第三十七話 そろばんで戦う商人トルーンと、愛妻パンの取引価格
人間という生物は、損得勘定という合理的な物差しを持ちながら、感情という湿度でその目盛りを狂わせる。
計算高いはずの行動が、時として支離滅裂な自己犠牲へと変貌する――その瞬間こそが、最高のエンターテインメントだ。
吾輩はダンジョンである。
そして今、吾輩は一人の商人の「狂い」を目撃しようとしていた。
ここ数ヶ月、吾輩の体内には「常連」と呼べる冒険者たちが定着しつつあった。
一攫千金を夢見る若者、腕試しに来る古参の戦士、あるいはフタバのように商機を見出して出入りする業者。
その中に一人、ひときわ異彩を放つ男がいた。
名前はトルーン。
太い眉毛と、人の良さそうな丸顔、そして少し突き出た腹を持つ、中年男である。
彼は冒険者ではない。商人だ。
聞くところによると、最近このインクストーン領に家族連れで移住してきたばかりで、「世界一の武器商人になる」という大層な夢を抱いているらしい。
だが、彼の装備は奇妙だった。
剣も槍も持っていない。彼が手にしているのは、分厚い鉄で作られた、巨大な「そろばん」であった。
彼の戦闘スタイルは、見ていて痛快ですらある。
第一階層のスライムが現れると、彼はそろばんを構え、珠を弾くような動作で殴りかかる。
カチャリ、パチン。
硬質な音が響くたび、スライムが弾き飛ばされる。
「スライム一体、魔石価値二十ゴールド。労力コスト十ゴールド。純利益十ゴールド。……よし、合格ラインだ!」
トルーンは攻略しながら、常に採算表を頭の中で更新していた。
無駄な戦闘はしない。赤字になる敵は避ける。
その徹底ぶりは、他の冒険者から「ケチ」と揶揄されることもあったが、彼は意に介さない。
「家族を養うのに、見栄は不要だ」
それが、彼の口癖だった。
どうやら、敵を倒して得られる魔石の価値と、自分の労力を瞬時に計算し、赤字にならない範囲で戦っているらしい。
実にシビアだ。
だが、その計算高さとは裏腹に、彼は決して無理をしない。
体力が減れば即座に撤退し、装備が傷つけば街へ戻ってメンテナンスを行う。
その堅実なプレイスタイルは、無謀な特攻を繰り返して死んでいく若者たちとは一線を画していた。
吾輩が彼に興味を持ったのは、その戦闘スタイルだけではない。
彼が毎日、昼食の時間になると決まって取り出す、ある「食料」のせいだった。
ダンジョンの安全地帯、噴水のそば。
トルーンは背負い袋から、座布団のように巨大なパンを取り出す。
どう見ても市販のものではない。形は不揃いで、焼き色は濃く、そして何よりデカい。
彼の妻が焼いたという、特製の愛妻パンだ。
彼はそれを、実に幸せそうに頬張るのだ。
高級な具材が入っているわけでもない、ただの小麦の塊。
だが、それを噛み締める彼の顔には、商人の厳しい目つきは消え、ただの父親としての柔和な笑みが浮かんでいる。
それを見ていると、吾輩の記憶の底にある、澱のようなものが揺らぐのを感じる。
具体的な映像ではない。
ただ、誰かが自分のために作った食事を、忙しい合間にかき込む時の、あの安堵感。
冷えているけれど温かい、不思議な感覚。
――ああ、思い出した。
――あれは、寂しくて、でも温かかった。
朧げな記憶は、パンの酵母の香りのように、ふわりと漂っては消えていく。
トルーンは順調だった。
コツコツと稼いだ金で、鉄のそろばんを鋼鉄製に強化し、防具を新調し、少しずつ攻略階層を深めていった。
吾輩は、彼を「優良な育成ゲームのキャラクター」を見るような気持ちで、密かに応援していたのだ。
だが。
ある日、トルーンはいつもより早く引き上げた。
「今日は息子の誕生日でな。早く帰らないと」
彼は嬉しそうに、大きなパンを抱えて去っていった。
それが、彼を見た最後だった。
一日、二日、一週間。
あの軽快なそろばんの音は、ぷっつりと途絶えた。
吾輩は、胸の中に小さな穴が空いたような欠落感を覚えた。
――死んだか?
――いや、あの慎重な男が、そう簡単にくたばるとは思えん。
気になった吾輩は、出入りの激しいフタバに、それとなく探りを入れてみた。
彼女は事情通だ。
「ああ、トルーンさんですか? ……大変みたいですよ」
フタバは少し表情を曇らせた。
「息子さんのピエトロ君が、急に倒れちゃって。お医者様も原因が分からないって、匙を投げたそうです。トルーンさん、商売も休んで、ずっと看病してるって聞きました」
病気か。
それも、原因不明の。
人間というのは脆いものだ。どれだけ金を稼いでも、どれだけ計算高く生きても、病魔という理不尽な乱数一つで、その幸福は容易く崩れ去る。
吾輩にできることはない。
所詮、吾輩は不動産だ。
テナントの家庭の事情にまで口を挟む義理はない。
そう思っていた。
数日後。
入り口のセンサーが、懐かしい、しかし決定的に異質な反応を捉えた。
トルーンだ。
だが、その足取りにいつものリズムはない。重く、引きずり、そして焦燥に満ちている。
彼が第一階層に足を踏み入れた時、吾輩はその変貌ぶりに驚愕した。
あの丸かった顔はゲッソリと痩せこけ、目は血走り、服は薄汚れている。
そして何より、あのトレードマークだった「そろばん」を持っていない。
代わりに手にしているのは、どこかの古道具屋で買ってきたような、錆びついた安物の剣だった。
彼は立ち止まらない。
安全確認も、損得勘定もしない。
ただ、何かに取り憑かれたように、奥へ、奥へと進もうとする。
「……あるはずだ。この奥に、『幻の万能薬』が」
彼の独り言が、壁を通じて聞こえてくる。
「どんな病気も治す、エリクサーの原料になる花が……噂で聞いたんだ。ここにあるって」
――馬鹿な。
――そんなものはない。
それは、冒険者たちの間でまことしやかに囁かれるデマだ。
「ダンジョンの深層には万能薬がある」という、希望的観測が生んだ都市伝説に過ぎない。
いつもの彼なら、そんな噂を鼻で笑い飛ばしただろう。
だが、今の彼は正常な判断力を失っている。
溺れる者は藁をも掴むと言うが、彼が掴もうとしているのは藁ですらない、幻影だ。
彼は、第一階層を抜け、第二階層を走り抜け、第三階層「魔の森」へと突入した。
ここは、Bランク相当の危険地帯だ。
そろばんを持った万全の彼でさえ、まだ足を踏み入れていない領域。
錆びた剣一本の素人が入れば、どうなるか。
『……主。あのおっさん、死ぬで』
森の主、コダマからの念話が届く。
『足音だけでわかるわ。殺気がないどころか、隙だらけや。植物たちが「餌が来た」ってざわついとる』
――コダマ。万能薬はあるか?
『あるわけないやろ。アホか。……病気っちゅうのはな、原因に合わせて薬を変えなアカンのや。熱なら解熱剤、毒なら解毒剤。何にでも効く薬なんて、それはもう毒と一緒や』
正論だ。
植物の専門家であるコダマの言う通りだ。
彼が探している「花」など存在しない。
あるのは、彼を養分にしようと待ち構える食人植物と、残酷な現実だけ。
トルーンが、茂みをかき分ける。
その背後から、巨大な蔦が音もなく鎌首をもたげた。
彼は気づかない。
ただ、目の前の闇を見つめ、「ピエトロ……待ってろ……」と譫言のように呟いている。
このまま放置すれば、彼は死ぬ。
それはダンジョンの摂理だ。
無謀な者が淘汰されるのは、自然の掟である。
だが。
――気に入らない。
吾輩は、不快感を覚えた。
彼が死ぬこと自体はいい。だが、こんなつまらないデマに踊らされ、商人の誇りも計算も捨てて、無様に野垂れ死ぬのは、見ていて面白くない。
彼には、最後まで「計算高い商人」であってほしかった。
それに、あの巨大なパンを食べる姿を、もう一度見たいという、個人的な未練もあった。
――パープル。行け。
――あの馬鹿を拾ってこい。
第八階層の自室で優雅に紅茶(のフリをした泥水)を飲んでいたリッチに、指令が飛ぶ。
第三階層。
トルーンは、ついに限界を迎えていた。
蔦に足を絡め取られ、宙吊りにされている。
錆びた剣は折れ、彼の体は傷だらけだ。
「くそっ……! こんなところで……俺は……!」
彼は涙を流していた。
自分の命が惜しいのではない。息子を救う手立てが絶たれることが、無念でならないのだ。
蔦が彼の首を絞め上げようとした、その時。
『……見苦しい』
冷徹な声と共に、闇色の閃光が走った。
蔦が一瞬で枯れ落ち、トルーンの体が地面に投げ出される。
彼が顔を上げると、そこには貴婦人の帽子を被ったドクロ――色部パープルが立っていた。
「ひっ、リッチ……!?」
トルーンが後ずさる。
『静かにせよ。……主の命により、貴様を保護する』
パープルは、骨の指でトルーンの額に触れた。攻撃ではない。診断魔法だ。
『……ふむ。貴様、酷い顔色だ。死相が出ているぞ。……それに、息子とやらの病、心当たりがあるようだな?』
「な、なぜそれを……! あんた、治せるのか!?」
トルーンがパープルのローブにすがりつく。
『勘違いするな。我は医者ではない。……だが、かつて宮廷に仕えた身として、知識はある』
パープルは、トルーンから息子の症状(高熱、皮膚の硬化、魔力の逆流)を聞き出すと、即座に結論を下した。
『……症状からすれば、石化熱の可能性が高い。かつて宮廷で一度だけ見たことがある』
パープルは骨の指を組んで考える。
『治療法は文献にあったはずだが……確か、強力な冷却作用のある薬草と、魔力を鎮める鉱物が必要だったはず。……この森の苔と、竜王の鱗が、それに近い性質を持っている』
コダマの髭と、ヴォルグの鱗。
どちらも、このダンジョンの最高戦力から剥ぎ取らねばならない激レア素材だ。
冒険者が束になっても手に入らない代物。
トルーンは絶望するどころか、さらに強くすがりついた。
「頼む! それを譲ってくれ! 金ならある! いや、今は足りないが、必ず稼いで払う! 俺の命でも、魂でも、なんでも差し出す!」
商人が、対価として「自分の全て」を差し出す。
それは究極の破綻であり、敗北だ。
吾輩は、パープルを通じて告げた。
『……下らぬ』
パープルの声が冷たく響く。
『金など、ここ(ダンジョン)では石ころ同然。貴様の命など、食っても腹の足しにならぬ。……商人が、安易に「全て」などと口にするな。足元を見られるぞ』
トルーンがハッとして顔を上げる。
『取引をしよう』
パープルが、芝居がかった仕草で指を立てる。
『主は、貴様が持っている「あるもの」を所望しておられる。それを差し出せば、特別に薬の材料をくれてやろう』
「あ、あるもの? なんだ? 俺の装備か? それとも店の権利書か?」
『否。……貴様がいつも昼餉に食らっている、その巨大なパンだ』
トルーンが呆気にとられた。
「……は? パン? 妻の焼いた、あのパンか?」
『そうだ。主は、貴様があまりに美味そうにそれを食うものだから、以前から気になっていたらしい。……どうだ? 竜の鱗と、精霊の苔。それと、パン一個』
釣り合わないにも程がある。
国宝級の素材と、家庭料理のパンの交換だ。
釣り合っていない取引に疑問を持つこともなく、トルーンは即座に、懐から布に包まれたパンを取り出した。
潰れて変形してはいるが、まだ温かい。
「こ、こんなものでいいなら、いくらでも持ってけ! 全部やる! 俺の分も、明日の分も!」
彼は泣きながら、パンを差し出した。
『……契約成立だ』
パープルはパンを受け取り、代わりに懐から小瓶を二つ取り出した。
コダマからむしり取った苔と、ヴォルグが「フケだ」と言って落とした鱗の粉末だ。
『行け。……そして二度と、商人の魂を忘れてここに来るな』
トルーンは、何度も何度も頭を下げ、薬を抱きしめて走り去った。
その背中は、来た時よりもずっと軽く、そして力強かった。
さて。
手元に残ったのは、巨大なパン一つである。
吾輩は、これを従業員たちに分配することにした。
第八階層のコアルーム。
ヴォルグ、コダマ、スライム、そしてパープルが集まっている。
パンは四等分された。
『……なんだこれは。パサパサしておるぞ』
ヴォルグが文句を言いながら齧る。
『水分が足りん。喉に詰まる。……だが』
彼は黙って、もう一口齧った。
『……妙だな。不味いはずなのに、食べる手が止まらん』
『せやろ?』
コダマも頷く。
『酵母の発酵は甘いけど、なんやろな。食うとホッとするわ。これ、ただのパンとちゃうで』
『(モグモグ)……お母さんの味、ってやつですかね』
スライムが幸せそうに目を細める。
『……材料じゃない。作り手の「気持ち」が、味になってるんですよ』
吾輩は、彼らが食べる様子を「感知」しながら、その味を想像した。
素朴で、無骨で、洗練されていない味。
だが、そこには確かな「熱量」がある。
誰かが誰かを想って捏ね、焼き上げ、持たせたという、見えないスパイス。
トルーンがあれほど美味そうに食べていた理由は、味ではなく、そのスパイスにあったのだろう。
――悪くない。
――たまには、こういう庶民的な味も一興だ。
吾輩は、心がほんのりと温まるのを感じた。
それは、どんな魔力よりも効率よく、吾輩の精神を回復させた。
それから一週間後。
入り口のセンサーが、聞き慣れたリズムを捉えた。
カチャリ、パチン。
鋼鉄のそろばんの音だ。
トルーンが帰ってきた。
彼の顔色は戻り、装備も綺麗に手入れされている。
そして、その背中には、以前よりも大きな背負い袋があった。
彼は第一階層の入り口で立ち止まり、深々と一礼した。
「……ありがとう。おかげで息子は助かった」
そして、彼はニカっと笑い、そろばんを弾いた。
「さて、ここからはビジネスだ! ダンジョンの主よ、あんたが気に入ったっていう『特製パン』、今日から定期納入させてもらうぜ!」
彼は袋から、山のようなパンを取り出した。
どうやら、妻に頼んで大量に焼いてもらったらしい。
「その代わり! 代金は『ダンジョン産の特産品』で相殺させてもらう! こっちはパンの運び屋兼、専属商社として契約を申し込む!」
ちゃっかりしている。
息子が治った途端、この商魂だ。
だが、そうでなくては困る。
吾輩が見込んだのは、悲劇の父親ではなく、このふてぶてしい商人なのだから。
吾輩はダンジョンである。
契約は成立だ。
今日から我がダンジョンの社食には、巨大パンが常備されることになるだろう。
……ヴォルグよ、パンばかりと文句を言うな。スープに浸して食えば美味いぞ。
これは「愛」という名の、最も高価な栄養素なのだから。




