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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
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第100話

 音一つない静寂がコートを満たしていた。


 命とシルスターが対峙したまま十秒――それが一分と言われれば信じてしまいそうなほど濃厚な時間――が流れた。


 ゆったりと構えた命は、動く気配を見せない。


 張り子の虎かあるいは本物の虎か……、対峙するシルスターは一つの疑念を抱いていた。


 今までの試合だけを見るなら、命は足を止めて魔法弾を撃つだけの典型的な初心者といえる。しかしシルスターが受けた印象とは裏腹に、命にはいくつもの奇妙な噂があった。


 リッカとルバートの喧嘩を止めたとか、春祭りでローズと互角の勝負を繰り広げたとか、地下40階層のダイヤウルフを単独で仕留めたとか、時速150キロを越える宮古に箒で追いついたとか……。


 どこまで本当か怪しい噂ばかりだが、火のないところに煙は立たない。

 もしや共通実技では手を抜いているのでは……、その1%の疑念がシルスターの足を鈍らせていた。


 一方。張り詰めた空気のなか、命は機をうかがっていた。


 シルスターが試合開始と同時に突っ込んで来なかったことは、僥倖というほかない。命が一番恐れていたことは、防ぐ間もなく突っ込まれることだった。もしこの展開に転んでいたら、為す術もなく倒されていたかもしれない。


 そういう意味でいえば、命にはツキがあった。

 ならば、それを利用しない手はない。

 いつまでもシルスターが待ってくれる保証なんて、どこにもない。この沈黙はいつ破れたって――。


 飛び出した。


 先に仕掛けたのは命だった。

 静から動へ。

 前兆なき飛び出しは、シルスターの虚を突いた。


 命はこれまで足を使う戦いを一切見せていない。強襲すればシルスターの反応が遅れると踏んでの勇断だった。


 命がシルスターの硬直を見て取った、次の瞬間。

 上段に構えるシルスターが迫っていた。


 強烈な向かい風を浴びたと思ったときには、信じがたい脚力で命を遠間(とおま)に入れる。シルスターの【銀の剣(アゾット)】が残像を引くと、ガラスが割れるような音が響いた。


 【結界弾】のカウンターショット。透き通る橙色の壁が展開されるや否や砕け散った。


 命の背なかを冷たい汗が伝う。


 シルスターが十分に助走をつけていたら、それこそ栄子の二の舞い――【結界弾】ごと斬り伏せられていただろう。


 一瞬の盾を利用して、【銀の剣(アゾット)】をかわす。しかし互角の戦いを演じられるのも、ここまでだった。


 命の詠唱アベレージは五秒フラット。

 事前に貯蔵(ストック)したもう一つの魔法を外せば、次はない。


 驚異の剣速を誇るシルスターにとって、五秒とは、命を五回斬り捨てても余りある時間だった。


 迷っている暇はない。間髪入れずに、命は引き金を引いた。


【呪術弾】――それも半径1メートル級。


 フィロソフィアと小競り合いを起こしたときにも放ったそれが、発現すると同時に破裂した。もうもうとした黒煙が辺りに広がったが……。


 無傷。大きさだけに特化した魔法弾は、シルスターにかすり傷一つ負わせることはなかった。


 おかしい。勝負を賭けるにしては、あまりに解せない魔法だ。

 と、シルスターが訝しんだときだった。


 突如、命が跳ねるように後退し始めた。


「……っ!」


 命の魂胆を見抜いたシルスターは、逃すまいと追い打ちをかけようとし――ずるり、と足を滑らせる。ずっこけるほどではないが、体勢を崩すには十分だった。


 何だ、何を足元に仕掛けた……、謎の罠がシルスターに二の足を踏ませた。


 そうしている間に、どこかで二発目の【呪術弾】が破裂した。気づけば命は影も形もなく、黒煙のなかに溶け込んでいた。




     ◆




 突然の煙幕に外野が騒ぐなか。


(……ワックスか)


 シルスターは冷静に床を検分し、自分を滑らせた物の当たりをつけていた。

 明らかに作為的なものだ。恐らく煙幕に乗じて液体ワックスを撒いたのだと推測できた。


「小賢しい真似を」


 シルスターは声をひそめて毒づく。


 コートマッチにおいて杖、箒を除く道具の持ち込みは禁止だが、命がワックスを撒いたと証明するのは至難の業である。

 床にワックスがかかっていても何らおかしくはない。しかも、時間が経つごとに乾いていくというオマケ付きときた。


(審判は……)


 ダメだ。煙幕に指導を入れない時点で信用できない。喧嘩を売りすぎた弊害だろう。白石があえて見逃している可能性は高かったが……。


 シルスターは異議を申し立てられない。圧倒的強者であるが故に、審判に泣きつくような真似はできなかった。


 ギリと歯噛みする。


 一秒一瞬でも早く叩きのめしたいところだが、ワックスを撒いた張本人はとうに姿をくらましていた。


 パン、パン、と数秒置きに【呪術弾】が破裂する音が鳴り響いている。

 詠唱アベレージは三から四秒といったところか。外部入学生としては驚異的な速さといえるが、その絡繰りもとうに知れていた。


 命の【呪術弾】は、通常のものと造りが大きく異なる。

 弾速ゼロ、威力ゼロ。さらに位置や大小といった制御まで怠るといった手抜きが見て取れた。


 いわばパチモノの魔法弾の乱造である。当然、正規の魔法弾を作るより速さは増すが、品質は最悪の一言に尽きる。本人すらどこに現れるかわからない魔法弾を煙玉代わりに、めったやたらに撃っているのだ。


(なんと不完全でいやらしい)


 リロードによる詠唱短縮。

 アトランダムな配置による魔力感知の妨害。


 決して褒められたやり方ではないが、それなりに理にかなった戦術ではある。


 しかし、あれだけ大口を叩いてやることが煙幕とワックス? どこぞの悪のカリスマに勝るとも劣らない小賢しさである。


「……ふー」


 ふつふつと湧いてくる怒りを、息にのせて吐き出す。


 ここで冷静さを失えば相手の思う壺だ。命を斬り捨てるだけなら一秒あればこと足りる。


 焦ることはない。

 万一試合がもつれたとしても、命が最後まで煙幕を維持するには40〜53発の魔法弾が要る。内部進学生ならまだしも、相手は外部入学生。必ずどこかで息切れを起こすだろう。


 シルスターは足を止めたまま【羽衣(ローブ)】を仕立て直す。足元のグリップ力を強化することで、スリップの危険を軽減した。

 過度にグリップ力を高めることで動きのキレは落ちるが、いちいちワックスを警戒するよりは良いだろう。


(さて……そろそろ行くとするか)


 準備は整った。シルスターは黒く(けぶ)るコートをZ字状(ジグザグ)に歩き出す。ネズミを追い詰めるような足取りでリスタートを切った。


 試合の入り方を誤ったのは失策だが、シルスターにも収穫はある。得体の知れなかった命の正体がだいぶ見えてきた。


 命は、少なくとも虎の類ではない。せいぜいネズミといったところだ。驚くべき点はいくつかあったが、強者と呼ぶほどの実力があるとも思えなかった。


(恐らく煙を焚いたのも時間稼ぎだろうが、甘い)


 もし黒煙のなかで一息ついているのだとしたら、うつけの烙印を押すほかない。姿形は見えずとも、命自身の魔力を追うことはできる。


 ほら、こうして金眼を凝らせば、


「――ッ!」


 ……消えた。今度こそシルスターは、完全に命を見失った。


(馬鹿なっ!【隠形術】か……いや)


 見当は付く。力も技もない魔法少女が、この状況で魔力を断つ方法があるとしたら、一つしかない。


 しかしそれを本当にするか……、シルスターにはにわかに信じがたかった。


 ()()、全裸……呼び方は数あれど、実戦で使うことはまずない技術である。


 技術といっても使うにあたって何一つ難しいことはない。


 【羽衣】を脱ぎ捨てる、ただそれだけ。


 ただ、それだけのことをするのが、どれほど難しいか。


 【羽衣】は魔法少女にとって命綱である。この状況で脱ぎ捨てるなんて、セオリー無視も甚だしいが。


(……たしかに)


 魔法の衣も脱いでしまえば、煙幕の微弱な魔力を隠れ蓑にすることは可能だ。


 しかし……しかしだ。脱ぐか普通?


 夜の戦場を裸で歩くようなものだ。デメリットがメリットを補って余りある。シルスターの魔法が当たればそれこそ生命(いのち)に――


(そうか、奴は)


 シルスターは、はたと気づいた。

 命が【羽衣】を脱いだこと。それによって自分がどれほどの枷をはめられたのかを。


 シルスターは二つの攻め手を温存していた。

 その内の一つが安全圏から飛び道具を使うという手だ。


 それは【銀の剣】で立ち回るより効果的だろうが、体裁が悪い。シルスターとしては、安全策に走ったという評価を受けるのは極力避けたかった。

 飛び道具はあくまでも緊急時の保険。そう思っていたのだが……。


 ――封殺。


 いや正確には、撃つには撃てるが、相当のリスクを負わねば使えない状況に追い込まれていた。


 錬金術師は魔力を凝固することは得意だが、気体、液体にすることは不得手である。でなければシルスターはとうに魔力を気化して、命が張った煙幕を相殺している。


 火を放ったり、風を吹かせたり……錬金術師はそういった流動的な魔力の運用が苦手である。だからこそ、彼女たちは撃ち合いを好まない。仮に撃ち合いに臨むとしても、手元で精製した【銀の短剣(ダガー)】や【銀の矢(アロー)】を飛ばすことを常套手段としていた。


 ご多分に漏れず、シルスターもこの戦闘スタイルを採用する錬金術師の一人だった。飛び道具の練度は並の錬金術師に比べれば高いが、やはり絶対の自信を持つ【銀の剣】に比べると劣った。


 命中率が高くないのは、まあいい。数で補えば済む話である。しかし今足枷になっているのは、威力調整に難があることだ。


 全属性でも屈指の破壊力を誇る鉄属性。そのなかでも一流に位置するシルスターが、生身の人間に矢を放てばどうなる?


 考えるまでもない。

 当たりどころが悪ければ、間違いなく即死だろう。


(殺しは。しかも相手は……)


 ヴァイオリッヒ家の威光が通らぬ相手だ。流れ者を亡き者にするのは、さすがに不味い。数年前に起きた事件のように話がこじれる可能性だってある。


 一歩誤れば大惨事になる以上、シルスターは飛び道具というカードを切れなかった。


 仮に、仮にだ。覚悟の上で命を撃ったとしても、前途は暗い。母親に叱責されることもだが、もっと間近におぞましいものがある。


 命の背後からチラチラ見え隠れする影……姉ヶ崎宮古。


 溺愛する妹が死んだとなれば、彼女が黙っているわけがない。黒髪の乙女を生贄にして、妹狂い(バーサーカー)が召喚される。それだけは何としても避けなければならない。シルスターだって人殺しは御免だし、人に殺されるのはもっと御免だった。


(裸猿が。恥を知らぬのか!)


 如何ともしがたい実力差が、シルスターの邪魔をする。まるで「大人が子供の喧嘩にムキになるな」と諭されているような気分だった。


 シルスターの頭にはもう一つ、長柄の武器を使うという考えもあったが、彼女は敢えてこの手を取らなかった。


 いや……やはり正確には、取らないように仕向けられていた。長柄の武器を取るには、一度【銀の剣】を捨てる必要があったからだ。


 シルスターと【銀の剣】は切っても切れない関係にある。絶大な信頼を置く魔法ということもあるが、それ以上にシルスターが剣一本で敵を沈めてきたということが、彼女の恐怖政治の根底にあった。


 【銀の剣】は恐怖の象徴。


 だからこそ、シルスターはどんな場面でも【銀の剣】に頼ってきた。そのこだわりを見透かされていた。


 視界が暗い。シルスターが金眼を見開くと、そこに居もしないのに居る者が見えた。

 そいつは言っている。


 ――お前はそれを手放すのか?


 けたけた笑いながら、シルスターを挑発している気がした。


(くそ、くそっ、くそ……っ!)


 捨てるわけがない。相手は圧倒的に格下なのだ。命のちんけな魔法とはわけが違う。シルスターが【銀の剣】を捨てれば、それは煙の外にいる者にも一発でわかる。


 それこそ、シルスターが命に怯えた証拠となる。


(ダメじゃ……それだけはダメじゃ)


 今までシルスターが築き上げたものが、彼女の高いプライドが、【銀の剣】を捨てることを拒んだ。


 しかし、捨てないという選択も悪手でしかない。シルスターは右手に魔力の塊を握りしめている。いわば、真っ暗闇のなか一人だけサイリュームを持っているに等しい状態なのだ。


 両者ともに姿は見えない。

 が、命の側からシルスターを察知することは容易かった。


 いない……どこにも命がいない。


 命の影すら捕まえられない内に一分が経過すると、シルスターも考えを改めざるを得なかった。


 煙幕とワックス? 小賢しい真似?


 ……違う。ついさっきの思いつきではない。今、命が仕掛けてきているのはもっと周到で醜悪な何かだ。


(こいつは余のことを)


 ――本気で潰しに来ている。


 それは、シルスターが本当の意味で命を敵だと認めた瞬間だった。


 シルスターにとってネズミの檻でしかなかったコートが、四角い戦場に様変わりする。しかし、尻込みするわけにはいかなかった。


 潰すか潰されるか、道は二つに一つしかないのだ。


 シルスターは歩調を速める。位置が割れているのに足音を殺しても仕方がない、と割り切っていた。


 一秒なんて贅沢は言わない。一瞬の邂逅(かいこう)があればいい。そこが剣の届く範囲であれば、瞬く間に斬り捨てる(勢いで半殺しにする)までだ。


 正直なところ、飛び道具は不得手だ。だが剣であれば、傑物と呼ばれる天才魔法少女ローズをも超える技量がある、とシルスターは自負していた。


 いくら魔力反応を隠蔽しようと、命とて生き物である。生きている以上は隠しきれないものがある。

 足音、気配、息遣い。

 そのどれか一つでも気取ることができれば、戦局は引っくり返る。


 シルスターは耳を「一体、何が起きていますの!」澄ま「さあ、わかりませんが、きっとあのなかでは凄い戦いが……」せる「ええ、間違いないでしょうね」ことができない。


(があああああああああああああああああああああああ――ッ!)


 外野がうるさい。本当にうるさい。


 耳を澄ませば澄ますほど、要らない情報が入ってくる。煙の向こうが見えないというのが想像を掻き立てるのか、女生徒たちが好き勝手騒いでいた。


 シルスターの姿はここにあってここにない。恐怖の権化たるシルスターが煙のなかに消えたことで、女生徒たちの緊張の糸がほぐれたようだった。


 弛む、弛む、どこまでも弛む。


 外野の声量がどんどん増すなか、シルスターは声にできない衝動を必死に抑えていた。ここで感情的に吠えれば、己の不利を知らせるようなものだ。


(ええい、構わぬ。足を使えばいいだけじゃ――ッ!)


 怒りが足を速める。ライン際が危険とはいえ、シルスターは幼いころからコートマッチに慣れ親しんでいる。

 空間把握も時間管理だってお手の物だ。

 目をつぶったってラインを踏まないし、まかり間違っても命を時間切れで取り逃がすなんてことはない。


 ない、ないのだ。あってはならないのだ。


 試合開始から二分。

 コートを覆う煙は晴れるどころか、より濃く、より黒くなっていた。


(……なぜ衰えぬ)


 命がここまでに放った魔法弾の数は、音から察するに三十発前後。


 鉄屑アイアンクラスの魔法少女が苦もなく放てる数ではない。そろそろ魔力枯渇(パンク)してもおかしくない時間帯だというのに、むしろ回転率は上がっていた。


(こんなにハイペースで飛ばして)


 最後まで保つわけがない。


 保つわけがないのだ。


 保つわけが。


 ……保つのか?


 故意か偶然か、命は四月からずっとペナルティカードを所持している。カードが赤色(レッド)である以上、命の魔力総量を推し量る術はなかった。


(もしかして余は……)


 実力を隠すような相手だ。魔力総量を隠蔽していても、何ら不思議ではなかった。


(とんでもない勘違いをしておったのか?)


 焦燥感が余裕を焼き、熱した飴細工のように時間が溶けていく。気づけばシルスターは走り出していた。


 飛ばす、飛ばす。

 それはスーパーボールが跳ねるように。白線の直前で切り返してはまた白線に突き当たり切り返す。

 いくら隠れるのが上手だといっても、ここは四角いコート。

 限界があるに決まっている。


(――ッ!)


 居た。真っ黒にたゆたう煙のなかで、ネズミの尻尾が揺れた。微細な魔力の色を、床を擦るような音を、シルスターは逃さなかった。


 即座に切り返す。


 床が悲鳴を上げたが構いやしない。下らぬ駆け引きはここで終わりだ。

 シルスターは【銀の剣】を握る手に力を込め……硬直した。


「は?」


 靴。


 シルスターの眼前に命の姿はなく、ただ眼下にネズミの尻尾があった。


【神撫手】


 命が脱いだ運動靴(23.5cm)が、擦るような足音を立てて歩いていた。


「おのれ……」


 頭の血管が二、三本切れたのではないか。そう思うほどの怒りがこみ上げて来るのを、シルスターは感じていた。


「おのれえええええええええええ――ッ!」


「どこだ!」とシルスターが首を振った直後だった。


 スコーン、とシルスターの後頭部に運動靴が直撃した。痛くはないが、血が煮えたぎるほどに熱くなる。


 怒りを上回る高揚感が、シルスターの全身を包んでいた。


「……欲をかいたな」


 運動靴は眼中になかった。シルスターの金眼は、命が運動靴を遠隔操作した際の魔力反応を追っていた。一秒に満たぬ時間であろうと、それを見逃す銀の女帝ではなかった。


「ネズミ風情がああああああああああああああああああああああああ――ッ!」


 疾走。


 北西方向に一直線に上がる。危険を察した命の足音が遠ざかっていくが、もう遅い。この先に待つのはコート隅。袋のネズミだった。


「これで」


 追い詰めた。シルスターはコート隅を間合いに入れると【銀の剣】を、


「終いじゃああああああああああああああああああああああああ――ッ!」


 一閃。


 黒煙を切り裂いた【銀の剣】は命の胴を強かに打ち据え、骨が軋む音を鳴らす。肉を捉えた感触を乗せたまま剣を振り抜く。人の形をした肉袋が黒煙を突き抜けて、二度、三度と床を跳ねる。勢いを失うことなく命は演舞場に直撃する――はずだった。


(ば……か、な)


 空っぽ。


 シルスターが斬ったのは、紙のように切れた【呪術弾】だけだった。


 スローモーションのように流れる時間のなか。

 シルスターは床を踏みしめる音を聞いた。


 鈍い音を立てた床は、次の瞬間、キュイと鳴き。

 シルスターの反応が遅れる。

 過度に高めたグリップ力が仇となり、足が付いていかなかった。


 活歩――滑るように命が突進してくる。


 シルスターは命に一発はないと踏んでいたが、それは大きな間違いだった。

 とっておきと、ショートケーキの苺は、最後までとっておくのが黒髪の乙女の流儀である。


 一発、たった一発だけなら耐えられる。

 それは魔力の制御に苦しんでいたときに見つけた、苦肉の策。

 制御が利かないのであれば……リミッターを振り切ればいいのだ。


 ――限定狂化。


 溢れ出す黒い魔力を抑えようともしない。

 荒々しい【羽衣】を羽織った命が、八の字を象る両の掌を突き出した。


 それはシルスターの腹部を覆う軽鎧(けいがい)に触れ。


 瞬間、虎が噛み付いた。


 紅花直伝――双撞掌(そうどうしょう)


「が――ッ!」


 【銀の剣】が宙に舞う。


 短い悲鳴を上げたときには、弾け飛んでいた。混ざっては溶ける色。視界はぼやけた色彩とともに回る。ガシャンガシャンと音を立てる鎧ごと、シルスターはコートの対角線を切り裂いていく。


「きゃあ!」

「何ですの!」

「ちょっとあれ!」


 シルスターが黒煙を突き破る。

 予想だにしない光景を前にし、女生徒たちが次々と驚きの声を上げた。


 この勢いで転がればラインを割る。あわや場外というところで、シルスターは右手を床に突き出す。イレギュラーバウンドするボールのごとく跳ね上がった。


銀の円盾(バックラー)


 蜘蛛が、張った網に吸い付くように。

 展開した盾を足場にして、シルスターはコートアウトを逃れた。


 両足で勢いを殺し切るまでの間に、どれだけの思考が頭を駆け巡っただろう。先の一撃は、頭にかかった(もや)まで吹き飛ばしたようだった。


 クリアな頭が嫌というほど教えてくれる。

 自分がどれだけ下らない罠にかかったのかを。


 二人の間には、【銀の剣】の刃体(はたい)より長い認識の差があった。シルスターの意識が内にあったのに対し、命の意識は外にあった。


 鼻っから斬れるわけがなかったのだ。枠線(コート)の外にいた命なんて。


「…………」


 怒りを通り越した先にあったのは無我だった。邪念を払えずして、本物の剣など振るえるものか。

 斬らねばならない。全ての恥をなくすために。

 コートに立つ、あの痴れ者を。


 足を溜める。己を弓につがえた矢に見立て。

 ギリ……ギリ……と、その身を極限まで引き絞り――銀の閃光が飛んだ。


 砕け散る円盾(あしば)に気を取られた時点で遅い。大半の女生徒が見失ったときには【結界弾】を突き破り、シルスターが命に肉薄していた。


 雷鳴すら消し飛ぶ着地音を立て。

 淀みなく、音もなく。

 銀の軌跡と化した剣が斬り下ろされた。


 それは、黒水晶の瞳に映っているかも危うい。命には、避けることも受けることも叶わぬ斬撃だった。


 身じろぎ一つ取ることなく、命は静かに終わりを待ち。


 そして時が来た。


 ――ジャスト三分。


 最後に剣を止めたのは、命でなければ宮古の影でもない。シルスターが幼いころから培ってきた騎士道(ルール)だった。


「…………」


 試合終了の掛け声もない。

 誰もが食い入るように見通しの悪いコートを見つめていた。


 もうもうとした煙が晴れていくと、【銀の剣】の刃先が見えた。それは魔法少女の命綱である【羽衣】を紙のように裂き、首筋の数ミリ手前で止まっていた。


 端から見ているだけでもゾッとするというのに、


(……どうして)


 端から見ている者どころか、対峙しているシルスターにだって理解できない。

 暗い暗い闇のなかから現れたそいつは、生命(いのち)に触れる位置に立っているというのに、


「あれえ? 過ぎちゃいましたねえ、三分」


 華やぐような笑みを浮かべていた。

第100話 三分間ヒーロー

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