14
それは昔、十年よりもっとずっと前の、ある日の昼下がりの事だった。
「今日はプディングを作ったから、皆でお茶でもしましょう」
養母の呼び掛けに、外でユラと遊んでいたトマス(ガウエン)は、二人して居間へと喜んで駆け戻る。
しかも、今日は――
二人が席に着くと、テーブルの上を眺めて「うわっ!」と、歓声を上げて目を丸くした。それは、テーブルの上に卵と牛乳と砂糖を使って焼き固めた、子供達も大好きな一番甘いプディングが大皿に盛られていたからだ。
低層民街で住み暮らすトマス(ガウエン)達には、甘い食べ物など滅多に口に入る事など無い。ましてや、貴重な砂糖をふんだんに使うプディングなどは、言わずもがなである。
それに、今日は珍しくも、殆ど休むことも無く露店を営む養父までもが昼日中から家に居て、一緒にテーブルを囲んでいるのだ。
トマスが不思議に思っていると、横に座るユラが首を傾げて疑問を口にした。
「お母さん、今日は何かあるの?」
それに、答えたのは養母ではなく、にこやかに笑う養父マーカスであった。
「はは、今日はこの地を治めるアルベール侯爵様の誕生日にあたられる日でな、今年からは祝日となったのだよ」
それは、侯爵家の政策の一環であった。
トラッシュの街は元が王家の直轄領でもあり、侯爵自身が現王弟でもあったため、領民からは未だ直轄領だった時の気分が抜けきらない。
後の事を考え、侯爵の誕生日を領民の休息日と定め、この日は家族が家で過ごす日とし、やむを得ない職場を除き働く事を禁じたのである。その代わり、様々な施しも各所で同時に行われていた。
こうして領民が侯爵の誕生日をこぞって祝う事によって、今は侯爵領だと強く認識させる狙いがあったのだ。
その当時のまだ幼いトマス(ガウエン)には、そんな事とは知るよしも無かったのだが。
「しかし、休息日のお陰で、今日の稼ぎをふいにしたなぁ。侯爵様はその日暮らしの貧乏人の事が、何も分かっておられぬ」
養父マーカスはぶつぶつと文句を言ってるが、久々の休みに一家団欒である。言葉とは裏腹に、その表情は緩みっぱなしに綻んでいた。
「たまには、良いじゃないの。家族が揃って一日家に居るのも、そうねえ、来年は家族で何処かに出掛けても良いかもね」
養母も笑ってそんな事を言う。
トマスにとっては、久方ぶりに聞く侯爵の名前。一瞬、心の奥底にちくりと痛みが走る。しかし、そんなささくれ立つ感情も、ユラ達家族が放つ暖かな温もりに包まれ、和らぎ薄らでいく。
だからであろうか、ユラ達家族に引き取られた当初は、笑わない少々鬱屈した少年であったトマスだが、数年経つ今では、ようやく笑顔を見せるようになっていたのだ。
とはいっても遠縁とはいえ、ここは他人の家。トマスは感謝しながらも、遠慮がちにプディングを口に運ぶ。
と、そこで……。
「お母さん、もうプディングは無いのぉ?」
トマスがゆっくり咀嚼して味わってる間に、食いしん坊のユラは自分の皿に取り分けていたプディングを、あっと言う間に平らげていたのだ。
「あらあら、そんなに食べると、将来は太ってしまうわよ。そうなると、良い人に振り向いてもらえなくなるわね」
養母はにこやかに笑ってそう答えるが、ユラはむっと頬を膨らませている。
「良いもん、ユラは大人になったらトマス兄様のお嫁さんになるもの!」
ユラの突然のお嫁さん宣言に、思わず吹き出しそうになるトマス。
そんなトマスに、ユラは眉尻を下げ悲しそうな表情で尋ねる。
「トマス兄様は、ユラが太ったら嫌いになる?」
「ん……いや……そ、そんな事は無いけど……」
しどろもどろに返事するトマスであったが、まだ半分も食べていない自分のプディングを切り分け、半分をそっとユラの皿に乗せる。
それが、トマスの答えだった。
「嫌いにはならないけど、やっぱり食べ過ぎは健康に悪いから、今日はこれで我慢しろよな」
少しぶっきら棒に言うトマスを、ユラは自分の皿と交互に見比べる。
「トマス兄様、良いの?」
トマスが頷くと、ユラが嬉しそうに満面の笑顔を見せる。
「兄様、ありがとう。ユラはねぇ、兄様が、だぁい好きぃ!」
たちまちトマスは顔を真っ赤にして、照れた様子でそっぽを向く。
そんな二人を、養父母は微笑ましく眺めていた。
それは、ガウエンがまだトマスと名乗っていた頃。父と母の死によって落ち込んでいたガウエン(トマス)が、ようやく立ち直ろうとしていた在りし日の出来事だった。
◇
この十年、ガウエンは過去の思い出を心の奥底に追いやり、心身を鍛えてきた積りであった。
だが、それでも、その思い出は何かの折りに、ふと脳裏に浮かび夢になって現れる事がある。その度に、ガウエンは心が引き裂かれそうになり、忸怩たる思いに囚われてしまう。
人には、失って初めて分かる心の痛みがある。
ガウエンは、それを理不尽な力によって、二度も味わったのだ。
両親の死と、そして……。
度重なる痛み、それ故に、ガウエンの過去の想いは妄執に近い形になっていたのかも知れない。
目の前に座る女性を眺め、ふと、過去の思い出が脳裏に浮かんでしまう。そして、過ぎ去った時をも感じてしまうガウエンであった。
先ほどまでハンスと言葉を交わしていたテーブルに、今度は片方にはガウエンとハンスが座り、もう片方には侯爵家の騎士団の団長を務めるジェイクと名乗る騎士と、今はベールを取り払った妙齢の女性が座っていた。
その女性は赤子をその腕に抱き締め、愛おしげに見詰めあやしている。
長い艶やかな黒髪を垂らし、人形のような整った顔立ちに、ほっそりとした体つきながら、出るべき所にはしっかりと肉が付く。かつては、その美しい姿は、まるで妖精かのように感じたが、今は昔の面影を残しつつも、どこか妖艶さを感じさせる大人の女性へと成長していた。
――ユラ……。
込み上げる想いに心を震わせるガウエンには、名乗るまでもなく、その女性が成長したユラだと分かっていたのだ。
この部屋には、ガウエン達以外には、騎士と思える者が三名と侍女らしき女性がユラ達の背後に控え、ガウエンを油断の無い眼差しで眺め警戒している。
さっきまでいたダンカンはというと、配下と共に街の様子を確かめるために、今は席を外していた。どうやら、ダンブル邸での騒動の折り、揉めてる所を、駆け付けた侯爵家の騎士達に助けられたようであった。
そのダンカンが部屋から出て行く際、「ガウエンがトマスだと言ってないぞ」と、ガウエンにそっと耳打ちしたのである。
その言葉が示すように、先ほど赤子を受け取った時も、今、こうして向かい合って座っていても、ガウエンの事を気付いていないのか、ユラは一向にガウエンに目を向けようとしない。
この十年でガウエンも、十代の頃の少しふくよかだった体から、余分な贅肉は削ぎ落とされ、猛々しい精悍な若者へと成長している。
ガウエン(トマス)とユラは、この十年で大きく様変わりしていたのだ。
しかし、それでもとガウエンは思ってしまう。
ガウエンがユラだと気付き、あのダンでさえガウエンがトマスだと気付いたのだ。ユラがガウエンの事を気付かないはずがないと思ってしまうのだ。
そして、二人を別ち、その間に流れた十年という歳月の重みを、改めて感じたガウエンは、そっとため息を溢した。
「それで、そちらの方が侯爵家のユラ様でございますな」
ガウエンの横に座るハンスが、目の前にいるジェイクとユラに声を掛ける。
「むっ、何故そのように思われる」
ハンスの言葉に反応したジェイクが、ガウエンとハンスに探るような眼差しを向ける。ジェイクには、目の前にいる二人が、まだ何者かは分からない。どこまで知っているのかは分からぬが、出来るならば奥方と若君の事は秘匿したかったのだ。
「おっと、すみませぬ。申し遅れましたが、わたくしは、エゴ商会で会頭を勤めまするフウコウが次男、ハンスにございます。そして、横に居りますのは、護衛士のガウエン。私共は侯爵様のお味方でございますよ」
答えるハンスも、探るような眼差しをジェイクに向けていた。
「……エゴ商会の……ふむ、そこから話が漏れたか……」
顎髯を擦りながら眉を潜め、ひとり納得するジェイク。しかし、実際はガウエンやダンカンからもたらされた情報であるのだが、その様なことだとは知るよしもない。
片や、アルベール侯爵の股肱の臣であり、侯爵家を守護する騎士団の団長でもあるジェイク。そして、もう一方はアトラン王国でも指折りの、豪商と名高いエゴ商会会頭の次男であるハンス。
お互いが、自分に有利なように話を進める腹芸には慣れている。それが、両者の探るような眼差しに表れていた。
だが、今はそのようにお互いを探り、言葉の応酬を交わすような、悠長な時間は無いのだ。だから、見かねたユラが横から口を挟む。
「ジェイク殿、失礼ですよ。仰るとおり、私は侯爵様が側妃のユラです。そして、この子は私の産んだトマス。ご想像通り、この子は侯爵家の嫡子にあたります」
「ユラ様ぁ……」
あっさりと身分を明かすユラに、苦虫を噛み潰したような顔を向け、咎めようとするジェイク。しかし、それに構わずユラは頭を下げ言葉を続ける。
「先ほどは取り乱し失礼しました。そして……」
先ほどと言うのは、この部屋に入るやいなや、ガウエンが抱く赤子を見付けると、礼も言わず奪い取るように受け取った事であった。
「この度は、我が子トマスを救出して頂き、まことにありがとうございます」
ガウエンをひたりと見詰め、もう一度、頭を下げるユラ。
――トマス……俺と同じ名を……。
「……その子の名は、トマスと?」
呆然となるガウエンは、赤子について尋ねるのが精一杯であった。その声音は震えさえ帯びていた。
「はい、今は行方不明となっている兄の名を、侯爵様に願って名付けました」
赤子の名前の由来を話すユラのその様子からは、ガウエンがトマスだと気付いた素振りは一切感じさせず、ガウエンを愕然とさせた。
――まさかユラは、俺だと気付いていないのか。
どこか伏し目がちに話すガウエンに、表情を変えず真っ直ぐガウエンを見詰めるユラ。
ガウエンの横ではハンスが二人のそんな他人行儀な様子を眺め、首を傾げ妙な表情を浮かべると、焦れたように口を開こうとする。が、ガウエンが目配せすると、直ぐに何かを察したのか、何も言わず口を閉じて押し黙った。
その事に微かに頷き感謝をしつつ、ガウエンはユラに向かって話し掛ける。
「救出といっても、今回は、たまたま通り合わせただけにございます」
そして、ユラの生家の前での一件から、今日のダンブル邸での騒動までの経緯を語って聞かせたのである。
黙って聞いていたユラは、ガウエンが語り終わると、「ふぅ」と短く息を吐き瞼を閉じる。その瞼が、微かに震えていた。
「……そうですか、カリナは斬られたのですか。やはり、最後の最後で……」
ユラは閉じていた瞼を開けると、悲しげな表情を浮かべ横に座るジェイクに目を向けた。
「そうですな。カリナも伯爵家の命令とはいえ、一度は我らを裏切ったものの、最後はまた我らの元に戻ろうとしてたのかも知れませぬな。それほど、ユラ様に恩義を感じていたのでございましょう」
そんな風に推察を語るジェイクが、落ち込むユラに代わって話を続ける。
「それで、ハンス殿とガウエン殿は、どこまで今回の件をご存じなのですかな」
それに、答えるのはハンス。やはり、こういう話し合いの場では、ひたすら剣を振るってきたガウエンよりも、機知に富んだ商人である。直ぐ様、にこやかに笑うと打てば響くかのように返答した。
「ちょうど今、その話をガウエン様としておりました所でして、この国を治める王であられるアイザック様が、明日をも知れない重篤だと聞き及んでおります」
「む、アイザック様の事は、伏せられていたはずだが……さすがは、国の中枢にまで食い込むエゴ商会といったところか」
顎髯を擦りながら「ふむふむ」と頷くジェイク。
「それらから察しまするに、今回の事は王家の後継問題に端を発する、侯爵家と貴族院との争いではないかと、ガウエン様と話しておりました」
「ほほぅ、時勢に敏な商人。そこまで察するとは中々どうして、やはり、商人には油断が出来ぬな、ははは」
「恐れ入ります。それと、まだ詳しい事までは分かりませんが、十日ほど前に王都では大変な騒ぎがあったようでございますな。その辺りが、ジェイク様や侯爵家の方々がこちらに居られる理由ではと、推察する所存でございます」
「むむ、王都の騒ぎ……そのようなことまで知っておるのか……それはもはや、油断出来ぬとかいう程度を通りこしておるな」
ジェイク達、侯爵家の面々は王都から落ち延び、ここまで駆け通して来たのだ。いくら馬車があったとはいえ、そのジェイク達よりも早く、王都での情報がこの街に届くとは信じられ無いのだ。一抹の不審を抱き、ジェイクはハンスを睨み付ける。
もしや、味方と称して近付く、敵対する貴族に連なる者では無いのかと疑ったのである。
それを察したハンスは、とんでもないとばかりに顔の前で手のひらを左右に打ち振り、苦笑気味に微かな笑い声を上げた。
「お疑いのご様子も、もっともでございますが、情報伝達の速さ、それこそが我らエゴ商会がここまで大きく成長した秘訣でございますれば」
「ふむ、そのようなものか……」
一瞬、ジェイクも疑いはしたものの、若君を救出した件もある。それに、先ほどガウエンが経緯を語った際に話に出た、昨夜の賊の襲撃の跡を部屋の中に認めて、一応の納得をする。ぐるりと周りを眺め回すと、窓際に火襲を受けた跡と思える、煤けた箇所があったのだ。
「それで、王都では何があったのでございますか?」
ハンスの問い掛けに、ジェイクは「うむ」と、一声うなると天を仰ぐ。そして、苦々しいものを吐き出すかのように話し出したのだ。
「……その方等が想像する通り……アイザック王はただ今ご危篤である。もはや、持ち直すのも無理と医師に判じられ、宮廷に於いては早急に次代の王を定める必要に迫られた。そこで、我が主、アルベール様の名が取り沙汰されたのだが、貴族院に籍を置く一部の貴族、ドメス伯爵を中心とした貴族達の反対にあってな。彼らは、お子の居られぬアルベール様では、問題の先送りになるだけと申しおった。そこで我らは急遽、領都よりユラ様と産まれたばかりの若君を呼び寄せたのだが……どこから話が漏れたのか、若君を披露する前に急襲を受けた……」
それは、ユラ達が王都に辿り着いたその日に起きた凶事であったのだ。
王の危篤との事もあり、王宮内に詰めていたアルベール侯爵が、息抜きにと庭先に赴いた時に、伏せられていた兵に襲われたのである。身を挺して庇う供の者のお陰もあって、辛うじて死地を脱するも、時を同じくして王都内にある侯爵の屋敷も襲われたのであった。
そう、驚く事にその凶事とは、侯爵と産まれたばかりの嫡子トマスを狙った二段構えのものであったのだ。
しかし、屋敷にはユラを護衛して来た者など、数十名の騎士と数多くの兵士達が詰めていたのが幸いした。その者らは、ジェイクが鍛えに鍛えた精鋭中の精鋭。不意を突かれたとはいえ襲撃者達を難なく退け、ユラと嫡子である赤子を護りつつ、アルベール侯爵と合流する事を果たしたのであった。
「そこで我らは王都内は危険と判じると、状況を把握できるまで、一旦、王都から離れる事にしたのだ。その時は、誰がこの事件に関与してるのか、分からなかったからなのだが……しかし、彼奴等はあろうことか、己れの領地より手勢を呼び寄せ王都の外に伏せておったのだ」
「それはまた……なんという暴挙。仮にも侯爵様は現王家に連なるお方……」
概ねはガウエン達が想像していた通りであったが、自分達が思っていたより規模が大きく、これは最早、乱に近い形だと思い至り、尋ねたハンスも言葉を失うほどであった。
「我らは外で待ち構えていた兵の追撃を受け、ここまで落ち延びて来た」
「それで、侯爵様は……」
ハンスがもっとも気掛かりになってる点を尋ねる。するとジェイクは、顔を歪め苦渋の表情を浮かべると、横に座るユラを気にしてちらりと眺めつつ話を続けた。
「……アルベール様は、ユラ様と若君を逃すため我に後を託すと、陣頭に立ち、迫る敵勢に向かわれたのだ……それなのに、我らはその騒動の最中、若君をさらわれるという大失態をおかしたのだ」
「では、侯爵様はもう……」
「いや、アルベール様を護る者は我が騎士団の中でも精鋭の者達。そう容易くやられるとは思えぬ。必ずや、その命にかえてもアルベール様をお守りしてるはず……」
ジェイクはそう言うが、侯爵のその後の安否は今は分からないのだ。
となると、皆の視線が自然と、ユラが抱き抱える赤子へと向かう。そして、ハンスのゴクリと喉を鳴らす音が部屋に響く。
アトラン王国では、男子直系を以て王となすと国是にある。もしやするて、この赤子が次代の王になるかも知れないのだ。皆の心中に様々な思いが交錯するのは仕方の無いことであったろう。
ジェイクは赤子を眺め、更に顔を歪める。
「我らも油断してとはいえ、まさか、彼奴等がこれ程の大事を成すとは、思っておらなかったのだ。貴族院といっても、侯爵様に反意を持つ者は少数。大方の貴族は、どちらかといえば侯爵様を迎合し、大勢は大きくこちらに傾いておった」
ジェイクは憤懣やる方ないといった様子で、慙愧の思いを吐き出していた。
「いや、彼奴等は、それほどまでに追い込まれておったのかも知れぬ。それに気付かなかったのは、我らの手抜かりであったか……」
「ジェイク様、それほどご自分をお責めにならずに。侯爵様は国民に英雄視されるほどのお方。誰が、これ程の凶事を予想出来ましょうか。それよりも、先ずはこれからどうなされるかです」
「そのことだが、我らも敵の襲撃を受け、ただ手を拱いただけでは無い。既に、侯爵様にお味方するであろう貴族の方々には使者を送っている。追っ付け、形勢は逆転するであろう。だが、それもアルベール様あってのこと……」
そう言うと、腕を組み瞑目するジェイクであった。ジェイクも、迷っていたのだ。ユラや若君をお護りするのは当然であるが、このまま領都に逃げ戻って良いものか……或いは、アルベール様の安否を確かめ、近隣の領主を糾合して反攻するのを優先させるべきなのか。
様々な考えや思いが、ジェイクの胸の内で交錯していたのである。
「いずれにせよ、若君がこちらの手に取り戻せたのは僥倖であったな。ガウエン殿といったか、若君救出の御尽力、改めて感謝いたす」
何やら考えていたジェイクが、今度はガウエンに目を向け礼を言う。
「いや、さっきも言ったが、本当に偶然、その場に行き合わせただけだから」
「まだ若いのに、随分と謙虚だな。護衛士というからには、もう少しあくの強い男かと思ったが」
「護衛士といっても、色々なやつがいるものさ」
顎髭を擦りながら、ガウエンをどのような男なのかと、じろりと眺めていたジェイクが、突然、はたと膝をうつ。
「もしや、『幻音のガウエン』と名高い、あのガウエン殿か!」
「……どう名高いか知らんが、多分、そうだろう」
にべも無く答えるガウエンに、ジェイクが破顔した顔を見せる。
王国内では、護衛士はある意味、武を追求する者と同義にも語られる特別な存在。
ダンカンが治安局の仲間と、誰が一番かと語らっていたように、武を尊ぶ者の間では、常に話題にのぼる存在でもあるのだ。
ジェイクも以前、アルベール侯爵と護衛士について、話題にした事があった。もっとも、彼等は領主と騎士団長というその役職柄、誰が一番に信の置ける者かといった、少し違った形であったのだが。その中で、真っ先に名前の上がったのが、『幻音のガウエン』であった。それは、腕もさることながら、雇い主を絶対裏切らず、もっとも信のおける護衛士だとの噂に名高かったからである。
アルベール侯爵は、その時。
「それほどの男なら一度は会ってみたいものだな」
と、話していたのだ。
その時の事を思い出し、顔を綻ばせるジェイクであった。
しかし、なんという皮肉であろうか、そのガウエンこそが、ユラの兄でもあるトマスであったのだ。当然、その時の彼等には、知るはずも無い事である。
「これこそ本当の僥倖。若君救出を行ったのが、あのガウエン殿であったとはな」
そこで一旦、言葉を区切ったジェイクが、笑顔を引っ込め真面目な顔に変えると、じろりとガウエンを眺める。
「見ての通り我らは今は人数も少なく、このトラッシュの街も信用できぬ状況。幾らでも人手が欲しい。どうであろう、この後も、我らに手を貸してもらえぬか」
「それは、護衛士としてか?」
「勿論だ。我らと共に、ユラ様と若君を護衛して頂きたい」
「……」
ガウエンとしては、嫌も応もなく、断る積りも無いのだが。今はハンス率いる商隊と契約中。一応は、横に座るハンスに目を向けた。
「おぉ、そうであったな。今はハンス殿と、契約中であったか。ハンス殿もどうであろう。我らにお力添えを願えるかな」
やはり、商人は今一つ信用出来ないのか、ガウエンと比べて少しおざなりな誘いであったが、ジェイクはきちんと頭を下げて頼む。
「それは、当然でございましょう。もはや、乗り掛かった船でございますれば、今更でございますな」
ジェイクの態度にも意に介さず、にこやかに返答するハンスであるが――。
「まあ、とはいっても、エゴ商会としては判断のつきかねる所でございまして、私個人の出来る範囲で協力は惜しまない積りでございます」
と、最後に、エゴ商会の関わりを濁す辺りが、したたかな商人といったところであろうか。
そのようなやり取りを横目で見ながら、ガウエンが気になった点を口にする。
「聞くところによると、王の勅命が出されたと聞いたが、それは侯爵家への誅殺ということなのか?」
それを聞いたジェイクが「ふむ」と、また顎髭を擦りながら考え込む。
「王命か……その話、我らも今初めて聞いたが……アイザック王は、今は意識も保てぬ状況。大方、王宮を掌握したドメス伯の一派が出した、紛い物の勅命であると思うが……」
そこで、言葉を少し言い澱んだジェイクが、声を落として話をつづける。
「……その勅命、紛い物とは言い切れぬかも知れん。我が侯爵家は、数年前から王家とはちょっとした確執があってな。それは、日毎に高まるアルベール様の名声に、アイザック王が嫉妬したからなのだが。それでも、一昨年までは両家の関係は、それなりに良好だったのだ」
「一昨年……というと、フィリップ殿下の事故か」
「そうだ、狩りの最中に事故で落命されたのだが、それを侯爵家の差し金だと、王に讒言をなした者がいるとの噂だ。その噂、本当かは分からぬが、確かに一昨年辺りから、両家の関係は急激に冷え込んだ。我らも、その事に憂慮していたところであったのだ」
「まさか、その頃から侯爵家を追い落とす策謀が始まっていたと?」
「かも知れん、だから……」
そこで言い止すジェイクが、窓際にある煤けた箇所に目を向ける。
「昨夜、黒装束の怪しき集団に襲撃を受けたと言ったな……」
「あぁ、そこらにいる賊などで無く、闇夜での戦闘訓練を受けた、特殊な部隊と見たが」
「ふむ、となると、やはり……」
「心当たりがあるのか?」
「うむ、これも噂だが、王家には裏で王の命を受け、人知れず誅殺を行う『断罪の剣』と呼ばれる闇の部隊を抱えると聞く」
「ほぅ、そのような部隊があるのか」
「普段は一般の民に紛れ、いざ命が下れば、闇から闇へと暗殺などを行う。貴族達の間で不審死が出る度に、噂となって取り沙汰される。数年前にも、ある男爵が就寝中に不審死を遂げ、噂になっていた。その時は、確か……武術師範の誰かが関わってるとか噂になっていたが……」
「それは、近衛軍武術師範筆頭のマルコムでは?」
それは、兄とも慕うゴーグが、王命と言って誘った男だと、今際の際に漏らした名前。武術師範筆頭の名前が飛び出し、逆にジェイクの方が驚いた顔をする。何故なら、そのマルコムこそが、この国で最強と言われる武人であったからだ。
「マルコム……かも知れんが、噂の類いであって確かな事は分からぬ」
ジェイクは首を捻っているが、ガウエンにはあのゴーグが嘘を言うとは思わず、確信に近いと考え至っていた。
そのマルコムこそが、裏で暗躍する者なのだと。王命をちらつかせ、治安局長のダンブルや、ガウエンの兄貴格でもあったゴーグを抱き込んだ男。
ガウエンには思い当たる男がひとりいた。
最初の夜に、赤子を抱えた侍女を切り捨てた集団の中にいた男。ガウエンと斬り結び、必殺の剣を難なく躱した男こそが、マルコムではないかと考えたのだ。
――あの時、騎士団などで用いる正統派の剣だと思ったが……。
近衛軍武術師範筆頭であり、王家の影ともいえる組織『断罪の剣』に所属すると思えるマルコム。
今回の一件で、敵の姿が見えず五里霧中であったガウエンも、ここにきてようやく全てが繋がり敵の全貌が見えた気がしたのである。
ガウエンが今にして考えるに、あの侍女が果てる間際に言った、五日ないし三日の間赤子の護衛を懇願したのも、王命が絡んでのことではないのかと考えたのだ。
アイザック王の命は今日明日と聞く。王が亡くなれば、当然、王命の効力は霧散する。三日とは、その猶予の事を言っていたのではないかと、ガウエンは思い至る。
そして、そうなると敵は、ひいては、『断罪の剣』のマルコムも、王のまだ存命中に遮二無二、侯爵或いは嫡子の命を奪いに来る事が考えられるのだ。
――ならば、俺のやる事はひとつ。マルコムは、必ず斬る!
マルコムが暗躍さえしなければ、ゴーグも裏切る事は無かったのだから。その事を思い、決意を新たにするガウエンであった。
◇
真円に近い月が雲の隙間から顔を出し、月明かりが樹木の影を長く伸ばす。
そんな月夜の下、静寂が辺りを包む中で「シッ!」と、人が発する短い呼気と共に「ちりん」と、涼しげな鈴の音が鳴り響く。
ガウエンが、一心不乱に剣を振るっていたのだ。
ユラや侯爵家の騎士との話し合いの後、既に宿は敵に知られているため、危険だと判断して場所を変えていた。
ここはハンスの知り合い、港湾都市アレッサルで手広く商いをする商人の別宅であった。今は久しく使われていないとの事で、ここを一時的に隠れ家として借り受ける事にしたのである。
このトラッシュの街は一応は侯爵家の領地。侯爵家の者だと名乗り出る事も考慮に入れたのだが、それは今はまだ危険だと判断したのだ。しかしそれは、やはり正しい判断であったようだ。
街や治安局の様子を窺いに行っていたダンカン達が帰ると、治安局では侯爵家の者を見付けしだい確保せよと命令が出されてるとの事であった。領主の一族であるため、捕縛せよとまではいっていないようだが、明らかに局長であったダンブル以外にも、敵に靡いた者がいると予想された。
ここは、元々が直轄領であった土地柄。王命をちらつかせると、それも致し方無いのかも知れないが、ジェイクを始めとした騎士達は憮然とした表情を浮かべていた。
そして、この屋敷の本来の主は、ハンスの知り合いというだけあって、それなりに名の売れた商人らしく、この別宅もかなりの広さの敷地であった。
その庭先にて、月明かりの下ガウエンは剣を振るっていたのだ。
剣の師、ローエンに曰く――
「修練を一日でも休むと、それを取り戻すには倍の鍛練が必要となる。毎日のたゆまぬ鍛練こそが、最強への最短の道である」
その言葉を信じ、毎日の朝夕の鍛練を欠かさぬガウエンであった。しかし、今宵は常日頃といささか異なる趣で、剣を振るっているようであった。
それは思わぬ形で、かつての想い人でもあったユラと出会ったからだ。
――ユラは何故、俺だと気付かないのだ。
そんな思いと共に、あれから十年も経つのだ、見忘れていても当然との思いも沸き上がる。しかし、我が子に俺と同じ名、トマスと名付けたのだからと、堂々巡りの考えが脳裏に渦巻く。そして、過去の思い出も次々と浮かんでくるのだ。
それらを振り払うかのように、ガウエンはがむしゃらに剣を振るう。
しばらくの間、月明かりの中で一心不乱に剣を振るっていたガウエンが、ふと、その動きを止めた。
それは、こちらに近付く人の気配を感じたからである。
ガウエンは、気配のする樹木の茂みに目を向けた。すると直ぐ様、その茂みから現れたのは、ユラに付き従っていた侍女だった。
彼女は一切の感情をその表情から消し去り、ガウエンに向かって少し頭を下げると、驚くことを言ってのける。
「ガウエン様、向こうでユラ様がお待ちです。少し、お時間を頂けないかとの事でございます」
――ユラが……。
ガウエンは足元も覚束ないほど体を震わせ、彼女が先導する先へと向かうのであった。




