第三十二話 ダンジョン攻防戦(前編)~呉越同舟と、劇団『魔物』の決死行~
数こそ力、という単純な暴力の理屈は、物理法則と同じくらい残酷で、覆しがたい真実である。
三百のスパルタ兵が数万のペルシャ軍を食い止めたのは、そこが「テルモピュライ」という狭隘な地形だったからであり、だだっ広い平原で三十人が二百人に囲まれれば、それは戦いではなく処刑にしかならない。
賢明な指揮官であれば、数的不利を悟った瞬間に、地形を味方につけるべく動くものだ。たとえその逃げ込む先が、虎の住む穴であったとしても、狼の群れよりは交渉の余地があると信じて。
吾輩はダンジョンである。
入り口の広場で対峙していた二つの陣営――領主モミジ男爵側の守備隊三十名と、隣のオークマ子爵側の騎士団二百名――の均衡が崩れたのは、開戦の合図から数呼吸もしない間のことであった。
重装歩兵の厚い壁が、じりじりと、しかし確実に守備隊を圧迫していく。
個々の力量に大差はなくとも、この人数差はいかんともしがたい。包囲されれば終わりだ。
守備隊長を務める初老の戦士が、苦渋の決断を下した。
「総員、後退! ダンジョン内へ退避せよ!」
彼の判断は正しい。
広場では数に押し潰されるが、ダンジョン内部の狭い通路ならば、一度に接敵する数を制限できる。いわゆる「一夫当関」の地形効果を狙ったのだ。
だが、それは同時に、背後の退路を断ち、魔物の巣窟へと自ら飛び込む自殺行為でもあった。
守備隊と冒険者たちが、吾輩の喉元へと雪崩れ込んでくる。
それを追って、黒い鎧の騎士団が、獲物を追い詰める猟犬のごとき勢いで侵入を開始した。
「逃がすな! 袋の鼠だ!」
「ダンジョンの魔物ごと串刺しにしてやれ!」
騎士団長の怒号が響く。
土足で、無遠慮に吾輩の敷居を跨いだその瞬間、彼らの運命は決した。
――ようこそ。
――ここから先は、吾輩の胃袋だ。
第一階層。
薄暗い通路に、金属鎧の擦れる不快な音が充満する。
守備隊たちは、入り口から数十メートルほどの広めの空間で陣を組み直し、迫りくる騎士団を迎え撃つ構えを見せた。
だが、その表情には絶望の色が濃い。
前には二百の敵、後ろには未知の魔物。挟み撃ちの形だ。
その時である。
通路の奥、闇の向こうから、一つの影がゆらりと現れた。
死霊のローブを纏い、その頭部にはどこから持ってきたのか、スイーツ店の看板人形の頭を乗せた怪人。
リッチの、色部パープルである。
守備隊がどよめいた。
「リ、リッチだ!」
「終わった……!」
騎士団側も足を止めた。
「ほう、早速お出ましか。雑魚どもを片付ける手間が省けたな」
だが、パープルは攻撃魔法を放つことはなかった。
代わりに、骨だけの指を優雅に広げ、守備隊長に向かって恭しく一礼した。頭だけが小刻みに揺れている。
その瞬間、守備隊長の脳内にのみ、パープルの念話が届いた。
『(お初にお目にかかりまする。当ダンジョンの管理代行、色部パープルと申す)』
守備隊長は、突然の脳内音声に驚愕し、目を見開いた。
「なっ……!?」
『(声を出さずにお聞きあれ。主より提案にございます。「敵の敵は味方。我が庭を荒らす不届き者を排除するため、一時休戦とし、共闘を提案する」と)』
魔物が、人間に共闘を申し出るなど、御伽噺でも聞いたことがない。
だが、守備隊長は歴戦の戦士だ。瞬時に状況を計算した。
このままでは全滅。ならば、悪魔の手でも借りたい。
『(条件は単純明快。貴殿らは囮となり、敵を奥へと誘引されたし。我ら魔物が地形と罠を使い、敵の戦力を削ぎ落とす。……安心めされよ、貴殿らは「客」だが、奴らは「餌」だ。主は客人を守る義務を心得ておられる)』
守備隊長は、ゴクリと唾を飲み込み、そして微かに頷いた。
交渉成立である。
次の瞬間、パープルは一転して、広域に響く不快な念話を騎士団に向けて放った。
『――不躾な鉄屑どもよ。土足で上がり込むとは、礼儀を知らぬと見える』
挑発だ。
騎士団長が眉を吊り上げた。
『我が主はご立腹である。貴様らのような無粋な肉塊は、我が配下の餌にちょうど良いとな』
餌。
その響きに、騎士団長のプライドが逆撫でされた。
「下等な魔物風情が、我らを餌だと? 笑わせるな! まとめて浄化してやる!」
パープルは、わざとらしく怯えたふりをして、闇の中へ後退した。
その瞬間守備隊長が叫ぶ。
「総員、奥へ! 通路を使って引き剥がすぞ!」
守備隊が、蜘蛛の子を散らすように奥へと走り出す。
それを見た騎士団長は、獲物が逃げたことと、魔物の挑発に頭に血が上り、冷静な判断力を失った。
「追えッ! 逃がすな! 魔物もろとも殲滅せよ!」
騎士団長が剣を振り下ろす。
騎士たちが雪崩を打って突撃を開始した。
だが、この瞬間、戦いのルールは変更された。
「人間同士の戦争」から、「ダンジョンによる害虫駆除作業」へと。
吾輩は、全階層の従業員たちに、緊急業務命令を発令した。
――総員、戦闘配置。
――ターゲットは「黒い鎧の騎士」。これは殲滅対象である。
――ただし、「ボロボロの鎧の守備隊」および「冒険者」は保護対象である。彼らには指一本触れるな。
――彼らを庇って討ち死にした者には「特上肉(フタバ納品)」を支給。さらに魔力ボーナスも付ける。
『御意!』
『肉!』『肉!』『ついでにボーナス!』
魔物たちの士気が爆発的に上がった。
特に、肉に釣られたゴブリンたちの目の色が違う。
第一階層の攻防が始まった。
狭い通路に、騎士団が雪崩れ込んでくる。
先陣を切ったのは、スライム部隊だ。
彼らは天井に張り付き、騎士たちの頭上から一斉に落下した。
攻撃ではない。
ただ、床に落ちて弾け、粘液を撒き散らしたのだ。
「うわっ、なんだ!?」
「ぬるぬるするぞ!」
石畳が、ローションを撒いたスケートリンクと化した。
重装歩兵にとって、足元の不安定さは致命的だ。
一人が足を滑らせ転倒すると、ドミノ倒しのように後続が巻き込まれる。
「おのれ、小賢しい!」
騎士が立ち上がろうとするが、そこへ横穴からコボルト隊が飛び出した。
彼らはツルハシで騎士の足首を狙い撃ちにし、あるいは壁に仕掛けたレバーを引いた。
落とし穴が開き、数名の騎士が悲鳴と共に奈落へ消える。
守備隊たちは、呆然とそれを見ていた。
自分たちの目の前で、魔物たちが騎士団だけを的確に攻撃している。
スライムは守備隊の足元を避けて滑り、コボルトは守備隊に目配せをして(「そこ退いて」という顔で)罠を発動させている。
「……本当に、味方なのか?」
「信じられん。だが、助かっている!」
守備隊長が吼えた。
「好機だ! 魔物に合わせて下がれ! 奴らを深部へ引きずり込むぞ!」
戦線は、徐々に奥へと移動していく。
第二階層。ここはコウモリとゴブリンの領域だ。
ここで、吾輩の演出が火を吹いた。
一人の若い領兵が、騎士に追い詰められていた。
足がもつれ、転倒する。
騎士が槍を振り上げ、とどめを刺そうとした、その時。
「危ない!」
という声はなかったが、物陰から一匹のゴブリンが飛び出した。
彼は身を挺して、領兵と槍の間に割って入ったのだ。
槍がゴブリンの腹を貫いた。
「ギャッ……!」
ゴブリンは、血を吐きながら領兵の方を向き、ニヤリと笑って親指を立てた(これでボーナス確定だぜ)。
だが、領兵にはその親指が、「生きろ」という最期のメッセージに見えた。
「ゴ、ゴブリン……! 俺のために……!」
領兵の目に涙が浮かぶ。
種族を超えた自己犠牲。美しき愛。
騎士は槍を引き抜き、ゴブリンを蹴り捨てた。
「雑魚が! なぜ人間を庇う!」
その瞬間、周囲の空気が変わった。
死んだ(フリをして消滅を待つ)ゴブリンを見た他の魔物たちが、一斉に殺気立ったのだ。
「あいつ、抜け駆けしやがって!」「俺もやるぞ!」という功名心だが、人間側には“仲間の死を悼む復讐の炎”に見えた。
「うおおお! 許さんぞ!」
領兵が奮い立ち、剣を騎士に叩きつける。
それを援護するように、天井からコウモリが騎士の顔面に張り付き、視界を奪う。
カオスだ。
だが、完全に吾輩のコントロール下にあるカオスだ。
騎士団は、数で勝っているはずなのに、全く前進できていなかった。
狭い通路、滑る床、暗闇からの奇襲。
そして何より、「なぜ魔物が人間(敵)を守るのか」という理解不能な状況が、彼らの精神を削っていた。
騎士団長が苛立ちを露わにする。
「ええい、埒があかん! 魔術師部隊、前へ! 広範囲魔法で通路ごと焼き払え!」
後方から、魔術師たちが進み出てくる。
火炎魔法の詠唱が始まる。
これはまずい。
通路で爆発を起こされれば、吾輩の内壁が傷つくし、スライムたちが蒸発してしまう。
それに、守備隊も巻き添えになる。
吾輩は、次なる手を打った。
第二階層から第三階層への階段付近。
そこに、あの「迷惑系植物」を先行配置していたのだ。
魔術師が杖を振るおうとした瞬間、床の石畳が割れ、巨大な蔦が伸びた。
コダマの森から出張してきた、吸魔の蔦だ。
蔦は魔術師の杖に絡みつき、練り上げられた魔力を瞬時に吸い取った。
「なっ、魔力が……霧散した!?」
「魔法が発動しない!」
さらに、天井から無数の胞子が降り注ぐ。
麻痺毒だ。
前衛の騎士たちが、ガクガクと膝を震わせて倒れ込む。
解毒ポーションを持っていた者は飲んだが、フタバが売りさばいた在庫も尽きかけている。
そこへ、パープルからの念話が届いた。
『主殿。……一階層と二階層での「お遊び」は、十分かと。敵の疲労、困惑、そして恐怖。機は熟しました』
――うむ。
――騎士団の数はまだ多いが、陣形は崩れ、士気も落ちている。
――ここからが本番だ。
吾輩は、パープルを通じて守備隊長へ伝えた。
『(これより、第三階層「魔の森」へ誘導する。そこを主戦場とし、敵を一網打尽にする。貴殿らは森の入り口で待機し、漏れてきた敵を各個撃破せよ)』
守備隊長は、血と泥にまみれた顔で頷いた。
「承知した! ……恩に着る、ダンジョンの主よ!」
彼は知る由もない。
その「恩」の裏で、ゴブリンたちが「今日の夕飯はステーキだ」と舌なめずりしていることを。
騎士団は、泥沼に足を踏み入れつつあった。
撤退するには深入りしすぎた。
前進するには、抵抗が激しすぎる。だが、プライドと命令が彼らを縛り付ける。
「あと少しで崩れるはずだ」「魔物ごときに負けるはずがない」という正常性バイアス。
彼らは、第三階層への階段を降りていく。
そこには、コダマが丹精込めて作り上げた、地獄の植物園が待っているとも知らずに。
そして、その奥には。
火気厳禁を言い渡され、ストレスを溜め込んだ竜王ヴォルグと、子供を守るために殺気を研ぎ澄ませたブランカ、さらには日焼けしたクラーケンまでもが、手ぐすね引いて待ち構えているのだ。
吾輩はダンジョンである。
劇団『魔物』の第一幕は終了だ。
次幕、第三階層「深緑の処刑場」。
入場料は、貴様らの命と、その高そうな装備一式で払ってもらうとしよう。
……あ、コボルトたちよ。
死体を片付けるための穴を、森の裏手に掘っておいてくれ。肥料にするからな。




