森の少女
「イヴァール様が戻られない……?」
酷く懐かしい話だけどね、これが始まりだったんだ。
五帝が一人、氷帝イヴァール。帝都で生きる者であれば誰もが知る有名人。ライコウはさておき、当時はシルヴァやサリア、そして私と言った具合に新しい世代が奮闘する中で、頑なに後進に道を譲らない大英雄。私もその胸をお借りしたことはしばしば。その実力たるや、圧巻の一言に尽きたよ。
ええもちろん、氷付け。
当時はまだまだ若くて未熟だったという定番の言い訳はしておこう。でもね、だからこそだったんだ。私もシルヴァもサリアも敵わない古き英雄。そんな彼が、とある森の調査から戻ってこない。まあ当然、私たちは”だからどうした“という体だったのだけどね。
当時、その森には良くない噂が在った。
五帝が動くような案件ではないのだけど、イヴァール様はその森の調査に赴いた。今でもどうしてイヴァール様があの森へと向かったのか私にはわからない。何かを感じ取ったのか、或いは……”何かを知っていた“のか。考えても仕方がないけれど、そこで一つの運命は決してしまったんだ。
帰還予定から二日経ってから、ライコウ、シルヴァ、サリアの三人と話し合った。誰が向かうかはジャンケンで決めた。思いもしないよ、だってあのイヴァール様だ。触れられれば凍ってしまうし、遠くに居たって凍ってしまう。どうしろと。
結果としてジャンケンで負けた私は一人であの森へと赴いた。
これこそが当時最大の自惚れ。炎帝の席を手に入れて舞い上がっていたバカな女。今言っても仕方がないことだけど、私はこの時にどうあっても五帝の皆を連れてくるべきだったのだ。戻ってこない、と認識していた。戻ってこれない、とは認識していなかったんだ。
「――――――――」
絶句、だったと思う。
戦っている、そうすぐにわかったから加勢に入ろうとした時のことだ。いや、薄々はね、感じていたんだよ。正直に言えば戦っていることは森に到着する前からわかっていた。多分、気付きたくなかったんだ。あの氷帝を相手にまだ戦いが続いていることに。
そうだ、嫌な予感はしていた。
「……おぉ、エンビィか。お前も運が悪いなあ……」
その言葉を以てして予感を確信にしたのを覚えている。まるで笑えなかった。帝都の伝説、氷帝イヴァールが血にまみれていた。英雄が従えている氷の神、アーケン=グレイオーの半身は砕かれていた。情報の処理が追い付かない私に、イヴァール様は弱々しく縋ったのだ。
「すまんのぉ、エンビィ。ちぃと助けてくれんか」
「冗談では……ないようですね……」
「おおよ。どうやら逆鱗に触れたらしい。急に言葉が通じなくなってしまった……」
「気配がありませんが……相手は何人ですか?」
「一人……子供だ……」
「冗談を……」
こんなところに人間が、ましてや子供がいるわけがないと思っていた。あの氷帝が血にまみれているのだ、何かが居るのは間違いない。それなのに微塵の気配すら感じられないから当時は困惑したものだ。氷帝に血を出させるほどの怪物、途方もない魔力を持っている筈だった。それなのに、居場所がわからない。
「……姿を見せなくなったか。手強いなこれは。子供でありながら森で生きていられる理由がよくわかる」
「それで、イヴァール様。そろそろ説明して頂け――――イヴァール様……? う、腕が……」
「森の中で積み立てられた石があったのだ。何かと思って触れようとしてみればこれだ。一瞬であったわ」
その時まで多くの命を救ってきた英雄の右腕はなくなっていたのだ。聞けば容易く奪われたというものだから、いよいよ以て私はその子供に恐怖を覚えた。
「恐らくあれは……誰かの墓だったのだろうなぁ……」
今の私はそれが誰の墓だったのかを知っている。
それは正しく、あの娘にとっての逆鱗だったのだ。それを壊そうとするのならあの娘は殺すだろう。それを汚そうとするのならあの娘は滅ぼすだろう。それくらいに、あの娘にとってそれは大事なものだったのだ。たった一人になってしまってからも、守ってきたものだから。
でもそれを、当時の私に教える術がある筈もない。
「――――お前も敵か?」
耳元で死神の声を聴いた。
「――――ッ!?」
最高の速度で反応したつもりだった。けれど、振り向いた時にはハイエント=ヘリオスが無理やりに引き裂かれていた。黄金の大火と恐れられた炎の女神が一瞬で破壊された。事の重大さは加速する。私の神がやられた、それも重要であったがそうではなかったのだ。
――――どうして神が見えている?
それこそが最重要だったのだ。
「――――超越者なのだ」
「冗談を……ッ」
私は一瞬で無力化された。役立たずもいいところだったよ。振り向けば神は破壊され、姿すら確認できていなかったのだから。その時にわかっていたのは相手が子供で女の子であるということだけだ。まあ、この時の言葉遣いは相当に酷いものだったけどね。
「せめて敵意がないことを伝えられれば良いのだが……」
「人じゃなきゃ言葉は通じないですよ」
「しかしなあ、だからと言って退治するには骨が折れるぞこれは。既にバキバキに折れてる身としては辛い。若いのが気張るところだぞ、エンビィ」
「冗談をッ!」
猛攻だった。
尋常ならざる速度で何かが私の首を狙ってくるのがわかった。正直に言って、イヴァール様が氷で守ってくれなければ死んでいただろう。私は反応することができなかったのだ。完全に足を引っ張っていた。炎帝とまで呼ばれたバカな女の在りし日の姿だよ。
「捉えたッ! エンビィッ!」
「はいッ!」
帝都にその人ありとまで謳われた英雄は未熟者を守りながら、襲い掛かる怪物を一瞬だけ拘束した。それに合わせて炎を打ち込んでみれば、およそ女の子らしくはない悲鳴が漏れた。
「だっヅいッ!?」
少女だった。
見たことのない黒曜の髪に亜麻色の瞳。身なりはボロボロだが、その顔立ちは少女ながらにして美しいと言えるだけの造形だった。
少女はごろごろと転がってからすぐに立ち上がり、私とイヴァール様を見た。あらん限りの殺意を突き立てられたことはあるかな。私はこの時がそうだ。自分よりもずっと背の低い、どう見てもまだ幼い少女の殺意に私は飲み込まれた。
「戦うつもりはないんだ。話を聞いてくれないか?」
私が足をガクガクといわせている間に、イヴァール様は和解を申し出ていた。本当に未熟だな、当時の私って。
「うるさい死ね」
直球、最初からあの娘はそうだった。
「ナナキの敵はぶっ殺す、だからてめえらはぶっ殺す。とっととくたばれクソジジイにクソ女」
……この時のことはまだ許してない。




