第4話 神殿のはかりごと
結婚式を挙げるために来た部屋の前では、透き通るガラスが床から天井までの壁を埋めつくしている。細かな花の形に区切られて、光をこぼす空間は華麗で美しくはあるが、エリシアは自分の目の前に立って凝視し続けている男から、目を離すことができない。
(なんなの、この男? 突然花嫁を怒鳴って出迎えるだなんて――――)
第一、自分は宰相家の娘なのだ。いくら望んだ結婚ではないからとは言っても、元帥家だろうと軽んじることはできないはずなのに――。
ごくりと、唾が嫌な音をたてて喉を流れていく。
見つめる緑の瞳は、エメラルドの美しさをたたえながらも、まるで研がれた剣のようだ。
(怒っている?)
だが、相手はじろりと見たエリシアから急に目を逸らした。
威圧的な瞳がなくなったことで、やっとハッとする。
「申し訳ありません。途中で化粧を直していたので、遅くなりました」
たとえどんなに無礼な出迎えだとしても、式の開始に遅れたのは、やはりエリシアが悪い。だから、急いで身を折って謝罪をしたのだが、レオディネロ大公爵はふいと顔を逸らした。
「お互いに――天災などの国難であえぐ民を、これ以上苦しめないための結婚だ。とりあえず、式の間、俺の側に従って歩いてくれれば、それだけでいい」
「――わかりました」
お互いに、権力闘争を起こさないための政略結婚。
理解していたはずなのに、改めて夫となる人の口から告げられると、また気分が沈んでくる。
(わかっていたわよ! 私だって、こんな結婚したくてするわけじゃないもの!)
口の中で叫ぶが、なんだか泣きたい気分だ。
どうして、こんなに惨めな結婚式を挙げねばならないのか――。
出そうになる溜め息を必死に押し殺したが、側で待っていた神官は、二人が揃ったので、式を始められると判断したのだろう。
扉の側に立つ神官が、左右から文字めいた装飾が彫られた白い扉を開けると、中からは一斉に音楽が押し寄せてくる。
荘厳な音色だ。神殿に属する合唱団が祝福の歌を歌い、アーチ型に作られた天井へ高らかにパイプオルガンの音を響かせていく。
柱ごとに彫られているのは、この神殿で祀る神に仕えている妖精なのだろう。人々の運命を定める主神デェステーニを讃えるように、壁で踊り、柱で舞いながら、訪れた人々への祝福を表している。
だが、聖堂の中で埋まる人々の中央を歩く度に、エリシアの足取りは重たくなってくる。
「おめでとうございます!」
「どうかお幸せに!」
普段から交流のある貴族たちの声も幾つか聞こえてはくるが、大半は歩いてくるエリシアと花婿の姿を見て、ひそひそという声を囁き交わしている。
「ふん。この国最高の完璧な令嬢といわれても、哀れなものですな。婚約者に捨てられたうえに、とどめのように別の結婚を押しつけられるとは――」
「しかも、それがご自分の親友に婚約者を取られて、でしょう。私だったら、とても恥ずかしくて、こんなに堂々と、すぐにほかの人と結婚するなんてできませんわ」
「まあ、残念ながら、友とするお人を見る目はなかったということですわよね。王妃なんて責務は負わずにすんで、かえってよかったのではないかしら?」
くすっと笑いながら扇の陰で囁かれる言葉に、体が震えてきそうになってしまう。
(悔しい、悔しい、悔しい――――!)
なぜ、自分がこんな言われ方をされなければならないのか。
(なによ、私が殿下に恋をして、レヒーナを信じたのが悪かったというの!?)
人を見る目がない――――確かに、今になってみればそうだろう。自分を欺いていた二人を心から信じていたのだから、なにを言われても仕方がない。
(だけど、私はただ二人を信じて、この日を待ちわびていただけだったのに――)
「それにレオディネロ家も堕ちたものだ。先代の時は、王家に並ぶと言われたのに、先代がなくなって代変わりした途端、王家のお下がりを妻として押しつけられるとは――」
小さな声だが、確かに耳に届いた。
(お下がり――――!)
そうか。かつんと壮麗な床を踏んで、神の前に達した足が、今聞いた言葉に自然と止まる。
(今の私は、そう見られているのね……)
婚約破棄をされて、王子のお下がりとして押しつけられた妻。ならば、どんなに自分が王子の婚約者だった過去を捨てて、新しく人生を出発したいと考えても、きっとこの花婿には迷惑な話だろう。
(それならば、さっきの態度だってわかるわ……)
どうして、こんなことになってしまったのか。
お下がりの妻。そう言われる今、この結婚に愛を求めるのは、きっと贅沢な話なのだ。
(私はただ、フェルナン殿下に恋をして、一緒に生きていきたいだけだったのに――)
叶うのならば、ずっと夢見ていた結婚式のこの道は、フェルナン王子と一緒に歩きたかった。親友に祝福されて、幼い頃から恋していた彼と、一生添い遂げる誓いをする。
(ただ、それだけを望んでいたはずだったのに……)
なのに、今傍らには、自分を愛しておらず、ただ王命で妻に迎えようとしている夫がいる。
足を止めて、見上げた神の像に、すっと涙がこぼれ落ちた。
今となっては、どうしてこうなってしまったのかがわからない。
だが、隣で一緒に足を止めたラウルは、一瞬エリシアの顔を見ると、始まった神官の言葉で前へと向き直った。
「花婿、ラウル・オルキデア・レオディネロ」
ラウル――。そういえば、大公爵は、そんな名前だったような気がする。そして前に立つ神官は、エリシアのほうを向いた。
「花嫁、エリシア・マルガリタ・バルリアス」
手をかざす神官は、おそらく三十代ぐらいか。結婚式は、事前に神殿へ申し出て、古からの誓約の形にしてもらったから、これに同意して、互いに指輪を交換すれば、あとはもう奇異の目には晒されないですむはずだ。
「両者、運命を司る主神デェステーニの名にかけて、互いを伴侶とし、苦しむとき幸福なとき、全てを共に歩いていくと誓うか」
「ああ」
「はい……誓います」
一瞬口の中が干上がったように感じた。唇が震えたが、公爵に続いて小声で返す。形通りの返事でしかないが、これであとは指輪の交換をすれば、もうこの場に立ち続けなくてもすむはずだ。
一刻も早くこの場から消え去りたい。なのに、神官はにやりと唇の端をつり上げた。
「では、誓いのキスを――」
「えっ!?」
驚いて俯いていた顔を上げた。
(どうして!?)
この結婚は、お互いに満足に話したこともなく、碌に顔さえ合わせたことがないまま進められた。
ましてや、双方の家柄の関係上、呼ばなくてはならない貴族たちから好奇の目で見られるだろうと思ったからこそ、あえてキスの誓いの形式は避けたのに――。
(まさか、お父様からの話がうまく伝わっていなかったの!?)
驚くが、参列席からは、つい先日まで王子の婚約者であった自分が、ほかの者と公然と人前でキスをするのか、下劣な眼差しで、興味津々に見つめられている。
(どうしよう。間違えてますと式の途中で言いだすわけにもいかないし……!)
しかし、その瞬間ハッとした。目の前に立つ神官の口元が、にやりと歪んでいることに!
急いで周りを見れば、奥に指輪を用意して立つ神官や神殿仕えの者たちも、みんなエリシアを薄い笑みを刷いて見つめているではないか。
(そうだわ! レヒーナは神殿が認める水晶姫だから!)
自分たちの誇る占い姫を、なんとしても確実に王太子妃にしたいのだろう。
(だから、私にキスをさせたいんだわ!)
衆目の中で、ほかの男とキスをすれば、今さらそんな女性を王家が妃に迎えるわけにはいかない。たとえ今後なにかあってフェルナン王子とよりが戻ることがあったとしても、側室が精一杯だろう。
(だからって……! こんな汚い手を使うなんて……!)
ブーケの陰で握り締めた手がぶるぶると震えてくる。
どうすればいいのか。
身動きすらできず、固まってしまった時だった。
「断る! 武家の名門が、人前でそんな浮ついた行為ができるか!」
(えっ!?)
突然の声に、慌てて声のしたほうを見つめる。目の前に立つ神官たちの視線も一緒だ。
しかし、視線をやった先では、ラウルが憤然とした表情を隠しもせずに、鋭い瞳で神官を見下ろしているではないか。
「だいたい最初にこちらが伝えた式次第とは違うようだが、これが神殿の計らいか! もし、含むところがあるのなら、この国の軍を纏める元帥家が、ただちに相手になるが!?」
公爵の迫力に、さっきまで唇に笑みを浮かべていた神官が、慌てて両手を振った。
「し、失礼しました! ただちに正しい指輪の儀を執り行いますので!」
(私のため……?)
庇ってくれたのだろうか――。見世物のようになることを。
だから、呆然と隣に立つライトグレーの髪を見上げたが、ラウルは慌てて指輪を用意している神官を眺めてから、そっと一歩だけエリシアに近づく。
そして、息がかかりそうなほどの距離で囁いた。
「どうせ、王から命じられた形式だけの結婚だ。あまり、悩むな」
形式だけの結婚――その言葉に、エリシアの中で、膨らみかけていた希望が、ぐしゃっと潰れたような気がした。
「はい……」
(形式だけ……。そうよね、やっぱり……)
押しつけられたお下がりの妻と、結婚したい人などいるはずがない――。
きっと愛するつもりもないのだろう。
だから、エリシアは薄く唇を噛みながら、今日から夫となるラウルが嵌めていく指輪の冷たさを薬指に感じていた。




