恋心エマージェンシー
「主たちの到着までまだ少し掛ります。それまでの間、色々とご案内できますが」
「……いえ、今は少し一人で考えさせてください。ありがとうございます、ナナキ様」
「御用ができましたらいつでもお申し付けください」
一礼をして、その場を離れた。ナナキの意志は示したし、借りも返した。婚約の放棄という大きすぎる借りに対して、返したものはほんの細やかなものではあるけれど、これ以上の馴れ合いは互いの誇りを汚す。元より貴女が始めたことだ、シエル・マーキュリー。この帝都で主が決断を下すその時までの間を存分に生かすと良い。そこから先はもう遠慮はしない。
「……変わったな、ナナキ。殺すのかと思ったよ」
「そうですね、あれに誇りがなかったのなら今この場で首を落としていたでしょう」
一人佇むシエル・マーキュリーから少しの距離を取って、成り行きを見守っていたエンビィと合流した。真っ先に飛んできたのはナナキの変化についてだった。そう、昔のナナキは敵で在るのならすぐにでも殺していた。基本的にはそれは今でも変わらないし、今後も変える予定はない。
ただ、彼女については少しだけ違う感情が在る。それだけのことだった。
「見てくださいエンビィ。彼女は醜いでしょう」
「……そうだね、とてもじゃないけれど擁護はできない」
「ぶくぶくと肥えた身体、豚のような顔……あの外見に輝きなんてものは一切ない」
不健康をこれでもかと詰め込んだ体形。率直に言ってしまえば、人間としては酷く不完全と言えるだろう。まともに動けるだけの体力はなく、食べる量は人の数倍。肥満体形の極致がもたらす悪臭は人間が発していいものではない。鼻の良いナナキにとってあれは兵器だ。
ナナキの嫌う怠惰、その成れの果ての姿が彼女そのものなのだろう。
「――――それでも」
それでも、と。そう口が続いてしまうのが、シエル・マーキュリーという女性だった。その醜い外見とは裏腹に、その心に宿しているものは確かな輝きが在った。ナナキはそれを美しいと思った、何度も。何度でも。理由はそれだけで十分だ、他には要らない。
「彼女を美しいと思ったから、それを本物だと思ったから」
「だから殺さない? あのナナキが、ねえ……」
「不思議、と言いたげな表情ですね」
「誇りを貴ぶのは知っているよ。でもナナキは、それ以上に敵を殺す。殺し過ぎる」
それはとても簡単な話だよ、エンビィ。
「エンビィにも綺麗だと思うものがあるでしょう」
「たくさんあるね」
「それが場所ならまた行こうと、それが物なら飾っておきたくなるでしょう?」
「……なるほど、確かに壊したいとは思わないね」
「私も人間です、エンビィ。惜しくなる時もある」
美しいから、本当に綺麗だから。だからそれを壊すのを惜しく感じてしまう。それが己の脅威で在ったとしても、その誇りの輝きが本物であるからこそ惜しくなる。なんてことはない、ナナキはただ彼女の美しさを気に入っているだけなのだ。
「……何か?」
見れば、エンビィはどうしてか微笑んでいた。綺麗な紅い髪を揺らしながら。ナナキがこの紅玉の瞳から目を逸らすことはない。もっと見て、もっと褒めて。どうしてかはわからないけれど、なんだか褒められそうな雰囲気、そんな気がするのだ。
「いいや、何でもないよ。ただ……帝都を出てから良い出会いに恵まれたのかもしれないね。ナナキは」
「最良の出会いがあったのは確かですが、エンビィがそう言うのなら胸を張れそうです」
「私が言わなくてもいつも自信満々だろ」
正解。さすがはナナキの姉、ナナキの考え方を良く理解している。
「でもまあ、そっか。教えていくことばかりが正解じゃない、か。勝手に学んでいくこともそりゃあるよなあ……」
「天才ですので?」
「ハハッ、バーカ」
空を見上げながら小さく呟いたエンビィに茶々を入れてみればバカにされてしまった。そう、これで良い。ナナキがバカにされてエンビィが笑うのなら、幾らでもバカにされよう。エンビィがナナキの成長に対して何を思ったのかはわからない。
それでも言えるのは、ナナキは貴女に感謝しているということ。
「感謝していますよ、エンビィ」
「知ってるよ」
ナナキはその温かい笑顔が好きだ。炎は焼くばかりではない、温もりをくれるもの。大恩あるこの姉を大事にしよう、そう誓った。
「シルヴァですね」
「シルヴァか」
ふと、接近する魔力の気配に同時に口を開いた。間髪入れずに頭上から落ちてきた金髪碧眼、凛々しく威厳のあるその顔立ちは帝都の女性に大人気。まあ確かに整ってはいるけれど、ナナキとしては余り好きではない。もう少し間の抜けている方が良い。
「エンビィ、お前どこに行っていた!?」
「ちょっとね。なにさ、なんかあったの?」
「そこのメイドが皇帝陛下を殺すところだったぞッ!」
「い゛っ!?」
とてもぎこちなく首を動かしてナナキを見るエンビィにこんにちナナキ。それにしても、先ほどの些細なやり取りについていつまで騒いでいるのだろうこの男は。五帝の頭目たるもの、もう少し威厳を見せてはいかがだろう。
「シ、シルヴァ胃薬持ってる……? 痛たた……」
「飲み干したわッ‼」
どうやら苦労している様子、労った方が良いだろうか友よ。なに? 必要ない? まったく君は冷たいね。うん? え、ナナキのせいなの。どうしてさ。
「今は胃薬よりレオンだ。このメイドに人員を割かれて追っているのはライコウだけだ。お前も追え!」
「あー……それなんだがシルヴァ」
「ふん、大方またナナキを甘やかすつもりだろうが時間がない。大抵のことなら妥協してやる、さっさと言え!」
「そりゃラッキーだ。あっちに居るあの女性に帝都への滞在許可をくれ」
「女性……?」
心の姉はどこまでもナナキの頼みを聞いてくれた。なんという優しさ、やはりこの姉は大事にしなければいけない。いつか恩返しができると良いのだけど、なかなかその機会には恵まれない。何せこの姉は一人で何でもできてしまうから。
エンビィの指差す方向にシルヴァが首を動かせば、そこには一人で何か思案に耽るシエル・マーキュリーの姿だけが在った。才能の終着点、その在り方を認め、それを守護し、その志に賛同する彼の剣帝の瞳にシエル・マーキュリーのだらしない身体が映された。
どれだけ心が綺麗でも、それを見るよりも前に人の瞳に入るのはいつだって外見。本質の理解とは、そう易々と行えるものではない。やはりシエル・マーキュリーにとって、その外見は大きな弱点だった。これを見たシルヴァが許可を出すかと問われれば、難しいと答えるのが無難だろう。
しかし、ナナキの名でこの帝都への滞在を保証した以上、ここでシルヴァが頷かなければ実力行使に出るより他にない。彼女はこのナナキの客人、それを守るのは私の義務だ。
「なんだ、あの女性は」
「あー……そのー……ナナキの友人? らしいんだが……」
シルヴァの反応は大方予想通りのものだった。となれば、エンビィが気まずそうに告げるのも道理。心の姉にまた心労を強いてしまった、深く反省しよう。また随分と頼ってしまった、心の中で姉に感謝。ありがとうエンビィ。
「おいナナキ、あの女性の名は」
む。
「シエル・マーキュリーです」
「許可は出しておこう。行くぞエンビィ、今はレオンだ」
空を見上げてみた、どうやら槍は降らない様子。予想外の出来事にナナキもエンビィも少しの間、無言で顔を見合わせてしまった。才能を基準とした考えを持っている彼に、いったいどのような変化が在ったというのだろう。また、その原因は。
その憎たらしい済まし顔にクエスチョンナナキ。
「……シエル・マーキュリー」
ぽつりと呟きを聞いた。見れば、シルヴァが再び彼女を見つめている。
「……美しい」
……………………うん?




