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12 ちゃんと答えるから、応えて。


 ようやく涙が引っ込んできて、すんと鼻を鳴らした私は、深く長く息を吐き出した。

 泣くだけ泣いたせいか、少し頭が痛むけれど、気持ちはすっきりした気がする。

 私は大きく息を吐き出して、ポケットから取り出したコンパクトミラーで、目元を確認した。

 少し赤くて腫れぼったいけど、何とか誤魔化せるかな。いや、マーレの事だから、目ざとく見つけられそうだ。

 何とか言い訳を考えるか、それとも家に帰って化粧をしてどうにか隠してみるか……。

 悩んでいると、少し離れた場所からばたばたと足音が聞こえてくる。

 騒々しい声まで聞こえるので、何かあったのだろうか。

 鏡をポケットにしまって耳をすましていると、この小さな広場みたいな場所に続く細い道の方から、不意に男性が一人飛び出してきた。

 あまりに突然の事に、私は驚いてしまって、声を上げる事も出来ずに固まってしまう。


「あ! おい、ここにいたぞ!」


 私の存在に気付いた男性の呼びかけに、先程店前で絡んできた男性達が、わらわらと私の側へと集まってくる。

 まさか先程の報復にでも来たのだろうか、と思わず身構えると、そのうちの一人が、がばりと勢いよく頭を下げた。


「…………は?」


 一体、何なの?

 私は突然の展開について行けず、ぽかんとしているけれど、他の男性達も次々に頭を下げている。


「俺たちが悪かった! 頼むから何とかしてくれ!」

「頼む!」

「はい……?」


 さっきの報復かと思って怯えていたけれど、これはこれで、意味がわからなすぎて怖い。

 あの後、女将さんにでも捕まって叱られたんだろうか?

 それにしては、彼らの怯えようは尋常ではない気がする。

 意味が理解出来ずに私が首を傾げていると、男性の一人が懇願するように、両手を重ねて、言う。


「頼む、何とかしてくれ! このままじゃ俺達の船どころか、この町ごと沈んじまう!」


 その言葉に、は、と息が一瞬止まりそうになってしまった。

 よくよく周囲を確認してみれば、肌にまとわりつくような、やけに生温かい湿気が周囲に漂っている。まるで、嵐の前みたいに。


(この感覚……っ!?)


 私は急いで立ち上がり、表通りに飛び出した。

 通りには私と同じように、慌てて様子を確かめている人がたくさんいて、その視線の先を辿れば、いつもと変わらない海が見える──、筈だった。

 眼下に広がる海を見るなり、ひゅう、と思わず喉の奥から声にならない音が漏れてしまう。

 透き通るピンク色の海は、地上から数十メートル上にまで大きな波が持ち上がっていて、まるで今にも町を飲み込もうとしているように見えた。

 潮風に乗って微かに聞こえる歌声は、間違いなくマーレの声で、遠くでは漁をする為の白い船がたくさん並んではいるものの、頼りなげに波に翻弄されていて、今にも沈んでしまいそうだった。

 町の中は騒ぎが周囲に伝染し、皆がパニックに陥っている。

 一体どうして、と思いながら高台にある時計台を見ると、約束の時間を十分程過ぎていた。

 嘘でしょう、とゾッとしながらも、私は違和感を覚えてしまう。

 約束の時間を十分過ぎただけで、マーレがこんなに怒ったりするだろうか?

 それに、助けてくれ、という男性達の言葉……。

 私は慌てて先ほどの男性達を探すと、彼らの一人の胸ぐらを掴んで、問いただした。


「あなた達、もしかしてマーレに何か言ったの?!」

「オレ達は言ってねえって!」

「何もないのにマーレがあんなに怒るわけない!!」


 私がそう反論すると、男性の一人が狼狽えながら、口を開いた。


「オ、オレ達があんたに言った事を、うっかり誰かが人魚様に言っちまったらしいんだ……」

「何でそんな事を言ったのよ!」

「オレ達が言ったんじゃねえって!」

「元はあなた達が言った事じゃない!!」


 マーレには絶対に知られたくなかったのに!

 思わず泣きそうになって、私は慌てて下を向いて唇を噛み締めた。

 とにかく、今はこんな風に言い争ってる場合じゃない。

 私は手を離すと、大きく息を吐き出して、男性達に向き直る。

 さっきまでの酔っ払いとは思えないくらい情けない顔をしているから、きっと反省はしてくれているのだろう。


「私はマーレを止めてくるから、後でちゃんとマーレの前で謝って」


 そう言うと、男性達は、わかった、悪かった、と次々に謝ってくれるので、私は小さく何度か頷いて、踵を返した。

 微かに、けれど、確かに、マーレの歌声が響いている。

 マーレの怒りが音の一つ一つから伝わって、びりびりと皮膚を震わせるかのようで、思わず足が竦んでしまいそうに、なる。

 私は必死に恐怖心を追い払うよう頭を振ると、急いで海に続く坂道を駆け下りていた。



 ***



 吹き付けてくる潮風に、二つに結んだ髪や白いワンピースの裾がはためいている。

 嵐の前のように、生温くてまとわりつくような湿気を感じて、私は震える喉から息を吐き出した。

 耳に届いてくるのは、潮騒の響きと、それに混ざるように聞こえる、微かな歌声。

 一つ一つは確かに聞き取れるのに、意味を理解する事は出来ない、人魚族だけが知る言語で紡がれた歌詞。

 どこか懐かしいような、聞き覚えがあるようで全く馴染みのない、不思議で神秘的な音階。

 耳元で優しく囁くようで透明感があり、どこまでも響いてくる、マーレの歌声。

 全速力で坂を駆け下りた私は、浜辺に着くと、目の前に広がる光景に思わず足が竦みそうになってしまった。

 波は大きく持ち上がって壁のように空中で固定されていて、海面が上昇しているのか、浜辺の半分以上が海水に侵食されている。

 全速力で此処まできたから、息が苦しくて上手く呼吸が出来ずに何度か咳き込んでしまうけれど、このままにしておくわけにはいかない。

 私はサンダルを脱ぎ捨てると、意を決して水面へ足を踏み入れた。

 透明なピンク色をした海水は膝辺りまで浸ってしまい、いつもより冷たく感じる。ずっと海の中にいたら、凍えてしまいそうな程に。

 私は思わず顔を歪めて、水を掻き分けながら、いつもの岩場へと足を向ける。

 水位が上がっているせいで上手く前に進めず、焦りから何度も転びそうになったけれど、何とかいつもの岩場へと辿り着くと、マーレが岩場の上に腰をかけているのが見えた。

 そのしなやかな背中に声を掛けようとしたけれど、いつもと様子が違うのがはっきりと分かって、私は必死にざぶざぶと海水を掻き分けて、マーレの側まで近寄った。


「マーレ! お願い、もう止めて!!」

「ルエラ……」


 私が叫ぶと、マーレはやけにぼんやりとした顔でこちらを向いて、私の名前を呼んだ。

 歌は途切れるけれど、何故か、いつものように波が引いていかない。

 マーレ自身に止める気がないと止められない、という事なんだろうか。


「ルエラの事を、悪く言う奴がいるんでしょう」


 いつもより低い声音が、抑えきれない怒りを孕んでいるようで、私はマーレを刺激しないよう、ゆっくりと少しずつ慎重に近づいた。

 潮風で銀色の髪が靡いて顔を隠してしまうから、上手く表情が見えなくて、マーレが何を思っているのかは、はっきりとわからない。

 それでも、私の事でこんなにも怒ってくれていたんだ、というのが確かに分かって、私は嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちになってしまう。

 マーレの側にまで近づくと、少しずつ海面が上がっていき、膝上辺りまで浸かっている。

 そっとマーレの顔を覗き込もうとすると、しなやかな指先が伸びてきて、頰にかかる髪を退けてくれた。

 いつもしてくれる仕草なのに、今は少しだけ、ぎこちない。


「さっき謝って貰ったの。だから、もう大丈夫だよ」

「嫌だ。絶対に許さない。だって、ルエラ、泣いてたんでしょう?」


 涙で腫れてしまった頰にマーレの指が寄せられるけど、やけにひんやりとしていて冷たくて、私はみるみるうちに悲しくなってしまう。

 私の事なんかで、こんなふうになって欲しくはないのに。

 いつもみたいに、嬉しそうに、楽しそうに、笑っいて欲しいのに。

 私はマーレの手をそっと掴むと、あたためるように両手で握り締めた。


「確かに悲しかったし、嫌だったよ。でも、」

「だったら、僕がそいつらを消してあげる」


 あ、駄目だ。完全に頭に血が昇ってる。

 マーレは怒りで我を忘れているようで、町の向こうの、きっと私に何か言ったであろう誰かを睨みつけていた。

 以前、ラズさんと喧嘩をしていた時とは比べ物にならない程の緊張感に、私はばくばくする心臓を落ち着かせるように、大きく息を吸い込んで、吐き出した。

 マーレ、と。

 私は名前を呼ぶ。

 マーレは、視線を私の方へは向けてくれない。


「そんな事、しなくていいよ」


 こく、と喉が動いて、指先が震えた。

 私は俯いて、震えを、怯えを誤魔化すように強くマーレの手を握り締める。


「私は……、私がマーレにして欲しい事があるとしたら、そんな事、絶対に選ばない」


 マーレが誰かを傷つける事なんて、して欲しくない。

 だって、マーレはいつだって、私にそんな事をしたりしなかった。

 いつもマーレは私を褒めてくれたり、甘やかせてくれたり、優しくしてくれる。

 マーレがいる間は、私が本当の意味で一人である事を認めなくていいし、淋しさを感じる事もない。

 私が今でもちゃんと笑えていられるのは、間違いなくマーレのおかげだ。

 まだ上手く伝えられないし、自分の気持ちをはっきりと言葉にするのは、怖い。

 だけど、マーレには、私と同じ気持ちでいて欲しい、と思う。

 マーレが私の良さを教えてくれた分だけ、私もマーレに知っていて欲しい、って。


「私は何があったって、どんなに悲しくって辛い事が起きたって、マーレの前なら、いつもあったかくて幸せな気持ちでいっぱいになって、笑っていられるの」


 震える息を吐き出して、私は顔を上げた。

 銀の睫毛に縁取られたピーコックグリーンの瞳が、水面のように揺れている。


「だから、いつもみたいに大好きって言ってよ。優しくして。いっぱい甘やかしてよ」


 それだけで、私は幸せな気持ちになれるんだから。 

 そう言って、私はめいっぱい笑って見せた。

 私にはきっと何もない。

 優れた知識も特別な力もないし、容姿だって普通だ。

 だけど、マーレがしてくれた事や言葉だけは、私が大切に持っていたいものだって、心の底から思ってる。

 だから、マーレがしてくれた事を、今度は私が同じように伝えていたい。

 本当の本当に一人きりではないのだと知れたのは、私がこんな風に笑っていられるのは、マーレがいるから、なんだって。


 立ちはだかる壁のように持ち上がっていた波から、水滴がぱらぱらと雨のように落ちてきて、まるで天気雨のように見える。

 光を受けてきらきらと落ちていく雫に濡れているマーレは、とても綺麗で、町の人達が海や彼らへ祈りを捧げているのも、何となく分かる気がした。

 マーレは握り締めた手のひらに頰を押し付けて俯くと、緩やかに瞬きを繰り返して、小さく、掠れた声で呟いていて。


「…………、ルエラは、ずるい」


 そんな事言われたら、許すしかないでしょう、と言って、マーレは私をぎゅうと抱き締めた。

 少しひんやりするけれど、マーレの腕の中は、とても心地よくて、優しくて、ほっとする。

 しなやかでしっかりとした背骨に触れて、そっと撫でると、微かにマーレの肩が震えている。

 てっきり喜ぶかと思っていたのに、と思って顔を覗き込もうとすると、マーレが犬のように肩に頭を擦り寄せてくるので、髪が頰に触れてくすぐったい。

 もしかして、照れているんだろうか。

 私は吐息混じりに笑うと、マーレの髪に頰を押し付けて、そっと彼の背中を撫でた。

 冷たかったマーレの体温が、くっついた私の温度を分け与えているみたいに、少しずつあたたまっていくのがわかる。それが、嬉しい。

 私にも、マーレにあげられるものがあるんだ、って思えたから。

 少しずつ、少しずつ、波が穏やかさを取り戻すように静かに引いて、海は緩やかに凪いでいく。

 そうしていつもの光景へ戻っていくのを眺めながら、私はマーレの背中に伸ばしていた手のひらを、しっかりと握り締めていた。


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