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魔法少女の狭き門  作者: 朝間 夕太郎
1年生 ―西高東低のアンビエント編―
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第99話 愚者の逆位置

 白亜の城のエントランスで、命は茫然としていた。


 エリツキーが倒れたとき、まともに動けたのは命とエメロットだけだった。

 命はエリツキーの意識や呼吸、外傷を確認し、エメロットは手近な女生徒に養護教諭を呼び出すよう、それとなく促した。


 数分後……。

 白衣を着た教師がやってきたが、彼女は悩んだ末に上に判断を委ね、結局エリツキーは意識不明のまま街の診療所に運ばれることとなった。


『訊きそびれちゃいましたね、街コンの話』


 いっそ薄情と思うほどエメロットは冷静だった。ただその冷たさにどこか心を救われている命がいた。彼女がいなければ、この革張りのソファでもっと無駄な時間を過ごしていたかもしれない。


 ショックだった。

 エリツキーが倒れたことが。

 エリツキーが倒れたことにショックを受けている自分がいることが。


 バラバラだ。会話も思考も行動も、すべてまとまりがなくて、自分を見失いそうになる。命が危惧すべきはエリツキーが倒れたことでなく、シルスターの脅威が近づいたことだ。そうであったはずなのに、消化しきれない感情が腹をさまよっていた。


 落ち着きなく雫が伝い落ちていく。ソファ横の曇りガラスに映るのは、去年の三月にはいなかった人物だ。

 プリーツのスカート。小さく主張する胸パッド。腰まで届く長い黒髪。薄い化粧を施した顔は少し青ざめていた。


 お前は誰だ、と曇りガラスの向こうに問いたくなった。


 ――お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、


「自分って――」


 何だ?


 どこにでもいてどこにもいないのに、誰が証明できるのだ、自分。


 誰の目をもって、何をもって、自分なのか。

 人の目がなければ証明できないなら、人の目に映らない自分は、自分ではない自分なのか。二人が別れた瞬間に、二人の自分ではない自分が生まれるのか。

 我思う故に我あり?

 なら自分が自分だと認めた瞬間、自分は自分たりえるのか。あの人は自分が自分であって、その隣のあの人も自分が自分であって、自分は自分ではない自分であって――


「……っ!」


 窓ガラスから目を外したのは反射的な動きだった。あと少しでも見入っていたら、鏡の迷宮に引きずり込まれていたかもしれない。

 命は、背なかに何か冷たいものが伝うのを感じた。


 嵐の影響なのかエントランス、とりわけソファが置かれた休憩所には生徒があふれかえっていた。


 席を立つ。人混みのなかにいると雑念が湧いてきそうで、どこか人が少ない場所に移りたかった。

 錬金術基礎Aの講義はもちろん中止である。急に一、二限の講義が空いたものだから、やることもなかった。


(先に食堂棟に入って時間を潰すか……いや)


 こう天気が悪ければ、なおのこと混雑しているだろう。考え直すも、適当な場所は思い浮かばなかった。

 こういうとき部室があると楽なのだが、諸事情あってダンジョン探検部に出した命の仮入部届けはまだ保留となっていた。


 どうしたものか……、と白亜の城を後にして当てどなくキャンパスを南下していたところ、何かが割れる音と「ひゃあ!」という悲鳴が聞こえてきた。


 どうやら鉢が割れたようで、フード付きのローブを被った女生徒が処理に困っていた。

 そのまま通りすぎることもできたが、命は足を止めた。持て余した時間で良心が痛まないのなら安いものである。


「失礼」


 そう言って鉢が割れた現場に近寄る。


【神撫手】


 指定した座標を中心点にして、円を切る。範囲内にある破片を収束。命の右手に連動するように散らばった破片が持ち上がった。


小袋(ポケット)


 あとは黒い穴に破片群をシュートすれば、お終い。これぞ命が編み出した、割れ物お片付けスペシャルだ。

 カフェ・ボワソンのアルバイト中に思いついたもので、特にアイリとシフトが被るときに重宝する技である。


「余計なお節介かとは思ったのですが」

「いえ、そんな……ってあれ、命ちゃん?」


 ローブ姿の女生徒の反応が変わった。フードの下にある柔和な顔は見たことがあるようなないような……、命は逡巡する。


「もしかして……ハルちゃん?」

「誰それ!? 私だよ、ほら前の席の!」


 フードの上に丸めた拳を置くジェスチャー。それがお団子ヘアの代わりだとわかると、命もピンと来た。


「あっ、小喬(チャオ)さんだ!」

「正解……なんだけど何か複雑。ねえ命ちゃん、私のことお団子の有り無しで判別してなかった? ねえねえ」


(ははは、そんなこと……)


 思いっきりしていたが、この程度のことでは動揺しない。機転が利かないようでは、黒髪の乙女はつとまらないのだ。


「まさか。フードで顔が見えにくかっただけですよ。それにそのローブは……ちょっと」

「ダメかな?」

「素敵な衣装だと思うのですが、ほら、ダボッとした服って体型が隠れちゃうじゃないですか。小喬さんスタイル良いのにもったいないなって」

「えー本当かな、それ本当かなー!」


 小喬は腰をフリフリしてローブの裾を揺らす。

 今日も1-Fの天使はチョロ可愛かった。


「それはそうと、何をしているのですか?」

「いっけない! お花のレスキュー中だったんだ……えっと!」


 小喬の視線は、命と通路脇の花壇の間を行ったり来たりしていた。花の状態が気になるが、急に話を切り上げるのも失礼ではないか。そんな小喬の葛藤がうかがえた。


(これは……)


 見捨てるのに相当の覚悟が要る。通り道にダンボール入りの子猫が置いてあるようなものだ。


「お邪魔でなければ手伝いましょうか?」

「ホント! ありがとー。なら、ちょっとだけ待ってて」


 返答を聞く前に、小喬は走り出す。


「……本当に行っちゃいました」


 手伝いなんて申し出て良かったのか? 早まった感は否めないが、一度口にした言葉を引っ込めるのも乙女にあるまじき振る舞いである。


(まっ、気分転換だと思って付き合いますか)


 そうして大人しく待つこと五分。


「おっ待たせー。持ってきたよ」

「あっ、お帰りなさい……って、その腕にあるのは」


 小喬が持ってきたのは、幾つかの園芸用品とお揃いのローブだった。


「着ないとダメですか、それ?」


 往来でペアルックになるのは、さすがに気恥ずかしい。


「魔法の【羽衣(ローブ)】を着れば十分だと思うのですが」

「ダメだよー。ずっと魔力使ってたら疲れちゃうでしょ。それにほら、三限には実技も控えてるし」


 ……そんな大仕事になるのか。

 どこか引っかかりを覚えたものの、小喬の言うことはもっともだった。


「それではお言葉に甘えて」

「どうぞ。ささっ、着ちゃって」

「……これはっ!」


 最初こそ渋々であったが、袖を通すと命の反応は変わった。

 なんという肌触りの良さ。どう考えても合成繊維でないのに一切の水滴をシャットアウトする防水性。謎素材ではあるが、実にエクセレントな着心地である。

 命は、久しぶりにこの国が魔法国家であることを思い出した。


「ねー。結構良くない……って私は思ってるんだけど」

「なるほど」


 言葉でなく視線で理解できた。よく見れば、通りすぎる女生徒たちが田舎娘でも見るような目を二人に向けていた。


「どうやら時代遅れのようですね」

「みたい。私なんてウッキウキで着てたら『不審者がいるかと思ったヨ』って紅花に言われちゃった」


 なら何故着せた、と命はものっそい言いたかったが、すんでのところで思い留まった。


「まあ、流行は繰り返すと言いますし。私たちが流行の最先端なのだと思って、堂々と振る舞いましょう」

「いいね。命ちゃんみたいな可愛い子が発信源なら、本当に流行るかも!」


(……可愛い)


 自分を見失いかけている命にとって、それは何とも複雑な評価だった。


「どうしたの? 難しそうな顔して」

「いえ。リボンベルトでも巻けば可愛らしいし、くびれもできるかなと」

「その発想いただき! 細目のカラーベルトとかもいいかもね。ベルトがあれば直ぐに試すのに……っと、いけない。あんまり待たせると、お花さんが!」


 一先ずローブ談義を中断し、二人は作業に取り掛かるとした。

 キャンパスの各所には花壇とレンガ調の大型プランターがある。それらに植えられた花を鉢に移すのが主な作業だ。


 剣先の細いスコップを取ると、さっそく命は根を傷つけないように土を掘り下げた。一回り大きな鉢を寄せて、まずはパンジーを退避。

 さあ次、と手際良く作業を進めていく。


「あー、何となくそんな気はしたけど、やっぱりできるんだね」

「真似ごとのようなものです。神社(おうち)を花で彩れば、みんな喜んでくれるかな、なんて思いつきで手を出したことがあって」

「いいじゃん。素敵な思いつきだよ」


(うっ……笑顔がまぶしい)


 実のところ神社の売上拡大に繋げたかったのだが、大した儲けにはならなかった。むしろ手入れの費用を含めたら赤字になってガッカリしたことは、自分の胸だけに秘めておくことにした。


「そう言う小喬さんだって、ずいぶん慣れているように見えますが」

「あー、私はお花好きだからね。ボランティア部に入ったのだって、半分は花壇をいじりたかったからだし」

「もう半分は?」

「人が喜ぶ顔を見るのが好きだから……かな」


(あれ、真横に天使が?)


 命は唐突に己のありとあらゆる罪を告白したくなった。


「って嘘、うそ! わっ、わー! 今のなかったことにして!」

「いいじゃないですか。私は立派だと思いますよ」

「そうかなあ。紅花には『自分の得にもならないのに、よくやるヨ』って言われるし」

「そうですね……紅花さんの気持ちもわかります」


 甘々な綿あめみたいに見えて、黒髪の乙女は現実主義者である。いつだって損得勘定は欠かさないし、少数の正義であることより物言わぬ多数派であることを好んだ。その方が賢くて……楽な生き方だから、だ。


「私には、とても真似できそうにありません」


 でも、たまに夢を見てしまうことがある。

 もしも、もしもこの学校(せかい)に小喬みたいな人しかいなかったら、争いなんて起こらないのではないか、なんて。

 そんな人類史上一日だって叶ったことがない、大それていて甘々な夢を見てしまう。


「小喬さんは本当にお花が好きなのですね。この花壇を見れば、よくわかります」


 小喬がどれだけの愛情をもって、この花壇を手入れしているのか。単なる思いつきだけではこうは美しくならない。花の見栄えも相性も、きちんと優しい人が考えているからこそ、優しい花が咲くのだ。


「花はいいですよね。どうして人は、こういう美しいものだけ愛でて生きていけないのでしょうか」


 ぽつりと本音がこぼれ落ちる。きっと小喬だったら賛同してくれる、そう思っていたのだが、


「……ぷっ!」


 天使は肩を震わせ笑いを堪えていた。


「ご、ごめん。だって急に真面目な顔でポエミーなこと言うんだもん」

「そんな!」

「ごめんってばー。でも、ポエミーなのは笑った理由の半分だよ」

「もう半分は?」


 返答次第では『人が喜ぶ顔を見るのが好きだから……かな』を真似して、小喬は天使だと喧伝することも辞さない構えである。

 命はじっと小喬の答えを待った。


「ダブったから、かな。私も前に似たようなこと紅花に言ったことがあって。そのとき紅花、何て返したと思う?」

「花になんて一イェンの価値もないヨ、とか」

「……さすがそこまで卑しくないよ」


 コホンと咳払いすると、小喬は紅花の口調を真似して言う。


「じゃあお前メシはどうすんだヨ、って」

「はい?」

「花を愛でて餓死するバカがいるカ、って言われちゃった」

「それは何というか……花より団子というか」

「ねっ。でも私、この言葉嫌いじゃないの。とっても紅花らしくて」


 綺麗ごとだけでは生きていけない……という意味なのだろうか。


「私のことを優しいって言ってくれる人もいるけど、紅花はもっと優しいよ」


(ああ、そうか)


 命は唐突に理解できた気がした。


 小喬の誇らしい笑みを見れば、自然と答えはわかった。

 綺麗ごとだけでは生きていけない、ではない。

 綺麗ごとだけでは美しいものは守れない、そう紅花は言っているのだ。


 この美しいものを守るために、紅花は必死なのだろう。


 どれだけ強大な存在(もの)を前にしても、どれだけの劣勢にあっても、誰の手が借りられなくても、女神が微笑まなくても、紅花は一本槍を貫き通す。


 全ては彼女の義侠心が成せる業だと思っていたが、


 ――私一人じゃ近い内にアレを押さえられなくなるネ。


 紅花は強くなんてなかった。不意に弱音を吐いてしまうような、友達の笑顔が曇ることにすら耐えられないような、優しい女の子なのだ。


 そう気付かされてしまった。


「……ですね。紅花さんは本当に凄いですね」

「うん。私の自慢の友達なんだ」


 天使は我がことのように照れ笑いする。

 これは紅花が守りたくなるわけだ、と命は納得した。


「だから、私なんて全然優しくないんだよ。本当はこれだって、嵐が来る前に準備しておけば良かったのに。早く動けば、もっともっと救えたのに……私が怠慢だったから」


 会話をしている間も、小喬は一切手を止めない。

 小喬の後悔が、罪悪感が、彼女の顔に浮かんでいた。


 どうして、そんな辛そうな顔をするのか。

 命は小喬に伝えてあげたくなった。


「でも、救えたものだってあったじゃないですか」


 紅花の優しさは、強くて本物だ。

 でも小喬の優しさだって偽物ではないのだ、と。


「小喬さんがいなければ、きっと花壇は全滅でしたよ。それに、私だって」


 知らずのうちに小喬の優しさに触れていた。


「恥ずかしい話ですが、最近は雨ばかりで気が滅入っていて。でも、そんなときは花壇を見て、少しだけ元気を分けてもらっていたのです」


 団子がなければ腹は膨れないが、花がないと心が飢えてしまう。

 そんな人だって確かにいるのだ。


「小喬さんの優しさに救われているものだってあります。花とか……私の心とかね」

「……命ちゃん」


 雨がしみたのか、小喬は二度、三度と目元を拭った。


「命ちゃんって……とってもポエミーなんだね」

「結論そこ――ッ!?」

「よーし、何だかやる気が出てきたぞ。そうだよね、お花に心を救われる人だっているんだもん。頑張ってレスキューしなきゃだね、ポエ命ちゃん!」

「……今まさに心を砕かれそうな人が横にいるのですが」


「はい、お花」と小喬は花を退避した鉢を、顔の横に可愛らしく掲げる。


「赤いゼラニウムですか」


 それがなんとも絶妙なチョイスで、命は言い返す気を削がれてしまった。


 程度に差こそあれ、誰もが天使でときおり悪魔になったりするのが女の子なのだと、黒髪のポエミー乙女はしみじみ思う。


 やはり天使など地上にはいないのだ。




     ◆




「小喬さんは、天使のようなお方なのです」

「餌付けされてんじゃねーよ」


 いやね、と命は否定する。手伝いのお礼に昼ごはんを奢ってもらったのは事実だが、黒髪の乙女はそこまで卑しくない。


「私は、礼には礼をもって返す彼女の優しさに心を打たれたのです」

「はいはい。昼メシ一つで天使扱いされるなら、あたしも奢ってやろうか」

「女神から天使になったら格下げじゃありません?」


 悪びれもせず小っ恥ずかしいことを……、リッカは背を向ける。


「言ってろ! あたしは女神なんかじゃねーよ」


 あたしは想い人が他の女を褒めたら面白くない、ただの嫉妬深い女だよ! と心中穏やかでないリッカは憤った。


「あっ、リッカ」

「うっせえ。こっち来んな!」


 大事なことを伝える前に、リッカは大股で離れていった。


(……まあいいか)


 命が伝えるまでもなく、それは近々公式にアナウンスされるのだから。


「ねえ聞いた」「錬金術基礎Aでね」「……先生が倒れたって」


 人の口を渡って嫌なざわつきが伝染していく。三限が始まる前から、演舞場には混乱した空気が漂い始めていた。

 噂を聞いても半信半疑な者も多くいた。

 もしかして、あの人なら何ごともなかったように帰ってくるのではないか。

 そんな砂金みたいな希望は……あえなく潰えた。


「エリツキー先生は急病のため、今日はウチ一人や」


 三限が開始されても、演舞場に現れた教師は白石だけ。

 そこにエリツキーの姿はなかった。


「正直むっちゃ寂しいので、普段の三割増しで絡むように」


 白石は普段と変わらぬ様子だったが、生徒たちはそうもいかない。ざわめきが広がるなか、一人の女生徒が手を挙げた。


「あの……エリツキー先生、倒れたと聞いたんですが」

「詳しい症状はウチも知らんけど、なーんも心配いらへん。この国一番のお医者さんが、ちゃんと診とるからな」

「その、1-Fの担任は?」

「安心せえ。それについても考えとる。まだ情報は出せへんが、臨時として他の先生が着く予定や」


「他には?」と、白石は右から左へと質問をさばいていく。生徒の手が上がらなくなると、何ごともなかったかのように講義を開始した。


「ほな、元気良く準備体操から行こか」


 パンと白石が手を叩けば、集団の意識が切り替わった。

 一時(いっとき)より混乱は収まりつつある。

 だがそれが表面的なものであることは、勘の良い生徒にはわかっていた。


 白石の返答には確たるものがない。大丈夫かと聞かれたら大丈夫と答え、予定があるかと聞かれれば予定がある、と返しているだけだ。


 状況は改善などしていない。

 ただただ悪化して、どこにあるかもわからない最悪に向かっていた。


 準備体操やランニングのときも、いつもと変わらないようでいて、どことなく違う空気が流れていた。

 水面下での睨み合いに、牽制。

 鼻を突くのは、雨に混ざる火薬の匂い。

 何一つ変わらぬ日常のなかに一触即発の危険が潜んでいた。


 空気の重さに気づいた者は、息苦しさと無縁ではいられない。

 苦しい。めいっぱい息を吸いたいと思うも、それは叶わぬ願いなのかもしれない。命は半ばあきらめていた。


 ここは悪意の深海だ。コールタールみたいな真っ黒な液体が、演舞場の天井まで達しようとしていた。


 今この時間が、永遠に感じるほど長い。


(このまま……)


 やり過ごせるだろうか?


 数名の女生徒がそうするように、命も周囲をつぶさに観察していた。

 だから、その現場を目撃したのは偶然ではなく必然だったのかもしれない。


 集団から離れた位置で二人の女生徒が接触していた。

 見た瞬間から嫌な予感がする。

 紅花とシルスター。

 命が考えうる二番目に最悪な組み合わせだ。


 紅花の耳元に、シルスターが顔を近づける。

 何やらささやいていたが、その内容は乙女の地獄耳をもってしても拾えなかった。

 ただ聞こえなくても、拾えるものはある。


 そのささめきは、間違いなく紅花の激情を呼び起こすものだった。


 血とともに燃える瞳。

 命には紅花の瞳が紅く見えた。

 幻視は止まらない。

 魔力も出していないのに、紅花の背からはドス黒い煙のようなものが立ち昇っている。それが心からあぶれた感情なのだと、命には直感的にわかった。


 そうとしか言いようがないのだ。紅花が全身から発しているものに名前があるとすれば、それは殺意という感情でしかあり得ない。


「よっしゃ。ウォーミングアップも終えたことやし、コートマッチに移ろか!」


 最悪のタイミングだ。

 白石の声が悪魔のものと思われるが、悪魔は彼女ではない。

 本物の悪魔は、ニタリと邪悪な笑みを浮かべていた。


 心臓が警告を発している。もはや予感という域を超えている。嫌なことが起こるという確信だけが、命の心を占めていた。


 どうして紅花とシルスターの二人は、呼ばれてもいないのにコートに向かって歩いているのか? 考えるまでもなかった。


退()くヨ――ッ!」


 鬼もたじろぐような怒号が響き渡る。


 紅花が、止めに入った小喬を突き飛ばした瞬間、この場を形成していた何かが砕け散った。皆が必死に保っていた均衡(くうき)が、修復不能なほどに壊れた。


(ダメです。そっちには……っ!)


 真っ黒な未来しかない。

 命は紅花の進路を遮ろうとして、


「――ッ!」


 腕を掴まれた。

 なんでっ! という声が喉でつかえた。

 右腕にかかる握力は、そのまま彼女の想いの強さだった。


 行くな、とリッカの目が訴えている。

 威圧的なのに、どこか懇願するような目が命を制した。


(そんな目で見られたら……)


 止まるしかないではないか。


 七十余名が口を閉ざした。

 沈黙を味方につけたシルスターは、我が物顔でコートに入場する。

 少し遅れて紅花も歩き出し、命たちの前に来ると一度立ち止まった。


「悪かったヨ。お前にも手伝ってもらったのに」


 何を、なんて聞かずともよい。紅花が我を忘れて暴れるのは、いつだって小喬に危害が及んだときだった。


「でも……もう我慢ならないネ」


 最後に、紅花はリッカと視線を交わす。めったに会話しない二人だが、その目の語らいは友人同士のそれに思えた。


 それっきり紅花は振り返らなかった。


(……もしかして紅花さんは)


 リッカの心の傷(トラウマ)を知っているのではないか?

 そうでなければ、あんな目はできない。

 紅花の目には、リッカを責めるところがまるでなかった。


 ――お前はそれでいい。


 ほんの一瞬、真っ赤な目に慈悲の心が映っていた。

 女神の加護も、誰の助けも得られない。

 それを知ってなお彼女は抗おうとしていた。


「待たせたヨ」


 この鬱屈とした世界に、たった一人で反抗しようとしていた。


「遅い。遅すぎる。余を待たせるとは、不届き千万な」


 待ち受けるは銀の女帝。

 馬鹿がようやく餌に食いついた、とシルスターは不敵に笑う。


 二人は人目も気にせず開始線に着く。紅花だってシルスターと気持ちは同じだ。一分一秒でも早く、目の前の相手を潰してやりたかった。


「ちょ! ちょ待ってや!」


 白石が慌てて仲裁に入る。こういう事態を避けるための体育教師だ。黙って見過ごすわけにはいかなかった。


「仲良うやろうな、なっ、なっ?」


 ピースピース!

 白石はダブルピースで愛と平和を訴えたが、相手が悪かった。


「ほう……余の邪魔をするとはいい度胸じゃ」

「怪我する前にすっこんでるヨ!」

「ひいいいいい~! あかん、武器はあかん!」


 銀色の剣先と黒色の槍先を向けられ、思わず白石は仰け反りそうになる。失禁しそうなほど怖かったが、教師だから耐えた。


「あんなあ。いくら自分らがやる()うても、対戦相手を選ぶのはウチや。何べん言うたかて、ウチが許さん」


 どうだ! 言ってやったぞ、ふふーん、と胸を反らす白石であったが、逸る二人には全く効いてなかった。


「別に主の許しなんていらぬ」

「許しがないなら、勝手にやるまでネ」


 ――こんっの、短気(いらち)が!


 腹のなかにある想いをすべてぶち撒けられたら、どれほど楽だったろう。でも、白石にはそれができなかった。誰も彼女(かれ)もがマグナみたいには生きられない。しゃあない、で済ませるしかない場面は往々にしてあるのだ。


「わーった。二人が合意の上やったら認めたる」

「ふん。やるに決まってるだろ」

「自分は?」

「今更ヨ」

「……そうか」


 それは白石の望む答えではなかったが、認めるしかない。火の付いた二人を止められる者は、他に誰もいないのだから。


 試合に臨む二人の目に、もう白石は映っていなかった。

 神経を研ぎ澄まし、獣たちはただ合図を待つ。


「両者位置に着いて……はじめっ!」


 咆哮。

 止まった時が壊れだす。

 勢い良く飛び出すシルスターを、紅花の槍が迎え撃った。




     ◆




 義侠心。


 その言葉をことあるごとに口にする父親は義侠の心を持ち合わせていなかった(と紅花は思っている)が、その考えは彼女の人格を形成するのに大きな影響を与えた。


 弱きを助け強きを挫く。

 その教えを守るべく、紅花は父親から武術を学んだ。

 翻子拳(ほんしけん)洪家拳(こうかけん)形意拳(けいいけん)……。南北、内外問わずいくつかの武術を修めたが、紅花はとりわけ八極拳を気に入っていた。


 陸の船、八極に轟く、と。その派手さ強さばかりが取り沙汰される武術であるが、紅花が考える八極拳の魅力は、別のところにあった。


 接近戦から繰り出す技のなかには、ときに威力より相手を吹き飛ばすことに重きを置いたものもあった。

 何故か?

 幼いころ紅花がそう尋ねると、父親は思いも寄らぬ答えを返してきた。

 相手の恨みを買わぬため。

 そして力の差を思い知らせるため、と。

 怪我をさせずに上から見下ろす。これこそが真の勝利だと父親は説いた。


 その話を聞いたときから、紅花は八極拳の虜となった。


 二の打ち要らずは強さだけにあらず。

 紅花が求める理想(つよさ)が確かにそこにあった。


 では今、目の前で振るわれている強さは何カ?


 紅花は我が心に問う。

 それは、醜悪と言うほかない強さだった。生かさず殺さず、相手を滅多打ちにして転がす。力の差を必要以上に誇示し、相手を見下すことだけに悦を見出す強さだ。


 許しがたい。忌み嫌うべき強さである。だが何よりも許しがたいのは、そんな強さに膝を折ってしまう自分自身だった。


「なんじゃ、もう終わりか?」


 上から見下すシルスターは掛け値なしの化物だった。

 試合が成立していたといえるのは、わずか数十秒だけ。槍撃の嵐を【銀の剣(アゾット)】で掻い潜られてからは、一方的な展開が続いていた。


 それはもう試合と呼べるものではない。

 今や試合は、紅花を延々といたぶるショーと化していた。


 端から見ていた命ですら、目を背けそうになった。

 点々と床に落ちた赤色。

 まだら模様のように紅花の体に浮かぶ青色。

 数メートル先には見るに堪えない光景が広がっていた。


(もう……嫌だ)


 もう何度目をそらそうと思ったかわからない。

 でも、命は目をそらさなかった。

 ボロボロ泣く小喬は紅花を信じて目を閉じなかったし、何より横に立つリッカが目をそらさなかった。


 自分は、最後まで紅花の覚悟を見届けなければいけない。

 そんな気がしてならなかった。


「お前は……偉いのカ?」


 もう何度目になるだろう。転んだ数だけ紅花が起き上がる。槍を杖にして立ち上がる彼女の姿が痛々しかった。


「人の心を踏みにじっていいほど、お前は偉いのカ――ッ!」


 ぶん、と槍を薙ぐ。


「おっと」


 後ろに飛び、シルスターは軽くかわした。かかって来いと挑発するような逃げ方が、紅花の神経を逆なでする。お望み通り、紅花は仕掛けた。


「あれは……あの花壇は」


 突く。突く。

 最後の気力を振り絞り、紅花は息つく間も与えない槍撃を放つ。

 しかし敵もさるもの。

 かわす、かわす。

 どれだけ余裕を見せても、シルスターは気を緩めない。一突き一突きを丁寧に処理し、着実に距離を詰めてくる。


「お前なんかが踏みにじっていいものじゃなかったヨ――ッ!」


 吠えると同時。

 紅花の槍が手から離れた。

 宙を舞い上がる【方天戟】。

 【銀の剣】が、紅花の獲物を下から打ち上げていた。


 時間いっぱい。

 三分という時間は身体が覚えている。

 とどめを刺すべく、シルスターは剣を振るい。

 迫る最後の瞬間。

 紅花は……ほんの少し口端を上げた。


「ッアアアアアアア!」


 気力がないなら死力を絞る。

 槍がないなら拳で殴る。


 【羽衣】全開。


 あまねく天下を打つ拳が飛んだ。


 思わず命は拳を握る。

 最後の最後に待ち受けたドラマを、


「ふん」


 シルスターは難なく流した。

 剣を途中で止め、踊るように避けてみせたのだ。


 当たれば吹き飛んでもおかしくない一撃だったが、当たらなければどうということはない。皮肉なことに、この手の芸当はすでにマグナから学んでいた。


「終いじゃ――ッ!」


 重い打撃音が響く。【銀の剣】が紅花を弾き飛ばした。


 本来なら壁に直撃コースだったが、白石がとっさに張った黒いネットが彼女を受け止める。ネットが勢いを殺し切ると、紅花はどさりと床に落ちた。


「紅花あああああっ!」


 とうとう耐えきれずに小喬が駆け寄った。誰の目も憚ることなく、彼女は横たわる紅花の側でわんわんと泣きわめいた。


 ……鬱陶しい。

 二人を眺めるシルスターの金眼にはそう書いてあった。


「馬鹿が。何が偉いか、じゃ。そんなものは決まっておる」


 コートに君臨する勝者はさも当然のように言う。


「余は偉い。下々の心を踏みにじれるほどにな」


 それは間違いなく暴論だ。

 だが、あれほどの力量差を見せられて誰が異論を挟めるというのか。

 生徒たちは困惑している。

 なら教師がやるしかない。本当はグレー寄りの位置でのらりくらりとやり過ごしたかったが、そういうわけにもいかなくなった。


 大人は灰色だろうが玉虫色だろうが構わない。だが子供はダメだ。下らぬ色に染めてはいけない。


 黒を白にしないために、白石は口を開いた。


(けた)くそ悪い。それが死力を尽くした相手にかける言葉か?」

「ふん。最後まで止めに入らなかった腰抜けがよく言うわ」


 そう言われても仕方がなかった。最後の最後まで期待しなければ、紅花はこんな目に遭わなかったかもしれない。


 白石の胸には、引き裂かんばかりの後悔があった。


 冷静に判断するなら、この試合は認めるべきではなかった。でも……それでも、白石は見たかったのかもしれない。


 西の暴君に一矢報いる東の勇者の姿を。

 もっとも、それも今となっては叶わぬ夢だが。

 白石に今できることは、これ以上の犠牲者を出さないことだけだった。


 腰抜け呼ばわりされても構わない。子どもを守れるのなら、白石は甘んじて汚名を受けるつもりだった。


「やってられへん。こんなん中止や中止」

「中止? 馬鹿を言うな。余は断固としてコートを降りぬぞ」

「自分アホちゃう? なら一生そこに立っとれ。はい撤収。みんなはよ帰り」

「いいだろう。余を敵に回したい者は、外に出ろ」

「な……っ!」


 出入り口に向かっていた女生徒たちの足が迷う。行き場をなくした彼女たちの足は次第に止まり始めた。

 強大な者を向こうに回してまで、外に出ようとする者はいなかった。

 そう、一人を除いて。


 紅花を担ぐ小喬は、足を止めない。

 小喬は一刻も早く紅花を医者に見せたかった。


 不届き者の足音がする。

 ゆっくりとシルスターは振り返った。


「おい、そこのうつけ! 余の言葉が聞こえなかったのか!」


 シルスターが吠えると、小喬は首だけ回して答えた。

 言葉はいらない。真っ赤な目をした彼女は「べっ」と舌を出した。


「そうか」


 シルスターは【銀の剣】を持った右腕を振りかぶり、


「身の程を知れ――ッ!」


 投擲。

 とっさに白石が放った【結界弾】を物ともしない。

 小喬めがけて真っ直ぐ飛ぶ【銀の剣】は――途中でその軌道をグニャリと曲げた。


 外れた【銀の剣】が床に刺さる。


 行け、とあごで指す女生徒に感謝して、小喬は外へ飛び出した。


 誰の仕業かなんて言うまでもない。

 白石以外に反応できる者がいるとしたら、それは彼女しかいなかった。


「ようやく重い腰を上げたか」


 シルスターは、もう出入り口なんて見てなかった。一人の脱走者と引き換えに女神が釣れたなら安いものである。


「今度は逃げてくれるなよ……リッカ」


 観衆(しもじも)の目が、主役たるシルスターと敵役であるリッカに注がれたとき、ようやく舞台は完成した。丁寧に、慎重に、それでいてときに大胆に逃げ道を塞いでいったのは、今日この日この瞬間のため。


 己の無能ゆえ手を出すことも(あた)わず。傷つき、倒れゆく者をただ黙って見ることしかできなかった。しかして誰に甘えることも能わず、ただ一柱(ひとり)、女神は孤独の丘で葛藤する。


 苦しかったであろう。辛かったであろう。ここに至るまでのリッカの心情を考えると、蜜のような味がした。


「ほかに誰がいる?」


 シルスターは、芝居がかった身振りで両腕を広げる。


「お前以外に余を止められる者が、ここに――ッ!」


 安い挑発である。だが、それでいい。

 わかり易いぐらいの方が観衆にはウケるのだ。


「そうよ……リッカさんなら」

「カフェ・ボワソンの女神……」

「私たちに女神のご加護を」


 そうら愚民どもが神頼みを始めた。

 お前らが、その神の最後の逃げ道を塞いでいるとは露とも知らず。

 おお女神よ、哀れというほかない。

 お前はお前が守ろうとした者たちに殺されるのだ。


「ちょっと! 皆さん落ち着いて下さい!」


 何人かが火消しに入ったが、もう遅い。1-Eにはシルスターの手の者が混ざっている。一の火が消えたら、三の火を点けるまで。

 無駄じゃ無駄じゃ無駄じゃ。この火勢はもう止まらぬ。

 遅い、もうすべてが遅すぎたのじゃ。

 さあ、ありったけの燃料を()め。燃えよ、燃えよ、炎よ燃えよ!

 余の野心(ゆめ)を飾るがごとく!


 そうして悦に浸るシルスターの頬を、【呪術弾】がかすめた。


「……ええかげんにせいよ」


 白石は激昂していた。

 普段からは想像がつかぬほど、その顔は怒りに満ちている。


「ちっ」


 シルスターは忌々しげに舌打ちを鳴らす。彼女にとって、白石の存在は邪魔以外の何ものでもなかった。


「なら主が先にやるか? 余を止める気概が主にあれば、の話だが」


 一瞬の感情のほころび。

 白石の目の奥からは、リッカと同じ葛藤の色が見て取れた。


 なぜ弱者が怯えるでもなく葛藤するのか?

 腑に落ちないところはあるが、まあいい。

 白石は自分に手を出せない理由がある。それだけわかれば、シルスターにとって十分だった。


 白石は恐るるに足らず。

 行動が伴わない理想など、理想であって理想でないのだ。


「いいよ先生」


 もっとも、


「あたしがやるから」


 行動が伴っても、実力(ちから)が伴わない理想はもっと無様なのかもしれないが。

 このときをどれだけ待ちわびたことか。

 ようやく女神は死地に赴く覚悟を決めたようだった。


「……リッカ」

「言ったろ? こっち来んな、って」


 ずるい、と命は思う。

 突き放すことなんて訳ないのに、リッカは命が握った手から逃げようとしなかった。


「…………」


 そっと目をつぶってから、どれほど懊悩しただろうか。重い数瞬を乗り越えて、命は覚悟を決めた。


「ありがとう」


 どこまでも優しくて透き通る声がした。


 離れていく。

 遠く向こうに手放した者が。

 彼女はまるで風のように逃げていく。


「ったく。あっちこっちで暴れ回ってると思ったら、あたし目当てかよ。はた迷惑もいいところだぜ、このバカ殿」

「自惚れるでない。主などただの通過点にすぎぬ」


 ただ、シルスターがその通過点をどれだけ憎んでいるかは別の話だ。


 中等部時代……。

 シルスターは特待生として不適格だと判断し、リッカは裏から手を回して彼女から特待生の称号を剥奪した。

 そのとき、リッカはリッカなりの正義に従ったつもりだったが、その正義感がシルスターを壊してしまったのかもしれない。


 怒り狂ったシルスターは派閥争いを繰り広げ、暴れに暴れ……最後には敗者として蹴落とされた。


 それは逆恨みだろ、と思わなくもない。でも、今のシルスターを作り上げてしまった原因の一因は、自分にあるのかもしれない。


 あたしが善行だと思った行動が一人の人間を狂わせてしまったのなら、あたしにはそれ相応の責任がある。


「ああ、そうかい」


 懺悔がある。後悔がある。リッカには重い自責の念があった。


「ならその通過点に倒される手前は、何なんだろうな」


 始まりがあたしなら、終わりもあたしでなければいけない。

 たとえどんな結末が待っていようとそれが始めたあたしの責任だと、リッカは心に決めていた。


 演舞場の期待が膨れ上がる。まるで岩戸に隠れた神さまを引きずり出そうとするかのような、はしゃぎっぷりだ。

 微塵もリッカがシルスターに負けるなんて思っていない期待。

 それが今は重かった。


「何者か? 決まっておる。余の名はヴァイオリッヒ=シルスター。誉れ高きヴァイオリッヒ家の嫡子(ちゃくし)にして、偽りの女神を堕す者なり」


 相も変わらずシルスターの口調は芝居がかっていた。

 銀の女帝は悪辣(あくらつ)だ。

 こうして火に油を注ぎ、場が盛り上がれば盛り上がるほど、リッカの荷が重くなることをよくわかっていた。


 ――苦しい……ここから逃げ出してしまいたい。


 湧き上がるネガティブな感情を、リッカは気力で捻じ伏せた。

 違う、こうじゃない。みんなが求めるあたしは……こうじゃない。


「誰が下らねえ前口上述べろつった。下手な芝居打つ暇があんなら、さっさと剣でも槍でも構えろよ」

「暇? いっぱいっぱいの主と違って、余には余裕が有り余っとるだけじゃ」

「吹き飛ばされるまで言ってろ」


 こんな調子で、あたしはこいつに勝てるのか?


 考えないようにしていた不安が、ネガティブな感情を糧にして成長していく。


 選抜合宿のときだって、春祭りのときだって、そうだ。追い込まれれば何とかなるなんて幻想だったろ。右腕を折られて、醜態を晒して、お前はまた同じことを繰り返すつもりなのか?


 ああ、うるさい。頭のなかが騒がしい。


「ええんか。本当に始め――」

「いいからさっさと始めてくれ!」


 リッカは食い気味に意思を示す。これ以上決意が揺らいでしまったら、本当に何もできなくなってしまいそうだった。


「両者位置に着いて」


 そうだ。覚悟が決まるまで追い込んでくれ。突っ込んできたシルスターの剣をかわしてリズムを作れば、あとは身体が勝手に反応してくれる。


 そんなリッカの思惑は、


「はじめ――ッ!」


 試合開始早々に崩れ去った。


「どうした? 早く吹き飛ばしてみろ」


 不動。開始線に着くシルスターは、棒立ちになっている。リッカの頭に春祭りの悪夢がよぎった。

 それが数秒の膠着(こうちゃく)であれば珍しくなかっただろう。

 だが、それが数十秒も続くと不審がる者が現れだした。


 カフェ・ボワソンの女神の様子がおかしい。

 腕が痛むのか? いや……本当にそれだけなのか?


 先ほどまでの活気が嘘のようだ。

 不審は動揺を生み、やがて女生徒たちに疑念を抱かせる。

 希望は陰り、絶望が夜の(とばり)のように下りてくる。

 ここしかないというタイミングで、シルスターが笑った。


「こいつは傑作じゃ。主は本当に、人に魔法を向けられぬのか」


 唐突に、爆弾が落ちた。


 真相を知る一握りの者はうろたえ、訳のわからぬ者たちは近くの者を捕まえては顔を見合わせるばかりだった。


 これだ。

 これこそシルスターが見たかった光景だ。

 いい眺めである。

 だが、もっと()くなるはずだ。

 この程度で済ませる気は、シルスターにはさらさらなかった。


「大見得切って出てきたと思えば、何じゃそれは? 主はカカシになるために、ここに来たのか?」

「……黙れ」


 逆巻く感情とともに風が吹き荒れる。しかし、その強風がシルスターに向いてないことが逆に、見ている者たちを不安がらせた。


「よさぬか。冷えるではないか」


 シルスターは強い風のなかを往く。どれだけ吹き荒れようと余には当たらぬ、そう確信しているような歩みだった。


「できもせぬなら、ずっと隠れておれば良いものを。無様という他ない……今の主にできるのは、せいぜい余の髪を乱すぐらいじゃ」

「だから……黙れよ――ッ!」


爆風(ブラスト)


 圧縮した空気が爆発的な風を起こした。


 女生徒たちが悲鳴を上げる。

 吹き荒ぶ風は、外の嵐にも負けぬ脅威であったが、


「ほら……何もできぬ」


 不発。シルスターは平然と乱れた髪を撫でつけていた。


 この段になって気づかぬ者はいない。

 カフェ・ボワソンの女神は、何か深刻な問題を抱えている。

 その事実が女生徒たちから声を失わせた。

 女生徒たちは知ってしまった。彼女たちが頼みの綱としていたものは、腐ったロープよりも頼りないものだったことを。


 場の期待が、穴の空いた風船のようにしぼんでいく。

 女生徒たちは愕然とその場に立ち尽くしていた。


「…………」


 沈黙には、声にならぬ優しさや同情が含まれていた。それが、なおのこと残酷だった。どう言い繕ったって変わらない。そこには隠しきれない失望があった。


 女神の信頼が、名声が、地に落ちた瞬間。


「くく……く、くははは――ッ!」


 シルスターは哄笑した。


 リッカに向けられる、あの目。

 柔らかいものから鋭いものまで全てが、シルスターには人を串刺しにする槍に見えた。無数の槍に貫かれた女神の哀れなこと。身も心も震えているだろうに、涙を流すことすら許されないのだ。


 今にも消えそうな灯火(きぼう)を守るため、リッカは最後の一線だけは死守しようとしている。その健気さがまたシルスターの嗜虐心を煽った。


「なーにが翡の風見鶏じゃ。この臆病者(チキン)が!」


 銀の女帝の仕打ちが、罵倒が、一線を越えた瞬間。


【呪術弾】


 シルスターの頭に黒い魔法弾が当たった。


 それはゴム鞠のように柔らかく、頼りない魔法だった。

 しかし、だからといって見過ごせるものではない。

 どれだけ弱かろうと魔法(それ)は牙である。剝かれた以上はシルスターも黙ってはいなかった。


 たとえ相手が、たやすく手折(たお)れそうな花だとしてもだ。


「いい度胸じゃ」


 どこぞのバカのせいで興も醒めてしまった。

 コキリ、と首を鳴らす。

 シルスターはリッカから目をはずし、大馬鹿者を見遣る。


「余に恭順を示していれば、もう少し遊ばせてやったというのに」


 誰がやったかなど一目でわかる。

 関わり合いを避けるように、人だかりのなかにポッカリと空いた穴。

 そこに立つ者は、良くも悪くも目立っていた。

 人目を引く容姿もだが、何より目が違う。

 ほとんどの女生徒が瞳に恐怖の色を浮かべるなか、ただ一人。


 命は、瞳に闘争の色を浮かべていた。


「……覚悟はできているのだろうな」

「ええ、おかげさまで」


 今更である。命は覚悟など、リッカを送り出したときから決めていた。


「確か第三者が介入したら無効試合(ノーゲーム)でしたよね、先生」

「そやけど。自分……どこに行くつもりなん?」


 命の目と足が向かう先が答えだった。

 危ういものを感じた白石は、すぐに命の前に立ち進路を塞いだ。


「それ以上は、あかん」

「白石先生……無理を承知でお願いします。どうか黙って見守っていただくわけにはいかないでしょうか」

「どうなるっちゅうねん。自分が行ったとこで」

「それは行かせればわかることです」

「どうなっても――」

「構いません。だから通して下さい」


 たった一つ。白石にはマグナとかわした口約束があった。それはロクな引継ぎをしなかったマグナが、唯一した引継ぎともいえた。


『いいか。基本は全部エリツキーにやらせとけ』


 あの同僚は、コートマッチの相手選びにだけはやたらうるさかった。


『例外的に許してやるのは、1-Fなら紅花、イルゼ。1-Eならリッカだけ。ただし、こいつは本人がやるって言ったときに限りだ』

『ウチは?』

『選外。だってお前やる気ないじゃん』

『さすがやな。付き合いが長いだけあるわ』

『はっ倒すぞお前……っと、もう一人忘れてたな。八坂も許してやるよ。こいつもやる気ねーけど、本人がやるって言ったときに限りな』

『八坂って外部入学生やん。さすがにそれはあかんやろ』

『いいんだよ。いざというときは、あたしが責任とるから』

『いや、自分いないやん。ウチは責任とりたないねん』

『……テメー』


 そんな会話をしたことを、白石はおぼろげに覚えていた。あのときはどうして外部入学生を推すのか理解できなかったが、今なら少しわかる。


 八坂命の目は厄介だ。危うさのなかにどこか蠱惑的な美を秘めた、人をそそのかす目をしていた。


 ふーっ、と白石は長いため息を吐いた。

 神さま仏さまビリケンさまウチを守りたまえ、と願かけしてから道を空けた。


「ええよ。いざというときは、ウチが責任とったる」

「ありがとうございます」


 命は一礼してから歩を進める。

 が、自然とその足は白線の前で止まってしまった。


「どうした。ここに来て怖気づいたのか?」

「ええ……その通りです」


 あまりに素直な反応だ。シルスターは眉をひそめたが、命の言葉に一切の嘘偽りはなかった。


 命は、線を越えることが怖かった。


 生きて帰ることを至上の目的とするなら越えるべきではない。人との関係を拒み、路傍の石のようにただ存在する。それこそが最適解なのだ。


(……そう思っていたのですが)


 もう何回、この線を越えてしまったのだろう。

 線を越えては戻り、また越えては戻り。

 さっきは仕方がなかった、次は越えないようしよう……そんな自己欺瞞(やりとり)をあと何回繰り返すつもりなのか。


 雨の音を聞くでもなく聞きながら、数えるのも億劫になるほど自問自答して、やっと自分なりの答えを見つけることができた。


 それは、最適解の真逆に位置する愚かしい答えなのかもしれない。


「ですが」


 ずっと下らないことに悩まされるより、幾分かマシな生き方である。


「もう越えてしまいました」


 誰でもない自分の意志で。

 ずっと逆位置を向いていた愚者は、この日、初めて(まえ)を向いた。


 清々しい気分だ。越えてしまえばどうということはない。どうして私はこんな下らないことに悩んでいたのか。命にも不思議だった。


 足が軽い。

 ぐいぐい前に進んでいく。

 体が熱い。

 どんどん熱を帯びていく。

 心が軽くて熱い。

 ありとあらゆる感情を燃料にし、炎がうねっている。


 目の前にいるシルスターのことが、怖くない。


(……いける)


 15年と9ヶ月と12日生きてきて、一番調子が良い。今なら何だってできるような気がした。


「お待たせしました。もちろん胸を貸してくれますよね……シルスターさん?」

「ふん。今にも人の胸ぐら掴みそうな目をして、よく言うわ」


 片や古参、片や新参の問題児。

 二人の闘争が何をもたらすのか。演舞場の女生徒は固唾を呑んで見守る。二人の視線が散らした火花は、すでに業火を起こす勢いである。


 1-Fの趨勢を決定付ける戦いが始まろうとする……その横に。


「ちょっと待て。なにあたしを無視して進めてんだ!」


 リッカ、いた。ずっと横にいた。


「あっ」


 命、忘れていた。熱くなって視界せまかった。


「あっ、じゃねーよ! 手前、完全にあたしのこと忘れてただろ!」

「ちょっ、やめて。胸ぐら掴んで持ち上げないで! 身長が低いことがバレてしまいます」

「見たまんまじゃねーか! こっち来んなって言ったのに、来やがって」

「来ちゃった」

「来ちゃった、じゃねーよ!」


 命をぶんぶんと揺するリッカ。

「いやー、やめて」と半ば本気で許しを乞う命。


 ……なんだこの漫才は。外野にいる女生徒たちは、あまりの温度差についていけずに固まっていた。


「手前が来たら意味ねーだろ。あたしは手前を守ろうと――」

「ふんっ!」


 それ以上言わせる気はなかった。

 というか、これ以上揺らされたらポロリの危機である。

 命は一瞬の隙を見て脱出。ダンッ、と床に着地した。


「誰が守ってくれと言いましたか! 思い上がるのも大概にして下さい」

「何だと。弱っちいくせに!」

「ええ雑魚も雑魚! この学校、いや今ここにいる人たちと比べたって、下から数えた方が早いぐらい弱いです。……けど」


 譲れない。彼女と対等であろうとするなら、ここだけは。


「私は、ずっと貴方に守られているほど弱くありません――ッ!」


 雷に打たれたような衝撃だった。言い返してやるつもりだったのに、リッカは口を閉ざしてしまった。


 ――あたしは、あいつのことを信じてる。大抵のことはあいつが何とかするって。それでもダメなら、あたしが何とかしてやるよ。


 心のどこかであたしは、命のことを下に見ていたのかもしれない。そのことにリッカ自身初めて気づいた。嵐が来たら守るつもりでいたのに、いざ嵐が来たらどうだ。


 ――守られてるのは……あたしじゃねーか。


 女神であることを強いられていたのも事実だ。だが、その半面でリッカも女神であることに慣れきっていたのかもしれない。


 みんなを守ることが当たり前、そう考える女神に傲慢がなかったといえば嘘になる。リッカは、命に反論する言葉を持っていなかった。


「これ以上恥かかせないで下さいよ……これから格好つけようってときに」


 命がはにかんだ瞬間、リッカは引き際を悟った。

 鏡を見なくたってわかる。

 この土壇場で微笑む男と、この世の終わりのような酷い顔をした女。そのどちらが戦場(コート)に立つのが相応しいのか。そんなことは考えるまでもなかった。


「……邪魔して悪かったな」


 命は、リッカの気配が遠ざかっていくのを背中で感じた。振り返ることはない。リッカを外に逃がすことこそが、彼の望みなのだ。


 命は前を向いたまま言う。


「約束」


 女神に、そして何より己に誓うように。


「今度はちゃんと守りますから」


 リッカは思わず足を止めそうになる。もし記憶を失ったって消えない、大事な……鍵付きの記憶が、彼女にはある。


 ――もし貴方の傷を笑う不届きな輩がいたら、私がタダでは置きません。だから、


 もう心のなかで何度リピートしただろう。あの日、彼が掛けてくれた言葉は、


 ――大丈夫です。私はリッカの味方です。


 今日また新鮮な印象をリッカに与えてくれた。


 悔しくて、不甲斐なくて、どうしようもないほど胸が苦しくて……。誰かが許してくれるなら、ボロボロと大粒の涙を流してしまいたい。


 でも、それはできない。


 命が戦うと決めた以上、自分一人だけ泣くような甘えは見せたくなかった。

 彼に意地があるように、彼女にもまた意地がある。

 背を向けたまま歩く。

 リッカは涙の一粒も落とすことなく戦場を後にした。


「お待たせしましたね」


 リッカの足音が遠ざかると、命はシルスターの方に向き直る。


「なんじゃもう良いのか?」


 興味がないのか、余裕があるのか、またはその両方か。シルスターはあくびを噛み殺していた。


「もう少しじゃれておっても構わなかったのに」


 何もない空間から剣を抜く。【銀の剣】を手にすると、シルスターは一転して敵意を剥き出しにした。


「これから主が味わうのは、この世でもっとも永い三分じゃぞ?」


 ときの流れが凍るほど凄惨な時間を。お前には無間地獄を与えてやろう、と銀の女帝が下卑た笑みを浮かべるなら、黒髪の乙女はそらとぼけて応えるまで。


「さあ、それはどうでしょう? 楽しい時間というのは、どんどんすぎていくものです。案外あっという間かもしれませんよ、三分」


 やれるものならやってみろ、と命は挑発的な笑みを浮かべた。


「減らず口を……まあ良い。余は寛大な心の持ち主じゃからな」


 命は開始線に着く。次いでシルスターも開始線に着くと、辺りにはざらついた空気が流れ出した。


 視線をぶつけたまま、二人は微動だにしない。


 不意に雷鳴が轟いたが、この部屋にまでは届かない。女生徒たちは誰一人として悲鳴をあげなかった。


 息が詰まるような時間が続くなか。


「両者位置に着いて……」


 すっ、と。白石が右腕を上げた。

 先生の手が宙を切ったとき、私の身はどうなるだろう……、と命は考える。

 相対するは、絶対不敗の女帝。

 未だコートマッチで白星を一つも拾えていない自分が対抗できるなんて考える方がどうかしているのかもしれない。


(でも)


 病をおして戦う女神(おんな)を見て、どうして退けようものか。

 戦え、剣をとれ、と。

 暴れる心臓を通じて本能が叫んでいる。その絶叫に掻き消されるように、命の頭から逃げるという思考が飛んだ。


(ここで退いたら……)


「はじめっ!」


 吹けば飛ぶほどしかない(ほこり)を失ってしまう。それは命にとって、死ぬよりも耐え難いことだった。

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