第26話 扉越しの想い
慌てて扉を閉める。
バタンという扉の音と、ラウルが部屋の前に駆けつけたのとは、ほぼ同時だった。
「エリシア、開けろ!」
ドンドンと扉が激しく叩かれる。
(なんで、ラウルがもう帰ってきているの!?)
つい先ほどマルティナのために、アギレラ将軍に決闘を申し込んでいたばかりだったのに。
(普通こういう場合、決闘を申し込んだ相手と戦っているか、その決闘の対象となったマルティナとさらなる愛を育むために、言葉などを交わしている場面ではないの!?)
それなのに、どうして物語の中での悪役エリシアを追いかけて、その扉を開けさせようとしているのか――。
どうしたらいいのかわからなくて、扉の側で棒立ちになっていると、やがて激しく叩いていたラウルの拳が、その動きを止めた。
「エリシア」
聞き間違いではない。はっきりと、ラウルがエリシアの名前を呼んでくれている。
そして、打ちつけられるのをやめた拳が、そっと扉に添えられるような気配がした。
「悪かった――」
「え?」
(――なぜ、今急にラウルが謝っているの?)
思わず自分の耳を疑ったが、扉の向こうにいるラウルは、静かに、まるで俯きながら話しているかのようにぽつぽつと言葉をこぼれさせてくる。
「お前の側を突然離れて――。そのせいで、突然来た王太子たちに、ひとりで対峙しなければならなかったと聞いた」
(ああ……そのこと……)
自分を裏切ったフェルナン王子とレヒーナに出会って話したことは、ひどくショックな出来事のはずだ。それなのに、今は不思議なほどそのことを思い出さなかった。
――心を占めていたのは、ただラウルとマルティナの関係だけで。
だから、静かに扉の向こうへと声を返す。
「それは、ラウルのせいではありません」
泣いていたせいだろうか。それをばれたくはないのに、エリシアの声は少しだけしわがれている。
「イサギレ将軍夫妻すらご存じないことだったのです。フェルナン殿下たちは、夜会の招待状を詐欺にも近い形で手に入れたと話していて――」
そんな入手方法をされたと知れば、主催の将軍夫妻だって、本当はお帰り願いたいところだっただろう。ただ、王子という身分に、それができなかっただけで――。
だから、静かに話した。けれど、そのエリシアの様子に、ラウルは扉の向こうで悔しそうな声を滲ませている。
「いや、それでも俺がお前の側を離れなければ、ひとりで王子たちと話す必要はなかったはずだ」
ぐっと唇を噛むような間があいた。
「マルティナとのことも、いろいろ言っていたと聞いた。たしかにマルティナは、幼い頃から俺の近くで一緒に育ってきた。仲が良かったこともあり、周りも――俺もずっと共にいるのだろうと思っていた相手なことは事実だ」
控えめに、「俺も」と添えられた言葉に、本では知ってはいても、やはりと心が愕然とする。
ふらっと眩暈がしそうになった。
「だが、今日のことは、王子たちが言っていたと聞いたそういう意味ではなかったんだ。マルティナには――俺ではない、ずっと好きな男がいて。その相手の母親が文官派の出身なせいで、父親のアギレラ将軍から結婚を反対されていたらしい」
「えっ!?」
本には書かれていなかった内容に、背中を張り付けていた扉を振り返って、思わず声が出た。
「その男の母親は、文官派出身ということで、両家門の反対を押し切っての駆け落ち同然の結婚だったそうだ。当然、ふたりの間に生まれたその男も家門内での扱いが低く、アギレラ将軍は娘をそんな男と結婚させるわけにはいかないと、マルティナの恋に頑なに反対していたそうなのだが――」
扉の向こうで、一瞬ラウルが考えこんだように言葉を止めた。
「俺も、武門派の長としては、その考え方は理解できる。反対勢力の出身ならば、その親子がスパイに利用されないかと将軍が警戒するのも当然だ。だが、毎日頑張っているお前の姿を見ていて……俺も考えが変わったんだ」
「ラウル――」
「出身が文官派だから、武門派だから――それだけで判断してもいいのだろうかと」
聞こえた言葉に、エリシアは瞳を開いて扉を見つめた。
「君は――意に添わない結婚で、文官派から武門派の長である俺に無理やり嫁がされたのに、こちらの家風に馴染もうと毎日必死で頑張ってくれていた」
(それは――破滅をしたくなかったから……)
そのはずなのに、聞こえてくるラウルの声に体を動かすこともできない。まるでひと言も聞き漏らしたくはなくて、体のすべてが耳になってしまったかのようだ。
「そんな君の姿を見ていたら、文官派出身だから――ということで判断している自分が、ひどく愚かに思えてきた。必要なのは、今目の前で頑張っているその相手の姿で、それをありのままに捉えることではないか――。君が、毎日武門派のこの家で馴染もうとしてくれているように」
「ラウル……」
「そう思ったら、マルティナの恋人もその母親も、この武門派の中で、文官派の血をもつという逆境にも負けずに頑張っているのだと思えるようになってきた。その姿が、君と重なって――やっと、マルティナとその男の恋を応援したいと思えるようになったんだ」
「それでは、あなたがアギレラ将軍に決闘を申し込んでいたのは、マルティナとその相手の恋を認めさせるためのものだったの……?」
「ああ。君の姿を見ていたら――なぜだろう、他人事には思えず、彼らを応援したくなった」
「で、でもそれであなたはいいの? さっきも、あなたはマルティナと――将来も共にいるのだろうと思っていたと言っていたのに」
突然のラウルの言葉に戸惑いながら尋ねると、少しだけ苦笑を交えたような声が返されてくる。
「たしかに、俺は、最初マルティナに好きな人がいると聞いて戸惑った。だが、よく考えてみれば、自分たちは、なにかを約束したわけでもない。ただ、あまりにも小さい頃から一緒にいたので、周囲が囁くまま、そうなるだろうと考えていただけだったんだ」
だから――とラウルが、こちらへと真っ直ぐに声を伝えてくる。
「俺は――結婚して、敵地にも等しい場所で、雄々しく生きていこうとしている君の姿を見て、同じように前を向いて生きていきたいと思えるようになったんだ」
「ラウル」
「今さらかもしれない。だが、俺は、これからは君と夫婦として生きていきたいと思う」
信じられない言葉だった。
思わず目を大きく開いて、扉の向こうをジッと見つめる。
「いいの……? 私は、押しつけられたお下がりの妻よ? ラウルにしたら……嫌っていてもおかしくはないのに……」
声が震える。それでも、喉から絞り出すと、扉の向こうで、わずかに慌てた気配がした。
「結婚式の前後の不調法は詫びる。たしかに、突然の縁談過ぎて、俺も心の用意が調っていなかったのは事実だ。時間的にも余裕がなくて――披露宴の時間すら手配できなかったのは、間違いなく俺の落ち度だ。そのせいで、君が陰であんなにひどいことを言われていたのにも気づかなかった」
(ラウル……)
では、やはり今日の披露目は、昨日の女性たちの暴言を耳にしたからだったのだ。
「だが、俺が君に対して、結婚後も妻の役割を求めなかったのは――」
扉の向こうから続いた言葉に、それが、今に至るまで完全な夫婦にはなっていないことだと気がついて、エリシアは声のほうを見つめながら、体を堅くした。
「……結婚式の時に、横で泣いていた君があまりにも痛ましかったからだ……」
「あ……」
好きな男に捨てられて、親友にも裏切られて迎えることになった結婚式。あの時、神殿で止まらずに流した涙を、隣にいたラウルはどんな気持ちで見つめていたのか――。
「心がぼろぼろになっている君を、これ以上政略のためにという理由で、踏みにじるような真似はしたくはなかった……」
その言葉に、扉の向こうをジッと見つめる。
「国のために碌に話したこともない敵派閥の男に嫁がされるだけでも、君にとってはひどく辛いことだっただろうに。同じように政略のためだという理由だけで、傷ついている君の体まで、意に添わない形で蹂躙するような行為はしたくはなかったんだ――」
「――ラウル……」
(そうだわ……。私は自分に起こった出来事になんとか対応するのに必死で、考えつかなかったけれど……)
恋人と親友に裏切られたせいで、気持ちを通じ合わせたわけでもない男に義務として身を任せなければならないのは、いくら心を決めたとはいっても、辛い行為になっただろう。
あの結婚式の日――ラウルは来なかった。でも、来ても、碌に話したこともないあの日の状態では、同じくらいむなしくて、苦しい思いだけを味わうことになる夜だったのだ。
それを悟り、かちゃりと扉を開いた。
「エリシア――」
見れば、ラウルは扉の向こうで少しだけ目を赤くしている。だから、かすかに微笑んだ。
気づかなかった優しさに、ありがとうという意味をこめて。
思い返してみれば、嫁いできた日に武門流ではない出迎えでメイドたちが待っていてくれたのも、翌日の朝、食事の時間になっても起きてこないと思ったエリシアを咎めなかったのも、この人の優しさだったのだ。
だから、目を潤ませながらまっすぐにラウルを見つめた。
「私は――いまは、あなたと生きていく覚悟が定まっているわ。だから、そんなふうに言われたら……とても嬉しくて……これから一生あなたの側にいるわよ。いいの?」
目に涙をためながら尋ねると、ラウルも笑いながら返してくれる。
「ああ。君の将軍にも劣らない敵地への切り込みの度胸の良さは見させてもらったからな。それならば、俺も武門の長として、その雄々しさに負けないように付き合おう」
返された軽口に笑みがこぼれてくる。
ついで伸ばされてきた腕に抱き締められた。なんて、幸せなのだろう。今まで男の人に抱き締められて、こんな気持ちは味わったことがない。
(ああ――そうか。私、いつのまにかこの人の腕が、とても温かくて頼りになると感じていたんだわ……)
強くて、いつでも真っ直ぐにエリシアを見つめてくれる人。
腕の温もりを感じていると、先ほど、どうしてあれほどマルティナとのことが悲しかったのかがわかってくる。
(私は、ラウルに恋をし始めているのだわ……)
まさか、もう一度自分が恋をする日がやってくるとは思わなかった。だから素直に口に出す。
「私――あなたを好きになり始めているみたいなの……」
だから、マルティナとのことが悲しかったのだ。
でも、ラウルがエリシアの姿を重ねて、マルティナの恋を応援していると知ってからは、彼女に対しての気持ちも変わってきそうだ。
「それは、困った。俺はどうやら、もう君が好きみたいなのに――」
抱き締められた腕の中で告げられた言葉に、ぼんと頬が赤くなってくる。
「君が悲しそうだったら、俺は気になって仕方がない。それに、笑っている明るい姿を見ていると、心が温かくなってくるんだ」
「なっ――それは……!」
焦って思わず言葉が出てこない。
「これで、攻守逆転だな。先に攻撃したのは、君なのだから、反撃は倍以上のを覚悟しておいてくれ」
「そ、それは――そんなところで元帥のプライドを見せなくても……」
(あれ? まさか私が焦る立場になるなんて)
どうしよう。ラウルを溺愛に持ち込んで破滅フラグを回避するつもりだったのに、実際にそうなると、どういうふうに返したらいいのかがわからない。
「エリシア」
赤くなっているエリシアの頬を、そっとラウルが両手で包んでくれた。
「泣いていたのは、君が俺を好きになりかけているから……だろう?」
「うっ……」
違うとは言えない。むしろその通りだ。
「マルティナとのことで誤解させたのは、悪かった。だが、実際俺の妻になり、俺がそう認めたのは君ひとりだ。元帥の名にかけて、決して浮気はしないと誓う」
「ラウル――」
嬉しくてたまらない。
「無理強いはしたくはない。でも、君が俺を好きになりかけてくれているのだったら、キスをしてもいいか?」
乞うように見つめてくる。きっと、今どこまでエリシアに触れてもいいのか悩んでいるのだろう。
「う……うん」
思わず口ごもったが、小さく頷いた。
すると、真っ赤になっている顔を両手で持ち上げて、唇に、柔らかくラウルが触れてくる。
少しだけ乾いているのは、先ほど焦って走ってきたからだろう。今、誰よりも近くで彼に触れていると思うと、それだけで気持ちが高揚してくる。
こんなに嬉しくてたまらないなんて――。
(ああ、わかったわ……)
重ねられる唇に、静かに心での中でひとつのことが浮かんでくる。
(私――さっき、好きになり始めていると言ったけれど……。本当はラウルのことがもう好きになっているのよ……)
だから、こんなにも嬉しいのだ。
そのことに気づいて微笑むと、唇を離したラウルへと今の気持ちを告げた。
「私……今、気がついたのだけれど、好きになり始めているのではなくて……本当は、もうあなたを好きになっているみたいなの……」
「では、俺の告白が、君の中での俺への感情をさらに一歩前進させたんだな」
かもしれないという言い方から変わったのは、持っていた不安要素が消えて、その方向性を認めても大丈夫だと思ったからだと話す顔は、すごく嬉しそうに微笑んでいるのに、話す内容はやはり元帥閣下だ。
どうやら、自分は知らない間に、今彼のした術中にはまっていたらしい。
「もう」と笑ってしまう。
それでも、見つめながら笑ってくれる緑の瞳が嬉しくて、彼の体を自分も両腕で抱き締め返した。




