第三十六話 社食改革と、幻の『黒い液体』
平和とは、退屈の異名であると同時に、内なる欲望が目覚める温床でもある。
外敵の脅威が去り、生存への渇望が満たされると、知的生命体は次なる欲望――即ち「快楽」を求め始める。
睡眠、娯楽、そして食欲。
吾輩のような不動産物件にとって、直接的な摂食行為は不可能であるが、支配下にある領域内で発生する事象を「味わう」ことは可能だ。
最近、吾輩の思考回路を占拠しているのは、魔力でも恐怖でもない。
もっと原始的で、暴力的で、そして郷愁を誘う「味」の記憶であった。
吾輩はダンジョンである。
隣の領主との諍いが収束し、リバードラ伯爵家が植物パニックで自滅した今、吾輩の内部はかつてないほどの平穏に包まれていた。
完璧な経営状態だ。
だが、何かが足りない。
きっかけは、フタバが休憩中に食べていた、何気ない弁当の匂いだった。
パンと、塩辛いだけのスープ。
その質素な香りを感じた瞬間、吾輩の脳裏の奥底から、強烈な違和感と共に、ある「失われた味」への渇望が突き上げてきたのだ。
――違う。
――色が、足りない。
――もっとこう、黒くて、深くて、鼻腔をくすぐるような、あの香ばしい液体がない。
記憶の彼方。
灯りが瞬く夜の街、湯気の立つ器。あるいは、冷奴にかかった漆黒の雫。
具体的な風景は霞んで見えない。だが、舌の根が覚えている。
あの、塩味とも甘味とも違う、五臓六腑に染み渡る「旨味」の正体を。
醤油。
そして、出汁。
その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、吾輩の欲求は爆発した。
欲しい。
あの味を、感じたい。
たとえ吾輩自身が啜ることはできなくとも、従業員(魔物)たちに食わせ、その「美味い!」という感情をダイレクトに摂取したい。
吾輩は、直ちに幹部招集をかけた。
場所は第八階層、竜王の宮殿の裏手にある厨房スペース。
集められたのは、コダマ、ヴォルグ、スライム、そして通信参加のクラーケンである。
吾輩は、彼らにプロジェクトの概要を説明した。
名付けて『黒い液体・再現プロジェクト』である。
――コダマ。お前には新たな植物の栽培を命じる。
――大豆だ。あと小麦。それから、森の奥に自生している「謎の菌類」を採取せよ。
『大豆? なんやそれ。豆撒きでもするんか?』
コダマは首を傾げたが、植物のこととなれば興味津々だ。
――スライム。お前は「発酵」担当だ。
――お前の温度管理能力を使って、大豆と小麦と菌を混ぜたものを、徹底的に管理せよ。腐らせるなよ、熟成させるのだ。
「プルプル(任せてください、主様! まさか異世界で醤油作りができるなんて!)」
スライムだけは、吾輩の意図を正確に理解し、歓喜に震えていた。さすがは転生者だ。
――ヴォルグ。お前は「動物系スープ」担当だ。
――オークの骨、コカトリスのガラを寸胴鍋に放り込み、弱火で三日三晩煮込め。
『……我は竜王だぞ? なぜガスコンロの真似事をせねばならん』
ヴォルグが抗議するが、吾輩は「報酬は特上の美味いものだ」と告げ、彼を黙らせた。
――そしてクラーケン。お前は「魚介出汁」担当だ。
『……魚介出汁? 我に、漁師になれと言うのか?』
地底湖からの念話は相変わらずローテンションだ。
だが、彼は「あるもの」を提供してくれた。
『……先日、地上のプールで日光浴をしていてな。うっかり焼きすぎて、足の先端が干からびて取れてしまったのだ。……これを使うがいい』
彼が差し出したのは、カチカチに乾燥し、黄金色に輝く触手の先端だった。
若干の抵抗はあるが、これはこれで最高級のスルメ、いや「干しクラーケン」だ。
これなら、かつお節にも負けない濃厚な出汁が出るに違いない。
こうして、ダンジョンの総力を挙げた「社食改革」が始まった。
苦難の連続であった。
まず、スライムの発酵工程で発生する「香り」が問題だった。
樽から漂う独特の醤油の芳香。
これを知らない魔物たちにとっては、未知の毒ガスの予兆にしか思えなかったらしい。
『くっさ! なんやこれ! 主、これ絶対腐ってるで!』
コダマが鼻をつまんで逃げ回る。
『……邪悪な気配がする。リッチの死体防腐剤よりも強烈だ』
ヴォルグも涙目だ。
違うのだ。これは芳醇な香りなのだ。
一方、食材調達部隊も奮闘していた。
ブランカの子狼たちと、ゴブリン隊だ。
彼らは「美味い肉が食える」と聞いて目の色を変えた。
子狼たちはブランカ付き添いの下、第三階層の森を駆け巡り、丸々と太ったオークやコカトリスを狩ってくる。それはもう、遊びの延長のような無邪気さで、獲物の喉笛を食いちぎってくるのだ。
ゴブリンたちは、それを手際よく解体し、ヴォルグの鍋へと運ぶ。
一週間目。樽からは異臭のみ。コダマが「失敗や」と言い出す。
二週間目。ようやく色が変わり始める。スライムが「順調です」と報告。
三週間目。香りが変化する。刺激臭から、芳醇な香りへ。
そして四週間目――ついに「それ」は完成した。
漆黒の液体。醤油である。
同時に、ヴォルグが煮込んでいたスープも完成した。
白濁した豚骨と鶏のダブルスープに、クラーケンの干物から取った黄金色の出汁を加えた、特製トリプルスープ。
麺は、コダマの小麦を使い、コボルトたちが足踏みしてコシを出した特製ちぢれ麺だ。
いざ、試食会である。
厨房に、緊張が走る。
目の前に置かれたのは、湯気を立てる丼。
黒く透き通ったスープの中に、黄金色の麺が泳ぎ、厚切りのチャーシューと、煮卵、そしてネギが鎮座している。
まずは毒味役……もとい、総責任者のヴォルグからだ。
彼は疑いの眼差しでスープを一口啜った。
ズズッ……。
静寂。
ヴォルグの動きが止まる。
スープが喉を滑り落ちる。塩味、旨味、そして複雑に絡み合う無数の香りが、竜王の神経回路を一斉に刺激する。
爬虫類特有の縦長の瞳孔が、極限まで開いた。
『……ッ!?』
次の瞬間、彼は猛然と麺を啜り始めた。
ズルズル! ズルズルズル!
竜王にあるまじき吸引力である。
『なんだこれは! 味が! 暴力的なまでの旨味が、口の中で爆発している!』
『塩ではない! 肉汁だけでもない! この黒い液体が、全ての素材を統率し、未知の領域へと昇華させている!』
その反応を見て、周囲で見守っていた子狼たちやゴブリンたちが、一斉に騒ぎ出した。
「わふっ!(僕も!)」
「ギャー!(俺らにも食わせろ!)」
吾輩は許可を出した。
子狼たちが、小さな皿に分けられた麺を、顔中汁まみれにして貪り食う。
ゴブリンたちが、チャーシューを巡って争いながらも、スープの一滴まで飲み干す。
コダマも『なんやこれ、深みがすごいやんけ。わいのネギとも相性抜群や』と絶賛している。
成功だ。
彼らから溢れ出る「幸福」と「驚愕」のエネルギー。
ああ、これだ。この「五臓六腑に染み渡る」感覚。
その時、入り口のセンサーが侵入者を感知した。
たった一人。罠を無視し、一直線に厨房へと向かってくる。
現れたのは、白髭を蓄えた老ドワーフだった。背中には巨大なハンマー。まさに歴戦の勇者とも言うべき風貌。
彼は厨房の入り口に立つと、ヴォルグたちを一瞥もしなかった。
「……ここか。地上まで漂ってくる、極上の香りの源は」
ヴォルグが唸る。
『何奴だ』
「わしはガンテツ。通りすがりの鍛冶師だ」
老ドワーフは、懐からマイ箸とマイ丼を取り出した。
「だが今は、ただの腹を空かせた老人だ。……その黒い汁、一杯食わせろ」
命知らずにも程があるが、その食への執念は本物だ。
吾輩は彼に一杯振る舞うことにした。
ガンテツは、スープを啜り、麺を噛み締め、そして落涙した。
「……美味い。わしは百年、美味いものを求めて世界を旅してきたが、これほど魂が震える一杯は初めてだ」
彼は一気に平らげ、満足げに腹を叩いた。
「礼を言う。……金はないが、代わりにこれを置いていく」
彼が置いていったのは、彼自身が鍛えたという「ミスリル製の寸胴鍋」だった。
ラーメン一杯の代金にしては高すぎるが、彼の満足度を考えれば妥当かもしれない。
彼が立ち去る前、振り返って一言。
「また来る。……次はわしの打った包丁を持ってな。この味に見合う道具を揃えねば、職人の名が廃る」
彼は満足げに笑い、闇の中へと消えていった。
この一件で、魔物たちの目の色が変わった。
「美味いものを作れば、主も喜ぶし、自分たちも食える」と知った彼らは、積極的に働き始めたのだ。
コダマは「もっとええ小麦作ったるわ」と品種改良に没頭し、
子狼たちは「肉ー!」と叫びながら、より上質なオークを狩りに森へ飛び出し、
クラーケンに至っては『……足の一本くらい、また生える』と、自ら進んで極上の出汁(体の一部)を提供するようになった。
「これ、売れるんちゃうか?」
コダマが何気なく呟いた一言が、すべての始まりだった。
スライムが「屋台を作りましょう!」と興奮し、ヴォルグが「我の料理を金に換えるのか……まあ、悪くない」と渋々承諾し、吾輩が「よし、やれ」と命じた。
かくして、ダンジョン史上初の「社食改革」は、予想外の方向へと転がり始めたのである。
それから数日後。
ダンジョンの第一階層、入り口広場の片隅に、奇妙な施設がオープンした。
屋台である。
コボルトたちが廃材を組み合わせて作り、赤提灯(発光植物)をぶら下げた、昭和レトロな風情の屋台。
暖簾には『魔王軒』の文字。
店主はスライム(人型に変形してハチマキを巻いている)。
スープ番はヴォルグ(の分身である小型ドラゴン)。
食材供給はコダマ。
メニューは一品のみ。
『ダンジョン特製・暗黒醤油ラーメン』。
一杯、銀貨五枚。
これが、馬鹿売れした。
噂を聞きつけた冒険者たちが、攻略そっちのけでラーメン目当てに行列を作り始めたのだ。
「おい、食ったか? あのラーメン」
「ああ、食った瞬間に体力が全回復したぞ」
「マジか。俺は『攻撃力アップ(大)』のバフがついた」
「えっ、俺は『集中力強化』だった。……これ、何が入ってるんだ?」
「魔力野菜に、ドラゴンの魔力スープ、それに特製発酵調味料……って聞いたけど」
「「ドーピング飯じゃねえか!」」
噂を聞きつけたフタバが、早速やってきた。
しかも、お忍び姿のモミジ男爵を連れて。
「いいんですか、モミジ様。こんなところで油売ってて」
「いいのよ。領主だって、たまには息抜きが必要だもの。それに、いい匂いがするんですもの……」
モミジは、粗末な丸太の椅子に座り、出されたラーメンを恐る恐る覗き込んだ。
真っ黒なスープ。見たことのない麺。
だが、漂う香りは抗いがたい魅力を放っている。
「いただきます……」
彼女は、上品に麺を啜った。
チュルッ。
その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「……っ!?」
上品さはどこへやら、彼女は二口目、三口目と箸を進める。
「おいしい……! 何これ、凄くおいしいです!」
フタバも、隣で豪快に啜っている。
「いやー、やっぱりダンジョン産の飯は最高ですね! これ、街で出したら行列できますよ!」
モミジは、スープまで飲み干し、ふうっと息を吐いた。その頬は紅潮し、至福の表情を浮かべている。
「ごちそうさまでした。……あの、おかわりって、できますか?」
吾輩は、行列を作る冒険者たちと、忙しくも楽しそうに働く魔物たちを見下ろしながら、微かな郷愁に浸っていた。
かつての吾輩も、こうして誰かと並んで、湯気の中で笑い合っていたのだろうか。
記憶は定かではない。
だが、今、吾輩の体内には、温かいスープのような充足感が満ちている。
吾輩はダンジョンである。
食は文化であり、平和の象徴だ。
剣を交えるのもいいが、箸を交わすのもまた一興。
……ただし、食い逃げは火炎放射で制裁する。吾輩の食堂に無法はない。




