁ! でも、ぐうの音も出ない正論だぁー! ごめんなさああぁぁあい!」

「事実を言ったまでだけど……ほら泣かないっ!」


 惜しくも破れた鮎原くるり&イリーナ=シェレーニナペアがコート中央に歩き出すと、命たちも一足遅れて続いた。試合前には火花を散らしあった仲だが、試合が終わればノーサイドである。互いの健闘を称えるように、命とイリーナは握手を交わした。


「いい勝負でしたね」

「うん……」


 それ以上の言葉は要らない。それ以上のコミュニケーションも要らない。

 二人の横では根木と鮎原がひしと抱き合っていたが、あれを行うと深刻なエラーが起こるので黒髪の乙女は固辞した。

 巻き込まれぬよう距離をとる命であったが、それも無駄な真似だった。心の壁があったら殴って壊すのが、コミュ力モンスターである。


「みーちゅああああぁぁああああん!」

「いやああああああああああああああああああああ――ッ!」


 大怪盗の三世よろしくルパンルパーンしてきた鮎原を、命は全力で迎撃した。黒髪の乙女は容易く肌を触らせないのだ。イージス艦のBMDシステムばりの拒絶をくらった鮎原は、突き飛ばされた勢いそのままに四つん這いの体勢になった。


「……ううっ、試合のときにも見せなかった強烈なブロックをくらったよぅ」

「す、すみません。嫌ではないのですが、嫌なのです」

「ううっ、乙女心が複雑すぎてわかんないよぅ」


 それは命もわからない。地球46億年の歴史でも解明されていないので、この先もQ.E.D.証明終了されることはないだろう。


「ほら、適度な距離感ってあるではないですか。パーソナルスペースが狭い人だって――」


 命は助けを求めるようにイリーナに視線を遣って、


「あっ」


 察し。同意を求めようとしたイリーナのパーソナルスペースが、今まさに侵されていた。もう一匹のコミュ力モンスター根木に襲われたイリーナは、振り払うこともできずに困り顔で天井を眺めていた。


「た、助けて」と、蚊の鳴くような声を出すイリーナ。命は救難ヘリが目前で堕ちたような気分を味わったが、それはそれ。

 親切であれ(ただし腐れお嬢さまは除外する)が、黒髪の乙女の信条である。

 根木を引っ剥がすと、命はいかにパーソナルスペースが大事なのか、彼女に滔々と語った。


「いいですか、茜ちゃん。誰彼女(だれかれ)構わず抱きついてはいけませんよ」

「なら、命ちゃんになら良いの?」

「ダメです」


 命は間髪を容れずノーを突きつけた。どうも根木は最近、命が不意打ちを食らったときの反応を楽しんでいる節がある。ここは毅然とした態度で――


「隙ありっ!」


 対処しようと矢先にこれである。機を狙っていた鮎原が裏から仕掛けてきたのだ。しかし命はこれを余裕でシャットアウトした。

 相手を泳がせ手痛い反撃を加える。これぞ48の乙女技の一つ、乙女のリードブロックである。

 殿方に浮気の兆候があるときに役立つ技だが、今回は罪なき女子どもが相手だ。命も手心を加えて、鮎原を押し返すに留めた。


「甘い。そして、そこ! 今ならイケるかもとか思わない」


 こぼれ球を狙う根木にもすかさず牽制を入れる。命の守備は完璧なものと思われたが、あきらめない女、鮎原くるりはなおも果敢に攻めてきた。


「お願い、お願ぁ~い! ちょっと、ちょっと抱きつくだけだから。あとバレー部にも入って!」

「フット・イン・ザ・ドアにも程がある――ッ!」


 悪徳業者顔負けの営業スタイルである。さすがにこれは見かねたのか、今度はイリーナが鮎原を引っ剥がしてくれた。


「こらっ、勢いで押し切らない! あと汗まみれで抱きつこうとするのは常識的に考えて気持ち悪いから止めた方が良い」

「どあああぁ! いーちゃんがまたひどいこと言ったぁ! でも、私の汗はフローラルな香りだよ」

「いや、普通に臭いから」

「どあああぁ! いーちゃんのひどさが留まるところを知らないよぉ!」

「事実を言ったまでだけど……ほら八坂さんに謝って!」


 イリーナは試合で命たちを苦しめた上背を活かして、鮎原の頭を押さえつける。命は、匂いについてフォローする間もなく謝られてしまった。


「みーちゃん、ごめんなさい」

「……みーちゃん」


 その呼称、流行っているのだろうか。つい先日も誰かからそう呼ばれた気がする。誰から呼ばれたか、命は忘れてしまったが。


 命の得も言われぬ表情を、鮎原は不思議そうに見ていた。


「あれ、おかしいかな? こっちはイリーナだから『いーちゃん』で、こっちは命だから『みーちゃん』」


 いや、と言いかけてやめる。理屈ではわかるが心が追いつかないのだ。筆舌に尽くしがたい気持ちを抱えている命を置いて、鮎原は根木の方へと向き直る。


「茜は、あーちゃんだね!」


 鮎原がそう言った瞬間、命の頭に強烈な違和が襲った。

 違う。違うのだ。何かが決定的に間違えているのだ。

 限りなく正解に近いのに、果てしなく正解から遠い。

 ああ、この違和を何と表現すれば良いのだろうか。

 頭のなかを虫が這うような、口一杯に広がる砂を噛むような、そんな気持ち悪さが拭えない。

 命は只々、この気持ち悪い状況から抜け出したくて頭を回す。

 回して……廻して――不意に奇妙な感覚が訪れた。

 頭のなかでバチンと火花が散った。それは途切れた電子回路が繋がったかのような感覚であった。


 白いシェパード、逆さまのジャングルジム、へし折れた箒、黒い魔法弾、逆さまの姉妹、崩れ落ちた砂のお城、透明な女の子、雨、どこまでも青い雨、雨雨雨、待■■■■のに■■して■■く■■■■■■■■――


「……あっちゃん」


 つぶやくと同時に、命の気持ち悪さはすっと消えていった。

 頭のなかにはもう、何も残っていなかった。


「あっ、それいいね! 茜は、あーちゃんって言うより、あっちゃんだよね」


 うんうん、と鮎原が一人頷いて納得する一方、

 根木は――


「えへへ。どうも、あっちゃんです」


 照れ臭そうに頭をかいていた。「あっちゃん!」と鮎原が根木に抱きついたのを契機に、命の記憶は途切れた。


 不思議なことに、それから二、三分の記憶が命にはない。あまりに考えごとに没頭していたのか、それともあまりに何も考えていなかったのか。気がつけば、鮎原たちは去り、演舞場には命と根木しか残っていなかった。


 白線を挟んだ向こう側に、根木が立っていた。彼女は上目遣いで静かに命のことを見つめていた。


「どうする、命ちゃんも私のこと、あっちゃんって呼ぶ?」

「いえ、私は今まで通り、茜ちゃんと呼びます。こちらの方が慣れていますし」

「……そっか」


 そこから数秒の沈黙が流れた。雨のビートがやけに頭に残る、たった数秒の沈黙が。


「私たちも戻ろっか?」

「ええ。次の講義も――」


 根木の誘いに応じる直前、命は唐突に思い出した。どうして自分たちが演舞場1階に足を運んだのかという理由を。


「っと、本来の目的を忘れて危うく帰るところでした」

「本来の目的? バレーなら満喫したよ」

「違うでしょうに!」


 どうやら根木のなかでは目的と手段が完全に入れ替わってしまったようだ。命はアホの子の軌道修正を試みるとした。


「バレーの試合に応じたのは、あくまで成り行き。本来の目的は、演舞場1階の調査でしょう」


 演舞場1階は友達ゲームの開催場所である。ここに詳細不明の友達ゲームの謎を解く鍵がないものかと思い、足を運んだのであった。しかし、いざ演舞場1階に足を踏み入れる段になって予期せぬトラブルが起きた。

 ダブルブッキング――有り体にいえば、演舞場の予約の際に手違いがあったのだ。結果、命とバレー部員のイリーナの間で衝突が起き、演舞場の予約権を賭けたバレー対決に発展したのであった。


「あー、何だかそうだった気がするー。でもコートの使用権を賭けた勝負って、何だかスポ根の匂いがするね」

「大して努力はしていませんが、友情と勝利はありましたからね」


 バレー部相手に即席コンビで勝てたことは、まずまずの成果といえよう。

 それに何より、バレー部コンビと友達になれたことは予期せぬ幸運であった。互いに汗水垂らして競い合い、最後は笑顔で握手する。ああ素晴らしきかな、スポーツの世界!


「でも、最後に鮎ちゃんを滅多打ちにしたのはどうかと思う系」

「……茜ちゃん。勝負の世界は、ときに非情な選択を強いてくるのです」


 命はそっと顔を背けた。無論、疚しいところがあるからだ。

 試合が始まったときは、イリーナの鼻っ柱をいかに圧し折るか考えていた命だが、その考えは直ぐに変わった。


 強かったのだ、イリーナが。それも、命の想像を遥かに上回る強さであった。命は直ぐに方針転換し、ターゲットを鮎原に変えた。鮎原のスパイクにはキラリと光るものがあったが、レシーブとトスとブロックとその他諸々の守りの技術はカスであった。


 命は攻めた。鮎原を徹底的に攻めた。柔の道で受け身の大切さを学んだ黒髪の乙女は、いかに守りが大切か説くという建前をもって、鮎原を容赦なく攻めた。

 しかし敵もさるもの引っ掻くもの。

 イリーナも責めた。鮎原を徹底的に責めた。畑は違えど英才教育を施された才女は、歯に衣着せぬ物言いをもって、鮎原を容赦なく責めた。

「どあああぁ!」と鮎原が鳴いた。生物が本能的に上げる悲鳴であった。

 すかさず根木が守った。頑張って鮎原のことを守った。でもダメだったよ……。

 かくして試合は終わりを迎えたのであった。


 この一幕については、命も少なからず罪悪感を覚えていた。まさか、イリーナがあれほど鮎原を庇わないとは思わなかったのだ。勝負の世界で生きてきたイリーナは、命以上に弱点を突くことを当たり前だと捉えていたのだろう。事実、イリーナは鮎原滅多打ちについては一切言及しなかった。

 命は間違っていないことを、イリーナは無言で肯定していた。命も自分が間違ったことをしていたとは思っていない。


「勝負の世界は……非情。非情なのです」


 だが、


「ときには甘さがあった方がいいのかもしれません」


 この世には苦くて飲み干せない勝利の余韻がある。知らない味を知って、一歩だけ大人に近づいた黒髪の乙女であった。

 命に反省の色が見えたからか、根木もそれ以上命のことを責めなかった。彼女はコーヒーに角砂糖を三個も入れてしまう甘党なのだ。


「…………」


 考えたいことは沢山あるが、まずはやるべきことを片付けなければいけない。命は気を取り直して、演舞場1階を調査したが、これといった収穫は得られなかった。

 広さに高さ、収容人数は事前の情報通り。地下や上階と比べて、1階だけ特殊な設備があるようにも見えなかった。


「うーん。特に変わったところはありませんねえ」


 ここに人を集めて何をするつもりなのか。命が思案顔をしていると、


「わかったよ、命ちゃん!」


 根木が演舞場に反響するぐらい元気な声を上げた。何かを閃いた根木は一歩、二歩と助走を付けると振りかぶり、バレーボールを放った。


「ここでやるのは――ドッジボール、だよっ!」


 命は飛んできたバレーボールを片手で受け止めた。


「……ドッジボールですか」


 悪くない読みである。2チームで争う競技としてはポピュラーだし、わかりやすい。魔法少女同士のドッジボールであれば【羽衣(ローブ)】の練度が勝敗に関わってくる点も、友達ゲームの条件に合致している。しかし、


「少し手狭かもしれませんね」

「そうかな。演舞場の広さなら問題ない系」

「2クラス対抗のドッジボールだったらそうかもしれないですが、茜ちゃんは友達100人集めるのでしょう?」

「あっ!」


 根木は命の言わんとすることを理解したようだった。仮に根木とシルスターが、100人ずつ友達を集めてきた場合、200人規模のドッジボールが繰り広げられることになる。


(200人は盛りすぎかもしれませんが……)


 その半分程度は集まる可能性がある。漫画やゲームさながらの必殺シュートを持った100人の魔法少女が、高速で飛び回ることを考えるとやはり手狭だろう。それにボールだって間違いなく割れる。

 と、命がさっと考えただけでも幾つか問題点が浮かぶのだ。あのエメロットが、そんな欠陥だらけのゲームを提案してくるとは思えなかった。


「そっか、結構自信あったんだけどな」

「悪くない切り口だと思います。絶対にドッジボールでないとも言い切れません、しっ!」


 命はキャッチボールの要領で、バレーボールを投げた。


「それに良い頭の体操になりました。友達ゲームがどんなものか、前よりもわかった気がします」

「ホント!」

「薄っすらですけどね」


 根木が投げ返したバレーボールをまた投げ返す。大きな収穫こそなかったものの、こうしてボールを投げ合っていると、心の距離がボール一つ分近づいた気がする。

 ここに来て良かった、と命は思う。


 それから数回ボールを行き来させると、二人は対話を終えた。命は最後に受け取ったバレーボールを中指の上で回した。俗に言うバスケットボール回しである。


「わあ!」と声を上げて、根木が笑顔を浮かべた。


 命は、少しだけ誇らしげな顔で応えた。バスケットボール回しは、アホな男子中学生が揃いも揃って真似したがるトリックである。ご多分に漏れず、命も得意だった。

 下らない遊びだが、遊びができる程度には心に余裕があるようだ。


「それでは、帰ります――かっ!」


 回転数が落ちたボールを握り直すと、命は大遠投を決めた。狙う先は、演舞場隅に置かれたボール整理カゴ。ボールはきれいな弧を描くとゆっくり落下し、


「ああっ!」


 カゴのバーに当たってあらぬ方向に跳ねた。根木が残念そうな声を出したが、命は落ち着いていた。


「おっと」


 物を自在に操る魔法――【神撫手】をもって、ボールをカゴのなかに収めた。根木はポカンとした顔で命を眺めてから、笑った。


「命ちゃん、ずるーい! 最初からインチキじゃん」

「バレちゃいましたか」


 おどける命の元に、根木が小走りで駆け寄った。


「そうだ。ちょっと受付に寄ってもいいですか。確認したいことがあって」

「いいよー」


 二人は肩を並べて演舞場の出入り口へと歩いていった。



     ◆



 さて、それから2つの講義を挟んだ放課後。二人は根木の所属する1-Bのお隣さん、1-Cの教室にやってきた。

 1-Aには桃髪の暴君ことモモが、1-Bには腐れお嬢さまことフィロソフィアが所属しているため、命は危険を避けて1-D方面から廊下を歩いてきた。

 多少のリスクを払ってでもこの1-Cには足を運ぶ価値があると、判断したからだ。

 果たしてその成果はというと、扉を開けた瞬間にわかった。


 1-Cの教室には、ただただ平穏があった。ファッション誌を回し読みする女生徒がいて、暇を持て余して雑談にふける女生徒がいて、編み物に没頭する女生徒がいて。

 銀髪の女帝が起こした騒動など知らないかのような、当たり前の日常が繰り広げられていた。


 今、もっとも欲しい日常をさも当たり前のように実現してしまう、窓際の女生徒の影響力の高さに命は脱帽するしかない。


(彼女が、リッカが味方にしたかった……)


 蒼い妖精猫(ケットシー)――ウィルウィーウィスプ=ウィル。

 机に突っ伏してすやすやと眠る彼女は、リッカと同じ数少ない穏健派の才媛である。争いを好まず、そして束縛を好まぬ猫のような女生徒だとは聞いていたが、


「…………」


 あれは正真正銘の猫ではなかろうか、と命は思う。ウィルは、命が思った以上に猫々(ねこねこ)しかった。

 まずは、髪型。薄花色の髪は、間違いなく猫耳の形を象っている。しかも、その猫耳ヘアーは時おり揺れているようではないか。命は目の錯覚を疑った。一つはその猫耳ヘアーに対して、そしてもう一つは目に見えて小さい青猫に対して。

 命はチラリと根木を見遣る。根木は「えへへ」と控えめに微笑う。命はもう一度、窓際のウィルを見遣る。やはり小さい。目の錯覚でなければ、遠近法でもなかった。


「痛っ!」


 考え事をしていると、脇腹に軽い痛みが走った。どうやら根木が命の脇腹を小突いたようだ。根木は何も言わず命から離れ、1-Cの女生徒の元へと向かっていった。

 どうやら機嫌を損ねてしまったようだが、そう深刻なものではなさそうだ。少し時間を置けば解決するだろう。

 そう楽観的に考えてウィルを観察していると、誰かが命に声をかけてきた。


「よう大将、元気にしてっか」


 命は彼女の顔を見て「クル」と名前を呼んだ。

 クルト=クルリカ――命に声を掛けてきたのは、ルバート一味の一員にして痩せぎすな少女だった。


「大将は止めて欲しいと前に言ったでしょう」

「おっと」クルはついうっかりといったような仕草で両手を上げた「でも、命ちゃんって呼ぶのは、なんかなー。大将は大将だし」


 命は、あきらめたように息を吐く。大将と呼ばれたときに「おう」とか「よお」とか反射的に男言葉が出ないか不安なのだが、そこを気にしても仕方あるまい。


「相変わらず痩せてますね。ちゃんとご飯食べてます?」

「食べてるってー。少なくとも、一日一食は」

「一日三食」命はずいと顔を前に突き出して忠告する「いいですか。きちんと食べないとダメですからね。今は若いからいいですが、その内病気になってしまいますよ」

「……あー、ピリカみたいなこと言うな、大将は。あいつ、一時期ずっと私のためにお弁当作ってきてさー。ありがたいけど、健康食ばっかで味気ないったらないよ」


 病的に痩せているクルのことを、ルバートも常々心配していた。しかし友人の食生活を気遣う悪のカリスマとは一体……、命は深く考えないことにした。


「そうそう。ピリカちゃんとは仲良くやっているのですか」

「あー、まあボチボチかな」


 クルトがくすぐったそうに目を逸す姿を、命は微笑ましそうに見た。一時期、悪の道に走っていたルバートだが、命と出逢い、そしてリッカとの再会を果たしたことで、正規の魔法少女(レギュラー)になりたいという原点に立ち返った。

 彼女は夢に向かって人知れず努力を重ねているのだが、その一方で友人であるクルトとドドスとは疎遠になりつつあった。命はそのことを心配していたのだが、どうやら要らぬお世話のようであった。


「あー、そういえば大将が紹介してくれた文芸部な。なかなか快適で良いよ」


 クルトが話題を逸したのは明らかだが、命はそのことについて触れなかった。一緒に部活動巡りをした際に、クルトが入部した文芸部についても気になっていたからだ。最後は本人の意志で入部したとはいえ、あれは半分以上命が入部させたようなものだ。馴染めているかどうか心配だったが、どうやらこちらも要らぬ心配のようであった。


「それは何よりです。やっぱり文芸部は、クルの性に合っていましたか」

「だな。何もしなくてもいいし、たまに本読むだけなのも楽でいい」

「……えっ」


 命は、何やら耳を疑うような言葉が聞いた気がした。


「あの、書かないのですか。小説とか」

「小説? 書くわけないじゃん。大将、文芸部のこと何だと思ってるの?」

「えっと……みんなで部誌を作ったり、ときには小説をコンテストに送ってみたりする部活なのでは」


 それが命の知る文芸部の姿であり、定義であった。しかしクルは否定するように人差し指を揺らした。


「ノンノン。普段は何もせずときに思い出したように本を読んでテキトーに活動日誌をでっち上げ、ご飯を一緒に食べる友達がいないから部室でお弁当を食べる日陰者の集団が文芸部だよ」

「偏見にもほどがある――ッ!」


 だがセントフィリア女学院の文芸部の実態は、正にその通りであった。クルもルバートやドドスと時間が合わないときは、昼飯を食べるためだけによく文芸部を利用していた。

 静かに本を愛でる文芸少女の姿を想像していただけに、ショックを拭えない。命は懇願するように声を出す。


「せめて……せめて、年に一冊でも良いので部誌を出しましょうよ」

「部誌かぁ。そう言えば、部室の隅っこにバックナンバーがあったような。数年前の」

「数年前の――ッ!」


 それ即ち文化が断絶した証である。おお悲しきかな文芸部。だが上等だ文芸部。堕落こそが人生の愉悦だと、クルトは文芸部の腐敗を歓迎した。


「文芸部とは書かないことと見つけたり」

「見つけないで! 何も見つけてないし何も得てないから! お願いだから一冊、年に一冊で良いから部誌を出して下さい」


 このままでは文芸少女への夢が泡沫(うたかた)に消える。ただでさえ女子校に幻滅してきているのに、それは勘弁して欲しい。命の必死のお願いの甲斐あってか、クルトも少しは耳を傾けようという気を持ったようだ。


「……うーん、一冊。年に一冊か。確かに活動日誌の不正がバレて、部費を減らされそうではあるんだよな」


 ちなみに不正を見抜いたのは、正義の生徒会長ことオルテナだ。彼女はこのような不義不正には絶対鉄槌を落とすガールであった。

 命は心のなかでオルテナに称賛を送ると同時に、この機を逃さず畳み掛けた。


「ほらね! 部誌を出さないと部費の減額どころか同好会に格下げされて、部費そのものがなくなっちゃいますよ」

「うっ、それは困る」

「部費がないと、私的に本を買ったり、後学のためと偽って演劇鑑賞をしたり、部室にお菓子を常備できなくなってしまいますよ。それでもいいのですか?」

「……大将、やけに部費の悪用に詳しいな」


 命は、クルトの力ない声には取り合わなかった。正当な働きをした者には、多少の私腹を肥やす権利があると、黒髪の乙女は信じているからだ。現に命は中学時代、同じことを生徒会でやった。命は、多少の不義不正には目をつぶるボーイであった。


「うーん」クルトはやや悩んだ後、こう切り出した「大将も書いてくれるなら」

「ええ書きましょうとも。薄い部誌が厚くなるぐらいの大作を書きましょうとも!」


 命が力強く握りこぶしを作ると、クルトはあきらめたように「わかった」とつぶやいた。この何気ない命の発言がクルトの人生を大きく左右するのだが、それは今すぐ忘れてもらっても構わない。

 彼女の物語はいつだって、本筋とは何ら関係のない話なのだ。


「ところで大将、あれは放っておいていいのか?」


 そして物語は本筋に戻る。クルトが指差す先には、根木がいた。そろりそろりと足音を忍ばせる少女の向かう先には、すやぁと眠るウィルの姿があった。

 アホの子と青猫。

 この二人の姿を視界に捉えた瞬間、命は猛烈に嫌な予感を覚えた。どう考えたって碌なことにはならない。


「……っ!」


 命は48の乙女技の一つである乙女の忍び足を駆使し、静かにそして迅速に根木の背中を捕まえた。命は根木にそっと声をかける。


「ちょっと茜ちゃん、何をする気ですか!」

「やだな命ちゃん、別に悪いことする気はないよ。私はただ、あのモチ肌ぷにぷにをちょっとツンツンしたいだけで」

「ダメ、絶対にダメ!」


 命は根木に思い直すよう迫った。確かに赤ちゃんみたいなウィルのモチ肌が気になる気持ちはわかる。しかしあれは間違いなく見える地雷である。触れたが最後、『グゴゴゴゴ……。 誰だ? わが眠りを さまたげる者は?』とか言って、猫に扮した魔王が起きるに決まっている。


「でも命ちゃん、ウィルちゃんの机をよく見て」

「あれですか」


 それは命も気になっていた。ウィルの特注(といっても小等部で使用する)机には、お供えのように種々のお菓子が置かれていた。

 恐らく1-Cの面々が奉納した品々であろう。そういった意味では、ウィルはクラスメイトに好かれているように見える。


「私はね、ウィルちゃんと友達になって、あのお菓子を一緒に食べるんだよ」

「さては、お菓子目当てですね!」

「違うもん。友達になって一緒に食べることに意義がある系」


 命と根木の意見は平行線を辿ったが、その平行線は直ぐに崩れた。「えい」と根木が命の押さえつけから脱出し、勢いそのままにウィルの元に向かったのである。

 命は遅れて駆け出し手を伸ばしたが、根木のワイシャツに指をかけるのが精一杯だった。

 その(かん)、根木の指先は吸い込まれるようにウィルのほっぺに到達していた。

 目の前の光景がスローモーションとなって流れるなか、命は見た。


 ぷにゅり、と弾力のあるウィルのほっぺが根木の指先を押し返す光景を。


 ああ、なんて瑞々しい肌だろう。あれこそ全女性が求めて止まない理想の肌質である。今後の女装の参考に、肌ケアの方法を是非とも聞きたい。

 命の思想があちこちに拡散するなか――ウィルが動いた。

 いや、正確にはウィルに髪が。


「キシャー!」


 薄花色の髪が抗議めいた高音を発する。直後、1-Cの時間が凍り付いた。日常を謳歌していた女生徒たちの衆目が命たちに集中した。

 何が……起きたのか。

 静かな湖畔のようだった教室がざわついている。

 命は頭が回らない。ただ目の前で起きていることを、ありのままに受け入れることにした。すると、こんな結論が出てきた。


(ああ、猫ではなくコウモリでしたか)


 ウィルの頭は猫ではなくコウモリであった。何を言っているかわからないかもしれないが、これが命のありのままの感想である。

 猫耳だと思われた二つのとんがりは二つの触覚であり、頭部左右に広がる髪は飛膜である。そして、突如浮かび上がった落書きめいた二つの(まる)が目で、二つの目の下に位置する(ぎゃくさんかく)が口であろう。


 ……頭のなかにコウモリを飼うのが、最近の女子高生の流行りなのかな。というかこの人、ヅラでは?


 命の混迷がいよいよ極みに達しようとしたそのとき、ついにウィルが動いた。ぶるりと寝起き特有の身震いをすると、重いまぶたを持ち上げて、トロンとした瞳が大きくなろうとしていた。

 ウィルの意識が覚醒したとき、一体何が起こるのか。1-Cの女生徒たちはその光景を静かに見守り、命もまた身じろぎ一つ取れず、根木はぷにゅりともう一度ウィルのほっぺを突いた。


「…………」


 目を覚ましたウィルは、命と根木の姿を認めるなり――ブルーとグリーンが溶け合う美しい瞳を見開いた。人を奥底まで魅了するかのような土耳古石(ターコイズ)の瞳を向けられ、命は本能的に畏れを抱いた。

 恐怖ではなく畏怖。

 人の身でありながら女神と呼ばれているリッカとは違う。ウィルは人の身でありながら人ならざる神性を帯びていた。

 ちょうど猫が神の使いと呼ばれるように。


 蒼い妖精猫は、瞠目したまま瞬き一つしなかった。その顔には薄っすらと、だが確実に驚倒が映っていた。まるでこの世にありはしないものを見たかのように。

 心なし冷たい沈黙が教室を支配するなか、その沈黙を破ったのもまたウィルであった。

 ウィルは、


「…………」


 ゆっくりとまぶたを落とすと二度寝を始めた。彼女の意志を尊重するかのように、逆立つ髪もしなしなと落ちる。頭に現れたまん丸の目も、逆三角の口も、命が安堵の息をついたときには消えていた。


「よし」と根木。


 命は、根木を取り押さえた。彼女が何をしようとしていたかは、彼女の人差し指が雄弁に語っていた。


「やめて! 寝かせてあげて。こんなに気持ち良さそうに寝ているのですよ」

「うー」根木はムクムクと沸き立つ好奇心を押さえつけ、最後には「わかった」とあきらめた。

「大丈夫ですかね、これ?」


 命はクルトの方へと一瞥を送る。問いかけられたクルトは口元を押さえ、少し考えてからこう答えた。

「わからない」と。


 クルトを初めとした1-Cの面々でさえ、あれほど感情を露わにしたウィルの姿を見たことはなかった。青猫が今何を思い、机に突っ伏しているかは青猫のみぞ知ることである。だから、クルトはわかることだけを口にした。


「その、何だ。机にお供えだけでもしていった方がいいかもしれない」

「ああ、これですか」


 命は視線をウィルの机の上に戻した。香ばしい香りのする焼き菓子、色とりどりの宝石めいた飴玉、日差しを浴びて光沢を帯びるチョコレート。ウィルの机の上は、お菓子の博覧会のような有様だった。


「…………あった」


 命は制服の内ポケットを探る。程なくしてミルク味の飴玉を見つけた。お菓子は大事なコミュニケーションツールである。黒髪の乙女はいつでもお菓子を常備していた。

 命はウィルへと向き直ると静かに手を叩き、礼をし、最後にそっと飴玉をお供えした。神さま仏さま青猫さま、どうかお許しくださいと念を込めて。


 まるでそれが神聖な儀式であるかのように、1-Cは固唾をのんで命の所作を見守っていた。お供えを終えた命が、息を吐いた。それを契機とし、1-Cはゆっくりといつもの日常に回帰していった。

 何事もなかったように平和な日常が再会されたことを確認し、命は提案する。


「戻りましょうか」


 根木は後ろ髪を引かれながらも「うん」と答えた。このとき、命は根木にも飴玉をあげることを忘れなかった。飴玉を口に入れた根木はたちまち元気を取り戻し、教室を後にする命に続いた。


「…………」


 命は気づいていた。机に伏せたまま、こちらをうかがう者の視線に。猫とコウモリの四つの瞳が二人を見ている。

 そのことに気づきながら、命は決して後ろを振り返らなかった。

 世のなかには決して見てはいけないものがある。神話しかり民話しかり、見るなの禁止(タブー)を破り、悲惨な末路を迎えた物語は枚挙にいとまがない。

 だから命は振り返らない。たとえどれだけ強い運命の引力が後ろ髪を引こうとも、断じて振り返りはしなかった。


(もしかしたら、私は……)


 猫の()を借る虎の尾を踏んでしまったのかもしれない。

 心臓が凍るような感触が命を支配していた。

 早くもなければ遅くもない。歩くと走るの間の速さで距離を取る。命は細心の注意を払って1-Cから退散した。

 たった一枚扉を隔てた先には見慣れた廊下があって、命は知らず肩をなでおろした。あの扉の向こうには、決して人が足を踏み入れてはならない領域があったとさえ思える。桃髪の暴君が統治する1-Aに足を踏み入れたときよりも胸に込み上げてくるものがあった。


 ……この胸に込み上げてくるものは、何だ?


 心の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいだ。神妙不可思議としか呼べない何かが、胸の内に広がっている。ただ、もはや何色とも呼べないその感情(いろ)のなかに、わずかばかり親近感が混ざっていたことが、やけに気にかかった。

 気にはかかったが、それは自分の理解の範疇を越えた直感でしかない。命はこんがらがる頭をリセットし、廊下を歩き出した。


 これが彼らの初めての邂逅であった。口のなかで飴玉を転がしてご機嫌な根木とは対照的に、命はウィルのことが気になって仕方がなかった。

 けれど、黒髪の乙女の心配は杞憂なのかもしれない。

 もう一度だけ繰り返そう。彼女の異名()は、蒼い妖精猫。そう、幸せを運ぶといわれる神の使いである。

 だから幸せを運ぶことはあっても、不幸をもたらすなんてことは決してないのだ。

 そう……決して。

 決してないのだ。



 ◆



 命が猫とじゃれている一方、命の義姉である宮古は犬とたわむれていた。


「……はあ」


 自然とため息がこぼれる。


 ……この胸に込み上げてくるものは、何だ?


 心の絵の具を奪われて色彩を失ったみたいだ。無味乾燥としか呼べない何かが、胸の内に広がっている。ただ、もはや無色透明としか呼べないその感情(いろ)のなかに、わずかばかりに光が残っていた。

 姉の感覚質に訴えてやまない一条の光が。


「そう、それは妹――ッ!」


 宮古が勢い良く立ち上がると、椅子が後ろに倒れた。周囲の女生徒、とりわけ下級生がびくりと肩を震わせ、真向かいに座るオルテナは「静かにしたまえ」と戒めたが、構いはしなかった。


 (ラブ) IS ALL! いもうと IS ALL!

 宮古にとってこの世の全ては妹であった。

 この暗闇に覆われたせかいをあまねく照らす光こそが、妹。せかいに色彩を与えてくれる特別な存在なのだ。

 ああ、そうか!

 妹が光であるならば、光によって与えられる色彩もまた妹なのか。

 (あか)(あお)(みどり)(きいろ)も、全ては妹なのだ。妹こそが(せかい)などと言っておきながら、私はそんなことにすら気づいていなかったのか。

 宮古は姉としての至らなさを恥じるばかりであった。

 ああ、また今日も(せかい)を更新してしまった……。ほんの少し拓けた(せかい)に感謝の念を抱きながら、宮古は恍惚とした笑みを浮かべた。


(せかい)は……妹でできている」

「君、頭は大丈夫か?」


 なんという冷静で的確でツッコミであろう。この妹でゲシュタルト崩壊した世界において、オルテナは唯一の常識人であった(ただ単に誰も近寄りがたいので宮古の世界に入ってこないという点は、さておこう)。


 それ故に、宮古はオルテナを敵視した。あの生徒会長は、妹で飽和したエデンを壊さんとする異端なのだ。

 ギギ……ギギガガギゴ。あいつ、てき。わたし、たおす。

 宮古の姿は、悪の組織につくられた悲しきモンスターを彷彿とさせる。血走った目と、両の手に持ったスプーンをオルテナに向けていた。


「ふむ、どうやらナイフとフォークを使わないあたり、まだ理性が残っているらしい」


 と、またもや冷静で的確なツッコミを入れたオルテナは、右手のフォークで行儀良くクリームパスタを口に運んだ。

 そんなオルテナの姿を見て気が削がれたのだろう。宮古は倒れた椅子を起こす。再び腰をかけると脱力したように机に突っ伏した。

 犬に論語とは、正にこのこと。オルテナに妹の魅力を説いたところで、虚しさが募るばかりであった。


「あー、妹に会いたい。妹と遊びたい。妹に触れたい。妹とイチャイチャしたい。妹を抱きしめたい。妹のパンツむしゃりたい」

「気をつけたまえ。ここ最近の君の発言は、公序良俗に反したものが多いぞ」


 まーた針でちくちくするようなお小言か。これが生意気な妹の発言ならば、少しはかわいげがあるというのに――そう思った瞬間、宮古は天啓にうたれた。

 彼のおフランスの王妃は、こう言った。「パンがなければ、パンツむしゃればいいじゃない」と(言った言わないは諸説ある)。

 そうか。妹がいないなら、代わりの妹をつくればいいのか。

 イッメージ! ここにいるのは口やかましい生徒会長でなく、甲斐甲斐しく姉の心配をするしっかり者の妹。さあ、唸れ! 私の灰色の脳細胞!


「……ダメだ。すっごく頑張ったけど、あんたのこと妹にできなかった」

「そうか」


 そうか、としか言えなかった。宮古も相当まいっているのだろう。それがわかるからこそ、オルテナも強くは非難しなかった。


「はあ、なんで私の前にいるが命ちゃんじゃなくて、あんたなのかしら」

「それは言っても仕方ないだろう」


 友だちゲームの運営に回ると宣言したときから、こうなることは目に見えていたはずだ。公正中立を謳う運営が、片側にだけ肩入れするなんてことはもっての外であるし、正義の旗手たるオルテナがそれを許す訳がない。

 故に、強いられる妹断ち。宮古はもう、一週間以上も命と触れ合っていない。だから常にも増してアレな感じなのだ。


「しっかりしてくれたまえ。姉ヶ崎君がその調子だと、私の正義まで疑われかねない」

「……へーい」


 宮古は、口にくわえたスプーンをみょんみょんと揺らしながら答えた。しかし彼女も全くやる気がないわけではない。命は特別な妹であるが、他の(こうはい)だって宮古にとっては大切な妹である。

 その妹と交わした約束を守るというのは、姉としての最低限の責務である。


 宮古はここ数日そうしてきたように、オルテナと情報交換を始めた。友だちゲームが始まってからというもの、互いに今日得た情報を交換することが日課となっていた。


「しかし、何だ。今更ではあるが、本当にここで話していいものなのか」

「いいんじゃない。別にどこで話したって同じだし」


 宮古はオルテナの心配をよそに、鷹揚に構えていた。妹にお使いを頼まれたら、鼻歌交じりで地獄の一丁目までお買い物に行くのが、姉である。

 姉ヶ崎宮古という人物は元より、場所に頓着しない性格なのである。

 だから、たとえそこが昼どきの集客率一位を誇る食堂棟の洋食エリアのど真ん中であろうと、宮古の態度は一切変わることはなかった。


「友だちゲームのことなんて、もう周知の事実なんだし。それに私とあんたは悪いことしてるわけじゃないでしょ? だったら良いじゃない。あんたの正義とやらの面目も保たれるってもんよ」

「まあ、君がそう言うのなら良いが」


 オルテナは左手の紙ナプキンで口を拭いてから右手のコップを持ち上げ水を飲み、それから再びシルバーを手に取り、クリームパスタに手を付けた。

 ……やはり、いる。

 オルテナはさり気ない所作の間に目を配り、シルスターが放った密偵と思しき者に当たりをつけていた。

 下手な隠伏(いんぷく)である。あれで隠れたつもりなら大森林では生きていけない。

 それに引き換え、命が放ったであろう密偵はなかなかである。

 確か、名を山田と言ったか。新聞部に所属する一年生であったと記憶している。ジャーナリストを自称するだけのことはある。

 息を殺すのではなく息を溶け込ませる術を、山田は知っているようだ。耳朶を打つ雨の音のなかに、途切れなく四方を飛び交う会話のなかに、山田の呼吸は溶け込んでいる。

 見事と称賛してもいい。だが、オルテナが感知できるということは、向かいに座る宮古も当然感づいているということだ。

 オルテナにできる大概のことは宮古もできるし、宮古にできる大概のことはやはりオルテナもできた。

 二人はあまり会話をする間柄ではないが、深いところでお互いのことをよく知っている。

 だから、宮古の会話の意味するところも、オルテナはやはりよく理解していた。

 命と根木が、才媛の庇護下にあるクラスを回っていること(宮古はこれを安全なんだが危なっかしいんだかと評した)。シルスター陣営は、相変わらずイルゼを中心に回っていること。両陣営の情報交換を終えると、宮古が付け加えるように言った。


「なーんか、上の動きが怪しいのよね」

「上……ね」


 オルテナは曖昧に頷いた。上という単語が指すのは、間違いなく教師陣のことだろう。学生が住む社会において上位に位置するのは、いつだって教師である。


「ほら、マグナ先生がやらかしたでしょ。あれから動きが慌ただしいというか、統率が取れてないというか」

「ふむ。私もそんな噂を耳にしたな」


 女生徒の長たるオルテナと、独自の妹ネットワークを築く宮古の二人が揃えば、この女学院でわからないことはほとんどないと言っても過言ではない。

 オルテナが燦々とした日光でセカイを照らすのであれば、宮古は柔らかな月光でセカイを照らす。しかしその二人をもってしても、照らすことができない場所がある。

 それが厚い雲に覆われた古城――白亜の城である。

 教員と女生徒の間にある見えない隔たりを差し引いたとしても、あの城の全容は謎に包まれている。二人にできるのは、城門の隙間から覗き見た一端から全容を想像することだけであった。


 オルテナは断片的な情報を頼りに思考に思考を重ねる。そうして彼女が立てた仮説は、彼女自身もにわかに信じがたいものであった。


 ――もしかして、理事長はあえてマグナ先生を外に出したのか?


 教員陣の足並みが乱れ、内紛が起こることを見越していたとでもいうのか。しかしそうと考えれば筋が通る。罰則処分と称して学外に追い出されたマグナはどうだ? 今や誰の目にも止まらない駒として、暗躍し放題ではないか。


 暗躍――脳裏をかすめた単語が、目の前の宮古と深く結びついた。暗中飛躍は彼女の得意分野である。だからこそ、その匂いを嗅ぎ分けたのだろう。

 友だちゲームには、マグナが介入してくる可能性が高い。いや、すでに介入していると考えた方が良いのかもしれない。

 理事長の深慮までは読み取れないにしても、マグナの人となりぐらいならオルテナにもわかる。

 あの人は、コケにされて黙っているような人ではない、と。


 それを宮古もわかっていたから、それとなくオルテナに知らせてくれたのだろう。

 一分にも満たぬ沈黙であったが、それはとても価値のある沈黙であった。オルテナは感謝の視線を投げたが、宮古の目は(こうはい)の尻を追っていた。

 コホン、とオルテナは咳払いをする。


「いい時間だ。今日の情報交換はこれぐらいにしておこうか」


 昼休み明けの講義に遅刻するなどもっての外である。それでは他の女生徒たちに示しがつかないと、オルテナは支度を済ませた。

 その彼女の足を縫い止めたのは、宮古の予期せぬ問いかけだった。


「……大丈夫?」


 始め何を聞かれているか理解できず、オルテナは数秒経ってから答えた。


「ああ、シルスター君のことか。相変わらず動きがなくて不気味ではあるが、任せたまえ。動きがあれば逐一連絡するよ」


 的外れなオルテナの回答に対して、宮古は苦虫を噛み潰したような顔をした。このニブチンが、とその目は言外にオルテナを責めている。これでは言葉をボカした意味がないではないか。宮古は内巻きのボブヘアを二度、三度揺らし、それから尋ねた。


「あんた、大丈夫?」

「……私が、か」


 静かな衝撃がオルテナを貫いた。あの妹狂い宮古が、同級生のことを心配するなんて、誰が思うものか。事実、オルテナは今まで一度たりとも宮古に心配されたことなどなかった。

 返答に詰まりかけたが、オルテナは直ぐにいつもの調子を取り戻した。


「傷の具合であれば問題ないよ。私は怪我の治りが早い質でね。ほら、ご覧の通りさ」


 シルスターにつけられた傷であれば、直に完治する。オルテナは自分の身体がいかに頑丈か示すように右腕を、次いで左腕を宮古に見せつけた。

 しかし、それもまた宮古の望む回答ではなかった。


「もう一度だけ聞くけど」宮古は問う。先ほどと一言一句変わらぬ質問を「あんた、大丈夫?」


 今度こそその言葉の意味が伝わったのだろう。オルテナは納得するとともに、軽い落胆の色を顔に滲ませた。

 なんてことない。宮古のスタンスは徹頭徹尾変わっていなかった。

 彼女はいつだって妹のことを第一に考えている。

 だから彼女はこう問うているのだ。「お前の頭は大丈夫か」と。

 傷の具合ではなく、頭の具合を心配しているのだ。怪我人は大人しくしているが、頭がおかしい奴は何をするかわからないから。


 オルテナは宮古の質問の意図することを十全に理解した上で、微笑んだ。


「大丈夫。私はいたって普通だよ」


 空の食器をのせたウッドプレートを手にして、立ち上がる。オルテナは一度も振り返ることなく、颯爽と歩き出し、やがてその後ろ姿は雑踏のなかへと消えていった。


 宮古は引き止めなかったし、それ以上は何も言わなかった。天井を仰ぎ、言葉の代わりに息を吐いた。

 普通な訳があるか。

 自分を部落出身だと罵り、心も身体も傷つけてくるような輩を、冷静に観察している時点で頭がおかしいのだ。


 この洋食エリアにもオルテナを支持する者は数多いるだろうが、本当に彼女のことを理解している者は果たして何人いるだろうか。

 宮古の知る限り、同郷の者を除いてオルテナのことを理解していると言えるのはマイアぐらいのものである。

 オルテナと行動をともにする内に、マイアはオルテナの危うさに気づいたのだろう。

 マイアはオルテナのことを、正義の化身と評した。あの人は正しいことが全てで、正義であることが使命なのだ、と。


 オルテナのことをこれほど端的に表した言葉はないだろう、と宮古も感心したものである。

 しかしそんな悠長なことが言えるのは、平時に限る。

 正義とは、全てをホワイトアウトする最強にして最悪の魔法である。正義という目的は、ありとあらゆる手段を肯定する。たとえそれが血に塗れたものであっても、正義の白雪(しらゆき)は全てを真っ白に覆い隠す。


 だから宮古は、オルテナのことが苦手なのだ。一生相容れることはないだろうし、願わくは敵対したくもない。この女学院でもっとも怖いのは、白銀の女帝でも五人の才媛でも、ましてや四○四号室の地縛霊でもない。

 正義の生徒会長一択である、と宮古は断言できる。

 なので、その生徒会長が怒りすら通り越して笑顔を浮かべているというのは、酷く面倒な状況なわけで。


 ――死人がでなきゃいいけど。


 宮古は、他人ごとのように物騒なことを考えた。他人ごとだと思っていなければ、やっていられなかった面もある。

 もしも、万が一だ。オルテナが(こうはい)に手にかけるようなことがあれば、今度は宮古がオルテナを山に埋めなくてはいけない。


「ああ、そういえば森か」


 前に山と海どちらが好きかと尋ねたら、オルテナは森が好きだと即答した。なら万が一のときは森の肥料にしてあげようと考え直した。

 私ってば、妹だけじゃなくて環境にも優しいとか姉の鏡すぎる。これは妹人気あがっちゃうぞー。きゃー☆


「…………」


 そこで、宮古は思考を打ち切った。今は妹のことを考えたって、現実逃避にしかならない。妹を逃げ道にすることは、姉のすべきことではないと思ったからだ。


 オルテナに正義という道があるというならば、宮古には妹という道がある。それがぶつかるというのならば、初めから答えなどわかりきっていた。

 オルテナが妹を土に返すというならば、宮古はその土にオルテナも埋める。以上である。あとはそうならないこと祈るほかない。


「あっ」


 パン・ツー・マル・みえ。宮古は目ざとく数メートル先にいる妹のスカートの深奥に着目した。そうか、神はここにおわしたか。ありがたやありがたや……。

 そうして宮古がかみに祈っていると、天は何らかの冒涜を感じ取ったのか、バケツをひっくり返したような雨を降らした。


 激しい雨音に「きゃあ」と驚き数メートル先の女生徒が足を閉じ「ああ」と宮古は嘆いた。おのれ神めと宮古は神を呪った。

 宮古が睨めつけるガラスの向こうには、白滝のような雨が降っていた。そのあまりの勢いに、洋食エリアにいる女生徒は皆一様に窓を見ていた。

 窓の向こうに広がる、ただ真っ白な世界を。


 いくつもの小さな声が雨音に飲まれるなか、宮古は紅茶(ニルギリ)を片手に栓のないことばかり考えていた。


 どうしてこうなってしまったのだろう……。

 見えない。

 この雨が上がった先に広がっている幸せな結末が。


 しかし嘆いたところでもう遅い。友だちゲームはとうに半ばを過ぎ、物語はもう後戻りのできないところまで来ていた。

 決着のときはそう遠くない。

 宮古はあきらめたように冷めた紅茶を飲み干し、たわむれに手を合わせみた。命たちに未来を託すと決めたときから、宮古に打つ手なんて初めからなかったのかもしれない。

 だが、たとえ打つ手はなくても祈る手はある。

 宮古は己が信じる(かみ)にもう一度だけ祈りを捧げた。

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