第104話 同じとき、似て非なる場所、異なる答え
薄暗い真昼……。
リッカは教室でうなだれていた。
時を巻き戻したい……そう何度思ったことか。
でも、どんな優れた魔法少女にだって時を巻き戻すことはできない。
だからこれは記憶――彼女が思い出すことしかできない十分前の記憶だ。
十分前……。
「このちんちくりんが余の相手じゃと?」
シルスターは呵々大笑すると、会議のときに渋っていたのが嘘のように、あっさりと同意書にサインを済ませた。
「ささっ、根木さんもどうぞ。単なる遊びですから。パートナーの名前を言って、かるーい気持ちで押しちゃって下さい」
一方根木はというと、エメロットの口車に乗せられて判子をスタンバイしていた。
「パートナー? 私の相棒はもちろん命ちゃんだよ!」
「バカっ! 押すなよ、絶対に押すなよ!」
「うん、わかった!」
念を押すとリッカと、何かに気づいた根木。
二人の間に不幸なすれ違いがあったことは説明するまでもないだろう。
ぽん、と。
根木が判子を押した。
「うああああああああああああああああああああ――ッ!」
リッカの叫びが教室の天井を衝いた。
色々な意味で終わったことを確認するとシルスターが退室し、
「おい、あいつどこいった!」
どさくさに紛れてエメロットまで消えていた。
リッカは命と一緒に宮古を見たが、宮古は目を合わせてくれない。
「その、私は妹には嘘つけない主義だから……ごめん! 妹の味方になれないお姉ちゃんを許して~」
「ああっ、運営その2まで!」
涙ながらに宮古が退場し、後を追うようにオルテナ(運営その3)も去ってしまった。
残された一年生トリオはしばし固まっていたが、根木の「お腹空いたねー。ご飯にしようよ」という空気読めてるんだが読めてないんだがわからない言葉をきっかけに教室を出た。
三人は食堂棟に行くつもりだったが、廊下で出くわしたリッカファンクラブ(非公認)からパンをもらったので食堂棟に行くのを止めて……結局、会議をしていた教室に戻ってきて……。
それから程なくして、記憶が現実に追いついた。
リッカは机に置かれたパンの山に手を伸ばす気も起きず、うなだれていた。
「……どうすんだよこれ」
「そうですね。私はよもぎベーグルがいいです」
「なら私はメロンパン!」
「そっちじゃねえ――ッ!」
パンの配分ではない。リッカはこれからの話がしたいのだ。
「わかっていますって。あの友達ゲームとかいう、胡散臭いゲームのことでしょう?」
「……胡散臭いって、手前な」
「まあまあ、お腹が空くと怒りっぽくなるし頭も働きませんよ」
命がアップルデニッシュを差し出すと、リッカは力なくそれを取った。
「どうして手前はそんなに寛容なんだよ」
「別に寛容というわけでは……」
命だって文句の一つや二つ言いたかったが、エメロットの働きは文句の一つや二つ軽く帳消しにしてしまうものだった。
「あれが最善とまでは言いませんが、エメロットさんも次善ぐらいは尽くしたと思いますよ」
「あれが次善か? 確かにバカ殿をその気にさせたのは認めるよ。でももっとやりようがあったんじゃねえの? 事前にあたしたちに相談するとかさ」
「気持ちはわかりますが、それができない状況だったといいますか……」
どうしてエメロットは何の相談もなしに勝手なことばかりするのか?
命も最初は怪しんでいたが、直ぐに彼女の意図に気づいた。
「シルスターさんってやけに鋭いところありません? ここぞというときに読み勝つというか、頭の良さとはまた別の勘の良さがあるみたいな」
「ああ、あいつそういうとこあるよな。バカ殿なのに」
「あの人、どうも人の考えが読めるようでして」
「――ッ!」
これには横でメロンパンを頬張っていた根木も驚いていた。
「すごーい! もしかしてエスパー系?」
「いや、魔法や超能力の類ではなくて」
命は自分の顔を指差す。
「目――あの人は、目から情報を盗むのが非常にうまいのです。ほらシルスターさんって、じっと人の目を見ているときありません?」
言われてみればリッカにも覚えがあった。今の今まで単なる威嚇だと思っていたが。
「もしかして手前……だから」
「前から怪しいとなとは思っていたのです」
命がコートマッチで煙幕を張ったのは、シルスターの目を封じるためでもあった。
銀の女帝ほどではないが、黒髪の乙女も人の顔色を窺うのは得意な方だ。だからこそ気づけた癖でもあった。
(まあ、そんなところまで観ている時点で)
あのコートマッチは起こるべくして起きたと言える。シルスターと初めて会ったときから、命はきっと本能的に知っていた。いつか彼女と剣を交えるであろうことを。
「とはいえ、確証を得たのはついさっきですけどね」
シルスターは慎重にことを運んでいたつもりだろうが、あの会議で彼女はいくつか不用意な発言をした。その最たるものが、
――ふむ。本当に誰も知らぬようじゃな
と周囲を見渡した上で漏らしたこと。
「余ほど確信がなければ、あの発言はありえません」
リッカは手を止めて黙考する。
命がどうしてあの濁った瞳の持ち主に白羽の矢を立てたのか、どうして彼女の勝手な振る舞いに目をつぶったのか……頭のなかで散らばっていた疑問が繋がった気がした。
「どうです? これで美味しくパンが食べられそうですか」
「少しはな」
命はリッカの表情が幾分かやわらいだことを確認すると、今度は根木にフォローを入れる。
「茜ちゃんも急に巻き込まれて困惑しているでしょうが、エメロットさんも何も悪気があって茜ちゃんを指名したわけではありません」
命にとって、根木は日常の象徴のような女の子だ。
ある意味リッカや宮古より争いごとに巻き込みたくない存在だったかもしれない。
明るくていつも笑っていて、およそ闘争とはかけ離れた少女。
でも。
――もしも命ちゃんが無茶したいなら、私も全力で付き合う系!
その時が来たのかもしれない。
じめじめとした天気を晴らす太陽に頼るときが。
「虫のいいお願いであることは重々承知しています。このゲームに参加しても得るものはありませんし、どころか危ない目に遭うかもしれません」
命は頭を下げる。彼に尽くせるものは礼しかなかった。
「それでも……私に力を貸してくれますか?」
「もちのろん系!」
ノータイムだった。根木が元気よく答えた瞬間、命は自分の視界が少しだけ明るくなった気がした。
「友達がピンチなら、私はいつだって、何度だって手を貸すよ!」
命が苦しんでいたから。
エメロットが憤っていたから。
根木にとって、立ち上がる理由はそれだけで十分だった。
「でも私、何をするかもさっぱりパリジェンヌ系」
リッカは呆れ顔だが、命には根木の無鉄砲さが頼もしくすら思えた。
「そうですね。まずは友達ゲームとやらについて説明しましょうか」
かくかくしかじか……これこれうまうま……。
一通りの説明を終えると、命は根木の理解度を確認するとした。
「さて茜ちゃん、ここでクイズです。今回友達にするのは主に外部入学生ですが、外部入学生と内部進学生の大きな違いは何でしょう?」
「はいはーい」と根木は手を挙げた。「どうぞ」と命が指名すると自信満々に答える。
「ずばり出身なんだよ! 外部入学生が外から来た人で、内部入学生がこの国で育った人!」
「そうですね、悪くない答えです。じゃあ、もう少し考えてみましょうか。外の国にはないけど、この国には当たり前のようにあるものって何だと思います?」
「あっ!」
◆
「出身じゃねーの?」
同時刻……。
三部屋ほど離れた教室で、イルゼ(手下その1)もシルスターから似たような質問を受けていた。
「何をわかりきったことを」
シルスターはこれみよがしにため息をついた。
「外部入学生と内部進学生の一番の違い……それは魔法少女としての練度じゃ」
魔法があることが当たり前の環境で育った者とそうでない者、両者の間に力の差があるのは当然のことだ。コートマッチだって普通は外部入学生と内部進学生が当たらないように配慮されている。人数の関係で当たることもあるが、そのときどちらに分があるかなど言うまでもない。
「フィロソフィアの狗が内部進学生のゲーム参加を渋ったのも、これが理由じゃ」
(……知らねーよ)
会議に出ていないイルゼが具体的なやり取りまで知っているわけないのだが、シルスターは一人納得して話を進める。
「腕が立つ魔法少女の数が増えるとバランスが崩壊する。つまり友達ゲームとは、十中八九魔法が絡むゲームと見てよい」
確かにこの時期の外部入学生なら、どれも似たり寄ったりだろう。内部進学生の参加を制限することで純粋に数を競うゲームにしたのか……、イルゼはそんなことを考えながらフルーツサンドを口に運ぶ。昼時に急に呼び出されたものだから、パンくらいしか買えなかったのだ。
来たら来たで、急に友達ゲームとかパートナーとか言われるし、いい迷惑である。
「そうすると大変だな。だってあれだろ、このゲームって友達に友達を紹介してもらうみたいなことできないんだろ?」
「はあ……主のような奴が詐欺に遭うのじゃ」
シルスターが憐れむようにため息をついた。
どうしてこの女はこうも人の神経を逆なでするのが上手いのか。イルゼは苛立ちを覚えるも、口には出さなかった。
「余が渡したプリントをちゃんと読め」
――15.甲と乙は、第三者から丙を紹介された場合、これを断らなければいけない。
「ええっと、甲と乙がプレイヤーで、丙が外部入学生の友達だっけか……」
イルゼが読み解くのに時間がかかりそうだと判断すると、せっかちなシルスターが先に答えを言う。
「そこに丁の……パートナーの文字はあるか?」
イルゼもそこで気づいた。パートナーが第三者から友達を紹介してもらうこと、そしてパートナーがプレイヤーに友達を紹介することを、この条項は禁じていなかった。
「甲乙丙丁……いわゆる十干と呼ばれる者は第三者に含まれん。このゲームの肝は、この欠陥を利用して、いかに効率良く数を集めるかじゃ」
「おおっ! というかこれ丙も入ってないから、集めた外部入学生にさらに外部入学生を集めさせればいいんじゃね。ネズミ算式にさ」
「はあ……だからよく読めと言ったじゃろ」
――7.甲と乙は、友達ゲーム開催日時までに『外部入学生の友達(以下、「丙」という)』を募る。期日までに演舞場の1階に到着し、かつ、甲もしくは乙の友達である宣言した者を丙と認める。
「集めた女生徒が丙と認められるのは、ゲーム当日のみじゃ。ルールの解釈を誤って丙でもない女生徒に勧誘でもさせてみろ。その瞬間に罰則をくらうぞ」
この同意書には二つの穴がある。一つが抜け穴、そしてもう一つが落とし穴である。
「用心せよ、しかし後手には回るな。このゲームで大事なのは……」
◆
「いかに罠を見極め、相手を出し抜くかです」
それが命の導き出した答えだった。結論といい黒板に板書した内容といい、命とシルスターの見解はほぼ一致していたが、二人のゲームに対するスタンスは大きく違っていた。
「ここから私たちが取るべき戦略は……まあ色々と見えてくるのですが、基本は茜ちゃんにお任せします」
「オッケー。任された系!」
「いや、ちょっと待て」
二人の発言に対し、リッカは険しい表情を浮かべる。
「そこが一番大事なとこだろ。こんなのに任せるなよ」
「こんなの、というのは失礼では」
「こんなのだよ」
リッカは有無を言わさぬ調子で言い放った。
「この際だからはっきり言うが、あたしはこいつには全く期待してない」
それが冗談でないことは一聴して理解できた。リッカの言葉には女神としての優しさがなく、ただ一人の女としての嫌悪があった。
命は驚いていた。悲しんでもいたし、寂しくもあった。
でも、それらどの感情よりも「ああ、やっぱり」という納得が勝っていた。
命が退院したときから、リッカと根木の間にはヒビがあった。命は何度も何度もそのヒビを修復しようと試みたが、いくら表面を塗り固めても二人の関係は直ぐにヒビ割れてしまう。
だから、いつか取り繕えなくなる日が来ることはわかっていた。
リッカは鷹のように鋭い目を向けて根木に言う。
「前にあたしが診療所で言ったこと覚えてるよな? あたしと手前は、命を介した赤の他人だ。その答えは今でも変わらない」
――命が迷宮から搬送されたときも怪我一つなく帰ってきた手前らのことなんて、あたしは信じられない。
かける信用もかける期待もない。どれだけ耳当たりの良い言葉を並べようと無駄だ。
根木も、自分の言葉が決してリッカの心に響かないことを知っていた。
「あれから……」
自分の言葉は薄くて軽い、表面だけ綺麗なシャボン玉のようなものかもしれない。
けれど、根木にだって言いたいことがある。
「ずっと考えてた。私はリッカさんみたいに頭良くないし、スタイルも良くない。魔法は下手だし空だって飛べない。得意なことは少ないのに、苦手なことはその何倍もあって……自分がダメダメな子だってこともわかってる」
根木は意を決し、リッカの目をまっすぐ見つめ返した。
「でも、私は命ちゃんの足手まといじゃない!」
根木は力強く主張したが、リッカも負けじと険しい目つきで応戦した。
「口だけなら何とでも言える」
「なら証明してみせるよ。いっぱい、い~っぱい友達つくって」
「ふん。それだって人任せだろ。どうせ命に紹介してもらって――」
「違うよ!」
根木は食い気味に否定すると、命ともシルスターとも違う答えを出した。
「私はちゃんと自分の目で見て、自分の口で話して友達を作るもん。だって友達の友達は、友達じゃないんでしょ。そうだよね、リッカさん!」
自分の言葉が届かないなら、相手が言った言葉をそのまま返すまで。
根木の思わぬ反撃に、リッカは言葉を詰まらせる。
恐らく二人の会話に混ざるとしたら、ここしかない。口を出すべきか否か、命は逡巡したのちに口を開いた。
「私は……茜ちゃんに勝負を預けてもいいと思っています。同じクラスのエメロットさんだって、茜ちゃんの人となりはわかっていたはずです。わかった上で指名したというなら、私はそこに勝機があると見ています」
と、ここで終えると角が立つので、フォローも入れなくてはいけない。心なしかリッカの命を見る目も険しくなりつつあった。
「とはいえ、茜ちゃんも危なっかしいところがありますからね。そこはもちろん私がカバーするつもりです。元々私はパートナーですしね」
「……まっ、その辺が妥当な落としどころか」
リッカはパンの最後の一欠片を口に放ると、おもむろに席を立った。
「どの道あたしは介入できない立場だ。一切の判断は命に任せるよ。あたしが手出しすると、そこの運営にも叱られそうだしな」
「……命ちゅわぁん」
「はっ、いつの間に――ッ!」
巨人の星を目指す弟を見守る姉よろしく、宮古が扉の隙間からこちらを見ていた。
お節介を焼こうとして命たちにペナルティが課せられては本末転倒である。リッカは早々に退散するとしたが、その前に根木を見遣った。
「言っとくけど、あたしは手前を信用したわけじゃない。手前を信用してる命を信用してるだけだ」
「リッカさん!」
リッカが遠ざかってしまう前に、根木はずっと彼女に言いたかった言葉を口にする。
「もしも……もしも私がいっぱい友達作ったら、リッカさんも私の友達になってくれますか?」
予期せぬ申し出にリッカはきょとんと目を丸くする。あそこまで悪しざまに言ったのに、そんなことを言われるなんて夢にも思っていなかったのだ。
「……勝ったらな」
「うん。約束だよ!」
リッカは顔を背けたまま頷いた。それから教室を後にしようとしたが、「リッカ」と命に呼ばれて足を止めた。
「今度は何だよ」
「私は貴方にいちいち細かいことは言いません」
だから手短に。
「頼りにしていますよ」
黒髪の乙女は微笑を湛えて、必要最大限の言葉を伝えた。
「あたしに? 何をだよ?」
リッカは翠髪を掻きながら、今度こそ教室を後にした。
後ろ姿しか見えずとも、リッカがシニカルな笑みを浮かべていることが、命にはわかった。
「それでは、私たちはもう一踏ん張りするとしますか」
リッカに関しては心配いらないだろう。命は直ぐに切り替えた。
口に出さなければ伝わらないこともあるが、いつの間にか、彼女とは言葉を交わさずとも多くのことを共有できる関係になっていた。
そんな二人の関係に触れると、根木は知らずつぶやいていた。
「……いいなあ」
「何がですか?」
「ううん、何でもない」
根木は雑念を払うように、ことさら元気よく声を張った。
「よーし。頑張ろうね、命ちゃん。目指すは友達100人だよ!」
「はい、その意気です!」
命も胸の前で拳を握った。
本音を言えばもっと現実的な目標を掲げたかったが、根木のやる気が第一である。
「友達100人作るぞー! えいえい」
おー、と声を重ねて二人は拳を上げた。
◆
「ノルマは60人じゃ。日に4人ペースで友達を集めて来い」
(……はっ?)
一方的に告げられたイルゼは、衝動的に手を上げそうになった。相手がシルスターでなければ、間違いなく手を上げていた。
「待て待て、ちょっと待て」
「何じゃ? パートナーを起点とした友達の集め方は、さっき話したではないか?」
そこではない。
百歩譲って、勝手に友達を集める役にされたことは許すとしよう。
でも、
「……60人って何だよ」
これは無理。イルゼは顔が広い方だか、外部入学生とはほぼ交流がない。
それなのに60人……単純計算でも外部入学生の五分の一を引っ張って来いなんて、無理がすぎる。
イルゼの精一杯の抗議に対して、シルスターは「うむ」と頷いた。
「そうか。余としたことが、どうして60人集めるのかの説明を欠いていたか。これはな……」
シルスターはしたり顔で語り出した。
演舞場を講義で利用するときは基本的に二クラス合同……60人弱で使うのがルールだ。ここから友達ゲームの参加人数を60人だと仮定すると、各プレイヤーが集める友達の目安は30人となる。
「だが30人はあくまで目安にすぎん。実際の演舞場の収容人数はもっと多いからな。そうするとやはり二クラス分……60人は集めたいところじゃ」
違う。
違う、そうではないのだ。
確かにシルスターは中等部時代と比べて、見違えるほど賢くなった。
でも、
(こいつ、肝心なところが全く成長してねえ――ッ!)
かつてのバカ殿ぶりは健在であった。
付いて行くべき相手を間違えたか、とイルゼの頭に後悔がよぎった瞬間だった。
「不服か?」
女帝の目が、イルゼの不満を見透かした。
ただ鈍感でありさえすればもっと付き合いやすかっただろうが、シルスターは人一倍、人の悪意に敏感な女だった。
イルゼは「……い、いや」と曖昧に誤魔化す。
「なら良い。これでも余は主のことを買っているつもりじゃ。誰よりも早く余に尻尾を振った主の賢さをな」
まるで褒められている気がしない。イルゼは空笑いするしかなかった。
もう逃げられない。
選んだのは自分だ。
イルゼはあきらめたように笑うのを止めた。
「それで……私の役割はわかったけどさ、シルスターは何するんだ?」
「余か。余はしばらく身を隠す」
それはつまり、何もしないということか。
イルゼは絶句しかけたが、何やらシルスターには考えがあるようだった。
「余の名前を使えば、このゲームは買ったも同然。0%だった連中の勝率が、1%になっただけじゃ」
と言いつつも、シルスターは表情を引き締めていた。命に一杯食わされた苦い思い出が、銀の女帝の頭にはまだ鮮明に残っていた。
「だが念には念をな。気付いてはおらぬか? 追加事項を加えた時点で、余は絶対的優位を手にした。このゲームには――」
◆
「勝ちに行きましょう」
二人だけのパン祭りを終えると、命は力強く宣言した。
腹ごなしは済んだ。
あとは最高のスタートダッシュを切るだけだ。
気負いすぎてはいけないし、肩の力を抜きすぎてもいけない。
命は根木を、そして自分を鼓舞する。
「エメロットさんのおかげで私たちはゼロの壁を越えました。私たちが手にしたのはたかだか1%の勝率かもしれませんが、私たちにとっては大きな1%です」
0と1にすることに比べたら、1を100に近づける方が余ほど容易い。
小さな……本当に小さな穴かもしれないが、そこには確かに穴がある。
どうして怖がることがある。
穴を突くのも拡げるのも、黒髪の乙女は大の得意ではないか。
「1%もあれば十分です。1%が往々にして起こるのが世のなかです」
SSRは当たるし、自販機のジュースだって当たる。
決して奇跡なんかではない。
1%は万人が引き寄せられる確率なのだ。
それに。
「私には茜ちゃんが、茜ちゃんには私が付いています」
ぱあっと根木が笑顔を輝かせる。
光があればあるほど艶を増すのが、乙女の黒髪だ。命は長い黒髪を揺らしながら続ける。
「目にもの見せてやりましょう。私は、私たちは弱くなんかありません!」
弱いからこそ心が強い。弱くても誰かと手と手を取り合える強さが、私たちにはある。
私たちは強い。
これは一方的なゲームなんかではないのだ。
一心に耳を傾ける根木。
命の熱弁は最高潮に達した。
「もしも連中が楽勝だなんて思っているのだとしたら、連中の目は曇っています」
私たちの強さを見誤っているし、足元が見えていない。
「このゲームには――」
奇しくも同じとき。
似て非なる場所でシルスターと命は声を重ね、
「必勝の策があるのじゃ」
「必殺の罠があります」
異なる答えを出した。
命とシルスター。
二人の人生を大きく変える第二ラウンドが始まろうとしていた。




