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10 いっそ魔女の呪いだと笑えれば良かった


 ちゃぷちゃぷと足を海面に浸すと、足の先から銀の鱗がふわりと浮き上がり、足を包んでいく。

 足だったものが元の鰭に戻ると、僕は震える喉から大きく息を吐き出した。

 ルエラには言っていないし、言うつもりもないけれど、人の足で歩くと言うのは、人魚族にとって苦痛を伴うものだ。

 変化した皮膚は引き攣り、足を地面に当てる度に、鋭い痛みが走る。

 人魚族である事を否定する行為とも言えるのだから当然なのかもしれないけれど、それでも、人間と変わらない生活を望む者は、その痛みさえ受け入れて地上に上がってしまうと聞いた事がある。

 昔は理解に苦しむと思っていたけれど、今はそれを否定する事が出来なくなってしまっている事に、僕は小さく苦笑いを浮かべていた。


 ルエラはきっと知らないけれど、僕はルエラがこの町に来てからずっと、ルエラを知っている。

 それは、ある女性が人魚族の僕に願い事をしたから、でもある。


 〈星の嘆き(アステリラメント)〉と呼ばれる大地震が起き、地上の半分が海に沈んだ時、人魚族は沈んでいく大地と大勢の人間達を見たという。

 人魚族とて、災害に伴う大津波に巻き込まれた同族達は傷付き、亡くなった者も多くいると聞かされていた。

 僕は丁度その頃に生まれて、人間達が必死になって国を再建し、復興していく様を見て育ったのだ。

 かつて陸上で巨大な力を有していた人間達は、海の脅威を目の当たりにした事もあり、いつしか海に住まう人魚族を敬う傾向が強まっていったと聞いている。

 その為か、人魚族を神格化し、願いを託そうとする者までいる程だ。

 特にリシャルジアではそれが顕著で、長く町に住む人間達に出会えば、必ずと言っていい程に両手を重ね合わせて、何かを願っている。

 それは、同じ生きものでありながら、彼らと自分は決して同じものとして生きられるものではない、と隔てを作られてしまったようで、何だか淋しく思えたものだった。


 その女性は、そんな人間達の中でも、特に熱心に海へ祈りを捧げている人だった。

 毎日毎日飽きもせず、雨が降る時でさえ欠かさず祈るものだから、ある日、僕は思わず彼女に声をかけてしまったのだ。


「ねえ、以前からずっとそうして僕達に願っているけれど、人魚族に願いを叶える力はないんだよ」


 僕がそう言うと、彼女は深く皺が刻まれた顔を上げて、淡い微笑みを浮かべていた。

 何もかもを諦めているような、それでいて達観しているような、不思議な表情。


「いいのですよ、人魚様。私達が勝手に願っているだけなのです」

「なら、どうして願うの?」


 意味のない願いなど、あってないようなものだ。

 無意味な事に、なんの価値があるというのだろう。

 僕は全く理解出来なくて、首を傾げてしまう。


「私の力ではどうにもならないからでございます」

「それなら諦めればいい」


 すっぱりと言ってのける僕に、彼女はまるで子供のように頭を振った。


「いいえ、いいえ、人魚様。私は、それだけは出来ません」


 彼女は皺が刻まれた両手をきつく握り締めて、言葉を続ける。


「私の孫は、ルエラは、母親を亡くしてこの町へと来ました。ですが、私も生い先短い身でございます。私がいなくなれば、あの子は一人きりになってしまう。私はそれだけが心残りなのです」


 彼女はそう言って、切々と孫娘について話した。

 身体に不釣り合いな大きなトランクを抱えて、たった一人、祖母を頼ってこの町へ来たという少女。

 よくわからないけれど、そのルエラとやらを見守って欲しい、という事だろうか。

 僕は口元に指を添えて考え込むと、小さく息を吐き出した。


「まあ、その程度の願いなら、僕でも叶えてあげられるかもしれないね」


 約束は出来ないよ、とわざわざ付け足してみるけれど、彼女は皺が刻まれた目に涙を溜めて喜びの表情を浮かべている。


「ああ、人魚様。ありがとうございます」


 今にも崩れ落ちそうな程に頭を下げて、彼女は暫くの間、ずっと感謝の言葉を呟き続けていた。

 その涙が水面に落ちて、海と一体になって、消えていくまで。


 あの女性が言っていたから、その願いを叶えてあげたわけではない。

 きっかけにはなっただろうけれど、人魚族はそんなに単純ではないし、純粋でもない。

 善悪だけで人間を割り振れないように、人魚にだって気に入らない人間を海に沈めてしまう者もいるし、逆に助けてしまう者もいる。それだけだ。

 ただ、あの女性が言っていたように、ルエラは本当にちっぽけで頼りなくて、たった一人で、この町で生きていた。

 初めて浜辺で顔を合わせて手を貸した時だって、彼女は一人きりでとても心細そうで、それなのに、目の前の人を必死に助けようとしていた。

 大した力もないのに、溺れそうになって全身がびしゃびしゃになって、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたのに、僕を見ても助けを求めたりはしなかった。

 長命種のように力があるわけではないし、長く生きられるわけでもない人間は、脆く弱い生き物であって、あの女性のように願いを託しても、助けを求めて声を上げてもいい筈なのに。

 僕はその時、はっきりと理解してしまったのだ。

 ルエラは助けを呼ぶ、という事を知らない。

 知っていたとしても、助けを呼ぶ事を怖がって、躊躇って、動けなくなってしまうのだろう。

 今にも泣き出しそうな顔をして、あんなに全身で助けてと叫んでいるように見えたのに。

 そのくせ、誰かを助ける事に何の躊躇もしないのだから、本当にどうかしている。

 僕自身、願いを託されたり助けを請われた所で面倒だ意味がないと思っていたくせに、ルエラのように期待も切望も出来ない人間に会ってしまうと、それはそれで、淋しい気持ちになってしまったのだから、心というものは本当にままならない。

 そうしているうちに、僕は彼女に興味を持ってしまって、いつの間にか、会いに来なければ町を沈めてしまうかも、なんて言って脅すような真似をしてまでルエラに会う口実を作ってしまっている。

 こればかりは仕方がない。そうでもしなければ、地上と海に分たれている者同士、会う事さえままならないのだし。

 今日だって、鰭を足に変えて痛みに耐えてまで、彼女の側にいようとしていた。


(……まるで、あの昔話みたいだ)


 姉達はその話をすると、何故か決まって人間達を悪く言っていた。

 人間達は愚かで脆弱で浅慮で、とても強欲な生き物だから、と。

 人間に好意的な祖父は、いつもそれを淋しそうな顔で聞いていた。

 祖父は〈星の嘆き(アステリラメント)〉が起きた際、その惨状を目の当たりにして人間達に手を貸してきた人だったから、きっと姉達の言葉を聞いて悲しく思っていたのだろう。

 僕はその顔が忘れらなくて、祖父の店を引き継いだけれど、未だに姉達にはいい顔をされない。

 それどころか、顔を合わせる度に店をやめるよう言われているくらいだ。

 人間の少女に恋をしていると知られてしまったら、人間嫌いの姉さん達は卒倒してしまいそうだね、と僕は呟いて苦笑いを浮かべると、ごく自然にルエラと別れた場所を探してしまっていた。


 ぼんやりとした光に包まれた街を眺めながら、僕は以前祖父が告げた言葉を思い出す。


「人魚達は、人間に恋をした彼女を——人魚姫を悼んでいる内に、悲しみを深めてしまった。皆はその想いに、今も尚、引き摺られてしまっているだけだ」


 誰もが皆、泡となってしまった彼女を、愛していたから。

 そう言って、悲しそうに目を細めた祖父に、僕は問いかけた事がある。


「悼む? 泡? その人は、海に帰ってきたのではないの?」


 だけど、祖父は絶対にそれに答えてくれた事はなかった。


「マーレ。かわいい子。優しい子。皆に愛されるお前に、海の祝福がありますように」


 祖父の言葉はどこまでも優しいものだった。

 街灯の灯りで照らされたこの町——リシャルジアを包む、柔らかな光のように。

 僕は暫くの間、動く事が出来ずに、ぼんやりとその光景を眺めていた。


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