【番外編】冬季限定・ダンジョン温泉郷
季節の巡りというものは、人間にとっても魔物にとっても、等しく無慈悲なものである。
夏が過ぎれば秋が来て、秋が深まれば冬が来る。地上の木々は葉を落とし、北風は容赦なく吹き荒れ、生きとし生けるものは穴倉に籠もって春を待つ。
それはつまり、吾輩のような「待ちの商売」を営む者にとっては、閑古鳥が鳴く冬枯れの季節が到来したことを意味する。
客が来ない。冒険者が来ない。
彼らとて人の子だ。雪山を越えてまで、わざわざ暗くて寒い地下室で死にたいと思う酔狂な輩は、そうそういないのである。
吾輩はダンジョンである。
恐怖と絶望を糧とする吾輩にとって、冬は飢餓の季節だ。
胃袋である広間は空っぽ。通路には冷たい隙間風が吹き抜け、湿った壁は凍りつきそうなほど冷え切っている。
静寂。
それが今の吾輩を満たす唯一のものであった。
だが、この静寂を破る不満分子が、身内に約一名存在した。
最奥部に鎮座する、真紅の爬虫類こと、レッドドラゴンのヴォルグである。
『……寒い』
黄金の山の上で、巨大な身体を小さく丸めながら、ヴォルグが言った。
その言葉には、覇気も威厳もない。あるのは純粋な生理的不快感のみだ。
『おい、ダンジョン。どうにかしろ。我が鱗が凍傷になりそうだ。ここは冷蔵庫か? 貴様の管理能力はどうなっている』
変温動物のくせに口だけは達者だ。
吾輩だって寒い。石畳の芯まで冷えている。だが、暖房設備など導入する予算もなければ、そんな魔法技術もない。
『火を吐くぞ。ここでブレスを吐き続けて、無理やり暖を取ってやる』
ヴォルグの喉元が赤く発光し始めた。
やめろ。それは自殺行為だと前にも教えたはずだ。一酸化炭素中毒で死ぬ気か。
しかし、このままでは本当に、我がダンジョンの看板スターが凍死しかねない。
吾輩は思考を巡らせた。
熱源はある。目の前のトカゲだ。こいつの体温は常に溶岩並みに高い。
そして、水はある。地下水脈が豊富に流れている。
この二つを組み合わせれば、あるいは……。
熱源は目の前にある。真紅のトカゲだ。水もある。地下水脈は、いくらでも流れている。
吾輩はヴォルグの寝床の下の水脈を少しだけ曲げた。彼の腹の下を通った水は温まり、隣の小部屋に溜まる。
要するに、トカゲをボイラーにした。
名付けて『床暖房』。
ついでに『源泉掛け流し』でもある。
数時間後。
小部屋には、並々とした湯が満ちていた。
ヴォルグの強烈な体熱によって温められた水は、適度な湯加減となり、さらにドラゴンの魔力が溶け出したことで、ほのかに白濁し、硫黄の香りを漂わせている。
湯気が立ち上る。
その温かい湿気が、冷え切ったダンジョン内を巡り始めた。
効果は劇的だった。
『……ふむ。悪くない』
ヴォルグは、床から伝わる熱に満足したのか、再び黄金の上で長々と体を伸ばした。
彼の熱が水を温め、水蒸気が空気を温め、その空気が再び彼を包む。
完璧な熱循環エネルギーの完成である。
だが、問題はここからだ。
この「巨大な湯船」をどうするか。
ただ溜めておくだけでは、カビの原因になるだけだ。
吾輩は、ふと思いついた。
冬場、冒険者は来ない。
なぜ来ないか。寒いからだ。
ならば、「温かい場所」があれば、彼らは来るのではないか?
吾輩は方針を転換した。
冬季限定、業態変更。
「恐怖の迷宮」休業。「癒やしの湯治場」開店である。
従業員の配置転換を行う。
まず、スライム。
普段は冒険者を溶かす彼らだが、この適度な温水の中では、その粘性が変化し、絶妙な弾力を持つようになる。
彼らには湯船の中に待機し、入浴客の背中や肩に乗って振動する「マッサージ機」としての役割を与えた。
次に、ゴブリン。
彼には、入り口で「手ぬぐい」を配る係と、湯加減を見る「番台」の役割を命じた。
最初は嫌がっていたが、「客が落とした小銭は拾っていい」と伝えた途端、頭にタオルを巻いてやる気を見せた。
そして、シャドウウルフと子狼たち。
彼らは湯が苦手なので、脱衣所(広間)の警備兼、モフモフした湯上がり用のクッション係だ。
準備は整った。
あとは、客を待つのみ。
数日後。
雪深い山道を越えて、一組の冒険者パーティが現れた。
彼らは震えていた。
眉毛も髭も凍りつき、鎧の隙間から入る冷気に歯を鳴らしている。
「……こんな日にダンジョン探索なんて、正気の沙汰じゃねえ」
「でも、稼がないと宿代もないし……」
悲壮な覚悟で入り口をくぐった彼らを待っていたのは、冷たい殺意ではなく、むわりと漂う温かい湯気と、硫黄の香りだった。
「……なんだ? 温かいぞ」
「この匂い……温泉?」
彼らは警戒しつつも、温もりに誘われるように奥へと進む。
そこに罠はない。
スライムも襲ってこない。
そして辿り着いた小部屋で、彼らは目を見開いた。
白濁した湯が、こんこんと湧き出ている。
湯気の向こうには、風情ある岩肌。
「マジかよ……」
「入っていいのか? これ」
番台のゴブリンが、無言で桶を差し出した。
彼らは鎧を脱ぎ捨て、恐る恐る湯に沈んだ。次の瞬間、肩が落ちた。肺の奥の冷えが、じわじわほどけていく。
口から漏れたのは、悲鳴ではなく、降伏だった。
吾輩の胃の奥に、じんわりとしたものが流れ込んでくる。
これは……美味い。
恐怖の味が「激辛スパイス」だとすれば、これは「ホットミルク」だ。
優しく、甘く、そして眠くなる。彼らが発する「癒やし」と「弛緩」のエネルギーは、空腹の吾輩の核を優しく満たしていった。
噂は、雪解け水のように広がったらしい。
「あそこのダンジョン、冬だけ温泉やってるってよ」
「竜の魔力が溶け込んだ秘湯らしい」
「スライムのマッサージが絶品だとか」
日を追うごとに、客が増えていった。
彼らは武器を抜き身にせず、代わりに着替えと石鹸を持ってやってくる。
殺伐とした攻略戦はない。
あるのは、裸の付き合いと、世間話だけだ。
そんなある日。
あの「三人組」がやってきた。
重装備の騎士、斧使いの女戦士、そして魔術師。
彼らは入り口で、番台のゴブリンを見て固まった。
「……どういうことだ」
騎士が、剣の柄に手をかけたまま呟く。
「ゴブリンが、タオルを畳んでいる。罠か? 高度な精神攻撃か?」
「いや、見て」
魔術師が、壁の結露を指先で拭った。
「この湿度、温度……そして微量な硫黄分。環境そのものが変質している」
女戦士が鼻をひくつかせた。
「いい匂いじゃない。……ねえ、これ、まさか」
彼らは、半信半疑のまま奥へと進んだ。
そして、湯気が充満する「大浴場」へと足を踏み入れた。
そこには、先客の冒険者たちが、だらしない顔で湯に浸かっていた。
スライムを枕にして寝ている者。
互いに背中を流し合う者。
平和そのものだ。
三人は絶句した。
B+ランク指定の危険地帯。
人類の脅威たる魔宮。
それが、ただの健康ランドと化している。
「……認めん」
騎士が震える声で言った。
「私は認めんぞ。ダンジョンとは、血と汗と鉄の匂いがする場所であるべきだ。こんな……こんな軟弱な……!」
一時間後。
湯船の隅で、首までお湯に浸かる騎士の姿があった。
兜は脱いでいる。
その顔は、とろけるように緩んでいた。
「……悔しいが、いい湯だ」
隣では、女戦士がスライムを肩に乗せていた。
スライムは小刻みに震え、彼女の凝り固まった筋肉をほぐしている。
「あー……そこ、そこよ。あんた、いい腕(触手)してるわねえ」
魔術師は、湯を手ですくい、光に透かして分析していた。
「……成分構成が異常だ。高濃度の魔素が含まれている。これは、ドラゴンの魔力か? だとすれば、疲労回復どころか、魔力回路の修復効果すらあるぞ。……長湯推奨だ」
完全勝利である。
歴戦のプロフェッショナルたちも、冬の温泉の魔力には勝てなかった。
彼らから立ち昇る、濃厚な「休息」のエネルギー。
吾輩はそれをたっぷりと吸い込み、心地よい満腹感に浸っていた。
その時、ボイラー室……もとい、隣の寝床から、ヴォルグの念話が届いた。
『おい、ダンジョン。なんか最近、身体が軽くなった気がするんだが』
――気のせいだろう。
吾輩は白を切った。
お前の魔力が湯に溶け出し、冒険者たちに吸われているなどとは口が裂けても言えない。
『それに、最近、妙な供物が増えたな』
ヴォルグの枕元には、冒険者たちが置いていった「温泉卵」や「冷えた牛乳」、「地酒」などが山積みになっていた。
彼らは、この良質な湯を湧かしている(と思われている)「湯の神様」に感謝して、供物を捧げているのだ。
『人間どもめ、ようやく我への敬意を形にするようになったか。……ふん、悪くない』
ヴォルグは、冷えた牛乳を器用に舌で巻き取り、飲み干した。
風呂上がりの牛乳の味を知ってしまったドラゴン。
もはや、人里を襲う魔獣の威厳など欠片もない。
夜が更けた。
客たちが帰り、静寂が戻る。
だが、それは以前のような凍えるような静寂ではない。
余熱と、満足感が漂う、温かい静けさだ。
吾輩は、湯船に浮かぶ手桶を見つめながら、ぼんやりと考えた。
戦いだけがダンジョンの存在意義ではない。
時にはこうして、傷ついた者たちを受け入れ、温め、また送り出す。それもまた、大地に根ざす「場所」としての在り方なのかもしれない。
……まあ、本音を言えば。
春になって彼らが元気になったら、また落とし穴に突き落として、恐怖の悲鳴を上げさせてやるつもりだが。
今は休戦だ。
吾輩はダンジョンである。
冬の間は、この温かい泥水の中で、人間たちと一緒に夢を見るのも、そう悪くはない。
ただ、ゴブリンよ。
売り上げの小銭をこっそり腰布に隠すのはやめろ。




