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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第四章、『神へと至る道』
91/113

1、飼い犬の憂鬱 ①

「アリス、君とこうしている時が一番幸せだ。

 公務の疲れが一気に吹き飛び、心身ともに癒される」


 芳しい初夏の風が吹き抜ける、王宮薔薇園の木陰。

 今日もアリスは敷物の上に座り、アルベールに膝枕させられていた。


「それは良かったです」


 表面では微笑んで肯定しつつも、内心はカミュの監視を意識して、まるで落ち着かない気分のアリスだった。


 サシャがいない日に王宮へ来るのも今日で数えて3回目。

 初回に膝枕を許して以来、何も訊かずにアルベールはこの態勢を取るようになっていた。

 一度許可した行為は次からは暗黙の了解になるらしい。


(二度とアルべールの要求に頷かないように気をつけなくちゃ……)


 アニメでは特に言及されてなかったが、人の子の王なる者特有の能力なのか、アルベールの瞳には抗い難い強制力がある。

 そう確信したアリスは、以降『恥ずかしい』という口実で、極力目元を見ないように意識してきた。

 さらに逢瀬を重ねているうちに、瞳ほどではないものの、アルベールの声にも思わず従ってしまう効力があることに気がついた。


 言いなりにならないためには、つねに気を張っていなければいけないのだ。


(物凄く精神が疲れるし、早く帰りたい。

 いったいいつまでこの茶番を続けなくてはいけないのかしら?)


 すでに春の宮廷園遊会から三週間以上経過し、アニメではとっくにメロディが神の涙の使い手として覚醒している時期。

 にもかかわらず、いつロード公爵家に偵察の蝿を飛ばしても、メロディは家庭教師の授業や社交の集まりで日々忙しくしているだけ。

 聖乙女として目覚める兆候はいっさいない。


(これはつまり、アニメみたいな危機に遭わないと、メロディは覚醒しないということか)


 恋愛面についても相変わらずで、夜会などでたびたびメロディと顔を合わせているらしいのに、アルベールの気持ちは微塵もぶれなかった。 

 いまだに関心も情熱もアリスのみに向けられ、王太子としての忙しい公務をやり繰りしては、こうして数日置きに会う時間を作っている。

 おかげで王宮デートもこれで7回目。

 初回以降は、カミュとメロディを交えない二人での逢引を重ね、傍目にも交際は順調に続いている。


(このままでは確実に、メロディが覚醒する前に、私とアルベールの婚約が成立してしまう。

 どうせカミュ様が見ている前で色じかけなんてできないし、もういっそのことアルベールと会うのを止めてしまいたい……!)


 王宮デート後、必ずグレイの様子がおかしくなることから、毎回霊体を飛ばして視ていることは疑いようもない。

 今にも爆発しそうな嫉妬が渦巻くグレイの瞳を思いだすと、アリスはたまらなく不安な気持ちになる。


(だけどカーマイン様の言いつけを破れば今度こそ夜伽コース……!

 お仕置きされないためには、表面上だけでも命令に従っているフリをしなければ……)


 心配なのはカミュのことだけではない。

 園遊会後、アリスはキールを避けて一度も教会には行っておらず、安息日のお祈りも侯爵家の礼拝堂で済ませていた。

 しかしノアイユ夫人から二人が会って話したがっている様子、とりわけシモンが寂しそうにしているという話を聞くたびに胸がちくちく痛んでいた。


 そんな罪悪感に囚われているアリスと違い、アルべールは暢気なものだった。

 今も寝たままアリスの長髪の毛先を摘んでキスしながら、


「ああ、このままアリスとずっとこうしていたい。早くアリスと結婚したい」


 などと幸せそうな表情で呟いている。


 思わずアリスはカッとして、


「私は結婚なんて、まだ、全然考えられません……!」


 半ば八つ当たり気味に叫んでしまう。

 瞬間、アルベールはまっ青な瞳を一瞬見開き、弾かれたように身を起こした。


「すまないアリス、別に急かすつもりはないんだ。

 君の心の準備が出来るまで待つつもりなので、安心して欲しい」


 アリスの瞳を見つめて宥めるように言うと、両肩を抱き寄せながら、甘く囁く。


「ところでアリス、唇にキスしてもいい?」


 アルベールの突然の要求と耳元にかかる熱い吐息に、アリスの背筋にぞくぞくとした感覚が這い上がる。


「……むっ……無理です……お許し下さいアルベール様……」


 断っているのに麗しい顔を寄せられ、アリスはとっさに瞳を見ないように、恥じらうように両手で顔を覆う。

 すると、ふーっと、長い溜め息の音がして、


「結婚はともかく、キスの心の準備は次回までにしておいて欲しいな」


 いたずらっぽい声のあと、ちゅっと、頬に唇の感触がした。

 とたんアリスの鼓動は跳ね上がり、発火したように全身が熱くなる。


「何度も言ってるが、こんな風に身体が反応するのは、アリスも僕に惹かれている証拠。

 あとは自分の気持ちを素直に受け入れるだけだ」


 止めの言葉を自信たっぷりに言うと、アルベールはアリスの手を掴んで敷物から立ち上がる。


「さてと、今日は残念ながら夜会の準備があって、もう行かなければならない。

 そろそろサシャが用事を終えて戻ってくる頃だから、君を侯爵家まで送らせよう。

 それと、これから数日間は忙しくて会う暇がないので、次は5日後に王宮へ会いに来てくれるかな?」


 園遊会以降、アルベールは基本的に後見人であるサシャの方針に従い、アリスを夜会などに誘うことはなかった。

 内心、5日間会わずに済むことにほっとしながら、カーマインに逆らう勇気のないアリスは「はい」と答えた。




 今夜はサシャが夜会の警備でいない日。

 あらかじめそう分かっていたアリスは、いつもより早めの時間にグレイとNo.3の間で待ち合わせていた。


 ソードの怪我が治って以来、側近二人は夜の時間帯は任務で忙しい。

 そうでなくても武器性能に差があると相手の武器を壊してしまうので、ニードルやソード相手だと手加減せざるをえない。

 となると、自然、グレイに戦闘訓練をお願いすることになる。

 なにせ同じ大幹部であり魔界製の武器、魔剣ファントムを持つ彼なら、遠慮なく剣をぶつけ合える。

 ――と言いたいところだが――


「グレイ様! いい加減、わざと力を抜いて攻撃するのを止めて下さい!」


 病的にクィーンに甘いグレイとは、別の意味で対等にやり合えなかった……。


「すまない。どうしても、君が相手だと力が入らないんだ……」


 アニメの兄弟対決でアルベールと互角に戦っていたように、剣の腕前自体はグレイは相当なもの。

 何でも母親のオルガ妃は、第一王妃とその息子への対抗意識から、幼少時から彼に虐待並の武芸や教養の教育を施していたらしい。


『私は兄と違って父から剣の稽古を受けたことは一度もないが、かわりに幼い頃より剣聖と呼ばれる一流の剣士の指導を受けていたからね。

 それこそ手の平の皮が剥けるほどに、毎日、毎日、剣を握らされたものさ」


 最初に手合わせした時、あまりに見事な剣さばきにクィーンが感動して訊くと、グレイは苦笑しながら答えた。


 しかしせっかくの高い剣の技術も、クィーン相手だと半分しか発揮されないらしい。

 鮮やかな剣技を見せるのに、返す攻撃の一撃一撃がぬるいのだ。


 理由は『剣を持つクィーンの手が衝撃で痛むから』だと初めて剣を合わせた際に本人が言っていた。


 しかも手加減されているだけではなく、今日のグレイの剣の動きはかなり鈍く、いつも以上に力がこもっていない。

 とうとうクィーンがブラック・ローズを叩きつけた瞬間、魔剣ファントムがグレイの手から離れて弾け飛んでいってしまう。


 彼の絶不調の原因が自分だと分かっているクィーンは、深く溜め息をついて提案した。


「グレイ様。今日はもう剣の稽古は止めて、代わりに攻撃技についての相談に乗って貰えませんか?」


「……ああ、分かった……」


 グレイは虚ろな様子で呟き、銀糸の髪を揺らしてスーッと床の上を滑るように、外界への扉へと移動していく。

 クィーンもその後に続いた。


 虹色の空間を通った先は、離宮の尖塔にある燭台に照らされたカミュの居室。


 室内に出ると二人は変化を解き、靴を脱いでベッドに上ったカミュは、切なげに銀灰色の瞳を揺らしてアリスを見る。


「アリス……膝枕をしてくれるか?」


 そのどこか申し訳なさそうな、泣きそうな声に、アリスが断れるわけもなく、


「はい、カミュ様」


 頷くと、すぐにベッドに乗って膝を折って座り、カミュの頭を大腿で受け止める。

 見下ろしたカミュの白皙の美しい顔は、心なしかここ数週間でやつれたように見えた。

 できるだけ何気ない調子でアリスはカミュに尋ねる。


「さっそく相談したいのですが、グレイ様も仮面の騎士のような溜め攻撃ができますよね?」


 アニメを観た記憶では、グレイにも複数必殺技があったはずだ。


「……ああ、剣身に魔力を溜めて、亡霊の魂と一緒に放つことができる。

 ファントムに封じられている、最大99体の亡霊を一度に出すことも可能だ」


 聞いただけでも物凄そうだ。


「私もできればブラック・ローズと自分の魔力を合わせて、何か強力な攻撃を放ちたいのですが。

 カミュ様はどのようにしてその技を編み出したのですか?」


 仮面の騎士と戦って以来、決め手となる攻撃の開発をしようと、毎日ブラック・ローズを握って研究してきた。しかし、いまだにこれだという攻撃には辿り着けない。


 アリスの真剣な質問に、カミュは長い睫毛を数回瞬かせてから、おもむろに口を開く。


「別に編み出したというほどの努力はしていない。

 ファントムと自分の意識を同調させれば、自然にどう扱えばどのような技が出るか分かるんだ」


「同調……」


「剣と一体になる、と言い換えてもいいかもしれない」


(要するに私に足りないのは、ブラック・ローズとの一体感?)


 考え込むアリスの瞳に、ふいにその時、上からヒラヒラと舞い降りてくる白いメッセージ・カードが映る。


「――!?」


 反射的にパシッと掴み、裏表を確認後、開いて中を確認する。


「誰からだ?」


 下から鋭く問うカミュに、アリスは正直に答えた。


「カーマイン様からです。明日の一日の終わりの刻に、No.2の間へ顔を出せと……」


 ――たぶん今月の大幹部会議の日が近づいてきたので、打ち合わせを兼ねて呼ばれたのだろう。

 いずれにしても、アルベールへの色じかけ任務の進捗状態の報告を求められるに違いない。


「アリス。もし良ければ明日、私も一緒に同行させて貰えないだろうか? No.2に謝りたい」


 カミュの意外な申し出に、アリスは一瞬息を飲む。


「なぜ、カミュ様が謝るのですか?」


「もしも私がいなければ、君は今頃もっと兄と親密になって、神の涙を入手する機会に恵まれていたはずだ……。

 少なくとも、今よりは結果を出せていただろう……。

 もしもNo.2に君が怒られるとしたら、どう考えてもそれは私の責任だ」


(そんな風にカミュ様が負い目を感じていたなんて)


 アリスは大きくかぶりを振った。


「それは違います。結果が出せていないのはカミュ様のせいではなく、元々、男性が苦手な私には色じかけは難しく、まるっきり向いていないからです。 

 何よりあなたを連れて行けば、逆に火に油を注ぎ、よけいカーマイン様を怒らせてしまう。

 お気持ちだけありがたく頂いて、明日は私一人で行かせて頂きます。

 心配しないで下さい。カーマイン様は私が命を粗末にした時にしか、この前のような折檻はしませんから」


 かわりに夜伽させられる可能性が高いことは、あえて口にしなかった。


「そうだね……No.2が君を大事に思っていることは私も分かっている。

 君が第三支部に来たとき、武器性能を根拠にして、大幹部になるまで仮面の騎士と戦わせないように念押しされたからね」


「カーマイン様が?」


 カミュが口にした意外な事実にアリスは驚く。


「合わせてNo.2に君は諜報任務が得意だと聞き、それでシャドウの補助任務を任せていたんだ」


(シャドウの補助か、なるほどね)


 だから影化してあらゆる場所に侵入できるシャドウに向くような、個人や施設の調査などの情報収集任務が多かったのだ。

 任務については侯爵家の屋敷を抜け出しにくいという事情も汲んでくれていたようで、ほとんどが蝿姿で済むものばかりだった。

 おかげでクィーンはその半年間で鍛えられ、魂を飛ばす能力が格段に向上した。


 たとえば第二支部にいた頃は、声をかけられたぐらいで集中を切らし、しょっちゅう蝿を本体に戻していたものだ。 

 また精神体でクィーンやアリスの形を取っていても、うっすらと全身が透けている状態だった。

 それが、蝿を別の場所に待機させておけるようになり、精神体でもほぼそこに本人がいるのと変わらない存在感を出せるようになった。


 そう考えると、訓練不足で体力は落ちたが、かわりに別の能力が鍛えられた。不自由で孤独であっても決して無駄な期間ではなかったといえる。

 いや、それどころか、グレイ、カーマイン、ダークと、上位3位以内全員が、幻影を複数飛ばす能力に長けていることを思えば、トップに上がっていくための必須能力を伸ばせたとさえ言えよう。


(もしかしたら、カーマイン様はそれを狙って……)


 考えすぎかもしれないが、死なないように気にかけてくれていたことも含め、初めてカーマインに大切にされているのかもしれないと思えた。



 ――とはいえ、罰の夜伽を免除してくれるほどカーマインは甘くない――


 翌日の深夜、No.2の間を目指すクィーンの足取りは重かった。


(どう報告したら一番怒らせないで済むだろうか?)


 などと真剣に思い悩んで長い廊下を歩いていたとき――ふいに進行方向にあるNo.8の間の扉が開き、一人の見覚えのある女魔族が出てくる。 

 それが誰か認識したとたん、クィーンは思わず(嫌なやつに出くわしたな)と身構えた。

 しかし通り道なのと約束時間が迫っているので、そのまま足を止めずに進んでいく。


 相手も遠くからクィーンがやってくるのに気がついたらしい、


「あら、見てモリー、あれってクィーンじゃない?」


 数十メートル先から、懐かしくも勘高いねっとりした声をあげた。


「まぁ、マリーの言うとおり、大幹部になったクィーンだわ!」


「ねぇ、たしかクィーンはカーマイン様の飼い犬として昼も夜も尻尾を振り、ベッドでご奉仕してまで大幹部に引き上げて貰ったのよね?」


 根も葉もないことを言いながら、一人なのに二種類の声をさせて近づいてくるのは、肩に乗せた一体の人形と揃いの鮮血色のドレスを身にまとった女魔族。

 かつて第二支部に所属していた頃は、クィーンやローズと熾烈な順位争いを繰り広げていたこともある、今は本部所属のNo.18。異名「人形使い」、通称「ブラッディ・モリー」だった。




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