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 レゲエマンはむしゃくしゃしていた。なぜ自分がこんなにむしゃくしゃしているのか判らないほど、むしゃくしゃしていた。ラングラーの巨体をわざと乱暴に振り回し、当てずっぽうに公道を突っ走った。もちろん篠原に口約束したとおり、アクアモールへ寄るつもりなど、とうに失せていた。もしかしたら、こんなにむしゃくしゃしているのは、香織にドライブを断られたからだろうか。という考えが、一瞬、かれの胸をちくりと刺した。いや、そんな筈はない。その程度のことで、インドで瞑想を教わったボクの心が乱れるわけがない。執着を捨て、ヨーガに立脚して平等の境地を求めよと師は言った。ヨーガとは、一般人が思い描くような柔軟体操の一種ではない。生き方そのものが、ヨーガなのだ。ためしにボクを見るがいい。全身でヨーガを体現している、このボクを。

「うえええ?」

 信号で急停車したとき、自身がひどく苦しんでいることに気づいた。インフルエンザで寝込んでいる気分に似ていた。針で突いた程度だった胸の痛みが、もはや全身を完膚なきまでに蝕んでいることに、レゲエマンは愕然とした。こんな苦痛はいやだいやだ厭だった。医者に診せるか、薬を呑むかしてして一刻も早く消し去りたかった。事実、かれは幾らかの大麻を車の中に隠し持っていた。そもそも日本の権力が血眼になって大麻を探し出し、ひねり潰す理由が判らない。かつて大和朝廷が蝦夷を排除したような執拗さで。いったいこの罪のない雑草の何がかれらを刺激するのだろう。一見平和でありふれた風景は、恐るべき毒草で満ち満ちているというのに。ただちょっと人を気持ち好くしてくれるだけの草ばかりが、なぜここまで徹底的に差別されるのか。権力とは、庶民のささやかな幸福を奪うために存在するのだろうか。

 無駄にだだっ広い衣料品店の駐車場が目についた。三十台は入りそうだが、停まっているのは数台。それも本当に客かどうか疑わしい。ラングラーを乗り入れ、最も店から離れた片隅にアタマを突っ込ませた。いつの間にか午後一時を回っており、正午を過ぎても腹がまったく減っていないことに、強い違和感を覚えた。日頃は空腹ほど、耐え難いものはないというのに。アイドリングさせたまま、エアコンとカーステレオはつけっ放しで、ダッシュボードを開け、木彫りのシガレットケースを取り出した。ペルーからの輸入品で、紙巻き煙草に偽装した「ジョイント」がぎっしり詰まっていた。中身は混ぜ物ナシのチャラスである。レゲエマンはシートを傾け、ジッポのライターでジョイントに火をつけた。ゆったりと寝そべりながら、煙を深々と吸い込み、半ば目を閉じて効いてくるのを待った。間もなく、隣で寝そべっている香織の幻が意識された。思いどおりの幻覚を見る秘伝も、インドの師匠から教わったもの。伝授料は法外だったが、それだけの価値はあった。いまやかれは、香織とひとつのシートに、お互い何ひとつ身につけず、ぴったりと身を寄せあっていた。そうだ、これこそ師が教えてくれた平等の境地。ボクたちはひとつになったのであり、ボクでもなくキミでもなく、小俣勝でもなく篠原香織でもなく、ましてレゲエマンなんかであるべくもなく、そうして男でもなく女でもない。絶対的な平等の境地で、いつまでも、どこまでも、ボクたちはひとつに、ひとつに、ひとつにつながって、つながって、つながって、溶けてゆくんだよ……三本ほど灰にしたところで意識をなくした。

 サイドガラスをノックする音で目を覚ました。頭蓋骨の中で道成寺の鐘が鳴るように、その音は頭にがんがん響いた。逃げ去ろうとする夢の残滓を見た気がした。そいつは暗い夢が延々と続く中、魚の先祖にまで退化した自身の姿にほかならなかった。どうやら昇りつめたあと、「バッド」に陥ってしまったらしい。呻きながら必死で瞼をこじ開ければ、衣料品店の制服を着た中年女性の姿が映った。すでに辺りは闇に包まれようとしていた。引っ詰め髪の痩せた女性は、傘をさしたまま、ガラス越しに何事か話しかけてくるが、まったく聞こえない。しみったれたあんたの店になんかボクは用はない。レゲエマンは憮然としてシートを起こし、ギアをバックに入れてエンジンをふかした。アスファルトの上に、安っぽいビニール傘が転がるのが見えた。

 このまま自宅へ帰るか、どこかのバーで飲み直そうとも考えたが、ラングラーは引き寄せられるように店へ向かっていた。感触をともなう香織の幻が、アロマオイルのような甘美さで肌に染みこんでいた。まだ八時前だというのに、店は閉まっており、灯りもすでに落としてある様子。早くとも九時くらいまでは店を開けている、お人好しの篠原にしては珍しい。軽く舌打ちしながら合い鍵を用いて入り口のドアを開けた。案の定、店の中は真っ暗で、もの音ひとつ聴こえなかった。黙々と泳いでいるアジアアロワナの鱗が、外光を鈍く反射した。やがてレゲエマンは、店の最も奥まった辺りに、ぼんやりと蒼い光がともっていることに気づいた。一つだけ、水槽の照明を消し忘れたものと思われた。

 まだどこかふらつく足取りで、レゲエマンは歩み寄った。空のコーヒーカップが二つ遺され、床に落ちている布の覆いに気づいた。六十センチ幅の水槽の中心に、そいつは午前中と同じ姿で浮遊していた。ただせわしなく蠢いていた単眼モノアイが、今はじっとレゲエマンを見据えていることを除いて。

「ふん、いけ好かないツラしてやがる。インペリアルゼブラプレコのほうが、おまえなんかより一億倍可愛いんだよ」

 急な眩暈めまいに見舞われ、レゲエマンは大きくよろめいた。体内に残っていた大麻が、今頃になって効いてきた気がした。エドハーディーのサングラスを自身の足で踏みつぶした。それでも水槽の中から目を離せなかった。生き物の眼が灼熱するように赤く輝いたかと思うと、信じられない力でガラス蓋を押し上げ、宙に踊り出るまで、真円形に見開いた目で、憑かれたように凝視していた。

 かれが最後に見たのは、プレコのそれに似ているが、ぎざぎざの歯でびっしりと縁取られた円形の口だった。

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