12
12
「水が怖い?」
篠原は、さすがに驚いた様子で今泉の横顔へ目を転じた。店から歩いて十五分の喫茶店「LOW」にはカウンター席しかなく、外から眺めた限りでは、ありふれた民家にしか見えない。メニューは何種類かのコーヒー以外に何もないが、手ずからネルドリップで煎れてくれるので、味は申し分ない。気分転換したいとき、よく散歩がてら利用していたが、今泉絵梨子と二人きりで来店したのは、今日が初めてである。
六十がらみの店主は、けれど、いつもどおり淡々とかれらを迎えた。常に微笑んでいるように見える柔和な顔つきは、極端な無口を補って余りあり、流れてくるジャズも一九五〇年代の穏やかな曲ばかりなので、レゲエマンが好む爆音のようなサックスに、ひやりとさせられることもない。少々立ち入った話も、ここでなら安心してできる気がした。
「ええ、急に怖くなった、と。直感的に私は、ストレスが原因だと考えたの。スクールカウンセラーに相談するよう勧め、許可を得て私も立ち会わせてもらった。香織ちゃんが入学して間もない頃にね」
自身のカップを見つめたまま、理系らしい口調で今泉は答えた。あれから客が来はじめたので、対応に追われるまま、肝心な話ができずにいた。客足が途絶えた隙に店を閉め、律儀に待ってくれていた彼女と、この「LOW」を訪れたのだ。店に残っても構わなかったのだが、なぜかこれ以上、あの「魚」の近くにはいたくなかった。今泉は言葉を継いだ。
「中学を卒業する頃までは、今後も水泳を続けることに、何の疑問も抱かなかったというわ。ところが春休みに、友達に誘われてK市の水族館へ遊びに行ったとき……」
「K市の?」ぎょっとしたように、篠原は目を上げた。かつてのかれの職場を娘が訪れた話など、聞いた覚えがない。普段の香織なら、屈託なく話してくれるはずなのに。
「ほら、あそこには呼びものの大水槽があるじゃない。円筒形をした、イワシの大群からエイやウミガメまで泳いでいて、時には女性ダイバーを入れて、お客に手を振らせたりする」
おのずから篠原は眉根を寄せた。イルカのショーと違い、あの仕事は気が進まないと、裕美子がよく洩らしていたのを思い出して。
「あの水槽を眺めているうちに、香織ちゃん、倒れたんだって。幸いすぐに意識が戻って、救急車を呼ぶには至らなかったみたいだけど」
「どうして、また」貧血を起こしたことなど一度もない子だ。何かと故障の多い篠原に似ず、体だけは丈夫だと本人もよく自賛していた。
「吸いこまれてゆくような感覚があったというわ。海を模した水槽の中が宇宙のように限りなく膨張して、反対に自分がものすごく小さな存在に感じた、と。自分は広大な海を構成する粒子の一粒に過ぎず、ひたすら潮流に翻弄されるばかりなんだって」
「それから、水が怖くなった?」
無言でうなずく今泉を、篠原は戦慄とともに眺めた。破局が訪れる二月ほど前から、裕美子がイルカショーに出なくなったことが、どうしても思い合わされた。体調を崩しているというのが表向きの理由だったが、夫であるかれには事実でないことがよく判っていた。けれども、真の理由を尋ねても一向に埒が明かないまま、彼女は後輩の指導などに従事していたが、篠原の目には、泳ぐことを避けているとしか映らなかった。
そうして彼女の豹変と、「あの男」が現れた時期は、ぴたりと一致するのだ。
「篠原さん、気分でも悪いの」
おそらく蒼白になっていたのだろう。気遣ってくれる今泉に、かれは過去の傷にまつわる話を、自然に始めることができた。
「あの男とは?」
「水族館に出入りしている漁師の一人でした。日焼けした、いかにも逞しい美青年だったことは認めます」
駆け落ちだった。簡単な置き手紙を遺して、裕美子は男と消えた。二人が海のほうへ、手をとりあって歩いてゆく姿を、目撃した者もいた。捜索願いを出したけれど、彼女たちの行方はいまだに杳として知れない。男には身寄りがなかったらしく、漁協に提出していた履歴書も、でたらめだったことが判明した。喘ぐように、篠原は続けた。
「ただ、奔放なところがあるとはいえ、裕美子は結婚してからは、一度も浮ついた態度を示しませんでした。おれのことも娘のことも、心から愛していたと信じます。ですから、まるであの男は……」
言葉を探す篠原を、今泉は黙って見つめていた。苦しげに眉根を寄せるかれの脳裏に、二つの陰火のような男の眼差しが浮かんだ。ギリシャ彫刻のような外観にそぐわず、男の目つきだけは、なぜか異様に暗く感じられた。夜の野獣の、蒼く燃える眼のような。あるいは近年初めて撮影された、ダイオウイカのどこまでも沈んだ目つき。
「あっ」
覚えず驚きの声が洩れた。怪訝そうな今泉の視線を見返しながら、篠原は苦しげに言葉を絞り出した。
「昨夜の、雨合羽の男の、あの目つきは……あれは、裕美子を奪った男の目と、とてもよく似て……いや、似ているどころじゃない、あれは、まったく同じものです」
我知らず立ち上がった篠原に、店主が珍しく驚いた顔を向けた。
店に戻らなければ。それも、一刻も早く!
理屈を超越した声が、心の奥底から、しきりにかれを呼び続けていた。




