第十七話 RTA(リアルタイムアタック)走者と怒れる迷宮の主
料理において下ごしらえと調理の過程が味を決めるように、
冒険においても過程こそが本質である。
薄暗い通路を歩き、地図を広げ、罠に怯え、仲間と相談し、ようやく辿り着いた扉を開ける。
その蓄積があってこそ、最奥のボスとの対面は輝く。
いきなりメインディッシュだけを喉に詰め込まれても、それは食事ではなく給餌でしかない。
しかし、嘆かわしいことに、世の中には過程を極限まで削ぎ落とし、結果のみを最短最速で貪ろうとする輩が存在するらしい。
吾輩はダンジョンである。
この身は巨大な地下迷宮であり、同時に一つの物語装置でもある。
起承転結。序破急。
そういった構成美を無視し、あろうことか物語のページを物理的に引き裂いて進むような、礼儀知らずな来訪者が現れたのは、ある晴れた日の午後であった。
その男は、冒険者と呼ぶにはあまりに軽装であった。
身につけているのは腰布一枚。
防具は一切なし。
手に持っているのは、錆びついた粗末な鉄剣一本のみ。
一見すれば、装備を整える金すらない落魄した狂人のように映る。だが、吾輩の観察眼は誤魔化せない。
その男の目には、迷いも、恐怖も、そして冒険を楽しむ色すらも存在しなかった。あるのは、コンマ一秒を削り出そうとする、病的なまでの焦燥と執着のみ。
男は入り口を潜るなり、走らなかった。
跳んだ。それも前ではなく、後ろ向きに。
背中を進行方向に向け、小刻みなバックステップを繰り返しながら、人間離れした速度で迷宮を滑っていく。
――なんだ、あれは。
吾輩は困惑した。
かつてカニの魔物を見たことはあるが、ここまで器用な動きはしなかった。
男は、まるで地面との摩擦係数を無視するかのように、滑るように後ろへ、後ろへと進んでいく。
その奇妙な移動法は、普通に走るよりも遥かに速い。
第一通路には、吾輩が丹精込めて配置した「飛び出す槍」の罠がある。
床のスイッチを踏めば、即座に鋭利な刃が侵入者を串刺しにする手はずだ。
男の足が、スイッチを踏んだ。
吾輩は反射的に槍を射出する。
だが、当たらない。
男はスイッチを踏んだ瞬間、前転――ローリングを行った。
回転する肉体。
槍の切っ先は、男の肌を掠めているはずだった。物理的には接触している。だが、まるでその瞬間だけ男の肉体がこの世から消失したかのように、刃は彼をすり抜けた。
無敵時間。
吾輩の脳裏に、そんな理不尽な単語が浮かんだ。
男は回転の勢いを殺さず、再びバックステップに移行する。
一切の無駄がない。
恐怖による躊躇も、状況確認のための停止もない。
彼はこのダンジョンの構造を、罠の位置を、敵の配置を、全て「暗記」している動きだった。
初めての来訪にも関わらず、だ。
――気に入らない。
――実に気に入らない。
吾輩は管理職として、この無礼な客に教育的指導を行うことを決意した。
スライム部隊を動員する。
通路の幅いっぱいにスライムを展開し、物理的に道を塞ぐ。これならすり抜けることは不可能だ。
男はスライムの壁を前にしても、速度を緩めなかった。
剣を振るうのか?
いや、錆びた剣ではスライムを倒すのに時間がかかる。
男が選んだ行動は、吾輩の理解を超えていた。
彼は、通路の角――壁と床が直角に交わる隅に向かって、全速力で突っ込んだのだ。
そして、壁に向かってひたすら身体を擦り付け始めた。
小刻みに震え、しゃがみと立ち上がりを高速で繰り返す。
端から見れば、壁に向かって求愛ダンスを踊る不審者である。
――何をしている。
――気でも狂ったか。
だが、次の瞬間。
ぬるり、とした奇妙な感覚が吾輩を襲った。
関節が外れたような、あるいは内臓の位置がずれたような、生理的な不快感。
男の身体が、壁に沈んだ。
硬い岩盤であるはずの壁を、水面のように透過し、向こう側へと抜け出たのだ。
――は?
吾輩は我が目を疑った。
男が抜けた先は、本来ならば複雑な迷路と中ボスの部屋を越えた先にある、第三層へのショートカット通路だった。
壁抜け。
物理法則の欠落。
世界のバグ。
男は、吾輩が用意した「迷わせるための迷路」も、「中ボスの強烈な一撃」も、「息もつかせぬ連続トラップ」も、全てを壁の裏側を通ることで無視した。
これは冒険ではない。
ただの不正だ。
吾輩の胃のあたり(中層)で、待機していたシャドウウルフが困惑している気配がする。
彼女は侵入者の気配を察知し、完璧な待ち伏せをしていた。
だが、獲物は現れなかった。
彼女の頭上、遥か天井裏の座標を、男がすり抜けていったからだ。
――許せん。
――吾輩の体内構造を、勝手に書き換えるな。
――そこは通路ではない。ポリゴンの裏側だ。
男は止まらない。
必要なアイテム(鍵)すらも、扉の蝶番の隙間に剣を差し込み、無理やりこじ開けることで突破した。
鍵を探すドラマも、謎解きのカタルシスも、全てスキップ。
彼の目には「ゴール」しか見えていない。
そして、あっという間に最奥部。
レッドドラゴンのヴォルグが眠る大広間へと到達してしまった。
所要時間、わずか数分。
通常の冒険者が三日はかける道のりを、カップ麺が出来上がるよりも早く踏破したのだ。
広間に入った男に対し、ヴォルグが目を覚ます。
黄金の山の上で、傲慢なる竜が鎌首をもたげる。
『……誰だ、貴様は。我の眠りを妨げる愚かな――』
ヴォルグが口上を述べ始めた。
ボス戦における様式美だ。
まずは威圧し、名乗りを上げ、そして戦闘に入る。それが礼儀というものだ。
だが、男はその口上すらも「時間の無駄」と判断したらしい。
ヴォルグが喋っている間に、男は何もない虚空――自分の背中のあたり――に手を伸ばした。
そこには何もない。
腰布一枚の裸体があるだけだ。
だが、男の手はズブズブと空間に沈み込み、何かを掴んだ。
――おい。どこに入れている。
――収納魔法か? いや、魔力反応がない。
――まさか、その空間も「バグ」か?
男が虚空から引きずり出したのは、身の丈ほどもある巨大な「樽」だった。
明らかに質量保存の法則を無視している。
四次元ポケットなどという生易しいものではない。世界のテクスチャの隙間から、強引にデータを取り出したような気色の悪さだ。
男は樽をヴォルグの足元へ投げつけるのではなく、あろうことか自分の足元に置いた。
その樽の側面には無数の切り込みがある。それでは樽としての機能は著しく損なわれるだろう。
徐に男はその樽の上に乗り、剣を特定のリズムで振り回し始めた。
『……何をしている? 踊りか? 命乞いにしては――』
ヴォルグが首を傾げた、その時だ。
男の身体が、弾け飛んだ。
樽と剣の接触判定がバグを起こし、運動エネルギーが無限に増幅されたかのように、男は砲弾のごとき速度で空へ射出されたのだ。
その軌道は、正確にヴォルグの頭上を通過し、部屋の奥にある「脱出口」へと向かっていた。
戦わない。
倒しもしない。
ボスすらも「背景」として処理し、素通りする気だ。
『なっ、貴様! 待て! 我を無視するな!』
ヴォルグが慌てて炎を吐こうとする。
だが、男は空中で剣を振るい、その反動を利用してさらに加速した。
物理学の教科書が見たら卒倒するような挙動だ。
――させるか。
吾輩の堪忍袋の緒が切れた。
こんな無法が許されていいはずがない。これは攻略ではない。物語への侮辱だ。
ダンジョンとしての尊厳にかけて、このバグ野郎を叩き潰さねばならない。
吾輩は、全魔力を集中させた。
男が向かう脱出口。
その手前の空間に、新たな壁を生成する。
それも、ただの壁ではない。
「当たり判定」を極限まで分厚くし、すり抜けを許さない、概念的な拒絶壁だ。
運営による緊急メンテナンスである。
男が脱出口に飛び込む直前、何もない空間に激突した。
重い衝撃音が響き、男の顔面が見えない壁に潰される。
失速。
男は無様に床へと落下した。
「……!?」
初めて、男の表情に焦りの色が浮かんだ。
計算外。
彼の知る攻略チャートにはない、突発的な事態。
男は即座に起き上がり、再び壁に向かって身体を擦り付け始めた。
壁抜けを試みているのだ。
だが、無駄だ。
吾輩は今、リアルタイムでその場所の座標データを書き換えている。
貴様が右にずれるなら、吾輩も壁を右にずらす。
貴様がしゃがむなら、床を隆起させる。
いたちごっこだ。
だが、ここは吾輩の体内だ。
地の利は圧倒的にこちらにある。
焦る男の背後に、影が落ちた。
『……おい』
地獄の底から響くような低い声。
ヴォルグである。
無視され、素通りされかけ、プライドをズタズタにされた竜王が、鼻先数センチの距離で男を睨み下ろしていた。
ヴォルグの口元から、どす黒い煙が漏れている。
もはや口上はない。
あるのは純粋な殺意のみ。
『舐めるなよ、人間』
紅蓮の炎が炸裂した。
今度は手加減なしだ。
男は回避行動を取ろうとしたが、背後は吾輩が作った見えない壁に塞がれている。
前はドラゴン、後ろは壁。
いわゆる「詰み」である。
炎が男を飲み込んだ。
悲鳴すら上げる間もなく、腰布一枚の身体は炭化し、塵となって消えた。
錆びた剣だけが、カランと音を立てて床に転がった。
静寂が戻った広間。
ヴォルグは、まだ怒りが収まらない様子で、地面を爪で削っている。
『……不愉快だ。実に不愉快だ。今の動き、まるでゴキブリではないか』
まったく同感だ。
吾輩も、胃のあたりがムカムカする。
あのような、世界の手触りを楽しまない連中に、吾輩を攻略する資格はない。
吾輩は、男が消滅した場所に残された、奇妙な道具を検分した。
彼が持っていた「記録の宝珠」。
そこには、彼が刻んだタイムが表示されていた。
『0時間04分12秒』。
馬鹿げている。
たった4分のために、彼は命を捨てたのか。
道中の美しい苔も、スライムの愛らしい動きも、シャドウウルフの気高い遠吠えも、何も見ずに。
吾輩は、スライムに命じて、その宝珠を消化させた。
そんな記録に価値はない。
ふと、入り口の方から、いつもの騒がしい声が聞こえてきた。
あの「プロ三人組」だ。
「よし、今日は第三層の隠し扉を探すぞ」
「慎重に行こう。このダンジョン、最近また地形が変わった気がする」
「壁の模様一つにも意味があるかもしれん。観察を怠るな」
彼らは、一歩一歩、石畳を踏みしめ、罠を警戒し、時間をかけて進んでくる。
その遅々とした歩みが、今は愛おしく感じられた。
そうだ。
迷え。悩め。立ち止まれ。
その無駄な時間こそが、冒険の豊かさなのだから。
吾輩は、彼らを歓迎するために、わざとらしく通路の奥で風を吹かせ、不気味な演出を加えてやった。
彼らがビクリと肩を震わせる。
その反応を見て、吾輩の荒んだ心は少しだけ癒やされたのである。
吾輩はダンジョンである。
近道などという味気ないものは、吾輩の辞書にはない。
人生も迷宮も、回り道にこそ花が咲くものだと、誰かあの哀れな走者に教えてやってほしいものである。




