第三十話 再びの勇者(今度は本物)と、一皿のスープ
正義、という言葉がある。
これほど手垢にまみれ、使う人間によって都合よく解釈され、あげくの果てには凶器へと変貌する言葉もそうはないだろう。
権力を持った誰かが「あれは悪だ」と指を差す。するとどうだ、思考を停止させた大衆は石を投げ始め、純粋培養された武人は剣を抜く。
そこに真実があるかどうかなんてことは、もはやどうでもいい問題なのだ。「悪を討つ」という大義名分さえ手に入れば、略奪だろうが破壊だろうが、すべては聖なる行為へと昇華されてしまうのだから始末が悪い。
だからこそ思う。最も恐るべき侵入者とは、欲望にギラついた盗賊なんかではない。歪められた正義を盲信し、疑うことを知らない「無垢なる執行者」こそが、真に恐ろしいのだと。
吾輩はダンジョンである。
以前、レオという名の「配信者勇者」なるものがやって来たことがあった。彼は承認欲求の塊で、騒がしく、そして実に御しやすかった。彼の行動原理は「目立ちたい」という、あまりに人間的な欲望に基づいていたからだ。
だが、今回現れた男は違う。
入り口のセンサーが、たった一人の侵入者を感知したとき、吾輩は予感した。これは、厄介なことになる、と。
装備は、一見すると地味な革鎧と鉄の剣だ。しかし、よく見ればその革は最上級の飛竜革であり、剣は鍛えに鍛え抜かれたミスリル銀である。
無駄な装飾は一切ない。機能美のみを追求した、純粋に「殺す」ためだけの道具。
彼は英雄になりたいのではない。ただ、命令を完遂したいだけだ。
男は、言葉を発しなかった。
独り言もなければ、恐怖の吐息さえ漏らさない。
ただ、青い瞳だけが、ガラス玉のように冷たく光っている。
彼――「沈黙の勇者」が第一階層に足を踏み入れた瞬間、吾輩の背筋、すなわち通路に、冷たいものが走った。
味がしないのだ。
彼からは、感情の匂いが一切しない。
恐怖、緊張、高揚、欲求。生物ならすべからく発しているはずの心の波長が、彼には完全に欠落している。
まるで、精巧に作られた自動人形が歩いているかのようだった。
彼がここへ来た理由は、明白だった。
隣の領主だ。
あの強欲な古狸が、度重なる工作部隊の失敗に業を煮やし、ついに切り札を切ったのだ。
風の便り(フタバの情報)によれば、領主はこう吹き込んだらしい。
『あのダンジョンは、魔王軍の前線基地となりつつある。人類を脅かす邪悪な実験が行われている。即刻、核を破壊し、浄化せねばならない』と。
真っ赤な嘘である。
ここで行われているのは、コボルトによる地道な土木工事と、コダマによる農業と、ヴォルグによる床暖房業務だけだ。
だが、純粋すぎる勇者はその嘘を信じ込んだ。
彼は「世界を救う」ために、吾輩を殺しに来たのだ。
彼は止まらない。
第一階層の罠エリアを、見ることもなく回避する。
最小限の動き。紙一重の見切り。
まるで未来が見えているかのように、正解のルートだけを正確になぞっていく。
第三階層、コダマの森。
難攻不落を誇る迷いの森も、彼には通用しなかった。
襲いかかる吸血蔦を、振り返りもせずに斬り捨てる。
毒の胞子が撒かれる直前、懐から「特級万能薬」を取り出し、あらかじめ飲み下す。その手際に迷いがない。
コダマが、切り株の上で絶句していた。
『……なんやあいつ。わいの植物の攻撃パターン、全部知っとるんか? まるで攻略本見ながらプレイしとるみたいや』
勇者は、コダマを一瞥すらしなかった。
彼にとって、コダマは単なる「背景」であり、倒すべきターゲット、すなわち諸悪の根源ではないと判断されたらしい。
ただ黙々と、最短距離で下へ、下へと降りていく。
正直なところ、吾輩は焦った。
彼の実力にではない。彼の「目的」にだ。
彼は「核の破壊」を命じられている。
当然、彼はダンジョンの最奥――第八階層の竜王の宮殿のさらに奥に、核が鎮座していると信じているはずだ。それがこの世界の常識だからだ。
だが、そこに核はない。
吾輩の核は、もっと地味で、暗くて、誰も気にも留めない岩盤の隙間に厳重に隠蔽してある。
見つかる心配はない。物理的に破壊される恐れもない。
問題は、「ない」ことがバレることだ。
今まで第八階層に辿り着いた冒険者は、核が見つからなくても、「見つけられなかった」「まだ奥があるのだろう」と特には気に留めていなかった。
彼らは核が目的ではなかったから。
だが勇者は違う。
もし勇者が最奥に辿り着き、そこに核がないことを知ったらどうなる?
「おかしい。邪悪な核があるはずだ」と疑念を抱き、徹底的な捜索を開始するだろう。
壁を崩し、床を剥がし、吾輩の身体を隅々まで調べ上げるに違いない。
そうなれば、いつかは見つかるかもしれない。
いや、それ以前に、「核を隠している臆病で破廉恥なダンジョンである」という事実が白日の下に晒されることとなる。
それは、ダンジョンとしての尊厳に関わる重大なスキャンダルだ。
「見てください、私の急所はありません」などと、どの面下げて言えというのか。
――阻止せよ。
――彼を最深部へ行かせるな。吾輩の秘密を守り抜け。
第八階層、竜王の宮殿。
最後の砦として、ヴォルグとブランカが待ち構える。
重厚な扉が開き、勇者が大広間に足を踏み入れた。
広間の奥、黄金の山からヴォルグが身を起こす。
今日の彼は、いつもの暢気な香箱座りではない。真の姿、破壊の竜王として、全身の魔力をたぎらせている。赤熱する鱗が、広間の空気を焦がしていた。
『……貴様か。邪悪な嘘に踊らされる、哀れな人形は』
ヴォルグが咆哮した。
ドラゴンの威圧。
大気を震わせるほどの殺気。並の戦士ならその場で失禁し、精神が崩壊してもおかしくないプレッシャーだ。
だが、勇者の髪一本揺らがなかった。
彼は無言のまま剣を構えた。腰を低く落とし、一直線にヴォルグへ突進する。
速い。
爆発的な加速だった。床石が踏み込みの圧力で砕け散る。
ヴォルグが大きく口を開け、紅蓮の炎を吐き出した。
視界を埋め尽くす圧倒的な熱量。回避不可能な火炎の濁流が勇者を飲み込む――かに見えた。
勇者は止まらない。
炎の幕を、真正面から突っ切ったのだ。
彼の革鎧が淡く青白い光を帯び、数千度の炎熱を完全に遮断している。最高位の火属性無効の加護か。
革鎧の光が、一瞬だけ揺らいだ。無効化ではない。耐えているだけだ。
炎を突き破り、勇者が飛び出す。
『小賢しい!』
ヴォルグが怒号と共に、丸太のような腕を振るう。
風切り音さえ置き去りにする、剛速の爪撃。直撃すれば鉄塊さえも飴細工のように引き裂く一撃だ。
勇者はそれを、剣の側面で受け流した。
キィン、という硬質な音が響く。
力のベクトルをわずかにずらし、爪の軌道を逸らすと同時に、彼はヴォルグの懐へと滑り込んだ。
一閃。
銀の軌跡が走る。
硬度を誇る龍鱗が紙のように切り裂かれ、鮮血が舞った。
『ぐオオオッ!?』
ヴォルグが悲鳴を上げ、たたらを踏んで後退する。
その隙を逃さず、闇の中から白い影が疾走した。
ブランカだ。
音もなく、殺気もなく、死角からの神速の襲撃。
連携としては完璧だった。ヴォルグへの攻撃の硬直を狙った、必殺のタイミング。
だが、勇者は背後の気配すら「見えて」いた。
振り返りざまの、裏拳。
剣を振るうまでもない。彼は身体の回転運動だけを利用し、最短距離で拳を叩き込んだのだ。
ゴッ、という鈍い音。
ブランカの鼻先に強烈な一撃が入り、彼女の巨体はあえなく空中で弾き飛ばされた。床を転がり、壁に激突して動かなくなる。
強い。
あまりにも強すぎる。
だが、奇妙なことに、勇者は彼らにとどめを刺さなかった。
血を流して倒れたヴォルグを一瞥し、動けなくなったブランカを無視し、視線はただ一点、奥の扉に向けられている。
「諸悪の根源(核)さえ破壊すれば、魔物たちは浄化される」と信じているのだ。
その純粋さが、今は何よりも恐ろしい。
ヴォルグとブランカが突破された。
もう、物理的な障害はない。
勇者が扉に手をかける。
その先にあるのは、転移門のある小部屋だ。
彼はそこで、核がないことに絶望し、そして探索の鬼と化すだろう。
力では勝てない。
ならば、どうする。
彼を止めるには、彼の「戦う理由」そのものをへし折るしかない。
隣の領主が吹き込んだ「人類を脅かす邪悪なダンジョン」という大義名分を、根底から覆してやるのだ。
吾輩は、ある作戦を実行に移した。
名付けて『プロパガンダ崩壊・実家の安らぎ作戦』である。
勇者が、覚悟を決めて扉を蹴破った。
「ここが地獄の中心だ」と信じて。
だが。
そこに広がっていたのは、彼が想定していた「禍々しい儀式の間」でもなければ、「脈打つ魔核」でもなかった。
そこは、適度な暖かさに満ちた、小綺麗な和室(コボルト建築製)だった。
床にはフカフカの苔(畳風)が敷き詰められ、中央にはコダマの木で作った卓袱台(ちゃぶ台)が置かれている。
卓袱台の上には、湯気を立てる温かいスープと、焼きたてのパン(フタバの差し入れ)。
そして、部屋の隅には、ブランカの子狼たちが、無邪気に身を寄せ合って昼寝をしていた。
勇者の足が止まった。
剣を構えたまま、彫像のように硬直する。
彼の脳内システムが、エラーを吐き出しているのが目に見えるようだ。
『邪悪反応なし』『ターゲット(核)不在』『状況解析不能』。
『……これは、なんだ?』
彼の知る情報では、ここは魔王軍の拠点であり、血に飢えた魔物の巣窟のはずだ。
だが、目の前にあるのは、平和そのものの生活空間。
邪悪さの欠片もない。むしろ、実家に帰ってきたかのような安心感さえ漂っている。
そこへ、一匹のスライム(元転生者)が、プルプルと震えながら近づいてきた。
攻撃ではない。
お盆に載せた「冷えた牛乳」を運んできたのだ。
「プルッ(お疲れ様)」
スライムは、勇者の足元に牛乳を置いた。
勇者は、牛乳を見下ろした。
そして、スープの匂いを嗅いだ。
温かい、生活の匂い。
カラン……。
彼の手から、剣が滑り落ちた。
戦意喪失ではない。
戦う「対象」の喪失だ。
彼が倒すべき「悪」は、ここにはなかった。
あるのは、懸命に生きる魔物たちの日常と、それを守ろうとする意思だけ。
彼は理解したのだ。
騙された、と。
自分が正義の剣だと思って振るっていたものが、単なる商売敵を排除するための暴力装置だったことに気づいてしまったのだ。
彼は、泥のように卓袱台の前に崩れ落ちた。
震える手で、スープの椀を手に取る。
一口、啜る。
コボルトたちが煮込んだ、野菜たっぷりのスープ。身体に染み渡るような、優しい味。
勇者の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
涙ではない。
それは、張り詰めた「勇者」という仮面が、内側からひび割れる音だった。
子狼の一匹が、目を覚まして近づいてきた。
警戒心のない無垢な瞳。
子狼は、勇者の膝に前足をかけ、その冷たい頬をペロリと舐めた。
「……すまない」
勇者が、初めて声を発した。
掠れた、小さな声。
彼は、不器用な手つきで、子狼の頭を撫でた。
ドクン。
吾輩の胃の奥に、奇妙なエネルギーが流れ込んできた。
恐怖ではない。
それは「虚脱」と、そして行き場のない「憤り」だった。
自分を騙し、利用した者への静かなる怒り。
しばらくして。
勇者は立ち上がった。
その瞳には、もう迷いも、虚無もなかった。
あるのは、明確な意志。
彼は、空になったスープ皿と牛乳瓶を一箇所にまとめ、子狼の頭をもう一度だけ撫でると、剣を拾い上げた。
彼は、核を探そうとはしなかった。
もう、そんなものはどうでもよかったのだろう。
ここに悪はいない。
悪がいるとすれば、それは――。
彼は踵を返し、来た道を戻り始めた。
その足取りは重いが、力強い。
彼が向かう先は、地上の出口。
そしてその先にある、彼を騙して送り込んだ「依頼主」の館だろう。
出口で、彼は一度だけ振り返り、ダンジョンの闇に向かって小さく頭を下げた。
「迷惑をかけた」と、その背中が言っていた。
彼が去った後。
ヴォルグが、傷ついた体を引きずりながら広間に戻ってきた。
『……行ったか。まさか、飯を食わせて帰すとはな』
ヴォルグは呆れたように鼻を鳴らした。
――これでいい。
――彼が探していた「悪」は、ここにはなかった。それだけの話だ。
吾輩は、ほっと胸を撫で下ろした。
危なかった。
もう少しで「核がない」ことがバレて、大捜索が始まるところだった。
スープ一杯で国家機密(吾輩の恥部)が守られたのなら、安いものである。
吾輩はダンジョンである。
さて、隣の領主よ。
戻ってきた勇者から、どのような報告を受けるのか楽しみだ。
「ダンジョンは無害でした。しかし、貴公は有害のようです」とでも言われるのだろうか。
……まあ、吾輩としては、彼が置いていった銀貨一枚(スープ代)を、スライムの貯金箱に入れておくとしよう。
正義の味方も、楽ではないらしいからな。




