14
14
電話は一向に繋がらなかった。今泉にも試してもらったが、やはり電源を切っている云々のアナウンスが流れる。店のほうにかけてみると、断続的なツー、ツーという音。故意に回線が切られているとしか考えられないことが、篠原の不安をあおった。
「急いで戻りましょう」
上の空で今泉に告げ、喫茶店を飛び出した。彼女にも篠原の不安が感染したのか、硬い表情で追ってくる。なぜこれほど胸が騒ぐのか、かれ自身にも理由が判らないまま、あの「魚」をすぐに殺さなかったことが、ひたすら悔やまれた。「あいつ」がまたやって来たのだ。裕美子を奪い去っただけでは飽き足らず、何もかも破滅させるために。なぜこれほどまでに、世界は悪意に満ち満ちているのだろう。自分が欠点だらけなのは判っているが、それでも善良であろうとし、誠実であろうとしながら、一日一日を懸命に生きている。こんなちっぽけな人間を、なぜ思うさま苦しめ、悲しませ、踏みにじろうとするのだろうか。
土砂降りの中を、傘もささずに駆け抜けた。顔に叩きつけられる雨粒で涙が砕けた。今泉は後方に、だいぶ引き離されたようだ。やがて店が視界に入り、香織の部屋に電灯がともっていることを知った。鍵をかけて出てきた筈の店の戸は開いており、駐車スペースになぜかレゲエマンのジープが停まっているのを見たときは、胸が締めつけられる思いがした。
店に飛び込むと、真っ暗な中、一番奥の水槽だけ明るくなっているのが判った。たしかに蛍光灯は消したまま、覆いをかけておいた筈だが。近寄ると、ガラス蓋が床で砕け散っており、レゲエマンの凝ったサングラスもまた無残に割れていた。例の「魚」は、水槽から跡形もなく消えていた。香織の悲鳴を聴いたのは、そのときだ。
バックヤードに駆けこんで、息を呑んだ。ストック用の水槽がすべて叩き割られ、水浸しの床でまだ生きている魚が飛び跳ねていた。悪意に満ちた世界という観念が、またかれの胸を圧した。ほとんど無意識に、短めの単管パイプを拾いあげていた。階段も水浸しで、拷問具で二倍に引き伸ばされたような足跡が、どす黒く刻印されていた。魚が腐ったような、あるいは硫黄を想わせる臭気が漂い、階段を上るにつれて、しゅうしゅうという不可解な音が際立ってきた。
雨合羽の男がたてていた「呼吸音」と同じ音が。
ぬるぬると滑るダイニングを駆け抜け、粉砕されたドアをまたぎ越した。髪の毛のある岩の塊のようなものが、ベッドの上で香織にのしかかっていた。異様に盛り上がった背に広がるドレッドヘアの中で、何かが蠢いており、オタマジャクシに似た尾の先が、時おり覗いた。ぼこぼこと角質化した腕に首を絞められて、娘が白眼を剥いているのを見たとき、篠原は自身が火のような怒りの塊と化すのを覚えた。
何事かを叫んだのだと思う。娘の名前かもしれないし、あるいは執拗にかれを苦しめる「何ものか」への怨嗟だったのかもしれない。ひとつだけ判っているのは、単管パイプが渾身の力を籠めて、「怪物」の頭頂へ叩き込まれたということだ。
この世のものとは思えない悲鳴を聴いた。強いて例えるならば、太古の巨大な両棲類が上げるおぞましい断末魔のような。振り向いた顔は目と鼻を除いてパイナップル状の角質で覆われ、頬を真横に切り裂いた恰好の顎がだらりと垂れ下がり、緑色の異様に長い舌が、すべて犬歯と化した歯にとり囲まれていた。ほとんど無意識に、篠原は単管パイプを構えなおし、その頬を横殴りに殴りつけた。げろげろと叫びながら、怪物はベッドから転げ落ちると、四つん這いになり、体つきからは思いもよらない跳躍力で窓に体当たりした。娘を庇って覆い被さった篠原の背に、ガラスの破片が降り注いだ。
「篠原さん!」
呻きながら顔を上げたところへ、今泉が駆けこんできた。幸いガラス片はかれを傷つけてはいなかった。香織の顔は蒼白だったが、息があることがすぐに知れた。もの慣れた手つきで今泉が処置すると、痛ましい咳をして、間もなく意識を取り戻した。
「おとう……さん?」
水を与え、すでに救急車を呼んだと告げた。ひとしきり泣いたあとは、だいぶ回復した様子。部屋の状態を見せるわけにもゆかないので、店先で救急車に乗り込んだ。今泉もつき添い、病院へ向かう途中も、かれは意識して起こったことに触れないようにした。香織も無言で目を閉じていたが、眠ってしまったのかと思った頃、急に瞼を開いてこう言うのだ。
「お父さん、私、あいつがどこへ帰ったか、判る気がする」
「帰った……?」
夢でも見たのだろうか。一瞬そう疑ったほど唐突な言葉が、けれど篠原には圧倒的な真実みを帯びて響いた。かれを見上げる娘の眼差しは、裕美子の思い出とそっくりだった。
「そう、帰ったの。あいつはずっとあそこにいたし、今もいるの」
「それは?」
「裏野ドリームランドの大型プール。人工の洞窟にある水槽の中よ」
覚えず今泉と顔を見合わせると、彼女もまた見開いた目をしばたたかせた。たしかに篠原は、一度も娘をあの遊園地へ連れていかなかったのではなかったか。神がかりの巫女のような口調で、香織は続けた。
「私はだいじょうぶだから、お父さんたちは早くあそこへ行って。あいつがこれ以上、殖える前に」
再び目を閉じた香織は、そのまま一晩じゅう眠り続けた。




