第二十五話 コボルトの集団面接と、香箱座りのドラゴン
妥協という言葉は、しばしば敗北の同義語として扱われるが、それは大きな間違いである。
厳しい環境下において、己の理想を一部曲げてでも現状に適応する行為は、生物としてのしたたかな生存戦略に他ならない。
痩せ我慢をして凍え死ぬよりも、格好悪くても暖を取って生き延びる。その泥臭い選択こそが、明日の命を繋ぐのだ。
……と、吾輩は目の前の情けない光景を見ながら、自分に言い聞かせている。
吾輩はダンジョンである。
「節電経営」を開始してから、しばらくの時が流れた。
魔力の出力を絞り、照明を落とし、罠の威力を弱めた「マイルドな迷宮」は、意外にも好評を博している。
即死しない程度のスリル。頑張れば攻略できる難易度。
これらが中堅冒険者たちの自尊心をくすぐり、客足は徐々に戻りつつあった。
だが、問題は内部の「寒さ」である。
魔力による熱供給が断たれたダンジョン内は、底冷えのする石の棺桶のような状態が続いている。
第八階層、竜王の宮殿。
そこの主であるレッドドラゴンのヴォルグは、寒さに耐えかねて、ある奇妙な姿勢を開発していた。
前脚を胸の下に折りたたみ、後ろ脚を腹の下に隠し、長い尾を体に巻き付け、翼ですっぽりと全体を覆う。
熱を逃がさないための、究極の防御姿勢。
人間界の猫がよくやる「香箱座り」そのものである。
威厳もへったくれもない。
黄金の山の上で、巨大な赤いトカゲが手足を隠して丸まっている図は、もはやドラゴンというより、巨大なツチノコか、焼きすぎたパンの塊にしか見えない。
時折、冒険者が最奥まで辿り着くことがあるが、彼らはこの姿を見て言葉を失う。
「……あれがボス?」
「寝てるのか? なんか……可愛いぞ」
そして、起こすのも悪いと判断して、そっと引き返していく。
ヴォルグよ、それでいいのか。
お前のプライドは、寒さの前に完全敗北したのか。
一方、他の住人たちはたくましかった。
ブランカ(月影の魔狼)と子狼たちは、元々が野良暮らしだ。この程度の寒さは気にならないらしい。
むしろ、照明が暗くなったことで、闇に紛れる彼らの本領が発揮され、子狼たちは「かくれんぼ」の難易度が上がったと喜んで走り回っている。
ゴブリンは相変わらず「寒い」「ブラックだ」と文句を垂れているが、温泉の脱衣所から拝借したタオルを腰に巻き、なんとか凌いでいるようだ。
そんな風に、吾輩たちは寒さと折り合いをつけながら、平穏な日々を送っていた。
ある日、入り口の感知センサーが反応するまでは。
多数の足音。
だが、冒険者のような重い靴音ではない。
爪が石畳を叩く、硬く、小刻みな音の連続。
獣の群れか?
いや、統率がある。逃げる音ではない。来る音だ。
吾輩は意識を入り口に向けた。
そこにいたのは、犬の顔を持ち、二足歩行をする小柄な亜人たち――コボルトの集団だった。
数は十二体。
大人と思われる個体が七体、子供が五体。
彼らは一様に薄汚れた布切れを纏い、痩せこけ、疲労困憊の体で身を寄せ合っていた。
武器は持っていない。あるのは、背負った粗末な荷袋と、手に持った古びたツルハシやスコップだけだ。
侵入者か?
いや、彼らの目には戦意がない。あるのは、縋るような必死の色だけだ。
彼らは入り口の広間で立ち止まり、恐る恐る周囲を見渡すと、一斉に地面に額を擦り付けた。
土下座である。
ダンジョンの虚空に向かって、見えない主に平伏したのだ。
――なんだ、これは。
――集団参拝か? 賽銭箱は置いてないぞ。
様子を見に来たゴブリンが、彼らを見て驚きの声を上げた。
「げっ、コボルトじゃねぇか。なんでこんな所にいんだよ。森の奥に住んでるんじゃなかったのか?」
コボルトの一人、白髪交じりの薄汚れた毛並みをした長老格が、顔を上げて言った。
「お頼み申す……! どうか、どうか我らを、この迷宮の末席にお加えくだされ……!」
就職希望者だった。
しかも、集団面接である。
吾輩は、ひとまず彼らを第七階層の倉庫前広場へと招き入れることにした。
入り口で土下座されたままでは、他の冒険者の邪魔になるからだ。
広場には、主要メンバーが集まった。
香箱座りを解除して不機嫌そうなヴォルグ、子供たちを背後に隠して警戒するブランカ、そして通訳兼人事担当のリッチ、色部パープル(今日の頭は鹿の剥製)である。
パープルが、長老に問いかける。
『事情を聞こうか。なぜ、わざわざこのような魔窟へ参った』
長老は震えながら語り始めた。
その内容は、世知辛い弱肉強食の理そのものだった。
彼らは元々、この森のさらに奥深く、人里離れた渓谷に集落を作ってひっそりと暮らしていたという。
鉱物を掘り、細工を作り、人間とも魔物とも関わらず平和に生きていた。
だが、その平穏は唐突に破られた。
オークの集団が流れてきたのだ。
豚の顔を持つ巨漢、オーク。
彼らは粗暴で、大食漢で、何より排他的だ。
オークたちはコボルトの村の近くに砦を築き、森の獲物を食い荒らし、時には人間の村や街道を襲撃し始めた。
とばっちりを受けたのはコボルトたちだ。
オークの暴挙に業を煮やした人間の領主が、一帯を「魔物討伐推奨エリア」に指定したのである。
ギルドの討伐隊が派遣されることになった。
彼らにとって、オークもコボルトも、等しく「駆除すべき害獣」に過ぎない。
村が焼かれるのは時間の問題だった。
「我らは逃げました。住み慣れた土地を捨て、着の身着のままで」
長老の目から、涙がこぼれ落ちた。
「しかし、行く当てなどありませぬ。森は危険な魔獣で溢れ、人里へ降りれば殺される。……そんな時でした。この地から、強大な魔力の波動を感じたのは」
魔力垂れ流し事件のことだ。
吾輩がB+ランクに昇格した際、抑制できずに漏れ出していたあの魔力。
それが、彼らにとっては灯台の光のように見えたらしい。
「ここならば、強き主の庇護があるかもしれぬと。そう思い、ここまで辿り着きました」
長老は言葉を詰まらせた。
「ですが……入り口には近づけませんでした。あの頃、森の魔獣たちは狂ったように荒れ狂っており……我らは岩陰に隠れ、嵐が過ぎるのを待つしかなかったのです」
なんという皮肉か。
吾輩の放った魔力が彼らを呼び寄せ、同時に彼らを阻んでいたのだ。
そして今、吾輩が魔力を抑え、森が沈静化したことで、ようやく彼らは中に入ることができた。
これを運命と呼ぶには、あまりに吾輩の責任が重すぎる気がする。
長老は再び平伏した。
後ろに控える大人たちも、そして訳も分からず震えている子供たちも、一斉に頭を下げる。
「働きまする。穴掘りでも、罠作りでも、何でもいたしまする。ですからどうか、ここに置いてくだされ」
悲痛な叫びが響く。
「もし……大人の数が多すぎると言うなら、せめて子供たちだけでも。この子たちだけでも、慈悲を……!」
大人のコボルトたちが、我が子を前へ押し出した。
自分たちはどうなってもいい。種を絶やしたくないという、生物としての根源的な願い。
沈黙が落ちた。
ヴォルグが鼻を鳴らした。
『ふん、弱者の戯言だ。自分の身も守れぬ者が、我の城に何の用がある』
彼は冷淡だ。強者としての理屈で生きている。
ブランカは、コボルトの子供たちを見て、目を細めた。自分の子供たちと重ね合わせているのだろう。
『……主よ。場所ならある。倉庫の隅でも、通路の端でも』
ゴブリンがボソリと言った。
「……俺、一人だと仕事回んねぇんだよな。温泉の掃除とか、正直きついし」
そしてパープルが、吾輩のコアに向かって言った。
『主殿。……コボルト族は、手先が器用で、土木作業に長けた種族です。先の案件……魔力の逃げ道を作るための「拡張工事」。彼らなら、あるいは』
――拡張工事。
そうだ。
吾輩は今、魔力を無理やり抑え込んでいるが、それはいずれ限界を迎える。
根本的な解決には、ダンジョンの構造そのものを広げ、新たな「魔力循環ルート」を掘る必要がある。
だが、スライムは溶かすだけ、ヴォルグは壊すだけ、ゴブリンは力不足。
「掘って、固めて、作る」ことができる技術者が不在だったのだ。
目の前には、使い込まれたツルハシを持った集団がいる。
生きる場所を求め、労働力を提供しようとしている者たちがいる。
吾輩は、ダンジョンの損益分岐点を計算した。
食費。居住スペース。
対する労働対価。技術力。将来性。
……悪くない取引だ。
というか、ここで追い出して、彼らが外で野垂れ死んだら、吾輩の寝覚めが最悪だ。
偽善ではない。
あくまで、優秀な技術者の確保と、精神衛生上の措置である。
吾輩は、パープルを通じて告げた。
――採用だ
パープルが厳かに通訳する。
『主殿が許可なされました。本日より、貴殿らを当ダンジョンの「施設管理部・土木課」として迎え入れます』
コボルトたちが顔を上げた。
信じられないという顔。
そして、次瞬、歓喜の涙で顔をぐしゃぐしゃにして、抱き合った。
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
「よかった……よかったねぇ……」
長老が、震える手で地面を撫でた。
それは、彼らがようやく手に入れた「安住の地」への感謝だった。
その日から、吾輩のダンジョンは少し賑やかになった。
コボルトたちは、驚くほど勤勉だった。
与えられた第七階層の隅っこに、あっという間に簡易的な居住区を作り上げ、翌日からは早速、拡張工事に取り掛かった。
彼らのツルハシ捌きは見事なものだ。
硬い岩盤を的確に砕き、崩れないように支柱を立て、美しいトンネルを掘り進めていく。
「ここを掘れば魔力の通りが良くなります」
「ここの壁を補強すれば、上の階層の振動が減ります」
専門家の仕事だ。
子供たちも、ただ守られているだけではなかった。
彼らはブランカの子狼たちとすぐに打ち解け、一緒になってダンジョン内を走り回っている。
コボルトの子供たちは、手先が器用だ。
壊れた罠を直したり、スライムが落としたゴミを拾ったり、冒険者が忘れていった矢を回収して研ぎ直したりしている。
ゴブリンは「やっと部下ができた」と偉そうに指示を出しているが、実質的には子供たちに遊ばれているようにしか見えない。
ある日の午後。
拡張された新しい通路で、コボルトたちが作業歌を歌いながら壁を塗っていた。
低い、土臭い、けれど力強い歌声。
その歌声を聞きながら、ヴォルグが黄金の上で、やはり香箱座りのまま言った。
『……騒がしいな。だが、前より少し、暖かくなった気がする』
それは、工事によって魔力の循環が改善され、床暖房の効率が上がったからかもしれない。
あるいは、単に「生き物の熱気」が増えたからかもしれない。
吾輩はダンジョンである。
気がつけば、狼に龍に死霊に犬人間。
多種多様な種族が、一つの屋根の下(地下だが)で暮らす大所帯になってしまった。
魔王軍でも、人間の王国でも、こんな滅茶苦茶な構成の組織はそうそうないだろう。
だが、悪くない。
吾輩の胃壁を叩くツルハシの響きは、孤独な静寂よりもずっと、心地よい子守唄のように感じられた。
……ただ、コボルトたちよ。
工事現場で「ご安全に!」と唱和するのはいいが、冒険者が来た時までそれをやるのはやめろ。
雰囲気が台無しだ。ここはお化け屋敷なんだから。




