第二十二話 転生したスライムと火炎竜
自意識というものは、時として猛毒になる。
「自分は特別だ」「世界は自分を中心に回る」――その思い込みは、日常を彩る香辛料にもなるが、量を誤れば現実を溶かす幻覚剤だ。
とりわけ、異世界転生などという奇跡を本気で信じ込んだ魂にとっては、「物語」だけが痛み止めになる。
吾輩はダンジョンである。
吾輩の体内には、空間を捻じ曲げる「転移門」なるものが存在する。
第八階層、竜王ヴォルグの寝所の奥深くに鎮座するこの遺物は、本来ならば冒険者が地上へ帰還するための出口、あるいは吾輩が不要なゴミを排出するための勝手口として機能している。
だが、ごく稀に、その流れが逆流することがある。
外から、あるいは「外の世界」から、招かれざる客を吐き出すことがあるのだ。
その日、ヴォルグが惰眠を貪る大広間の空間が歪んだ。
吐き出されたのは、一匹のスライムだった。
透き通る水色。滑らかな膜。妙に整った弾力。自然発生の濁った緑とは、明らかに違う。
そして何より異様なのは、そのスライムが、形を整え、発声器官らしきものを模倣して、流暢な人語を喋り出したことだ。
「僕は悪いスライムじゃないよ。君を助けに来たんだ」
スライムは、黄金の山の上でまどろむ巨大なレッドドラゴンに向かって、朗々とそう宣言した。
ヴォルグが片目を開けた。
黄金の瞳孔が、眼下の豆粒のような水色の塊を捉える。
「……助けに? 誰をだ」
「君をだよ。封印されてるんでしょ?」
「封印?」
「そう。勇者に封印されて、長い間孤独だったんだよね。僕がその封印を解いて、君に名前をつけてあげるよ」
スライムは自信満々に身体を震わせた。
吾輩は、天井裏(意識の領域)で頭を抱えたくなった。
なんだ、この痛々しい勘違いは。
名前ならもうある。ヴォルグだ。しかも封印などされていない。ただニートのように寝ているだけだ。
ヴォルグは首を傾げた。
鼻孔から黒い煙が漏れる。
「……貴様、寝ぼけているのか? 勇者は来たらしいが、我は会ってはおらん。素通りしていった無礼な男ならいたがな」
「えっ?」
「それに、封印などされておらん。ここは我の宮殿だ。家賃も(一応)払っておる」
スライムの動きが止まった。
水色の表面に、さざ波のような動揺が走る。
「え、でも、ドラゴンとスライムが出会ったら、まずは封印を解いて、同盟を組んで、街を作る流れじゃ……」
「何をブツブツ言っておる。……ふむ、まあよい。ちょうど手が足りていなかったところだ」
ヴォルグは、巨大な爪で床を指し示した。
「それより、掃除を頼む」
スライムが絶句したような間を作った。
「……はい?」
「掃除だ。最近、鱗が痒くてな。背中の届かないところを磨け。スライムならば、隙間に入り込んで汚れを取るのが得意であろう」
「え、いや、僕はそういう役回りじゃなくて、もっとこう、魔王になったり、国を作ったり……」
「口答えをするな、下等生物。灰になりたいか?」
ヴォルグの喉元が赤く発光した。
本物の殺気。生物としての格の違い。
スライムは本能的な恐怖に震え上がり、反射的に平伏した。
「す、すみません! やります! 掃除させていただきます!」
こうして、異世界からの転生者(自称)の、ダンジョン生活が幕を開けた。
吾輩は、ダンジョンの解析能力を使って、この奇妙なスライムの「正体」を探ってみた。
彼の魂には、この世界のものではない、異質な記憶が焼き付いていた。
日本、という国。
高度な文明と、過労と、そしてサブカルチャーなる空想物語が溢れる世界。
彼はそこで、しがないサラリーマンとして生き、そして死んだ。
死の間際、薄れゆく意識の中で、彼は幻聴を聞いたらしい。
『転生させてやる。望みを言え』
それが神の声だったのか、あるいは脳が見せた最後の夢だったのかは定かではない。
だが、彼はその問いに、愛読していた物語を重ね合わせた。
「スライムだ。最強のスライムになって、気ままに暮らしたい」
そう願った。
そして目覚めれば、ここだった。
自分の姿はスライム。目の前にはドラゴン。
状況証拠は揃っていた。
彼は確信したのだ。「アレ」になったのだと。
スキルを駆使して成り上がり、魔物たちを従え、安住の地を作る、あの王道ストーリーの主人公になったのだと。
だが、現実は非情である。
ここは物語の世界ではない。吾輩という、極めて現実的なダンジョンの胃袋の中だ。
彼には「捕食者」としてのチート能力もなければ、「大賢者」のような便利なナビゲーターもついていない。
ただ、自我を持っただけの、ちょっと綺麗な色のスライム。
それが彼の実像だった。
しかし、彼は諦めなかった。
ヴォルグの背中磨きという不本意な業務の合間を縫って、彼は「建国」の夢を追い求めた。
彼はまず、第一階層のゴブリンに接触を図った。
「やあ、君たち。虐げられているようだね」
スライムは、宝箱の入れ替えをしているゴブリンに話しかけた。
「僕が君たちに名前と技術を与えよう。文明的な暮らしをしたくはないかい?」
ゴブリンは、忙しそうに手を動かしながら、面倒くさそうに応じた。
「は? 名前ならあるよ。『ゴブリン』だ。技術って、宝箱の罠解除の役に立つのか? 今日なんか三度も矢が刺さっちゃたよ」
「いや、そうじゃなくて、武器を作ったり、家を建てたり……」
「家ならある。七階層の倉庫が寝床だ。飯も出る。それに、今忙しいんだよ。客が来る時間だ」
「でも、君たちは魔物に搾取されているんじゃ……」
「搾取されてるのは、あんたのその脳みそだろ。……ほら、次の客だ。邪魔」
ゴブリンに邪険に扱われ、スライムはショックを受けた。
彼の想定では、ゴブリンはもっと蒙昧で、救世主を求めているはずだったのだ。
だが、ここのゴブリンは、吾輩というブラック企業で鍛え上げられた社畜である。夢を見るより、目の前の小銭と残業代(干し肉)を優先するリアリストなのだ。
次に、彼はブランカ(月影の魔狼)に目をつけた。
高貴な狼。彼女こそ、自分の右腕となるべき存在だと直感したらしい。
「美しい狼よ。僕を背中に乗せる許可を与えよう」
スライムは、威厳たっぷりにブランカの前に進み出た。
「共に覇道を歩まないか。僕の魔力を分け与えれば、君はもっと進化できる」
ブランカは、子狼の世話をしていた手を止め、冷ややかな瞳でスライムを見下ろした。
「……なんだ、この水饅頭は」
「水饅頭じゃない! 未来の魔王だ!」
「主よ、これは食っていいのか? 子供のオヤツになりそうだが」
――やめておけ。変な知識が混じっていて腹を壊すぞ。
ブランカは興味を失い、鼻先でスライムを弾き飛ばした。
スライムは壁に激突し、べちゃりと張り付いた。
最後に、彼はリッチのパープルを頼った。
魔法使いなら、話が通じるかもしれないと思ったのだ。
「貴女ほどの魔術師が、なぜこんな場所でくすぶっているのですか」
スライムは、壺を被ったパープルに熱弁を振るった。
「僕には異世界の知識があります。魔法と科学を融合させれば、世界を獲れる」
パープルは、壺の表面を磨きながら、優雅に答えた。
『世界など 獲りて何せむ 我はただ 主の庭にて 花を愛でたし』
「えっと、つまり?」
『意識高い系は、お断りということですわ』
パープルは、スライムを実験材料を見る目つきで見つめた。
『それより、そのプルプルした体、魔力伝導率が良ろしげですね。アンデッドの関節の潤滑油に使えるやも』
スライムは悲鳴を上げて逃げ出した。
挫折の連続。
彼は、七階層の隅っこ、ガラクタ置き場の影でうずくまっていた。
「おかしい……。こんなはずじゃ……」
彼は呟く。
「僕は転生者だぞ。特別なんだぞ。なんで誰も認めないんだ。なんでスキルが発動しないんだ」
吾輩は、その姿を哀れに思った。
彼を苦しめているのは、このダンジョンの環境ではない。彼自身が作り上げた「物語」という名の呪縛だ。
「特別でなければならない」という強迫観念が、彼を現実から乖離させている。
日が経つにつれ、彼は衰弱していった。
スライムの体は、魔力を糧とする。
だが、人間の複雑な「自我」を維持するためには、膨大な魔力が必要なのだ。
この世界の魔素を呼吸するように取り込む他の魔物と違い、彼は「自分は人間だ」という異質な核を保つために、常にエネルギーを浪費している。
彼は飢えていた。
物理的な空腹ではない。魂の飢餓だ。
ある日、彼は無意識に、床に生えていた苔を口にした。
吾輩のダンジョンに自生する、ただの湿った苔だ。
グルメな現代人だった頃の彼なら、見向きもしなかっただろう。
だが、スライムの体は、それを「美味」と感じた。
「……うまい」
彼は驚いた。
ただの植物の繊維と、そこに染み込んだ地下水のミネラル、そして微量な魔素。
それらが体内に溶け込み、欠乏していたエネルギーを満たしていく感覚。
「なんだこれ。……カツ丼より、うまいかもしれない」
それは、彼の「人間としての味覚」が薄れ、「スライムとしての本能」が目覚め始めた瞬間だった。
彼は夢中で苔を貪った。次々に体内に取り込み、消化する。
そのたびに、頭の中を占めていた複雑な思考――承認欲求、焦燥感、劣等感――が、少しずつ溶けていくのを感じた。
「国を作らなければ」
なぜ? 面倒くさいじゃないか。
「魔王にならなければ」
どうして? ここで苔を食べている方が幸せじゃないか。
「特別でなければ」
特別って、なんだっけ?
ノイズが消えていく。
代わりに、シンプルな喜びが満ちてくる。
湿気が心地よい。
暗がりが落ち着く。
ヴォルグの放つ強大な魔力の残滓が、温かいシャワーのように心地よい。
吾輩は、壁を通じて彼に語りかけた。
言葉ではない。もっと原始的な、ダンジョンの意志として。
――楽になれ。
――何者かになろうとするな。お前はただの、吾輩の一部でいい。
彼は、抵抗しなかった。
いや、むしろその誘いに、安堵したように身を委ねた。
固執していた「人間の記憶」が、急速に色あせていく。
日本の風景も、満員電車も、読み漁った小説の筋書きも。
それらは遠い夢の彼方へと消え、残ったのは「この場所で生きたい」という、純粋な生存本能だけだった。
数日後。
第八階層、ヴォルグの宮殿。
そこには、一匹のスライムがいた。
かつてのような水色の輝きは失せ、少し濁った緑色になっている。
だが、その動きには迷いがない。
彼は、ヴォルグの巨大な背中に張り付き、鱗の隙間の汚れをせっせと取り除いていた。
ヴォルグが気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「ふむ、そこだ。……貴様、なかなか良い腕をしておるな」
スライムは、言葉を返さなかった。
以前のように「僕」だの「建国」だのと喚くことはない。
ただ、プルプルと体を震わせ、肯定の意を示しただけだ。
「プルッ」
その音は、とても楽しげだった。
彼はもう、転生者ではない。
ただの、掃除が得意で、ちょっと気の利くスライムだ。
彼の中にあった「特別な物語」は終わった。
だが、それはバッドエンドではない。
身の丈に合わない夢に押し潰されるより、足元の苔の味を知る方が、生物としては幸福なのだ。
吾輩は、彼が磨き上げたヴォルグの鱗が輝くのを見て、満足げに天井の岩を揺らした。
吾輩はダンジョンである。
ここは夢を叶える場所ではない。
夢から覚めて、足元の苔の味を覚える場所だ。
……まあ、あいつが掃除をするようになってから、ヴォルグのフケが減った。
結局のところ、適材適所ほど尊い現実はない。




