人食い鬼
「逃げるしかないだろうね」
僕も既に立ち上がっていた。
鬼の存在は足音で気づいた。ぺたぺたと素足で這いずりまわるような足音のする生物は鬼しか知らない。人は全く別の足音だ。
今回の鬼の姿は、またこれまでの鬼とは違っていた。この鬼には今までの鬼とは決定的に違う部分があった。それが――服だった。目の前の鬼は服を着ていた。これまでの鬼はどれも赤黒い皮膚をむき出しにしていたのだが、目の前の鬼はその大部分を布で隠している。さらにこれまでの鬼より小柄であり、向日葵と同じぐらいの身長しかない。さらに服の袖口から伸びる手を見てみると、これまでの鬼より色が薄いような気がする。それこそ、人の皮膚に少しだけ血が滲んでいるような。
その姿にどこともなく違和感を覚えるが、そんな事よりも鬼の来ている服が気になった。
鬼が着ている服には見覚えがあったのだ。
その鬼は白いシャツの上に紺色のブレザーを着ており、ズボンは足首まで隠す長ズボンであり色は黒だ。ブレザーの袖は両肩で千切れており、ズボンもところどころに鬼の体格が似合わないのか切れ目が入っている。
思わず、自分の服を確認してしまったほどだ。
何故ならその服は――僕の着ている制服と同じだったのだから。
言いようのない悪寒に襲われた。原因は分かっている。気づいてしまったからだ。鬼の着ている服は、自分たちと同じ高校の制服であり、問題は鬼がそれをどこで手に入れたということだ。
剥ぎ取ったのだろうか。そんな考えが頭に浮かんだけど、すぐにかき消した。鬼にそんな考えがあるとすれば、他の鬼もどこかの服屋もしくは民家で奪っているはずだが、これまでの鬼にそういった行動は見られない。
とすれば、頭に嫌な予感が浮かんだ。
――服を着た人が、鬼になったのではないか?
突拍子もない想像だった。
普通の人が聞けば馬鹿馬鹿しいと思うだろう。
何故なら人があのような姿になるわけがない。もしそのような事がありえるなら、これまでの鬼のふざけた体格は何なのだと思ってしまう。人があのような姿に、それも不気味な角が頭部から生えて歪に体が膨れ上がり、それでいて二足歩行で歩き、意地汚く人を食べる生物が元々人だったと言うのだろうか。
あり得ない。
生まれた考えをすぐに消した。
だけど、それは頭の片隅に残ったまま、もう一度その場から逃げだした。
それから暫くの間、鬼と出会うことは無かったが、洋館までの道のりは長い。まだあの市役所から半分ほど進んだ場所だろうか。まだ山にも差し掛かっておらず、町の中をひたすらと進む。体に疲れは溜まっていたが、先程水分補給をしたからだろうか。不思議と喉は渇いていない。
「ねえ――」
前を歩いていた向日葵さんだけど、ふと歩みを遅くして重たい口を開いた。どうやら先程の鬼については思う所があるみたいだ。
「何?」
僕はひたすら前を見ながら返事をした。
「あの鬼って、何だと思う?」
向日葵さんの声は震えていた。
それはまるで、この世の知ってはいけない真実を想像し、伊集院君を食べた存在がどういったものか限りなく彼女の中で形づいているようだ。だが、その想像した真実に彼女は恐ろしさを感じている。
「それはどういう意味を言いたいの? 根本的な話? あの怪物がどういったものかということ? 僕が出せる答えはきっと一つだけだ。あれは人を喰らう怪物だよ。狼や熊のように獰猛で、人よりも力がある恐ろしい怪物だよ」
先程、己が想像した内容については一言も言葉にせずに、僕は淡々と言った。
あれは――言ってはいけないと思った。例えもし自分の想像が合っていたとしても、あれは知らなくてもいい事実だと思った。何故ならもしもあれが元々人であるなら、なんて悲しき姿で人を喰らうのだろうかと思ったからだ。
「私ね……一つだけあの鬼にずっと思う所があるの――」
「何だよ……」
「あの鬼――人を食べたでしょ? それも血を啜るように」
「うん」
「私にはあの鬼は血を美味しそうに飲むな、って思ったの。まるで上等なお酒を飲むように。あの時の顔は、私のお父さんが高いお酒を飲む時に似ていた。鬼にとって――私たちは上等な〝餌〟なんじゃないかなって思って」
「……確かに、向日葵さんの言うことには一理あるかな」
あの時の――伊集院君が殺された時のことを思い出す。
向日葵さんの言うとおり、鬼は美味しそうに食べていた。まるでそれは上等な物を食べているかのように。それに鬼の自分たちに対する執着心は本物だ。今までに会った鬼は何体もいたが、そのどれもが自分たちのような人を見ると喜々として襲ってくる。
「私ね、思うの。鬼達は人を探してこの町を彷徨っているんじゃないかって。そして私たちは猛獣の檻に飛び込んだ袋のネズミ。逃げ出す方法は、今のところ――ない。希望はあるけれど、それは蜘蛛の糸のようにか細いものかも知れないんだもん。
でね、これは私の想像だけど、これから先、鬼と出会う確率は増えていくと思う。あの鬼がどうやって私達を見つけているか分からないけど、家の中にいても私たちは鬼に見つかった。と言うことは、鬼は視覚以外の情報で私達を見つけている可能性がある。だって、そうでしょう? この町中を見るに、鬼達に無闇に町を破壊する習性はない」
「……そうだね」
すぐに僕は辺りを見渡した。
怖かったからだ。どこから鬼が現れるか分からない。けれども、そこは民家ばかりだった。マンションは辺りになく、車が一台通れるような細い道に一軒家が幾つも並んでいる。そのどれもを見るに、破壊されている形跡はない。いや、これまでに様々な道を通ったが、その中で破壊されている建物は一つもなかった。
「でね、そうだとしたらね、鬼は家にいた私達を見つけたことになる。可能性としては幾つか考えられるけど、私達の匂いを追ったのか、それとも私達の話し声に気づいたのか、もしくは鬼には建物を透視する力があるのか。それは私にもわからないし、調べている余裕もない。だけど私の想像が正しいのなら――この町に安全な場所は無いかも知れないんだ。例え、こんな風に民家で囲まれて、周りからはあまり見えない場所でも――」
向日葵さんは苦笑いをしながら告げた。
そんな向日葵さんの背後から嫌な音が聞こえた。めきめきとまるで何かが引きちぎられるような音が聞こえる。それは木材が軋んでいる音で、一秒二秒と時間が経つごとに確実に音は大きくなる。
やがてすぐ近くにある玄関の黒い扉を、赤黒い腕が貫いた。
大きな音が、辺りに響いた。
すぐに同時に逃げるようにその場から離れた。まだ鬼が家から出てこない時に逃げたので、あの鬼を巻くのにそうは時間がかからなかったが、今度は四車線もあるような大通りに出ようとした時、道の先で嫌な声が聞こえる。
――人の悲鳴だった。
男性の悲痛な叫び。それは喉を振り絞って出す大きな声であり、聞くだけで顔が歪むほどの絶叫だった。
急いで大通りに出て悲鳴の出処を見つけた。
そこでは、無惨な光景が広がっていた。
鬼がいた。小さな鬼であった。身長は僕とそう変わらないほどで、相対している人間ともあまり変わらない。どうやらそこにいる鬼は小さい個体らしく、これまでに見たどんな鬼よりも身長が低い。さらにその鬼も、先程見た鬼と同様に服を着ていた。制服だ。ただこの鬼は体が膨れ上がっていないので、どこも破くことなく制服を着こなしている。ただ、その黒いズボンと黒いブレザーは、返り血によって赤く染まっており、胸元の校章だけが鮮やかに輝いている。
制服を着ているのに、鬼だと一目で分かったのは、頭に生やしている大きくて太い角だ。その鬼は赤黒い頭の上に、円錐状の角を額から伸ばしている。それは人の手ほどの長さがあり、人に生えるはずのないそれは、人と一線を画する生物と呼ぶに相応しいものであった。
また相対している男性――らしきものは、既に事切れていた。右腕が無くなり、左足が消えている。どちらも地面に落ちていないのは、鬼が喰らったからだろうと思われる。
「あ……あ……」
男性は地面に芋虫のように這いつくばりながら、顔を涙で濡らしている。もう自分の運命を悟ったからだろうか。まともに声すら出せずに、嗚咽のみがその空間を満たす。
僕はそんな男の顔に見覚えがあった。もちろん、その服装にも。
男が着ているのは僕や鬼と同じ制服であり、その服は見るのも痛々しいほどにあちこちが裂けていたが、ブレザーの校章は依然として胸元にあり、それは鬼や僕のものと全く同じだ。
また、その男性――男子生徒の顔をよく覚えている。何故なら少し前に神宮さんに黒点橋を案内する時に着いてきた顔だからだ。どうやら神宮を追ってオレンジの霧の中に入ると、運悪くこちら側の世界に来たようだ。
それからの鬼の行動は早い。男子生徒の腹に手を突っ込み、そこから飛び出た内蔵を恍惚の笑みで啜る。そして男子生徒の腹に顔を突っ込み、美味しそうに喉を鳴らしながら血を飲んでいる。
僕たちに男子生徒を助けるような暇もなく、鬼が男子生徒に注目している内にアイコンタクトでその場から逃げ出そうとした。
だが――からん、と音が鳴った。
向日葵さんの足元からだ。どうやら共に逃げ出そうとした際に、足元にあった石ころを蹴ってしまい、それが音を出してしまったみたいだ。
鬼の顔が男子生徒の腹からゆっくりと上がり、血で濡らした口を拭う事もなく、音を鳴らしてしまった僕たちの方を見て、にたあと嗤う。それから男子生徒の血を啜ることはなく、地面へと絶えず流れているのに鬼は菊花と向日葵から目を離さない。
膝を立てて、鬼はゆっくりと近づいてくる。
僕たちは急いで道を戻るように駈け出した。




