第101話 ライカ
演舞場の最上階まで上がり、右に折れた突き当りにある休憩所。
命はそこでクールダウンしていた。
「ふぅ」
冷静さを取り戻すと、熱で揺らいでいた足元がよく見える。来た道を振り返って見ると、そこには深い谷間があり足幅ほどしかない橋がかかっていた。
これを渡ってきたのかと思うとゾッとする。踏み外していたらどうなっていたのかなんて考えたくもなかった。
(私が感じた全能感とやらは……麻疹のようなものでしたか)
フィロソフィアとの小競り合いのさなか編み出した特大の魔法弾。
栄子に倣ったカウンターショット。
ルバートの魔法を模した煙幕。
紅花から手取り足取り教わった八極拳。
エリツキーから習った錬金術の知識。
魔力の制御に苦しんだ末に身に着けた限定狂化。
そして東洋魔術(姉)を通じて宮古から授かった教えの数々。
命が見聞き体験したそれら全てを駆使し勝負に臨んで、三分。
たった三分しか渡り合えなかった。
一度しか使えないであろうカードもすべて使い切って、だ。
……果てしなく遠い。
目眩がするような実力差だった。
百回やったら百回、千回やったら千回負ける。宮古がそう言ったのも頷ける。しかし宮古はまたこうも言っていた。
――でも、一万回やったら一回ぐらいはそう悪くない未来を引き当てるかもね。
姉の言葉を信じるなら、一万分の一の未来を手繰り寄せたのだ。他の誰でもない自分の力で。そう思えば少しは心を救われた。
大丈夫だ。まだ立ち向かえる。
(でも、今は少しだけ)
休ませて欲しかった。
一休みのつもりで下ろした腰は、接着されたようにロビーチェアから離れない。命はしばらく立てそうになかった。
命とシルスターの試合が終わったのがつい数分前のこと。
あれから程なくして鐘が鳴ると、時宜を見て白石が講義を終わらせた。醜態を晒したばかりとあって、シルスターもこれには大人しく従っていた。
(……ように見えましたが)
華麗にエスケープを決めた命は、事の顛末を知らずにいた。無責任と思われるかもしれないが、命は女神でもなければみんなのヒーローでもない。ヘッポコ魔法使いとしては、そこまで責任を持てなかった。
(那須ちゃんやコメリンも無事に逃げているといいのですが)
一抹の不安が命の胸をよぎる。
心配ではあるのだ。それが友達のことであれば、なおのこと。
カフェ・ボワソンの女神よりはビターだが、やはり黒髪の乙女も甘いのだろう。今だって半分腰が抜けた状態なのに他人の心配をしている。こんなところを襲われたら自分だって――
「許さぬ……よくも余のことを苔にしてくれたな」
げえっ、シルスター!
そんな言葉が命の頭をかすめたが、よく聞けば曲がり角から聞こえた声はシルスターのものではなかった。
「なんてな。意外と似てなかったか?」
「……やめて下さいよ。口から心臓が飛び出るところでした」
「惜しい」
「そんな感想あります――ッ!?」
惜しいのは私の生命である。命は曲がり角から現れたリッカに半眼を向けたが、もっと目つきの悪い彼女にはこれっぽっちも効いていなかった。
「ん。不味いけど、ないよりマシだろ」
「ありがとう、ございます」
どこか腑に落ちないものの、命は差し出された紙コップのコーヒーを受け取った。喉がカラカラなので、この差し入れは素直に嬉しかった。
「どうしてここが」
「わかったって? 白石先生が教えてくれたよ」
コーヒー片手に、リッカは命の隣に腰を下ろした。
「感謝しろよ。あの人、全部わかった上で見逃してたんだから」
「なんと」
一つ二つの反則はバレていると思っていたが、まさか全て見透かされているとは黒髪の乙女も思わなんだ。恐らく命がシルスターの思考と嗜好を読んだように、白石も命に同じことをしたのだろう。
「『逆張りもええけど程々にな』だってよ。手前も逃げるのはいいけど、あえて最上階に逃げるのはどうかと思うぞ」
「うっ」
一試合終えて気が抜けていたのは事実である。この辺りが、詰めが甘いと言われる所以であろう。
「で、でも、逃げようと思えば逃げられないこともないですよ。たとえば、このガラス張りの窓を破るとか」
「この嵐のなか空を飛ぶバカがどこにいるんだよ……本当に手前はどこまで本気なんだか」
学校施設の窓ガラスを壊す。そんな行儀悪く不真面目な意見が命の口から出るとは……、リッカは少し驚いた。良くも悪くも彼は少し変わったのかもしれない。その変化がリッカには怖くもあった。
「なあ……自分が何したのか、手前わかってんのか?」
命はブルリと震えそうになるのを必死に堪えた。声のトーンを落とし睨みつけるリッカは、命の半眼なんて目じゃないほど怖かった。
「”した”というより”しでかした”と言った方が、正しそうですね」
「そこまでわかってんなら話は早え。手前がやったことを否定する気はねえ。けど……今回ばかりは手を引け。相手が悪すぎる」
当然の勧告だろう。先の試合結果が奇跡に近いことは、命も認めている。次どうなるかなんて保証はどこにもなかった。
でも、
「そうしたいのは山々なのですが……難儀なことです。これだけ腰が引けていても芋だけは引けないのが、男という生き物のようで」
ここで手を引けるなら、元から手など上げていない。命が臆することなく我を通すと、リッカはますます表情を険しくした。
「手前はわかってない。シルスターを敵に回すってのが、どういうことなのか。フィロソフィアみたいな紛いものとは、違うんだよ――ッ!」
命はわかっていない。
この国において御三家――正確にはフィロソフィア家を除く二家が、どれだけの権力を持っているのかを。
命はわかっていない。
側にいながら見守ることしかできない者がどれだけ苦しいのかを。両手を合わせてセレナさまに祈ることしかできない者がどれだけ切ないのかを。
「手前はわかってない!」
「リッカだって、わかってないじゃないですか」
「何をだよ!」
「リッカが味方だと言ってくれて……私がどれだけ嬉しかったか、その味方をバカにされて私がどれだけ憤ったかを」
リッカと対照的に、命は訥々と言葉を繰り出していく。
「私は取り返しのつかないことをしたのかもしれません。ですが、取り返すつもりもありません。もし過去に戻れたとしても、ね。百回戻ったら百回、千回戻ったら千回、私は貴方のことを助けてしまう」
すべては守れなくても、たった一つ大切な約束が守れるなら。
「たとえそれが間違いだったとしても、私は後悔しません。自分を押し殺して生きるぐらいなら、死にものぐるいで生きていたいのです。情けなくても、格好悪くても、わがままでもいい」
女装していたって、偽れないものがあるから。
「私は、私の想うままに生きることにしました」
リッカは閉口した。人の気持ちも知らないでこの男は、何を活き活きと宣誓しているのか。怒るのもアホらしくなってしまった。
「呆れた。危うく物が言えなくなるかと思ったが、手前には関係ないか」
命が頑固なのか、男という生き物が頑固なのか。リッカにそれを知る術はなかったが、どうでも良かった。
「どうせあたしが何言ったって聞かないんだろ。だったら勝手にしろよ」
リッカは命という男しか知らないし、それで十分だった。
「愛想尽きちゃいましたか?」と、怖ず怖ずと尋ねる命。
この期に及んで何を言うかと思えば、この男は。どうして乙女を装えるのに乙女心を察せないのか……、リッカは呆れるほかなかった。
「良かったな。まだ口が聞けるぐらいには残ってるみてーだ。無くした分を取り返せるかは、今後の手前次第ってとこだな」
リッカは腹立ちまぎれに一つ嘘を付いた。本当は挽回する余地なんてないのだ。尽きるどころか、リッカの胸にはあふれんばかりの懸想があった。
「で、当てはあんのかよ?」
「一応。面識はありませんが」
「そうか」
それから、命とリッカは不味いコーヒーを飲み干した。焦げた苦味が舌を突き刺し、自然と渋面を作ってしまう。顔を見合わせると、二人は小さく笑い合った。
「今日は色々あり過ぎて疲れた……早く帰って横になるとするよ」
「講義は?」
「休講だよ。あたしのなかではな」
「それは奇遇ですね。私のなかでもたった今、休講になりました」
「ならちょうどいい」
「ええ。荒れる前に帰りましょう」
建物のなかにいても風の唸り声が聞こえる。窓の向こうでは、いまだに春の嵐が猛威を振るっていた。
◆
「があああああああああああああああああああああああ――ッ!」
命たちが帰路に着こうとする少し前……。
眼下に広がるキャンパスには、荒れる者がいた。
触らぬ神に祟りなしと外を歩く女生徒たちは彼女のことを迂回していくが、吠えている当人は他人の目など全く気にしていなかった。
「どうしてこうも雨続きなの!」
我が道を行くお嬢さま――フィロソフィア=フィフィーは、金髪を振り乱し怒号を上げていた。彼女にとって天とは、己の下にあるもの。ときにお嬢さまの理論は天地をひっくり返すのである。
しかし、天がお嬢さまに従うわけもなく。不遜なお嬢さまに罰を下すかのように、今日の天気は大荒れであった。
ムキー生意気な! 昨日は『てるてるぼーず』なる奇怪なお化けもどきだって作ったのに……、と往来の真ん中で憤るフィロソフィア。外の世界を知らなかったお嬢さまは、この一ヶ月でどんどん俗世にまみれていた。
そう、俗世にまみれるといえば、フィロソフィアには一つ大きな変化があった。天上天下唯我独尊。わたくし我が道まっしぐらなのでそこのところ夜露死苦と言わんばかりの彼女が、なんと部活に入ったのだ。
その部活の名は、箒部。
百騎乙女の箒兵長こと姉ヶ崎宮古が率いる、優に百名を超える大所帯の部活である。
どう考えたって自分には向いていない。その自覚は十二分にあったのだが、姉役の女生徒に唆され……あれよあれよという間に箒部の一員になってしまった。
一生の不覚! 私ともあろう者が選択を誤るなんて。
フィロソフィアは後悔しきりであった。しかし置かれた場所がどこであろうと土という土から養分を根こそぎ奪って咲き誇るのが、お嬢さまという花。
加入したからには「フィロソフィア=フィフィー箒部に有り」と言われる存在になるのが、お嬢さまの務めというもの。
そう。一日でも早く「姉ヶ崎? ああ、あの蚊蜻蛉のことね」言える存在になりたいというのに、天はフィロソフィアの意を汲まなかった。
雨のち雨のち雨のち嵐。
これを異常気象と呼ばずして何と呼ぶ。フィロソフィアが箒部に加入してからというものずっと雨続きで、箒練なんてロクにできやしなかった。
ここ最近は地味で辛い室内トレーニングばかりだ。
二人一組の柔軟で宮古にセクハラされたり、延々と続く階段ダッシュで太ももをパンパンに腫らしたり、とフラストレーションが溜まる日々を送っていた。
フィロソフィアは鈍色の空を忌々しげに睨みつける。
(もう何日、青空を見ていないのかしら)
いい加減我慢の限界だ。悪天候のときは飛行禁止だと言われているが、ちょっとぐらいなら。それにほら、嵐ってシチェーションは燃えるものがありません? フィロソフィアは箒……ではなく杖を片手にウズウズする。
「よし、決めた!」
アイキャンフラーイ。さあ退いた退いた、とフィロソフィアは屋根付きの通路を走り出す。今、この瞬間を以てここはお嬢さま専用の滑走路である。颯爽と杖に跨り飛び立つ……つもりだったのだが、
「ちっ!」
我が物顔でくだを巻く連中が、私道の真ん中にいた。
どういうこと? 礼儀のなってない連中ね。
フィロソフィアは自分のことを棚に上げて舌打ちした。お嬢さまには道を譲るという発想がないのだ。
「野犬がウロチョロと。邪魔ですわ!」
「野犬……邪魔?」
図らずも道を塞いでいた三人組の内、二人がギョッとした。怒り狂うバカ殿を必死になだめていたというのに、どうして火に油を注ぐような発言をするのか。
二人は腐れお嬢さまを恨んだが、もう遅い。
「主は今……余に何と言った?」
火はとうに油を食み、燃え上がっていた。振り返ったシルスターは鬼のような形相をしていたが、フィロソフィアは気にも留めなかった。お嬢さまとは、人の顔色を窺わない生き物なのである。
「はあ? 何そのバッカみたいな話し方」
取り巻き二人は、寿命が縮むような思いだった。誰もが思っていても口にしないことを……、あのバカは相手が誰かわかってないのか?
シルスターが小刻みに肩を震わせている。二人はとてもじゃないがシルスターの顔を見られなかった。
「邪魔だから邪魔って言ったのよ野犬……って、貴方」
フィロソフィアは、大きなお目々をパチクリさせる。
「その何で着てるかわからない鎧に、ヒイラギの葉っぱみたいな髪。もしかして貴方、ヴァイオリッヒ家のシルスターじゃなくて」
何こいつ、地雷原でタップダンスするのが趣味なの?
取り巻き二人は絶句した。
「だとしたら、どうする?」
「いや、別に」
別にいいのかよ――ッ!
取り巻き二人は声を大にして叫びたかったが、割って入ってとばっちりを食うのは御免なので黙った。
「別に誰であろうと関係ないわ。私の時間は黄金と同じぐらい貴重なの。おわかり? わかったのなら、さっさと道を開けてちょうだい」
「まあ、それは申し訳ないことをしたわね。さあ、どうぞお通りになって」なんて、お嬢さまコミュニケーションが成り立つわけがない。シルスターもフィロソフィアと同じ、道を譲らない人種なのだから。
「御三家の恥さらしが……。よくもおめおめとこの国に帰って来られたものだな。余だったら、恥ずかしくて外なぞ歩けぬぞ」
「ふうん。器が小さいのね。私は堂々と歩くけど。失態を晒したのは私の親であって、私ではないわ。この私に一体何を恥じろというの?」
ああ言えばこう言う。
フィロソフィアの口先は黒髪の乙女に通ずるものがあり、それがまたシルスターを苛立たせた。
「何を恥じろじゃと? 主の存在そのものを、だっ!」
シルスターはフィロソフィア家が大嫌いだった。没落貴族の見本といったような、その存在が。
目にするだけでも魂が穢れる。
シルスターは、フィロソフィアを人として扱うことをやめた。
「おい、そこの石ころ。余は虫の居所が悪い。蹴られたくなかったら、とくと失せよ」
「嫌よ。ヒイラギの葉っぱが何を偉そうに」
「――ッ!」
「まあ、おかしい。石ころ相手に顔が真っ赤ですわ」
フィロソフィアは口元に手を当てて、ころころ笑う。その小憎らしい所作がシルスターの苛立ちに拍車をかけた。
「どいつもこいつも、身の程知らずが」
どいつもこいつも? ああ、そういうことですの……、フィロソフィアは得心した。1-Fに礼儀のなってない犬が一匹いることを思い出したのだ。
「やけに突っかかって来ると思ったけど、そういうこと。貴方、野犬にお尻でも噛まれたんじゃなくて」
それはシルスターにとって、今一番触れられたくない話題だった。取り繕うことすら忘れて、銀の女帝は気色ばんだ表情を見せた。
「そう。図星だったの」
フィロソフィアは深くため息をついた。
演技ではない。心の底から残念だったのだ。
「周りがシルスター、シルスターって言うからどれほどの者かと期待していたのに……ヴィオリッヒ家も落ちたものね」
没落していようと関係ない。自分が天の上に立つと信じて疑わないフィロソフィアは、上から目線で物を言う。
「早く道を開けてちょうだい。小さすぎてよく見えないのよ、貴方」
お前ごとき小物が私の行く手を阻むな、と。
「こ……っ!」
一番言われたくない相手に一番言われたくないことを言われた。怒りが許容量を超えると視界が真っ白になることを、シルスターは初めて知った。
なますのように切り刻んでやろうか。一刀のもとに切り伏せてくれようか。シルスターは衝動的に【銀の剣】を抜こうとしたが、思い留まった。
「剣が穢れる、か」
シルスターはフィロソフィアに背を向ける。お嬢さまが小さくて見えないと言うなら、銀の女帝は彼女のことなんて眼中になかった。
「エゾ、シカコ……遊んでやれ」
急に振られたものだから取り巻きの一人、エゾはしどろもどろに答えた。
「えっ、いや、あの……いいのか?」
「石蹴りをして誰が怒るというのじゃ」
シルスターはそれきり口を開かなかった。石ころには興味がないとばかりに、背を向けて遠ざかっていく。
今度はフィロソフィアが怒りで打ち震える番だった。
無視? この私を前にして。
猛る雨風がフィロソフィアの周りを渦巻いた。一も二もなく吹き飛ばしてやりたいところだが、お嬢さまの前には二匹の犬がいた。
「悪いね。そういうことだから」
「ちょっと散歩いこーよー。ほら、あっちの人気がない方とかさー。きゃはは」
牙を抜かれて主人に従うだけの、野犬と呼ぶにも値しない犬どもが。
「はあ……私も舐められたものですわ」
屋根付きの道から外れて、三人は嵐のなかに消えていく。少女たちの闘争を歓迎するように空に稲光が走った。
◆
薄暗い雲間を稲光が走った。
ビクリと銀髪の少女は肩を小さく動かした。雷を嫌悪する彼女にとって、今日は最悪の天気だった。
「ごめんね、フィー」
エメロットは膝を折り、駆け寄ってきた妖精猫を抱きしめる。猫が抱っこを好まないことは百も承知だが、今日ばかりは許して欲しかった。こうしていると心が落ち着くのだ。
「にゃーお」
そんな主人の心を知ってか、家猫のフィーも大人しく抱かれていた。この辺りが『妖精猫が人に次ぐ知性を持つ動物』と言われる理由なのかもしれない。
「ありがとう。フィーは賢い子だね」
少なくともフィロソフィアの百倍は賢そうである。雷が苦手だと知っていながら、従者を放って置くお嬢さまよりは。
「バカ……お嬢さまのバカ。雷に打たれてしまえばいいのに」
一、二限の錬金術基礎Aの中止が決まると、エメロットは誰よりも早く教室を抜け出し第二女子寮に引き返して来た。
命の前では平静を装っていたが実のところ限界に近い状態で、あのまま講義が進んでいたら胃がひっくり返っていたかもしれない。
「ああいう気遣いが、どうしてウチのお嬢さまはできないのか」
やっとのことで第二女子寮に辿り着いたエメロットは、やはり弱っていたのだろう。もしかしたらお嬢さまが先に帰っているかもしれない。そんな普段なら考えないであろう期待を抱いてしまった。部屋の灯りが付いていない時点で裏切られるような期待を。
薄情な主人である、と罵ることは簡単だが、勝手に期待して裏切られたのだ。文句は言えまい。
エメロットはお布団を頭から被ったり、フィーと戯れたりすることで、何とか気を紛らわしていた。そうして次の雷はいつ来るのかと身構えていたときだった。
ブウウウウウウウウウウウウウウウン、という異音が足元からした。
「にゃ――ッ!」
フィーではない。エメロットの声である。思わず変な悲鳴を上げてしまったが、よく見ると異音の正体は直ぐにわかった。
床に転がった魔法石が着信を告げていたのだ。
研磨された魔法石には、ヴェスタ=ヴェチカという名が映っている。
またか、とエメロットはため息をつく。
あれから毎日のように掛かってきているが、今日のは最悪のタイミングである。着信に応じて断る気も起きなかった。
「もう」
むんず、とエメロットは足元の魔法石を拾うと、
「ばかあああああああああ!」
ベッドに突き刺さる勢いでシュートした。貸与品であるが、パニクる従者の知ったことではなかった。
「にゃ、にゃ~お?」
「大丈夫よ。私は大丈夫にゃから」
夢遊病者のような足取りで歩くエメロットと、その後を追うフィー。一人と一匹は洋室を抜けるとキッチンへと入っていった。
何もしていないよりは気が紛れるでしょう……、エメロットは少し早いが夕食の支度に取り掛かるとした。
エメロットは冷蔵箱――今の時代、氷の国ですら使われていないアンティークな木箱の下段を開き、下段に残った野菜クズをかき集める。これでもスープの素になるのだから侮れない。
「お嬢さまより上等なクズですね」
フィーは尻尾を振って同意する。エメロットがフィロソフィアを侮辱するということは、調子が出てきた証拠である。
エメロットはてきぱきとした動きで鍋を出すと、水を貯めて先ほどの野菜くずを放り込んだ。これを三十分ほど火にかければブイヨンの出来上がりである。
(こんな面倒なこと、普段なら絶対にしないのですが)
時間を潰すには丁度いい。さらにこれを味付けして、ブイヨンベースの特製スープを作るのだ。
豚ひき肉と卵、玉ねぎ、それと数種の調味料を取り出す。
待っている間はタネ作りだ。
これを餃子の皮に包んでスープに投入すれば、なんちゃってロシア風水餃子ペリメニが作れる。
「あっ」
どうせ時間を潰すなら生地から作れば良かったと気づくも遅かった。
「でも便利なんですよね、餃子の皮」
生来のものぐさがこんなところで足を引っ張るとは。
怠惰な従者は少しだけ反省した。
主食はアルバイト先で貰ったライススティックという手もあったが、最近は乾麺ばかり食べている気もする。
「昨日の余りものでも炒めて、ピロシキの具にしますか」
申し訳程度に肉を投入すれば、お嬢さまも文句は言うまい。パン生地をこねるにはやはり遅いので、袋詰めのパンで代用するか。うーむ。
「おや」
エメロットが楽と苦の狭間で揺れていると、ガチャリと扉の開く音がした。お嬢さまが帰ってきたのであろうが、
(……部活帰りにしては早いような)
怪訝に思うものの料理を一時中断。お嬢さまが濡れネズミであることも考えて、タオルを持って玄関へと向かうとした。
拾われたことに多少の恩義は感じているのか、フィーもエメロットに従う。家族が一匹増えてからというもの、猫と一緒にお嬢さまを出迎えるのが日課となっていた。
いつも何一つ変わらない、いつも通りの出迎えだった。
帰宅したフィロソフィアの姿を見るまでは。
「お嬢さま……っ!」
制服はおろか自慢の金髪まで雨と泥にまみれて輝きを失っている。白い肌に薄っすらと浮かぶ青あざに擦り傷。それらが部活でこしらえたものでないことは一目でわかった。
珍しく瞠目するエメロットを一瞥すると、フィロソフィアはいつまで経っても手渡されないタオルを引ったくった。
「助かるわ。お風呂は湧いているかしら」
「いや、沸いてますけど……それ」
「ああ、これ。転んだだけよ」
そんなわけがあるものか。
傷の具合も気になるが、エメロットの目はフィロソフィアの手に釘付けだった。
お嬢さまが手に握ったもの。
一見すれば木片にも見えるそれは、折れた杖の欠片だった。
「だって、それは」
箒部に入ってからも頑なに使い続けていた……大切な品ではないか。
「何が、あったんですか」
「くどいわね。ただ転んだだけよ」
フィロソフィアは靴を脱ぎ捨て、ずかずかと廊下を進んでいく。びしょ濡れのまま歩くお嬢さまを咎める場面だというのに、エメロットは何も言えずに固まっていた。
しばし呆然としたのち。
「そうだ。夕食の準備が途中でしたね」
エメロットは上の空で言った。
湖沼の瞳が宙を漂う。
雲の上を歩いているような足取りで歩き、気づけばキッチンに戻っていた。
途中でフィーが何度か鳴いたようだが、エメロットには覚えがない。数十秒ほど記憶が欠如していた。
エメロットはコンロの火を落とす。明白な理由はないが、火を点けていてはいけない気がしたのだ。
「ああ、そうか」
火を点けなければ鍋が煮えないではないか。エメロットはコンロの火を付けた。
「…………」
沸騰するまで、身動ぎもせず鍋を眺めていた。
音を立てて弾けるあぶく。なるがままに浮かんでは沈む野菜のクズ。
琥珀色のスープがキラキラしていて綺麗だった。
このままずっと眺めていたかったが、不意にペリメニのことを思い出した。エメロットは具材が入ったボウルに手を突っ込む。適量を手に取り餃子の皮に包む。ただそれだけの作業なのに、どうも上手くいかない。
皮が破れたり、手にとったタネが多すぎて上手く包めなかったり。まな板の上には不揃いな餃子ばかりが並んでいた。
ゆっくり、丁寧に作ろうとすればするほど駄作が増えていく。
柔らかく丸めていた手は、いつの間にか固く握る拳になっていた。
腕が持ち上がる。
真上に掲げたエメロットの拳は、雷音とともに落ちた。
一瞬の明滅。
湖沼の瞳が青白い光に灼かれた。
「にゃ――ッ!」
エメロットではない。フィーの鳴き声である。フィーは見えない何かに怯えるように全身の毛を逆立てていた。
自然の恐怖からは誰も逃れ得ない。猫も、そして人も、だ。
落ちた雷の恐怖を物語るかのように、女子寮のあちこちで悲鳴が上がっていた。
女子寮の近くに落ちたのかもしれない。
ぬちゃりと粘りを帯びた手のことも忘れて、エメロットは見えるはずもない雷火をじっと眺めていた。
まな板の上にあった駄作は一つ減り、辺りに飛び散っていた。




