逃走中
尊い選択のことについて、考えていた。
婚約者という立場を捨てた彼女のことについて。好きな人だから、愛している人だから、婚約者としてではなく女性として選ばれなければ意味はない。そう言って好きな人との結婚を捨てた女性をナナキは知っている。誇り高き女性、シエル・マーキュリー。
例え心から愛されていなくても、放っておけばそのまま結婚できていた。ナナキはありえない。それでも、それで良いと妥協する女性はきっと多く存在するのだと思う。主は容姿も整っていて、今では財産も相当なものになる。愛を求めないのであれば、人生の伴侶としては最高なのだろう。
それでも、誇りはそれを許さなかった。
だから尊いと、ナナキはそう思ったのだ。ナナキとはまるで違う育ち方をしている彼女に、その強さが宿っていることは奇跡に思えた。まだまだ肉体はだらしないし、改善すべきところは山ほどある彼女だけど、彼女は紛れもなく人間だった。決して動物や虫ではなかった。
相対する存在なれど、この良き出会いにナナキは感謝す――――
「――――ぎゅむっ」
「……ご挨拶ね、ウサギさん」
すわわわわわ。
「…………」
「…………ギィギィ!」
無言の視線に対して、泣く泣く鳴く。亡くなりたくない。届けナナキのラビット言語、君にグゥ! 貴女にグゥ! ナナキはGood!! どんな時でも自分を誇れるナナキ恰好良い。この格好良さに免じてお許しを頂けないだろうか。いかがでしょうか、ミーア様。
「…………」
「…………ギ、ギィ」
頂けない。頂けない?
困惑のナナキスマイル。世界の皆さま、ナナキピンチです。
確かに物思いに耽ってミーア様のその大きな膨ら――――チッ。大き……その胸にヘッドバットしたナナキが悪い。シエル様の余りに尊い選択について想いを馳せていたとはいえ、このナナキが気配にも気付かずに衝突するとは。なに? よくある? うるさい友よ、君は誰の味方なんだ。
主と同じ蒼星石の瞳がナナキを見ている。綺麗な色、お母様が愛した蒼。でも今はその蒼が恐ろしい。どうしよう、ナナキは解雇されてしまうのだろうか。そうなると主の傍に居られなくなってしまう。それに世界への対抗策にナナキが居ないのはまずい。主が殺されてしまう。
ナナキはこの蒼に立ち向かわなければいけない。主のために、ナナキのために。ならば進め、突貫せよナナキ。アイマムナナキ、お母様万歳。
「ご、ご容赦――――」
「気を付けなさいね」
「――――ほ?」
許された。どころか頭を撫でられた。恐る恐る顔を上げてみると、天使の笑顔がそこにはあった。誰これ。
黄金の髪に蒼星石の瞳。顔立ちは凛々しく美しく。そんな顔でエンジェルスマイルとは恐れ入った。主やフィオさんのような近しい者にだけ見せるミーア様の本当の笑顔。もしかしてナナキはたどり着いたのだろうか。いつの間にか、その道を踏破していたのだろうか。
思えば、最初の出会いの日からそれなりの時間が経った。邪険にされても歩み寄ったナナキの努力が実ったということだろうか。そうであるのならば、万感の思いであった。ようやく、ようやくナナキはウサギから人になれる。さよならラビットただいまヒューマン。ナナキです。
「いつもご苦労様」
笑顔で労いの言葉を掛けられた。そっと手渡されたキャロットがミーア様の醸し出すオーラを見事に破壊する様はとてもシュールであった。それでも悠然と去っていくミーア様の後ろ姿には確かな品格が在った。さすがは主の妹君、このナナキを雰囲気だけで飲み込むとは。恐れ入ったという次第。
何はともあれ助かった。ナナキ生存、良いと思います。
そして気付く、ニンジンを手渡されている意味を。ウサギとして愛でられただけなのでは。メーデー! そして更に気付いてしまったのである。ナナキしっかりと謝罪していない。ラビット言語でないと釘を刺されることは多いが、それでも謝罪を口にしていないのは問題である。
悪いと思ったのなら謝る。これはナナキの誇りに関わる問題、迅速に対処するべし。ナナキソナー、屋敷内での各員の位置を確認、衝突の危険なし。発進よろ着いた。
「――――よっしゃあッ‼」
「ッ!?」
何事。
ミーア様の部屋の中から大きな声が聞こえてきた。今の声はミーア様が出したのだろうか。普段のミーア様からは考えられない類の言葉だったけれど。とりあえずはノッキングナナキ。聞こえるように少し強めで。
「よしよしよし! よしッ!」
聞こえていない。出直すべきか、否か。ナナキとしてはすぐにでも謝罪したい。このもやもやを払拭して気持ち良くお仕事に当たりたいのだ。このまま盗み聞きのようになってもいけない、ここは失礼を承知で突撃しよう。誠心誠意、お伝えすればきっと届くと信じて。
「失礼致し――――」
「婚約ッ! 解消ッ! フゥーッ‼」
申し訳ございませんでした。
そっとフェードアウトナナキ、心の中で謝ったから良しとする。大丈夫、きっと届く。ナナキは何も見なかった、いいね。
あのいつもクールなミーア様が飛んで跳ねて奇声を上げながらシャドウボクシングしている姿なんて見ていない。そんなものを見てしまったら最後、ナナキはこの屋敷に居られなくなってしまう可能性が極めて高い。まずはこの場から離れるよ、迅速に。
あの森で暮らしていた時のように、気配を殺して少しずつミーア様の部屋から距離を取る。並みの者ならば衝撃的な光景を目にした際は興奮で気配を出してしまうものだけど、ナナキは幼少の頃より気配の殺し方を学んでいる。そして生き残ってきたのだ。何の問題もない。
その筈なのに、何故ミーア様の部屋の扉が開いたのだろうか。
振り返ってみれば、まだ扉が開いてるだけだ。大丈夫、ミーア様の姿が少しでも見えれば電光石火でこの場を去る。ナナキだとバレていなければいいのだ。いや、むしろ気配に気付いてはおらず、たまたまどこかへ出かけるために扉を開けただけかもしれない。その可能性の方が高い。
「…………」
扉が開いたまま十秒、さすがにおかしい。エスケープ待機。ステンバーイ、ステンバーイ。
「ッ!?」
開け放たれた扉からあるものが飛び出てきた。コロコロと転がるそれに絶望を見た。そうか、あの衝撃的な光景を見た時に思わず手放してしまったのか。つまりは、そういうことなのだろう。ナナキに待っている結末は。それでも、ナナキは抗いたい。
「落とし物よ、ウサギさん?」
ぬっと扉から顔を覗かせたミーア様の表情は人間のものではなかった。お母様の愛した蒼はドス黒く濁っているように見えた。うん、ナナキが悪い。でも今のミーア様は冷静ではなく、きっとナナキの言葉なんて届かないと思うのだ。
時間が必要だった、切実に。
顔だけを出しているミーア様に笑顔で和解を申し出てみる。忘却のナナキスマイル。ミーア様、ナナキは何も見ていません。見ていたとしても、それは既に忘れているのです。
「ほら、取りにおいでなさい。ウサギさん」
ダメだこれ、魔法の気配を感じる。なに? どうするのかって? 友よ、君にもわかるだろう。御覧なさい、あのミーア様を。自身の恥をこの世から消し去らんとする強く禍々しい意志を感じるだろう。あれはいけない、ナナキはあれを恐れる。必然として選択は一つだ、友よ。
逃げるんだよォ!
「ギ、ギィギィギィギィ!」
「あらあら……アハハハ!」
追って来――――うわ怖っ。




