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 燭台の上に据えられた、蝋燭の炎が揺めき瞬く。それに合わせて暗闇に包まれた部屋の中に、炎の明かりで映し出される仄かな陰影も揺めき、様々な表情を作り上げる。部屋の正面にある女神の石像、その慈愛に満ちた表情も、揺めく陰影によって時に冷酷な表情に変わって見えた。


 ここは、アルト村内にある教会の礼拝堂。堂内では、侯爵家に仕える騎士達がところ狭しと寝転び、静かに寝息を立てていた。

 アルト村は五十世帯、人口二百人ほどの小さな村。突然押し掛けた、大勢の侯爵家の騎士達を収容できる施設は、この教会ぐらいしかなかったのだ。

 侯爵やその家族は、教会内の奥まった一室にて休息をとれるが、歩哨(ほしょう)の任につく者以外は当然の如く、礼拝堂での雑魚寝である。


 夜半を過ぎた頃、ガウエンもまたその礼拝堂の中で休息中であった。だが、寝付くことができず、正面に鎮座する女神像をため息混じりに見上げていたのである。

 女神像の両端の壁に吊るされた燭台の微かな炎の灯りが、押し寄せる夜の闇を女神像の周辺のみ僅かに追い払っている。

 だが、時おり瞬き揺らめく明かりに、女神像は闇の侵食を許し、その際の陰影によって女神像の表情が、喜怒哀楽を現すかのように見えていた。

 それを、ガウエンは惚けた様子で眺め、心中で呟く。


 ――嫉妬の女神アミュート……。


 アトラン王国の国教は、創造神ゼムスを筆頭とする多神教の光神教。農作物で生計をたてるアルト村では当然の如く、崇拝され尊び敬われているのは、大神ゼムスの伴侶である豊穣と恵の女神アミュート。

 だが、神話で語られる女神アミュートには、もうひとつ別の顔があった。

 ある日、春の陽気に誘われ、大神ゼムスは天界から地上に降り立った。それは、ただの気紛れであったのだが、その地で見目麗しい人間の娘を見初めたのである。ゼムスと人間の娘はたちまち恋に落ち、アミュートの目を盗み逢瀬をかさねる。しかし、そのような人間との恋が許される訳もなく、二年が過ぎた頃、遂にアミュートの知れる事となったのだ。烈火の如く怒り狂ったアミュートは、その人間の娘を塩の柱に変えてしまったと、神話の中では語られている。何時もは慈愛に満ちた穏和な表情を浮かべるアミュートが、この時ばかりは悪鬼のごとき形相だったと云う。

 これが、神話の中で語られる女神アミュートの逸話のひとつである。そして、この逸話から豊穣と恵の女神アミュートは、愛憎の女神、或いは嫉妬の女神と呼ばれるようになったのである。

 このことから王国内の農村部では、春節祭の時には女神アミュートを憚って、女性は家から出ないなどといった風習がある程なのだ。

 因みに、塩の柱に変えられた女性は、その前にひとりの男の子を産んでいた。その子が、大神ゼムスの後ろ楯を得て、アトラン王国を建国する建国神話へと繋がっていくのだが。


 揺らめく蝋燭の炎の明かりが作り出す陰影が、女神像の表情を様々なものへと変える。

 ガウエンにはそれが、豊穣の女神で無く、嫉妬の女神アミュートに見えていたのだ。それは夕刻以来、心の中に生じていたわだかまりに起因していたのかも知れない。


「ふぅ……」


 女神像を見上げ、ため息混じりの息を吐き出すと、ガウエンは夕刻にこのアルト村に到着した時の事を思い出していた。


     ◇


 ガウエン達は陽が沈みきる前に、問題無くアルト村に辿り着く事が出来た。騎士達は途中の森で軍馬に乗り換え、数人は先触れのためアルト村へと先行して駆けて行く。そのためか、ガウエン達が村に到着した時、驚くことに当のアルベール侯爵本人が、教会前まで出迎えに出て来ていたのである。



 ガウエン達一行が、村の入り口で待機していた騎士に先導され、村の中央にある教会前まで行くと……。


 ――手酷い傷を受けたと聞いていたが。


 ガウエンは驚きと共に、教会前で整列する騎士達の中ほどで佇む人物に視線を向ける。


 両側から側近の者に肩を支えられ、蹌踉そうろうとした足取りで佇む美丈夫。いや、もはやよわい四十を越えようかという壮年、美丈夫と呼ぶには憚りがあるのだが、匂い立つような気品と美しさが滲み出る姿――金髪の頭髪が夕陽を浴びて煌めき風に吹かれて靡く姿は、その年齢を忘れさせ美丈夫と呼ぶしかなかった。

 ユラ達が来ると知らせを受け、無理を押して出迎えに出たのだろう。端整な顔立ちは青白く蒼白に変わり、弱々しく立つのだが、その姿さえも絵になる男である。


 荷馬車が教会前で停まると、真っ先に飛び出し駆け出したのはユラであった。慌てて侍女が後を追い掛け馬車から降りるが、その時には既に、赤子と共に侯爵の胸に飛び込んでいた。


「アルベール様ぁ……旦那様ぁ……あぁぁぁ」


 嗚咽混じりにすがり付くユラ。村に到着するまで気丈に振る舞っていたが、心中では侯爵の身を案じ苦しんでいたのだろう。最悪の場面すら、想像していたのかも知れない。それらの想いが侯爵を目にし弾け、その声にも十分に現れていた。

 ユラの勢いに侯爵は体をよろめかせ、周りにいる側近達が慌てて支える。

 侯爵は怪我が酷いのか、一瞬、傷みに顔を歪めるが、直ぐに困ったような顔で穏和な微笑みを浮かべる。指の間で髪の毛をすくようにユラの頭を撫でさすり、慈愛に満ちた眼差しを我が子トマスに注ぐ。

 その侯爵とユラの前には、ここまでユラ達を護って来たジェイクを始めとする騎士達が膝をつき、こうべを垂れる。その後ろには、ダンカン達トラッシュの兵士達も、同じく膝をつき頭をれる。皆が取り敢えず侯爵の無事な姿を認め、ほっと安堵の表情を浮かべ目を輝かせていた。

 教会前、嗚咽混じりの声を上げるユラと、困ったように宥める侯爵以外には、騎士や兵士達の纏う剣帯や鎧が「カチャカチャ」と音を鳴らすのみ。誰もが言葉を発するでも無く指示を出すでも無く、皆が当然のようにアルベール侯爵の前にずらりと居並び膝をつく。

 夕陽を浴びて煌めく騎士や兵士の鎧、その中央で赤子を抱くユラが肩を支えて佇むアルベール侯爵。それはまるで、英雄譚を模した一幅の絵画のようであった。


 ガウエンは半ば呆然とその光景に見入り、侯爵とユラから目が離せない。


 ――渇く……。


 ガウエンの胸中に、狂おしいほどの形容しがたい乾きが沸き上がる。



「困ったものだな、ジェイク。今頃は、領都まで落ち延びたかと思っていたが……」


 静かな教会前に、侯爵の貴人らしい涼やかな声が響く。どこか疲れを感じさせるものの、まだ気力が十分に残る声音であった。


「はっ、申し訳ございません。なれど、アルベール様が怪我を負ったと知らせを受け……」


「ジェイク、お前を信頼してユラと我が子トマスを任したのだが」


「侯爵様、わたくし達にも色々とあったのでございます」


 侯爵を前にして恐縮するジェイクに、横からユラが助け船を出す。と、侯爵は「ふむ」と頷き、ユラとジェイクの二人を交互に見詰め「今更、仕方ないか」と呟く。その声は、非難する言葉とは裏腹にどこか嬉しそうだった。


「おおよその話は、先乗りした者から報告は受けた。詳しい話は後で二人から聞くとして……」


 侯爵はそこで言葉を途切らせると、二人から視線を外し、荷馬車横で立ち尽くすガウエンに目を向けた。


「あちらの方が護衛士として噂に名高い、鈴音のガウエン殿かな?」


 侯爵の声に、ユラとジェイクが思わず顔を見合わす。途端にユラは目を伏せ、ジェイクは少し頬をひきつらせていた。

 そんな二人の様子に、侯爵は僅かに眉をぴくりと動かし、怪訝な表情を浮かべた。しかし、直ぐにガウエンを手招きして呼び寄せる。


「すまぬな、我が家の者が世話になり、本来は此方が出向くべきであるが、怪我の所為で少し体の自由がきかぬ」


 侯爵の言葉に促されて、ガウエンは歩を進め侯爵の前に立つ。さすがに、これだけの人が注目される中、ガウエンも無下に断る事は出来ない。例え、望んでいなくても。


 ――渇く。


 胸中に生じる乾きが、侯爵に近付くにつれ増していく。狂おしいほどに……。


 ガウエンのそんな胸中に気付かず、侯爵はにこやかに話し掛ける。


「話の粗方は聞いた。ガウエン殿が、トラッシュの街に立ち寄られたのは、我が侯爵家にとっては僥倖ぎょうこう……」


 侯爵が話し掛ける間、ガウエンは正面から侯爵の瞳を見据える。


 ――俺の事が分からぬのか……。


 ガウエンにとっては、両親を失う切っ掛けとなったいくさを指揮した男であり、そしてユラも――ガウエンの人生、運命を大きく変えた男が、アルベール侯爵なのだ。忘れるはずなど無く、この十年、常に意識してきた男でもある。

 だが、アルベール侯爵にとっては、ユラの義兄とはいえ、十年前に一度会ったきりの領民のひとりにしか過ぎない。覚えているはずなど無いのだ。


 ――あれから十年。俺も変わったが、侯爵もまた……。


 十年前も、侯爵は一廉ひとかどの人物に見えた。十年の年月を経て、改めて剣士としての目で侯爵を眺めるガウエン。

 ガウエンをひたりと見詰める侯爵の瞳には、あの師ローエンに比するほどの活力が、力が溢れていた。侯爵もまた、この十年で大きく成長していたのだ。

 ローエンが、人を遠ざける険峻な山を思わす輝きを有する瞳なら、アルベール侯爵は人を招き寄せ魅了する、何処までも深い穏やかな大洋を思わす輝きを放つ瞳。この瞳でにっこりと微笑むなら、誰もが膝をつき頭を垂れるだろう。


 ――まさに、英雄の相。


 ガウエンも、過去の因縁が無ければ膝をついていたかも知れない。そう思わせる雰囲気を纏っていた。


 だがそれは、同時に危うさをも伴う。人々を魅了するカリスマ性を発揮すればするほど、ガウエンのように反駁する者をも招き寄せてしまうのだ。人々が慕い力を結集すれば、またその者に反駁する者達も自ずと力を結集し、更に強力な反抗勢力となる。世の流れとはそのようなものである。

 侯爵家の現状は、今まさに、その流れの中にあると言えるだろう。

 もっとも、その危難を乗り越えた先こそが、英雄と呼ばれる者の居る場所なのであるが。


 ガウエンは侯爵から英雄の相を感じつつも、同時に、この男に負けぬ力を、いや、それでもこの男だけには負けたくないと、改めて渇望するのだった。それは、ガウエンの男としての意地でもあったのだ。


「……改めて私からも礼を言おう。我が愛する妻ユラと、我が嫡子トマスを救ってくれて本当に助かった、ありがとう」


 侯爵はそう言うと、深々と頭を下げたのだ。その横では、ユラが侯爵の体を支え続けていた。

 ガウエンと侯爵が会話を続ける間、ユラは一度も顔を上げようとはせず、ガウエンと視線を合わそうとはしなかった。


 ――渇く……。


 そこでようやく、ガウエンは胸中に生じた乾きの正体に気付いた。


 ――そこは……俺の居場所。


 本来なら、ユラの横にはガウエンがいたはず。今は、望んでもどれ程渇望しても、決して手の届かぬ場所。ユラに支えられるべき者は、己れであっとはず。ガウエンは、その想いを抑えきれずにいた。

 胸中に生じた狂おしい乾きと共に、黒く禍々しい感情が渦を巻く。


 ――そこは、俺の場所だぁ!


 ガウエンはそう叫びたかったのだ。

 しかし、寄り添う二人から、ガウエンはそっと視線を外すだけだった。


     ◇


 結局その後は、よろめき倒れそうになった侯爵を、皆が慌てて教会の奥の一室に運んだのだ。

 手酷い怪我を負っていたのにも拘わらず、やはり侯爵はかなりの無理をして出迎えていたのだろう。それは、ユラや皆に自分の無事な姿を見せて、安心させてやりたかったのかも知れない。


 ユラやジェイクは、侯爵と一緒に奥の部屋に隠り、ダンカン達トラッシュの兵士達は村の周辺を警戒している。


 ガウエンは女神像を見上げ、「ふぅ」ともう一度ため息を吐き出す。


 ――もう、十年も前に終わった事。


 今更、取り返す事も、戻る事も出来ないのだと、ガウエンは自分に言い聞かせていた。

 その時、ふわっと蝋燭の炎が大きく揺れた。


 ――ん?


 外からすきま風でもと、ガウエンは振り返る。

 そこでようやく、異変に気付いた。

 周囲で休息する騎士達の寝息が、長く深いものに変わっているのだ。

 騎士達はいついかなる時も、一旦、何か事が起きると、直ぐ様跳ね起き即座に対応する。そのような訓練を受けているはず。しかも、ここにいるのは精強を誇る侯爵家の騎士達。それが、今のような侯爵家の危難の時に、このように油断したかのように、熟睡するなど有り得ない事なのだ。

 ガウエンは不審に思うと同時に、空気中に漂う微かな甘い匂いを嗅ぎ取る。


 ――これは、春眠香。


 春眠香とは、スピリン草を干して粉末にし、練り香の中に混ぜて香炉で焚き上げたもの。元々、スピリン草とは食虫植物として知られており、花弁から発する匂いで虫などを眠りに誘い、体内に取り込むのだ。そのため、睡眠障害を患う者への処方として、医師の間では良く使われる薬草であった。

 その名が示す通り、春の麗らかな陽射しの中でうたた寝するが如く、人を眠りへと誘うのである。起きている人間が、突然ばたりと倒れて眠るほどの強力な薬効は無いが、就寝中の者を更に深い眠りへと誘う程度の薬効はある。薄い香りと手軽に扱える事から、盗賊などが良く用いる事でも有名なのだ。


 ガウエンの師ローエンは、常々こう言っていた。


「剣士たるもの最も気を付けねばいけないのは、毒殺である」


 剣士は、どこで恨みをかっているか分からぬ故、身辺を常に気を付けねばいかぬ。最も恐ろしいのは、知らぬ間に毒を盛られる事だと、ローエンはガウエンに教えていたのだ。

 実際、剣で名を成した者の中にも、毒を盛られて命を落とした者が数多くいた。

 だからガウエンも、師ローエンと山野に起き伏しを共にする間、毒に付いての知識や対処法を、嫌というほど叩き込まれていた。その中には、山野に自生する薬草全般も含まれていたのだ。

 実際、経験と耐性を少しでも得るためと、少量ではあるが、毒草を食べさせられた事があるほどだった。

 それ故に、微かな春眠香の甘い匂いに気付いたのである。


 ガウエンが振り向いた視線の先で、入り口の扉がスゥと、ゆっくりと開く。そのすき間から、黒装束を纏った男の頭が、中を窺うように差し込まれる。


 その刹那、ちらりと女神像へと視線を向けるガウエン。

 それは一瞬の気の迷い。

 胸中に生じる禍々しい感情が囁く。こやつらを使って侯爵を――だが、すぐにそれを打ち消す。

 それこそ、ユラを悲しみ底へと落とす事になるのだから。


 一瞬で迷いを断ち切ると、ガウエンは音も立てずに入り口に向かって疾駆する。

 そして、声高に叫ぶ。


「敵襲だぁ!」


 その声と同時にガウエンの太刀が、黒装束の男の頭頂部から顎先まで切り裂く。

 そして、振り返ったガウエンの視線の先では、嫉妬の女神アミュートの顔が、怒りとも哀しみともとれる表情に見えていた。



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