第33話 現れた本
まさか、レヒーナの水晶玉が、本に通じているとは思わなかった。
手足を灰色の文字の妖精に捕らわれた姿で、エリシアはごくりと息を呑む。
「ねえ、見て……エリシア……」
そう言いながら、レヒーナが側へと近付いてくる。ただ、今度は、両手の中に水晶玉を持った姿でだ。その中には、前世で友人から貸してもらったのと同じ本の姿が浮き上がっている。
「これが、神様が私に運命を教えてくださる書なの。いつも、必要なページしか見れないのだけれど……」
そう言いながら、レヒーナは足を止めたエリシアに、ホッとした顔で近付いてくる。
「本当は、お告げの時にしか見せてはいけないの。だけど、エリシアとフェルナン殿下は特別だから」
そう言いながら、目の前に差し出された水晶玉の中に浮かび上がっているのは、間違いなく『救国の獅子伝』だ。
「それでね、このページを見て。私とフェルナン殿下がエリシアに頼み込んで、それに協力してもらう姿が描かれているでしょう? このとおりにならないと、この世界が崩壊するらしいの……」
言われて水晶玉の中の本を見つめれば、そこにはたしかにこちらの言葉で、悪妻エリシアがふたりからの甘言に頷いて、泣いている姿が描かれている。
「エリシア……、この本でこんなふうに書かれるほど、レオディネロ家で辛い思いをしていたのね。でも、大丈夫よ。これからは、私たちが側にいてあげるから。また、前のように三人で仲良く過ごしましょうよ」
そう囁く姿は、昔と同じ儚げで美しいものだ。
だが、その言葉が意味することをエリシアはよく知っている。
「嫌よ! だいたいそれは、本の中のエリシアで私ではないわ!」
腕を思い切り引っ張って、なんとか妖精に捕らわれた状態から抜け出せないかともがいた。
「だいだい、世界が崩壊すると言うけれど、レオディネロ家を裏切れば、私は死ぬことになるのでしょう!?」
「まあ――そんなことはないわ。神様はいつも正しい道をお示しになっていますもの」
「そうだぞ。それに僕たちと王家で守ってやる」
(嘘ばっかり!)
本がレヒーナをなんと言ってそそのかしているのかは知らない。だが、これは世界の崩壊を止めるためと言いながらも、本が物語の筋を守るために行っていることだ。しかも、その最終的な目標はラウルを王にして、現在の王家を倒すためのものなのに。
知らずに信じている目の前のレヒーナに叫んだ。
「そんなことは信じないわ! そのとおりにしたら、神の思い通りにはなっても、私もあなたたちも破滅するわよ!」
「まあ――困ったわ。みんな水晶姫の私の占いは信じてくれるのに……。まさか、エリシアが信じてくれないだなんて」
「当たり前よ! 第一、私はラウルを裏切ったりなんかはしないわ、絶対になにがあっても!」
本で描かれているエリシアは、エリシアであってエリシアではない。それはただの筋書きどおりに書かれたキャラクターで、生きている自分とは別だからだ。
目を閉じれば、今でも、ラウルが馬に乗った時に、落ちないように自分を抱えてくれた腕を思い出す。
『君は、俺を好きになったと言ったが、本当にいいのか?』
部屋を同じにする話が出て、実際に改装を急がせる時にも、エリシアを傷つけないようにしたいと尋ねてくれた。エリシアが大切だから、時間が必要ならば、もう少し待っても大丈夫だと――。
そう言ってくれた言葉に、赤くなりながら返した。
『ラウルも、私と夫婦になってもいいと思ってくれているのでしょう?』
それならば大丈夫と答えると、とても優しくキスをして、愛おしそうに見つめてくれた。
それを思い出せば、どうしてもここで頷くことはできない。
「私は、今ではラウルのことが好きだもの。だから、絶対に本のとおりにはなったりしないわ!」
その瞬間、レヒーナの手の中で持っていた水晶玉が眩しく光った。
そして、中からいくつもの文字をベールとして纏ったひとつの白い人影が浮き上がってくる。
「レヒーナ」
そして、荘厳な声で命じた。
「その娘、役割エリシア。言うことを聞かぬのならば、殺してしまえ」
「なっ――!」
叫んだのは、エリシアとレヒーナとが同時だった。
「エリシアのこの世界での役割は、レオディネロ公爵ラウルの心に生涯消えない傷を与えることだ。ここでレヒーナの言葉に頷かないのであれば、世界の崩壊を止めるためには、それしかない」
それと同時に、一体の妖精が、長い剣のような姿へと変わる。
そして、レヒーナの水晶を持っているふたつの腕の上へと空中を浮かびながら下りてきた。
「エリシアを――殺す?」
その瞬間、レヒーナの顔が叫ぶように変化した。
「待って、それだけは……!」
「そうでなければ、この世界の崩壊は止められない。今まで、世界が破滅しないように頑張ってきたのだろう?」
「それは、そうですが……。私がフェルナン殿下と婚約すれば、すべてが良い方向に行くというお告げだったはずではありませんか」
それなのに、どうして――と叫ぶ言葉に、神はベールの奥から答えてくる。
「ああ、おかげで最初の流れは良い方向にできた」
だが、と神は続ける。
「その娘のせいで、おかしくなった。その娘がお前たちに協力しなければ、ふたりとも世界とともに破滅するぞ?」
「嘘よ!」
その本の言うとおりにすれば、最終的には、レヒーナもフェルナン王子も王家側としてラウルの敵になるはずだ。
破滅フラグは、フェルナン王子とレヒーナも呑み込んでいくはずなのに――。
「ダメよ、その本の言うとおりにしては! それをすると、あなたたちの未来も――」
だが、その瞬間一匹の妖精がエリシアの口へと巻き付いてきた。まるで、真実を話させまいとするかのように――。
「役割エリシア、なにを知っている?」
ぎらりと水晶から出た神の目が光る。
「お前はただ決められたとおり、ラウルの心で一生の傷となればいいのだ。定められた運命にしたがい、ラウルを裏切るか――」
それには、必死で首を横に振って拒否の意思を示す。
「そうでなければ、ここで死んで世界の崩壊を食い止める礎となれ」
そう話すと、出てきた水晶からレヒーナを見下ろしている。
「やれ。ここで殺さなければ、その娘に、レオディネロ家を裏切るように勧められたと報告されたお前たちも一緒に破滅するぞ?」
(違う! ここでエリシアを殺せば、結局はラウルの怒りを買ってフェルナン王子たちも破滅する!)
どちらにしても同じだ。結局は、本の望むとおりなのに――。
だが、その言葉に、レヒーナは空中で浮かんでいる剣を掴むのを拒むかのように、ひたすら首を横に振り続けている。
「エリシアを殺すなんて――!」
そして、涙を浮かべながらこちらを見つめた。
「お願い、エリシア! 頷いて!」
それでも、水晶に逆らうという考えは、レヒーナの中にはないのか。動けないまま縋るような瞳をしているレヒーナに、フェルナン王子がその前から剣を取り上げた。
「貸せ!」
そして、エリシアに向かって振りかざす。
「エリシア! 僕も幼い頃から知っているお前を殺したくはない。だから、僕のために頷け」
相変わらず身勝手な言葉だ。それで、どうしてエリシアが彼の望むとおりにすると思うのか。
「そうでなければ、レオディネロ家にエリシアを離反させようとしたのを知られないために、お前をここで殺さなければならない。破滅を止めるために、頷け、エリシア!」
なんて勝手な言い分だろう。まさか、自分のためならば、かつての婚約者であるエリシアに向かってでさえ、こんなにも簡単に剣を振り上げるだなんて――。
たとえ武門派でもありえないことだ。
(こんな人を好きだったなんて――!)
「僕のため」と言えば、エリシアがなんでも頷くと思っている。きっと世界のためにというのも、彼にとってはそれが得だったからだ。
だが、王太子の彼にすれば、武門派を脅して言うことを聞かせるのが目的だったのに、まさかエリシアから、裏切りを唆したと報告されて、逆に自分が糾弾されるかもしれない窮地に陥るとは思わなかったのだろう。
「頷け! それだけが、お前と僕らの破滅を食い止めて、全員が幸せになれる唯一の方法だ!」
そう叫ぶと、フェルナン王子は、剣を高々と振り上げてくる。
(違うわ! それは、本が私たちを破滅させるために、操ろうとしているのよ!)
このまま本の描く筋書き通りになるしかないなんて――! 絶対に嫌だと、首を横に振り続ける。
「まだ僕に逆らうのか!」
苛立ったフェルナン王子が剣を高く持ち上げた。
(ラウル!)
こんなことならば、もっと好きだと伝えておけばよかった。たとえ、ここでフェルナン王子に殺される展開でも、レオディネロ家に嫁いでラウルの妻になったことは、エリシアの人生の中でも最大の幸せだったのだと思い出してもらえるように。
これから訪れるエリシアの死で、彼が王家を憎んだとしても、ラウルの心の中の傷が少しでも小さくなるように。
たくさんのありがとうと好きを伝えておけばよかった――。
「頷け、エリシア! お前が生きるために、これからの人生を僕のために捧げると!」
その言葉とともに、妖精の変化した剣が降ってくる。
だが、首を横に振り続ける。
「やめて、フェルナン殿下!」
レヒーナが横で叫びをあげた。
「頷いて、エリシア!」
そのまま肩から切られると思ったところで、すさまじい音が後ろから響いた。
「何事だ!?」
ハッとして手を止めた王子の視線の先を見つめれば、そこでは扉を破って、多くの騎士たちが駆け込んでくるではないか。
その中央にいる肩で息をしている人物に目を見開いた。
「ラウル!」




