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現代に残る聖杯伝説について  作者: 乙黒


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逃走

二人は体力が無くなるまで走った。

 それで体が動かなくなってからようやく一息をつく。着くしか無かった。何故なら体はもう動かない。

住宅街の中にある細い道。左右が確認できる場所に位置をとって、どちらから鬼が来てもいいようにお互いに確認している。


「もうお家に帰りたいな。ここに来なければよかった」


 ぼそっと向日葵さんが弱音を零した。僕も同じ気持ちだった。

分からないことだらけだ。

どうしてここに来たのか、あの鬼は何なのか、なぜ人を殺すのか、全てが夢なのだと思いたいほどだった。


「あれは何なの?」


話題を変えようとしたが、僕の声は震えていた。


「……分からない。あれが鬼?」


 だけど、向日葵さんもその答えは持っておらず、涙を溢れ出している。


「それに、ここは一体――?」


 僕は周りを見つめた。通い慣れた道ではないが、幼き頃より住んでいる町だ。裏道から小道まで知り尽くしている。ここは先程の市役所から遠く離れた方林かたばやしという町で、方林駅のすぐ隣である。背中をつけるフェンスの向こう側には線路があり、いつも夜の十二時ぐらいまで何分かおきに絶えず私鉄の電車が通っているがここに来てからもう十分以上経つが、一つも電車が通る気配はない。

 それどころか、この線路の先に見える駅のホームにも人影は見えず、まるでこの世界が外界と切り離されたような、油断すると体が震えだしそうな孤独感を感じてしまう。


「町はいつもどおりだね。それに空も。このフェンスの錆も、アスファルトの冷たさも、昨日と何の変わりもないんだよね」


 向日葵さんはフェンスの脇に生えた細長い雑草を握って引き抜き、手の平に浮かべて悲しげな表情で見つめる。


「本当にそうなのかな――?」


 もしも同じであれば鬼がいる筈もないし、道には人が少なくとも誰かがいるとして、僕は空を注意深く見た。

 確かにいつもと変わりはない。

 だが、空を見つめていて、異変に感づいた。

 空が――動いていないのだ。

 パンケーキやソフトクリームのように見える分厚い雲も、半分が山に隠れた太陽もそのどれもが一寸たりとも動かず、時が止まったかのように空に縫い付けられている。

 いや、それだけではない。

 動かない空に見飽きて、もう一度周りを見た。だが、その景色が変わることはない。まるで写真に取られたかのように静止し、普段は鬱陶しいと感じる蚊やはえのような小さな虫や日本中どこにでもいる雀や鴉のような鳥などの動物すらこの世界には存在しなかった。さらに風も吹いておらず、目の前にある民家に植えてある草花が揺れる事も無ければ、走ったことによって火照った体を冷ますこともない。


「――空は、動いていないだね。虫もいなければ、鳥もいない。雑草が風で動くことも無ければ……ここは、本当に僕の知っている場所なのかな?」


「本当に、そうだよね。それに、ここからも出られない。白点橋からオレンジの霧を通ると、今度は黒点橋に戻るよね。他にも上流に橋はあるけれど、もしそれを通ってもさっきと同じようにまた別の橋に繋がっているとしたら? 私たちにここから出る方法は無いかもしれない。出来れば、今度は黒点橋を通って、元の道に戻るのか、それとも今度は白点橋と通じているのか試したいところだけど――」


 向日葵さんは自分の考えを述べるが、その先は続かなかった。先程が死んだ場所にもう一度行くという無謀さは湧いてこなかったのかもしれないし、そもそももう一度あの鬼に会うという選択肢が湧いてこないのかもしれない。

あの鬼はあの場にいるのか、それとも自分たちを追いかけているのか、どちらの可能性もありそうだった

 よく見ると向日葵さんは、唇ががたがたと震えていた。


 空は明るいのに、僕たちの心の中は暗雲で覆われているようだ。オレンジの霧で囲まれ、外界と切り離された異質な世界に閉じ込められた。そこには、人も、鳥も、ましてや虫すらおらず、代わりにいるのは人をいともたやすく殺せるようなおぞましい怪物しかいない。そんな世界で、どうやって生き延びればいいのか分からない。


「で、僕達はどうすればいいんだろうか? ここから出る方法は? どうして僕達はこの世界に来た?」


 頭を振り絞って考えるが、何も考えは浮かばない。

 そもそもこれが夢なのではないかという考えさえ浮かんできた。いや、この世界に現実など何一つないと思いたかったのだ。


「……一つ、気づいたことがあるとすれば、この世界は私達の世界と比べて足りないものが多すぎるんだけど……」人などのあらゆる動物だけではなく、車や自転車なども殆ど無い。まるで動くものが全く無いかのようにこの世界は静止している。「幾つか、この世界にで動いているものがある。一つがあの〝鬼〟、そしてもう一つが――オレンジの霧」


 向日葵さんが震える声で言った。


「確かに、あの霧は蠢いていたね――」


 あのオレンジの霧が何なのか、僕たちには分からない。

 けれど、神宮さん達を神隠しにし、僕たちをこんな場所に閉じ込めたオレンジの霧が何なのか、全く想像がつかなかった。

 もしかしたら吸い込んだのも間違いだったとさえ感じてしまう。僕たちはあの中ではもちろん呼吸をし、体の中にもあの霧を吸い込んでいる。あれを体の中に入れたのだ。もしかしたら、強烈な毒物や薬物に準ずる何か、病的な何かを吸い込んだのかもしれないと思うのだ。

 ――あの霧が、人を怪物に変えたのではないか?

 という嫌なアイディアが僕の頭を埋め尽くしていく。


「ということは、あの霧が元凶のなのかな?」


「そうかも知れないし、そうじゃないかもしれない」


 向日葵さんは可能性だけを示唆した。


「だとすれば、あの霧が出ている場所に行けば、何か分かるのか?」


 僕が知る限り、この霧は川の上空の山から降りてくるのだ。山を伝って地表に降りてくる風が、山でできた霧を運ぶのである。

 とすれば、その風に乗せるのがこのオレンジの霧を橋まで覆う最も簡単な方法なのだ。


「そうかも知れない……かな?」


 向日葵さんにも核心はないようだった。


「なら、行くしかないか。あれがオカルト的なものなのか、それともまた別のものなのか僕には分からない。想像だってつかない。だけど、もしもこの現状の解決のきっかけになるのなら、行かないと……」


「そうだね……他に行くところもないもんね」 


頷く向日葵さんを尻目に、僕は重たい腰を持ち上げた。

隔離されたこの世界で、あの怪物と永遠に鬼ごっこする気はないのだ。そもそもあんな鬼に殺されるつもりもなければ、ここにいるつもりもない。元の世界に戻れるのなら、多少の危険は冒さないといけないのだろう。


「それに――」


 僕は視界の端に蠢くものを見つけた。それに対して、向日葵さんは誘導されるように視線を向ける。

 そこにいたのは――〝鬼〟であった。

赤いのは先程と変わらない。だが、皮膚が剥がれているのではなく、水ぶくれのように皮膚から血が滲み出ており、それによって肌色の上から塗りつぶすように赤い。それに犬歯や角など、先程の鬼に比べてどれもが短く、体格も僕たちとあまり変わらないほどと小さかった。


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