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「おそらく、一種のパラサイト・マニピュレーションだと思う」
ワイパーの音が不気味に響くタクシーの中で、今泉はそうつぶやいた。病院で諸々の手続きを済ませ、乗りこんだ頃には十時近くになっていた。疑問符を帯びた目を篠原が向けると、彼女は続けた。
「寄生のひとつの方法よ。例えばオフィオコルディケプス・ユニラテラリスというキノコがそう。冬虫夏草菌の一種なのだけど」
冬虫夏草とは、冬は虫の姿だが、夏には草と化すのだと考えられてきた、昆虫から生じるキノコである。その何種類かは日本にも発生し、セミの幼虫からにゅっと生える、セミタケなどがある。菌が虫にとりつくと、宿主を殺し、その体を養分としながら、やがて子嚢果、すなわちキノコを伸ばす。
「これは宿主をすぐには殺してしまわずに、ゾンビ化して操るの。ふだん、熱帯林で樹上生活をおくるダイクアリがこの菌にとり憑かれると、まず痙攣しながら地上に落ちてくる。そのままよろよろと草に這い上がり、地上から二五センチほどの高さに達すると、葉脈に噛みつき、そのまま数時間後に死ぬわ。この位置は、菌が増殖するのに最も適した環境にあるらしく、二、三週間後にはアリの頭部などからキノコが生じる」
「では、寄生生物だと思われるのですか。小俣くんに取りついた、あの『魚』は……」
原型を留めぬほど盛り上がった肩の間。ドレッドヘアの中で蠢いていたのは、紛れもなくあの生き物だった。おそらく吸盤状の口が、アマゾンの人食いナマズ、カンディルのような執拗さで、脊椎に食い入っていたのだ。
「おそらくは。レゲエマンの変わり果てた姿は、パラサイトであるあの生き物に体を乗っ取られた証拠だと思う」
「なぜ、香織を襲ったのでしょう」
ぎゅっ、とまたワイパーが軋み、篠原は心臓を鷲づかみにされる思いがした。運転手は無言に徹したまま、ラジオも切られていた。相変わらず淡々とした口調で、今泉はこたえた。
「それは、パラサイトによってレゲエマンがゾンビ化されていたから。ゾンビは完全に死んでいるわけではないので、かれの意志というか、強い執着心に、不本意ながら寄生生物は引きずられた恰好でしょう。亡霊が巷をさまようように」
そうしてその「何か」は、裏野ドリームランドへ「帰る」のだと香織は言った。うわ言のように、篠原はつぶやいた。
「十年前に閉鎖された遊園地に、いったい何が?」
「私もこの陰州町には一昨年に赴任してきたばかりだから、過去の詳しい事情はわからない。ただ、一つだけ考えられるのは、あの場所に例の生き物の巣があるのではないか、ということ」
巣、という短音が篠原の潜在意識を震え上がらせた。タクシーが闇の中に停車した。
「着きましたよ、お客さま」
ここが無間地獄です、と、暗い声が続けなかったのが不思議なくらい。駅からさほど離れていない街中とは思えないほど、辺りは暗く、一本の街灯も見当たらなかった。夜とは、これほど深いものだったのか。地面も黒一色に塗りつぶされ、一歩先に何があるかさえ判らない。それこそ、無限の奈落が口を開けていたいたとしても、なす術もなく堕ちてゆくしかない。
篠原は病院の守衛に頼みこんで、懐中電灯を借りてきていた。光線の中に、微細な鞘翅類のような霧雨が踊った。とくに傘を必要としないほど、雨脚は弱まっていた。眼前に刑務所級の壁がそびえていたことに、ぎょっとさせられた。灰色のコンクリートの上に、缶スプレーで書きなぐられた、不吉な落書きが浮かび上がった。目を逸らすように地面を照らすと、どす黒い粘液が、雨にも流されずに貼りついていた。それは明らかに何者かが壁に沿って、右に左によたよたと揺れながら歩いた痕跡を示していた。二人は顔を見合わせ、次に痕跡を追い始めた。間もなく通用口に行き着いた。ご丁寧に有刺鉄線が張られているが、角質の肉片とともに引っかかっているのは、見覚えのある派手なシャツの切れ端だった。ドアの鍵は壊れていた。
久しく手入れもされぬまま、鬱蒼と茂った植え込みがあり、やがてそれが大型プールを囲む人工の森の一角だと知れた。闇の底に横たわる水の縁に行き着いたときは、ここに何が潜んでいるか判らない現実を、改めて思い知らされた。そうだ、
あれが一匹だけとは限らないのだ。
武器らしい武器を携帯してこなかったことを、篠原は悔やんだ。それでも足は憑かれたようにプールの縁を回りこみ、極端なアーチを描く橋を渡った。懐中電灯の輪は常に黒い粘液を追っていた。洞窟の入り口を覆い尽くした蔓草の向こうに、ぼうっと、蒼い光がともっていた。横たわり、朽ちてゆく巨人のような遊園地の、心臓ばかりが息づいているように。
二人は闇の中でまた目を合わせた。粘着物を追う必要は、もはやなかった。蔓草は洞窟の中にまで侵入し、幾つもの腕のように天井から垂れ下がっていた。う゛ううううーーーんんん、という機械音が僅かずつ大きくなり、蒼い光がじわじわと闇を浸食していった。唐突に、だだっ広い空間に出たかと思えば、篠原と今泉は円筒形の、巨大な水槽の前に立ち尽くしていた。
う゛ううううーーーんんん。
魚が一匹も泳いでいなことは一目で判った。けれども、たっぷりと湛えられた海水は「生きて」おり、着実に循環していることも。そうして底面にレイアウトされた岩の間で蠢いているものを、望むと望まざるとにかかわらず、篠原は見なければならなかった。群体性のホヤ……放心したようにつぶやいた今泉の声が、かれの心臓を打ち砕く思いがした。
直径は十数メートルあるだろうか。半球形に盛り上がった赤黒いぶよぶよした物体は、レゲエマンを覆っていたのと同じ、パイナップル状の角質で覆われた球体が寄せ集まったものだった。それらは半ば繋がったまま、突出した吸水孔からしきりに水を吸い込んでいた。篠原が何よりも耐えがたかったのは、かれらと最も近い位置にある球体の上で縮れた髪の毛が揺らめき、目を真円形に見開いたレゲエマンの顔が、いまだ吸収されぬまま、刻印されていたことだ。
「篠原さん!」
日頃の今泉からは想像もつかない、ヒステリックな声で我に返った。なすべきことは判りきっていた。経験上、バックヤードの位置はすぐにつかめた。機械室はすぐ近くにあり、幸いなことに鍵はかかっていなかった。闇の中に、計器類の灯りが無数の眼のようにうずくまっていた。水を抜くためのレバーもすぐに見つかったが、思いきり引き下げたところで、何の手応えも得られない。焦燥の中で、なぜか背後から裕美子に呼ばれたような気がしたとき、水槽の縁に嵌めこまれていた、大きな鉄製のハンドルを思い出した。
急いで引き返し、ハンドルにとりついた。冷たい金属が頑強に動くことを拒んだ。
「手伝ってください!」
今泉と二人で渾身の力をこめた。確かな手応えがあり、さらに息を合わせると、また、がくんと下へ動いた。あとは篠原が一人で、狂ったようにハンドルを回し続けた。回し続けながらかたく目を閉じていたが、できることならあのおびただしい、無数の悲鳴が聴こえないように、耳をふさいでいたかった。




