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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
103/113

第102話 お嬢さま殺し

 春の嵐から一夜明け……。

 夏を思わせるむわっとした熱気がセントフィリア女学院を包んでいた。急に暑くなったものだから、適応できない女生徒たちがそこかしこで上着を脱ぎ捨てている。

 天の恵みに体がついていかない、そんなどこか慌ただしい好天だった。天頂近くにのぼった太陽が目にまぶしい。


 二限の講義が終わりに近づくころ。

 上着を一枚脱いだ(が、ベストはしっかり着用している)命は、彩り寂しくなった花壇を横目にキャンパスを歩いていた。

 花の儚さを感ずるといえば美しいが、この乙女、午前の講義を平然とサボタージュしている。ああ、なんて嘆かわしい! 現代の教育が生んだ悲しきゆとり乙女……と罵るのは簡単だが、それはあまりに早計であろう。


 命とて、好きで講義をサボタージュしたわけではない。顔を合わせづらい相手がいるから、こうしてコソコソと登校しているのだ。

 夢にまで出てくる銀髪の君。もしも彼女に遭えたなら、顔が凸凹凹凸(でこぼこおうとつ)になるか、七花八裂するかの二択であろう。いずれにせよ顔の原形が残らないこと必至であった。


 くわばらくわばら……、命は周囲を警戒しながら先を急ぐ。どうやら命包囲網(シフト)を敷いているわけではなさそうだが、油断は禁物である。

 シルスターの動きが鈍いのは、昨日の今日で躍起になって報復することを恥と思っているか、あるいは自分のことを軽んじているか、その二つに一つであろう。


 どちらにせよありがたい話であるが、どちらにせよ時が経てば解けてしまう問題でもあった。

 ……時間がない。

 命はつい早足になりそうなのを堪えて、白亜の城に足を踏み入れた。

 意匠を凝らした階段を上って2階に着く。命は講義を受けに来たのではなく、とある女生徒に会いに来ていた。


(色好い返事を貰えると良いのですが……)


 シルスターと直接手を合わせてわかったことがある。

 それは、自分がシルスターに勝つことがいかに絶望的かということだ。

 実力は遠く及ばず、権力など比べるべくもない。こうなると相手を欺く手を選ばざるを得ないが、それも一度見せてしまった。一度警戒した相手をもう一度騙すのは至難の業である。シルスターをバカ殿呼ばわりする者もいるが、決して頭が回らない女生徒というわけでもないのだ。


 ……これは分が悪い。

 命の手元には、シルスターに太刀打ちできるカードがなかった。これが真っ当なゲームならとうに投げているところだが、これは真っ当なゲームではない。盤外戦からイカサマまで何でもありの勝負(ゲーム)だ。

 愚者のカードで足りないというなら追加(ヒット)すればいいのだ。シルスターを上回る、女帝殺しのカードを。


 幸い女帝殺しのカードにも心当たりがあった。校内の事情に疎いとはいえ、命も校内一の有名人のことぐらいは知っている。ヴァイオリッヒ家の上を行くとなれば、彼女に目が向くのは必然といえた。


(先に仕掛けてきたのは、貴方ですからね)


 力を振るう以上、力に潰される覚悟もあるのだろう。

 ならばぶつけてやろうではないか。


 力には力を。

 権力には権力を。

 御三家には御三家を。


 昼食どきの楽しげな声が響く廊下を歩く。命はフィロソフィアが所属する1-B……の一つ手前のクラスで足を止めた。


 命の目当てはフィロソフィアなんて紛い者でなく、本物である。こんな機会でなければ顔を合わせることはなかっただろう。春祭りのときに自分をいたぶったローズと、血を分けた者なんかとは。


 この女学院に五人しかいない才媛の一人にして、御三家の頂点――ハイルフォン=モモ。


(それでは、いざ)


 命は、"桃髪の暴君"の居城である1-Aの扉を叩いた。少し様子を見るつもりだったが、直ぐになかの女生徒が戸を開けてくれた。


「ごきげんよう」と女生徒はスカートの裾をつまみ軽く持ち上げる仕草――ステーシーを披露する。

 命は多少面食らったが、慌てず左足を前に出し右足の踵を少し浮かせる。持ち上げたスカートの高さを揃えると礼を返した。


「ごきげんよう」


 ほんの一瞬、1-Aに空白の時間が流れた。命を視界に入れた女生徒たちは手を止め、感嘆の吐息を漏らした。

 それもそのはず。女子校への入学が決まってから、命はステーシーの練習を欠かしたことがない。黒髪の乙女が礼節を重んじるという面もあるが、命個人がステーシーは必須の技能だと固く信じていた。そう……固く。


(今までまったく役に立ちませんでしたけどね!)


 なんてことはない。命もまた、女子校に夢を見る一人の阿呆であったということだ。しかし無残に砕かれたと思っていた幻想も一欠片ぐらいは輝いているようで、命は何とも言えぬ喜びを覚えた。


(やっぱり女子校はこうでなくては!)


 お嬢さま学校に浪漫を感じる阿呆はさておき。

 見事なステーシーを返された女生徒は、口をもごもごさせ返答に詰まっていた。しかし彼女とて、1-Aの受付を担う者。気を強く持って応対する。


「1-Aにお越しいただきありがとうございます。本日はどのようなご用向きでしょうか?」

「これはどうもご丁寧に。お休みのところ恐縮ですが、ハイルフォン=モモさんにお取り次ぎ願えないでしょうか」

「モモさまですか」受付嬢は一瞬目を泳がせる「失礼ですが、お約束はいただいておりますか?」


 アポイントが必要とな……、命は喉まで出かかった言葉を飲み込む。「アポはねーけど・・・・用ならあるぜ!」で押し通すわけにもいくまい。


「お約束はないのですが、少しお時間いただけないでしょうか」

「そう申されましても……お約束がないようでは」

「そこをなんとか、ご挨拶だけでも。お願いします」

「こ、困ります」


 これはあと一押しすればいける。

 勝利を確信した命が最後に一押し加えようとすると、


「いいよ。代わるから」


 見るに見かねて別の女生徒が現れた。受付嬢の肩を軽く叩くと、彼女は二人の間に割って入った。


「あーた黒髪の乙女だっけ?」


 どうやらステーシーは必要なさそうだ。喧嘩腰に睨まれたが、命は目でなく彼女の髪を見ていた。


(あの人と同じ髪色……)


 目を引く女生徒である。左右でまとめた桃色のツインテールもだが、何より彼女を飾るものが目立つ。

 手、足、首――俗に三首と呼ばれる箇所に、腕輪、足輪、首輪を漏れなく付けていた。本革製のそれには黄金の真鍮板がはめられ、魔法文字でハイルフォン=モモと彫られている。


「たまにいるのよね、あーたみたいな超勘違いした奴。ちょっと名前が売れてて、ちょっと可愛いからって調子に乗ってるんじゃない? ねぇそうでしょ?」

「そんな滅相もない。貴方さまの方がお可愛いですよ」

「えっ、ホント……じゃなくて! そんなおべっかに騙されないもんね!」


 輪っかの女生徒はブンブンと首を振ると、命の肩に手をかけた。


「ほら帰った帰った。あーたみたいな輩を相手にするほど、モモちゃんは暇じゃないの。さあ帰れ超帰れ!」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 今、彼女は何と言った?

 自分がハイルフォン=モモではないような口ぶりではないか。


「あら、いいじゃない」


 その命の疑問に答えるように、鈴を転がすような声が響く。命は一聴してわかった。彼女こそがハイルフォン=モモその人なのだ、と。


「最近よく聞く名前だからね。私も興味があったのよ」


 女生徒が一斉に口を閉じる。一言一句漏らしてはならないと、まるで教室中央におわす神のお告げでも聞くかのように。


「良ければ一緒に食事しない? 黒髪の乙女」


 一笑千金。そんな言葉が命の頭に浮かんだ。

 まだ幼さが残る相貌であるが、間違いなく美の神に愛されていた。

 澄んだ桃色緑柱石モルガナイトの瞳。

 さらさらと油気のない桃色の髪。前は1ミリの誤差も許さぬパッツン、左右に二つずつ垂らした四つ結いの髪(フォーテール)は柔らかに揺れていた。


「どうしたの? そんなところに突っ立って」

「いえ……あまりにお綺麗だったもので、つい見惚れてしまいました」

「ふふっ、お上手ね。この分だと楽しませて貰えそうだわ」


 モモは隣の机を軽く叩く。


「ほら早く席に着いてちょうだい。今日は私に楽しいお話を聞かせに来てくれたのでしょう?」


 ノーはないのだろう、と命は悟った。あのお嬢さまは「面白い話を聞くついでなら要件を聞いてやろう」と申しているのだ。


(……初っ端から滑らない話を要求されるとは)


 無茶振りも良いところだが望むところでもある。人の気分を良くすることにかけて、黒髪の乙女の右に出るものはいない。


 さっそくモモの隣に座ろうとすると、「あー!」と輪っかの女生徒が騒いだ。


「そこリリィの席なんだけど!」


 モモは落ち着き払って言う。


「大丈夫よ。私の周りの床は特別きれいだから」


(床に座れ宣言――ッ!)


 可愛い顔してひどいことをおっしゃる。命は恐ろしいものを見た気がしたが、どうやら心配は無用のようだった。


「モモちゃんってばひどーい。イジメないでよ」

「あら、イジメてなんかないわ。私はただ、貴方には床がよく似合うと思っただけよ。ほらリリィ、貴方とても床がお似合いよ。こんなに床が似合うのは、貴方か雑巾ぐらいのものだわ」

「えへへ、そんなにかな」


 モモの世話役――ルノワール=リリィは満更でもない顔で床に座った。


「はい、よくできました。ご褒美をあげるから、ちゃんと取るのよ」


 モモがプチトマトを放る。それをリリィが器用に口でキャッチすると、拍手が湧いた。拍手にまぎれて「いいなあ」とぼやく女生徒の声まで聞こえる。


(なにこの新世界――ッ!?)


 この教室で起きている森羅万象に突っ込まねばいけない気がするも、相手はクイーン・オブ・クイーン。才媛にして御三家。命は右に倣っておいた。


「わあ。床がとてもお似合いですよ、リリィさん」

「はあ? あーたに褒められても嬉しく――キャン!」


 リリィが頭から突っ伏した。あまりに突然の出来事だったので、命は何も知覚できなかった。


「ごめんなさいね。この()、ちょっと躾がなってなくて」


 小さな女王がにこりと笑った。


 一見して那須と同等……いや、それより小さいかもしれないのに、モモは自分(158cm)より大きく見える。黒いストッキングに包まれた足を優雅に組む姿がよく似合う。女王の尊大さがその小さな身体を大きく見せていた。


「貴方、弁当は持っていて?」

「お恥ずかしながら今日は急いでいたもので……でも、その気持ちだけでお腹いっぱいです」

「それはどうも――なんて言うとでも思った?」


 モモは心外だというように声色を変えた。


「腹を空かせた客人をそのまま返したとあっては、(わたし)の名折れよ。そこの弁当を食べなさい」

「そこの弁当リリィのベン・ト――ッ!」


 がばっと跳ね起きたリリィは、声高に所有権を主張した。命はあまりに哀れすぎて手を伸ばすのを躊躇い、モモは駄犬を見るような目を足元に向けた。


「貴方さっきプチトマトを食べたじゃない」

「3カロリーじゃん! 切り捨てたら無だよ! 嫌なの超嫌なのー!」

「聞き分けの悪い子ね」

「だってだって早起きして作ったのに。これ、モモちゃんとお揃いの弁当なのに」

「……はあ」


 モモはすっと右手を上げると、指を鳴らした。


「貴方たち、黒髪の乙女におかずを一品ずつ分けてあげなさい」


 イエス・マアム! 全ては女王さまの御心のままに、と1-Aの女生徒たちが瞬く間に列を成した。


「紙皿の準備よーし」「おかずの準備よーし」「1-A(みんな)は一人のために」「一人は1-A(みんな)のために」「モモさまに栄光あれ!」「きゃー、モモちゃんかーっくいい!」


 モーモさま! モーモさま! パチンパチンパチーン!


 鳴り止まぬモモさまコールにフィンガースナップ。

 一歩誤れば暴動に発展するテンションである。彼女たちはどこまで熱狂するのか。よそ者の命は心配になったが、不意にパッチーンと一際高い音が鳴った。

 その(たっと)き音はモモのものに違いない。モモのフィンガースナップの音を聞き分けられないような輩は、ここ1-Aにはいなかった。


 一転。夜の海を思わせる静けさのなか、女王が告げた。


「貴方たち、やっておしまい」


 うおおおおおお……とは叫んでいなかったが、1-Aの女生徒たちが怒涛の勢いでおかずを恵んでいった。


 やはりこのクラスは何かがおかしい……、命は素直な感想を胸に秘めたまま、女生徒一人一人に感謝の言葉を述べた。


(うん。夜は軽めのもので済ませよう)


 命の前には、こんもりと盛られたおかずの山があった。

 女装(みなり)に気を遣う者としては、もう少しカロリーオフして欲しいというのが本音である。しかし、人から受けた好意を無碍にする者は乙女にあらず。命は美味しくいただくとした。


「モモさま、わたしたちを祝福し、また御恵(おんめく)みによって今ともにいただくこの食事を祝して下さい」


 いただきます。

 命は平然と行われる危険な祈りを聞き流した。


「それで今日はどんなお話をしてくれるの?」と、モモが出し抜けに言った。その姿はどこか絵本をせがむ子供に似ていた。


「そうですね」


 命は一思案してから話題を決めた。


「これは、私がこの国に初めて来たときの……」


 フィロソフィアと名乗る少女と出会ったときの話である。

 入国と同時に彼女と揉めたこと、それから空中レースを繰り広げたことを、命は面白おかしく語った。


「まあ黒髪の乙女ったら酷いことをするのね。相手は腐っても御三家なのに」

「私が見たところ、単に腐っているだけでしたよ」

「まあ酷い。黒髪の乙女ったら本当に酷い!」


 と言いつつも、愉悦の色を浮かべるモモさま。

 初めてシルスターに会ったときも思ったが、どうやら彼女たちは怨家(おんけ)の不幸話が好物のようだ。御三家の闇を垣間見た気がしたが、命は目を瞑ったまま話を続けた。


 女装苦労譚を省いているとはいえ、存在が冗談みたいな命の話である。軽妙なトークと相まって、女王さまもご満悦であった。


「あー、おかしい。とても愉快な気分だわ」


 特にモモは昨日のコートマッチで空回りするシルスターの話が気に入ったようで、終始口を押さえて笑っていた。

 これはいけるかもしれない。昼休みも終わり間近。いつまでも吟遊詩人の真似ごとばかりしてもいられなかった。


「楽しんでいただけたようなら何よりです。私もこのまま続きを語りたいのですが」

 

 そこで一度区切り、命は攻めに転じる。


「実はこの話、まだ途中なので先を語ることができないのですよ」

「ふうん、それで」


 何が言いたいのよ、と桃色緑柱石(オルガナイト)の瞳が先を促している。ようやく許しを得た命は本題を切り出した。


「物語を先に進めるためにもお力添えいただけないかと。今日はお願いに参りました」

「そういうこと。なら初めからそう言えばいいのに」


(よくもまあ、いけしゃあしゃあと)


 命は本心が透けぬよう愛想笑いを浮かべた。対面のモモは思考に耽っているのかフォークを揺らし……不意にピタリと止めた。


「そうね。シルスターを潰すなんて、私にとっては赤子の手をひねるも同然よ」

「じゃあ!」

「でもね――」


 つい前のめりになってしまった瞬間、命は己の愚を悟る。モモが唇を三日月の形にしていた。


「赤子の手をひねる話なんて、つまらない。わかるでしょう、黒髪の乙女? 私の言いたいことが」


 ああ、わかる。命は向かいの女がいかに天邪鬼なのかよく理解していた。


「私は面白いことが好き。だから、つまらないことはしない主義なの」


 二人の時間を切り裂くように予鈴が鳴る。モモは「あら」と白々しい声を出し、弁当箱を絹のスカーフに包みだした。


「今日はここまでかしら。貴方の話とても面白かったわ。また会いましょうね」


 女王の感情が伝播するように、一人また一人と命に向ける目が冷たくなる。気づけば1-A全体が、命を外に追い払おうとしていた。


「そうですか、それは残念です。できれば貴方とは争いたくなかったのですが」


 瞬間、教室という生き物が殺気立った。下手に動こうものなら集中砲火を食らっていたかもしれない。

 命は心の内に恐怖を隠して、桃色緑柱石(オルガナイト)の瞳を一心に見つめる。外野は関係ない。今席に着いているのは命とモモだけなのだ。


「それはどういうことかしら」

「おや、急にどうしました? 私は午後の講義があるのですが」

「休めばいいじゃない、そんなもの。面白い話をしてくれるのでしょう? ならもう少し付き合ってあげるわ」


 女王の意を汲み1-Aの女生徒たちが動く。モップをつっかえ棒にして、教室の前後の扉を開かないようにしていた。

 どうやら途中退席を許されないようだが、今更である。命はモモと会うと決めた時点で覚悟を決めていた。


「面白いかは保証しかねますが、お隣の話をご存知ですか」

「1-Bのことならさっぱりよ。隣の芝にはあまり興味がない質なの」

「まあ、それはいけない」命は大仰な仕草で続ける「隣の芝は青いどころか真っ赤に燃えているのですよ。1-Aにだっていつ火がつくかわかったものじゃありません!」

「ふうん」

「1-Bで幅を利かせているのはどうも、シルスターさんの手の者でして」

「私に牽制を入れていると?」

「ええ。1-Fと1-Eは制圧したも同然ですからね。拠点を置いたら、あっという間に攻めてきますよ」


 と、5:5の割合で嘘と真実を綯い交ぜる。


「今日こうして皆さんの優しさに触れて、私の思いは強くなるばかりです。私は1-Aの皆さんとは敵対したくありません」


 これは嘘であり、さらに言えば脅しである。命が「シルスター万歳!」とでも叫んで狼藉を働けば、1-Aと1-Fの戦争を誘発することもできる。「やんのかこら、こっちにはシルスターがいるぞ。どうぞ潰して下さい」といった具合だ。


「私を……いえ、1-Aを救うと思って助けて下さい!」


 命は深々と頭を下げた。


 モモは厚く信頼される女王である。その女王が1-Fに攻め込まれると知りながらも、指を咥えているだけでは心象が悪かろう。


「そう。それは困ったわね」


 モモは顎に手を当てて黙考する。受けるにせよ断るにせよ、面倒ごとが起こることは女王も理解しているだろう。では、どちらを選択するのが得策か。


(私が彼女の立場であれば、間違いなく受ける)


 聡明な女王であれば拙速をよしとする。私の願いを聞き入れる寛大さを見せた上でシルスターを叩き潰してくれる……、命はそう信じていたのだが、


「まあでも、つまらないことは起きてから考えるとしましょう」


 モモは名や実よりも興を取る。

 命には信じがたい感性の持ち主であった。


「起きてからって、それでは――」

「遅いって? 大丈夫よ。私は動き出したら早いタイプだから」

「1-Aの生徒が怪我してからでは――」

「遅いって? 大丈夫よ。死にやしないから」


 それで? と言わんばかりの表情で、モモは次の言葉を待ったが、命は次の言葉を見つけられずにいた。


「もう少し面白い話をしてくれるかと期待してたんだけど、どうやら期待外れだったようね」


 モモは、ふうっと息を吐いた。


「結局のところ、つまらないのよ。どうしても私に助けて欲しいというなら、もっと面白い理由を用意してちょうだい。それじゃ――」

「待って下さい!」


 命は食い気味に叫んだ。あと一秒遅かったら、モモは手をひらひら振って立ち去っていただろう。

 交渉を妥結するチャンスはここしかない。

 でも、面白い理由なんて何がある?

 交渉とは互いにとって有益であるもの。そう考える命にとって、面白さを要求されても即応できるわけがなかった。


 ああ、落ちていく。

 残り数秒もない希望の砂が。

 ダメだ。

 この砂時計をひっくり返すことが――


(――ひっくり返してしまえばいいのか)


 土壇場で、命は一筋の光明を見た。


「私がお願いしていることは確かにつまらないことかもしれません。ですが、面白いプレゼントでもあれば、少しは我慢できるのではないでしょうか」

「あら、プレゼントを用意してきてくれたの。そうね……私が気にいるような物をくれるなら考えてあげようかしら」

「ええ、ありますとも。とっておきのプレゼントが」


 命は思いつく端から言葉を並び立てる。

 プレゼント?

 それも国有数のお嬢さまが喜ぶような品?

 そんな気の利いたものを用意している時間もお金も、命にはなかった。


「何せハイルフォン家のお嬢さまであるモモさんに送る品ですからね。私も何をあげようか大変悩みましたが」


 考えろ考えろ時間を稼げ。私があげられるものは何だ。満たされたお嬢さまが欲しいものは何だ?


「悩んだ末にあげようと思ったものは」


 何だ。何だ。何だ。命は脳が焼け付くほどに思考を加速させる。


「前置きはいいわ。で、貴方は私に何をくれるの? 粗品なら貴方ごと床に叩きつけてやるけど」


 そして命が出した答えは、


「わたし……プレゼントは私です」


 サプライズ。

 モモが思いつかないであろう驚きをプレゼントすることだった。


「…………」


 教室が音をなくした。沈黙が痛いが、もう止まれない。


「炊事洗濯家事掃除が得意です」


 命は思わず口走ってしまった。ああ私は何を言っているのだろうという後悔が頭に登ってきた、ちょうどそのとき。


「……ぷっ」


 不機嫌だった女王が小さく噴き出した。


「おかしな子。私に貴方のことを雇えとでもいうの?」


 神はまだ私のことを見捨てていない。特定の神を信仰しない命さえ、気まぐれな神に感謝したくなった。


「ねえ、教えて。どうしてシルスターを潰したいの? そこまで必死になって、貴方は何が欲しいの?」

「私が欲しいもの、ですか」


 聞かれた瞬間、頭に浮かんだ答えがあった。

 それは過ぎた願いなのかもしれない。性別をひた隠す魔法使いが、女装して女学院に忍び込んできた男が、口に出してはいけない願いなのかもしれない。


(……でも)


 命は脱力した状態で答えを口にする。

 考えすぎてはいけない。

 たぶん、考えに考えた末、何も考えずにふと口を突いた言葉が、


「楽しい学校生活」


 自分の偽らざる答えなのだから。


(ああ……)


 とうとう言ってしまった。口に出してしまったら、後戻りできないと知っていたのに。命は想うままに生きてしまった。

 周りは敵だらけで逃げ場もない。追い込まれている状況だというのに、命は晴れやかな気分だった。


 黒髪の乙女は自然と微笑み、


「……くっ」


 そして世界は一瞬にして華やいだ。


「あーはっはっはっ! 楽しい学校生活って、何よそれ。ああ本当に面白い。お昼ごはんが全部口から出ちゃいそう。貴方、私のツボよ」


「あー、おかしい」とモモは口を押さえることすら忘れて笑う。1-Aの面々すら困惑するほどの笑いっぷりであった。


「ふう」


 ややあって息を整えると、モモは目元に浮かんだ涙を拭った。


「好きよ。貴方のこと雇っちゃいたいぐらい好きなんだけど」


 モモは視線を落とす。床にいる愛犬リリィが、黒いストッキングに包まれた足を掴んでいた。


「使用人はもう足りてるのよ。だから、貴方の一部だけちょうだい」


 モモは愛犬を蹴飛ばすと、人目もはばからずにストッキングを脱ぎ始めた。てらてら光る黒いストッキングと白い脚が擦れる音が鳴る。


「んっ」と小さく声を漏らす。モモが穿いていた黒いストッキングがしゅるりと柔らかな音を立てて床に落ちた。つい頬を桜色に染めてしまった命を見て、モモはにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「あら、もしかして貴方、ストッキングが好きなの? 良ければそれ持ち帰ってもいいけど」

「ち、違います!」


 あわわと命が否定している間に、横から伸びた手が黒いストッキングをかっさらう。手の先を追うと、そこには歯を剥いて命を威嚇するリリィの姿があった。


「…………」

「まあいいわ」


 命もモモも何も見なかったことにした。


「黒髪の乙女は、日本人でいいのかしら」

「そうですけど」

「なら良かった。黄色人種(モンゴロイド)は見分けづらいのよね」


 一体何が良かったのか。命が理解する前にモモが命じた。


「土下座。一度見てみたかったのよ。地に額をつけた状態で足を舐めてくれる? そうしたら考えてあげる」


 モモは横向きに座り直すと、素足を前に放り出した。


「貴方があまりにも私好みだから、いけないのよ。私、貴方のプライドが欲しくなっちゃったの」

「……っ!」


 命は瞠目して、しばし固まった。

 生まれて初めての経験である。土下座をして、しかも女の子の足を舐めるなんて。そんな……そんな……。


「そんなことでいいのですか!」


 拍子抜けするほど緩い条件である。命は両膝をつくと「右と左、どちらから舐めましょうか」と尋ねた。

 今度はモモが驚く番だった。思わずポカンとするも、それも数秒のこと。


「約束……ちゃんと守ってくださいね」


 四つ足ついた命が、上目遣いで微笑んでいる。

 モモは暴君だ。

 数えられないほど人を這いつくばらせたことがある。しかし、下から笑顔でプレッシャーをかけられるのは生まれて初めての経験だった。


「貴方、本当に面白いわ」


 モモは艶やかな眼差しを命に向ける。

 快諾した命に欠片もプライドがなければ、ヒキガエルにしてやったところだが、命には少なからずプライドがあった。


 プライドを持つことを知りながら、それを捨てることをいとわない。恥を承知の上で、命は恥辱を受ける道を選んだのだ。

 そんな健気な乙女であるからこそ、かしづかせたくなる。汚したくなる。舐めさせたくなる。


 甘い快感がモモの背筋を駆け抜ける。ぶるり、と女王は身震いした。


「右からだけど、舐める前に一つ答えて」

「何でしょう?」

「足を舐めるのは初めてかしら」


 足を舐めるに初めてなんて概念があるのかと思いつつも、命は首肯した。


「そう。なら貴方の初めては私のものね」


 んまあ! 年ごろの乙女がはしたない! 命は心のなかでそう繰り返すことで真っ赤な頰を誤魔化そうとしたが、頰の熱は冷めなかった。


(もしかしてこれ……ものすごい辱しめを受けているのでは)


 もしかしなくてもそうである。しんと静まるなか、誰かが唾を飲む音がした。一時は殺気だっていた教室も今や、ふわふわした空気が充満していた。


 三十余名の女生徒が、頰を染めながら命のことを横目で窺っている。忙しなく動く無数の瞳は、今か今かと命のことを急かしていた。


 命にとって幸いだったのは、そのなかに一人、血の涙を流しかねないほど悔しがる犬がいたことだ。リリィの存在が桃色の空気をほんの少し緩和してくれた。


「し、失礼」


 命は勢いを失わない内に行動を起こす。頭を下げることより、白い脚に唇が近づくことの方が恥ずかしかった。


 まさか女装で失われたと思っていた羞恥心と、こんな形で再開するとは。命はわけのわからないことを考えながら、ちろりと舌を出した。


「ちゃんと指と指の間もしっかり舐めるのよ」

「ええ。わかっていますとも」そう返すつもりだったのに、命は「……はい」と弱々しい声で返すだけで精一杯だった。


 唾液に濡れた舌先が、ゆっくりと親指と人差し指の間に伸びていく。

 六十とニの瞳はもはや隠すこともなく二人を凝視していた。モモは火照った頰を緩め、命は震える舌を白い窪地に到達させようとする。そして世界が桃色に染まる……直前のことだった。


 ガンガンガンガン! と激しいノックが二人の邪魔をした。


 来訪者は力づくで入ろうとしているようだが、扉にはつっかえ棒がさしてある。ガタガタと揺れるだけで扉は一向に開かなかった。


「あー、はいはーい。ちょっと待ってねー」


 これ幸い、と顔を歪めるあまりへちゃむくれになっていたリリィが飛び出した。

 受付嬢を押しのけ前に出る。

 換気、換気、と。少しでも桃色の空気を外に逃がそうとしたリリィを迎えたのは、扉を外すほどの強風だった。


「へっ?」


 ごうと吹く風が扉ごとリリィをなぎ倒した。


「きゃああああ。リリィが下敷きになりましたわ!」


 受付嬢が叫んだが、誰もリリィのことは見ていない。その場にいる者の視線はすべて、ダイナミックエントリーをかました女神に集中していた。


「……何してんだ手前ら」


 わずか一睨み。リッカが睨むと桃色アトモスフィアが霧消した。ただでさえ目付きの悪い女神が目に見えて怒っているのだから、その怖さはただことではない。

 女生徒たちは泣いたり、立ちすくんだりと、百人百様に女神を畏れた。そのなかで一番畏れを抱いていたのは、言うまでもなく命である。


(あっ、死んだ)


 女神さまがみてる。

 じっと射殺すような目でみてる。

 黒髪の乙女は、かつてないほど死を身近に感じていた。


 死神と化したリッカの目は外れぬものと思われたが、このクラスには一人、神をも恐れぬ女王がいた。


「あら、人のお楽しみを邪魔するなんて品のない女神ね」

「品がないのはどっちだって話だ」


 女王と女神の視線が火花を散らすと、今度はそっちに視線が大移動した。


「いっ……たいなー、もうっ!」


 引き戸の下敷きになっていたリリィが、勢い良く立ち上がる。

 が、誰も見ていなかった。

 リリィは仕方なく皆の視線が集中している位置まで歩いた。


「ちょっと! 痛かったんですけどー。何か私に言うことあるんじゃないですかー!」

「あっ、わりぃ」

「そうそう。そうやって素直に謝れば許す……わけあるかボケェー!」

「……何なんだよ手前は」


 偶然とはいえ魔法が当たったことで妹の姿がフラッシュバックするわ、急に横から噛みつかれるわで、リッカはいい迷惑だった。


「いきなり飛んできた扉に下敷きにされる怖さが、あーたにわかる? 超怖かったんだからね!」

「リリィ」と、モモ。

「このトラウマチキン! 調子に乗ってると酷い目に――キャン!」

「…………」


 確かに酷い目に遭った。遭ったのは、リリィだが。見えない力に潰されるように、リリィは床に寝そべった。


「前が見えないのよ。邪魔だから雑巾になってなさい」


「はあ~い」とリリィは渋々返事をした。


 邪魔なリリィが雑巾になったことはありがたいが、敵に塩を送られたようで素直には喜べない。リッカは飼い主へと向き直った。


「おい。どういう風の吹き回しだよ」

「別に。犬が粗相したら、躾をするのが主人の役目でしょう?」

「主人の方が粗相してると思うけどな」

「犬はダメだけど私はいいのよ。偉いから」


 リッカは「けっ」と吐き捨てる。気に入らない。でももっと気に入らないのは、そのいけ好かない女に土下座している男である。


「でっ、手前は何してんだ?」

「これには海より深い理由がありまして……」

「そうか。とりあえず表へ出ろ。話はそれからだ」


 長身の女神に見下され、命は完全に萎縮していた。

 これは素直に従った方が良さそうだ……、命が観念して立ち上がろうとすると、モモが待ったをかけた。


「あら、誰が止めていいなんて言ったのかしら」

「あたしだよ。そんなに悪趣味なプレイがしたきゃ、隣の犬とやりな」


 モモは眉をひそめると、命に言い放つ。


「気が変わった。今すぐ私の足を舐めてちょうだい。そうしたら、シルスターのことは必ず潰すと約束するわ」

「なっ!」と、命とリッカは声を重ねた。


 はたしてそれは千載一遇の好機か、はたまた甘い罠なのか。


「ねえ答えて。貴方は私とリッカ、どっちなの?」


 ――主は、余とリッカ……どちらじゃ?


 ふと、モモの姿がシルスターと重なって見えた。命は逡巡したのち、申し訳なさそうに答えた。


「すみません。リッカです」


 あーあーこれでご破算か、と他人事のように頭のなかでつぶやく。不思議と惜しいことをしたとは思わなかった。

 命はすっと立ち上がる。

 魔法の一発や二発は覚悟していたが、要らぬ覚悟だったようだ。

 モモはくつくつと喉を鳴らしていた。


「そう……良かったわ。貴方がここで――」


 それは見えないハンマーが落ちるように。ズガンと鈍い音が響いたと思ったら、命の前の席が真っ二つになっていた。


「私のことを選ぶような、つまらない子じゃなくて」


 もしモモだと答えていたら、自分がああなっていたのか。そう考えただけで、命はゾッとした。


「ええー、話が違うじゃないですか」

「あら、貴方を潰さないなんて約束してないもの」


 詭弁もいいところだが、そこに権力(ちから)が加わると反論のしようがない。命はお返しに、土下座した際に見えたモモの下着について苦言でも呈してやろうかと思ったが、要らぬ怪我が増えるだけなので黙っておいた。


 ちっ、とリッカは舌打ちを一つした。


「帰るぞ。こんな奴に付き合っても時間の無駄だ」

「すみません。連れもこう言っていますので」


 ここから和平交渉を再開するのは無理だろう。きっぱりあきらめた命はさっさと退散したかったが、モモが再び待ったをかけた。


「帰る前に、貴方の名前を教えてちょうだい」


(ああ、そういえば一度も名前で呼ばれてなかったような)


 最後に通せんぼされるのも嫌なので、命は素直に応じるとした。


「八坂命と申します」

「そう、命ね。覚えたわ」


 目をつけられたようだが、過ぎたことを悔いても仕方ない。命は笑顔でさよならをするとした。


「女王さまと1-Aの優しい皆さま、お弁当大変美味しゅうございました。それでは、ごきげんよう」

「いいから行くぞ!」


 リッカに引きずられようにして、命は1-Aをあとにした。女王の笑い声は遠く、それでも階段を下るまで聞こえていた。




    ◆




 食堂棟1階……。

 女王の教室から撤退してきた命は、くどくどと説教をされていた。


「手前はあれか、あたしの怒りのボーダーラインでも探ってんのか?」


 差し向かいに座るリッカはかなりご立腹らしい。

 命は上目遣いで恐る恐る尋ねた。


「……ギリギリセーフ?」

「ぶっちぎりでアウトだ――ッ!」

「ひいっ!」


 リッカがテーブルを叩くと、思わず命は肩をすくめた。


「何もそんなに怒らなくても」

「安心しろ。まだそんなに怒ってないから」


 まだ怒りのボルテージが上がるというのか。

 戦慄した命は、話を逸らそうとする。


「それにしても、リッカがカフェ・ボワソン以外のお店を選ぶというのは珍しいですね」

「話を変え――」


 言いさして、リッカは周囲を見回した。二人のテーブルには客の視線が集まりつつある。お昼を過ぎたとはいえ、単位制の学校では遅めの昼食をとる女生徒も珍しくなかった。


 許したわけではないが、これでひとまず勘弁してやろう。

 リッカはムスッとしたまま命の話にのった。


「昨日、全部バレちゃったからな。クラスにもボワソンにも居づらくて仕方ねえ」

「居づらいって……もしかして」


 命は嫌な想像をしてしまった。リッカの心的外傷(トラウマ)が広く知れ渡ったことで、何か人間関係に問題が起きたではないか、と。


「違う違う! 手前が考えてるようなことはないから」


 リッカは慌てて否定すると、不承不承話し始めた。


 あれから……。

 1-Eでは女神離れが起きるどころか、女神を守ろうという機運が高まっていた。


 ――今まで多くの女生徒を護ってきた女神を、今度は私たちが護る番ですわ!


 女生徒B(やはりまだ名前はない)の呼びかけに多くの者が賛同し、女神を護る会なる、リッカにとってありがたいようなありがた迷惑なような組織が発足された。


 ――さあ踏みなさい。貴方が女神の信徒であれば、それを踏めるはずですわ!


 教室の至るところでシルスターの絵踏みが行われ、隠れシルスタンが炙り出された。

 この邪教徒め、と手に石を持つ過激な信徒。

 待て待て石は投げるな。どうせ家の都合でシルスターに加担せざるを得なかったのだろう。リッカがそう説くと、隠れシルスタンは滂沱の涙を流し、その場であっさりと改宗(コンバート)。結果としてますます信仰を集めてしまった。


 おおっ、なんという宗教的カオス。一切合切が面倒臭くなったリッカはカフェ・ボワソンに逃げたが、そこは1-Eを凌ぐ魔窟と化していた。


 店頭には「1-Fお断り、特にシルスターお断り」の立て看板。

 この時点で嫌な予感はしていたが、店内はさらに酷いありさまであった。

 どこの世紀末だ、というほど荒んだ女生徒たちが反シルスターの会合を開き、シルスターの陰口だけで延々としりとりを続けていた。

 店内には延々と斧を研ぎ続けている女生徒もいれば、黙々と火炎瓶を精製し続ける女生徒もいた。


 何だ、この空間は……。

 あたしが愛したカフェ・ボワソンはどこへ行ってしまったのか。


 マスターはどうにかしてくれと言いたげな目を向けてきたが、どうにかできるわけもなく。ほとぼりが冷めるまで、リッカはカフェ・ボワソンに近づかないことにした。


「というわけだ」

「確かに、私の想像の遥か斜め上でした」


 話を聞き終えた命は、才媛の持つ絶大な人気と影響力を改めて知った。モモもだが、リッカも大概である。


「というか、いつの間にか私まで出禁になっていません?」


 アルバイトで生計を立てている命にとっては、死活問題である。


「あー、それは大丈夫だと思うぞ。下手くそな日本語で、ただし黒髪の乙女を除くって書いてあったから。良かったな、歓迎されてるみたいだぞ手前」

「イカレタお店にようこそされても、それはそれで考えものかと」


 リッカが頑なに別の場所を提案したわけである。どうしてカフェ・ボワソンの女神がベトナムコーヒーを飲みに来たのかよくわかった。


 リッカがセレクトしたお店は、カフェ・ボワソンよりもさらに穴場。ベトナム料理店のニャー・ハン・シンチャオである。一風変わったエスニックな店内には、ぽつぽつと客の姿が見えた。


「このお店も悪くないですね」

「あたしもそう思ってる。たまに浮気したいと思う程度にはな。もっとも……」


 リッカは店内を歩くウェイトレスを見遣る。


「手前の場合は、民族衣装(アオザイ)が気に入ったのかもしれないけどな。いや、スリットから生足が見えるチャイナドレスの方がお好みか?」

「もう、そうやって直ぐ意地悪なことを言う」


 命が足に向ける視線は、もっと背が高くて男らしく生まれたかったという願いから生じるものである。それを勘違いされては困る、と命は眉をひそめた。

 すると、リッカはしおらしく顔を伏せた。


「悪かったな」

「いや、そんなに怒ってないですよ」

「そっちじゃなくて。あたしが邪魔しなきゃ、上手くいったかもしれなかったのに」

「それはどうでしょうね」


 モモを味方に引き入れても、万事うまくいったとも思えなかった。


「あの人は敵にも味方にも回してはいけない……そんな気がします」

「なら良かった。あたしは、あいつのことが大っ嫌いなんだよ」


 頬杖をついてぼんやりと店内を眺めるリッカ。

 命はその憂いを帯びた顔に覚えがあった。


(ああ、そうか)


 妹のことを思い出しているのだ、と命は気づいた。

 リッカの妹であるナナカは、ダイヤウルフの魔法石を手に入れようとして魔法少女生命を絶たれた。

 そのときナナカを唆した人物がモモだと、命はリッカから聞いていた。リッカにとってモモは、間接的とはいえ妹の夢を奪った人物なのだろう。


 命は自然と頭を下げていた。自分を貶める行為をしたことよりも、リッカの心を汲んでやれなかったことが恥ずかしかった。


「すみません……私が軽率でした」

「いいよ。あたしの個人的な感傷に手前まで付き合わせるわけにはいかないだろ」

「そんな寂しいこと言わないで下さいよ。私とリッカの仲ではないですか」


 顔を上げたリッカは、してやったりと悪い笑みを浮かべていた。


「だよな。ならあたしが、手前の問題に首突っ込んでもいいよな」


 どうやらリッカは、命が一人でシルスターの問題を片付けようとしていたことについても不満を持っていたようだ。

 私は地雷踏みの名人なのだろうか……、命は黙ってリッカの言葉を待つとした。

 リッカはベトナムコーヒーを一口飲んで、会話を再開する。


「さっきさ、1-Cに寄って来たんだよ」

「それってもしかして」

「ああ、ウィルに助けてくれないかお願いしにな」


 ウィルとは、蒼い妖精猫(ケットシー)の名で親しまれる才媛の名前である。命もその名前だけは押さえていた。モモに断れたときは、彼女にも当たってみようと考えていたからだ。


 これぞまさに鶏鳴之助(けいめいのじょ)

 リッカは、命がやろうとしていたことを先回りしてやっていたのだ。


「それで、どうだったのですか?」


 リッカは首を横に振った。


「悪いけど期待できそうにない。あいつ、にゃーとしか言わないから」

「それは正真正銘の猫では?」

「あいつは猫みたいなもんだよ。人畜無害なだけ他の才媛(やつら)よりマシだけど、本当に話が通じねえ」


 先ほどまでのことを思い出し、リッカは余計に腹を立てた。


「肩を落として帰ってる途中で、やけに1-Aが騒がしいと思ったらあれだよ」

「すみません。その件については本当に謝るので、蒸し返さないで下さい」


「ふん」とリッカはそっぽを向く。ベトナムコーヒーを飲み干すと、叩くようにグラスを置いた。


「それで、この後どうするつもり何だ」

「それはもちろん、他の才媛を当ってみようかと思っています」


 リッカ、モモ、ウィルを除いても、あと二人はシルスターに対抗できる女生徒がいる。どちらか一人は味方についてくれるだろう、と命は考えていた。


「はあ~」


 リッカはこれ見よがしに長いため息をついた。甘い甘いとは思っていたが、命は練乳入りコーヒーより甘々だった。


「悪いが、もう当てはねーよ。赤バカは入院中だし」

「入院!」


 赤バカことアレクは入院中であり、その原因を作ったのが姉である宮古だなんて、命は当然のように知らなかった。


「かまととはてんてこ舞いだし。あいつん()、農協のトップだから連日の雨で大変らしいぞ」

「そんな……」


 命は絶望した。

 スーパーヒロインの出現率が0%なんて、この世に救いはないのか。


「何よりだ! あんな連中に頼ろうとするのが間違いだ。言っちゃ悪いが、あたし以外にまともな奴いないぞ!」


 リッカがあまりに力強く断言したものだから、命は異議を唱えなかった。


「しかし、そうなると困りものですね」


 手札に加えようとしていたカードがすべて排出不能だと判明してしまった今、新たな手立てを講じなければいけない。

 しかし、妙案なんて早々浮かぶものでもない。それはリッカも同じようで、持久戦を見越しておかわりの注文をしていた。


「まっ、気分転換してたら良いアイディアが浮かぶかもよ。あたしも手伝うからさ」

「ですね。ここは気分を変えるにはうってつけの場所ですし」


 ここまでリッカが力になってくれているのだ。肝心の火付け役があきらめるわけにはいかない。命も練乳入りコーヒーを飲んで策を練るとした。


 命は仰け反るようにして店内を眺める。世界を逆さまにすれば、見えなかったものが見えてくるかもしれない。そんな安易な考えで起こした行動だが、はっきりと目に飛び込んできたものがあった。


 命は小さな体を反り返すと、ばっと後ろを振り返る。


「おいおい、何だよ急に」

「……いました」


 追加オーダーと一緒に希望が歩いてきた。


(どうして忘れていたのか)


 恐らくはフィロソフィアを忌避してきた弊害だろう。彼女とお嬢さまのことは切り離して考えるべきだった。

 そう、小さいころ駄々をこねて買って貰った食品玩具のように。

 メインのラムネは要らない。

 しかしオマケという名のメインが欲しいのだ。


 一歩また一歩と、待望の店員が近づいてくる。

 どうして彼女がここで働いているかなんてどうだっていい。大事なのは今、彼女がここにいることだ。


 髪色はシルスターと同じ銀色。

 しかし髪型は銀の女帝と相反するようなショートカット。

 ビスクドールのように整った顔立ちもあって、彼女はアオザイを着た店員のなかでも群を抜いて目立っていた。


 それは命が初めに望んだカードとは、似て非なるもの。才媛たちが女帝殺しのカードなら、彼女はさしずめお嬢さま殺しのカードだ。お嬢さまをコケにさせたら超一流。その道にかけて彼女の右に出る者はいないだろう。


(そういう意味でいえば、きっと彼女は)


 間違いなく刺さる――命は確信した。


「お待たせしました。追加のベトナムコーヒーになります」


 愛想もなければ、声に抑揚もない。それでも無神経ではない店員が続ける。


「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」


 そんなわけなかろう。命は頭を振って、彼女の湖沼の瞳を見つめた。


「いいえ。追加で貴方をいただきたい……痛っ!」


 リッカが、テーブルの下から蹴りをくれていた。事情を知らない彼女にとって、バカ学生がウェイトレスを口説いている構図にしか見えなかった。


「手前な! 急に何言ってんだよ。ほら店員さんも……」


 困っているようにはあまり見えなかった。どころか、待ってましたと言わんばかりの存在感を発揮していた。


「そういう注文は受け付けていないのですが……仕方ありませんね。タダとは言いませんがお助けいたしましょう。この――」


 フィロソフィアの従者にして、ニャー・ハン・シンチャオの新看板娘。


「この才色兼備のギンレンジャイが!」


 シャルロット=エメロットは、びしっと横ピースを決めた。

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