泳げナナキ
波打ち際で反省、ぱちゃぱちゃと。
失態から一転、罰どころか救いを与えられてしまった。ミーア様のご活躍により主の平穏は守られた。ナナキがしたことはただ問題を起こしたという一点のみ。もしかしたら雰囲気に当てられていたのかもしれない。これでは従者失格だ。
ひんやりとする足に引かれて下を見た。水面を貫き水底に沈むナナキの足。まるでこの心を表しているかのようで無性に腹が立った。だから蹴っ飛ばしてやった。けれど搔き消した水面はやがて落ち着いて、鑑のようにナナキの顔を映している。酷い顔だった。
消沈のナナキスマイル。世界の皆さま、愚かなナナキです。
無理やりに笑ってみた。するとどうだろう、何とも酷い笑顔がそこに在った。こんなものに価値はない。笑顔っていうのはね、幸せを象徴するものじゃないとダメなんだ。若くして逝ってしまったお母様の笑顔を思い出せ。余命を悟っていてもお母様の笑顔に陰りはなかった筈だ。ナナキを心配させまいと。
今ではもう懐かしい愛情。
そんな素敵なものを思い出したものだから、前を向こうと思った。またお母様に励まされてしまった。こんな単純な自分が可愛い。失態がどうした、取り戻せば良いじゃない。私はナナキ、敬愛なるお母様の娘にして特別な人間。そうとも、簡単なことじゃないか。
もう大丈夫、顔を上げた。
「ナナさーん!」
……シエル様だと認識するのに少しだけ掛かった。
声の聞こえる程度の距離で雄々しく泳ぐその姿がナナキの脳裏を刺激する。そう、確かあれはサリアから借りた本。今はもう人が泳ぐことができなくなってしまった海にかつて生きていたもの。ナナキの記憶力とあの古臭い写真が正しいのなら、確か名前はトド。
こちらに向かって手を振ってくれるシエル様に手を振り返す。ふりふり。その見た目とは裏腹に、雄々しくも優雅に泳ぐシエル様はさながら湖のマーメイド。泳げないナナキからしてみれば、それはとても美しいものに見える。いや、少しばかりお肉があれだけども。
あれだけ大きなシエル様が泳げている。その事実はナナキに疑問を持たせるに十分なものだった。
お母様の言い付けを守って足の届かない水位までは入ったことがないけれど、もしかしたらナナキも泳げるのでは。水泳は運動神経も関わると言う。であれば、このナナキにできない筈がないと思うのだ。考えてもみれば、一度も挑戦せずに泳げないと主張するのは脆弱ではないだろうか。
それはナナキが嫌悪するものの一つだ。この憂いは断たなければいけない。真実を明らかにし、誇りを証明せよナナキ。ただの一度も挑戦をせずに敗北を認めることは許されない。
「……ッ」
覚悟完了。
注意を払いつつ前へと進んだ。慎重が過ぎるということはない。あの敬愛なるお母様が命に関わるからとナナキに言い付けたのだ。ゆっくり、ゆっくりと前へと進む。ひやりとした感触が腰まで到達した当たりで一度ストップ。深呼吸。
それではいざ、未知の世界へ。
「……うぁぅ」
飛行とはまた違う心地の悪い浮遊感に声が出た。
思い通りに飛べる空とは違って浮かんでは徐々に沈もうとするこの重力が怖い。首から上を水面から出すのだけで精一杯、とてもじゃないけれど楽しめるものではなかった。やはり人間は陸上の生き物なのだと再認識。急いで戻ろう。
「ナナキも泳ぎに来たのか」
そこをどいて我が主。
元の方向へ戻ろうと手足をがむしゃらに動かしながら方向転換をしたらあら不思議、いつの間にか主が居てナナキの退路を塞いでいる。待て待て落ち着いて、こういう時にパニックになってしまうのが一番危険なのだ。
「はい。ですがそろそろ戻ろうかと――――」
「まだ全然泳いでないんだろ? こっちだ」
珍しく、主のその顔には感情が浮き出ていた。基本的にどんな時でも無表情を貫く主が浮かべているどこか無邪気なその笑顔に見惚れてしまった。こんな顔もするんだなって。だからだろう、手を取られたことに気付くのが遅れた。
「わっ、わぷッ――――」
「ナナ――――」
驚いたような主の声が途切れた。水中、沈んだ? このままでは溺れてしまう。
い、いけない落ち着いて。な、何か掴まれるものは――――これだ。
「――――ッッつはあッ‼」
わからないけれど、一瞬だった筈。それなのに酷く苦しかった。運が良く近くに掴めるものがあったから良かったものの、それがなかったら死んでいたかもしれない。なるほど、やはりお母様が言うことに間違いはないのだ。目に入った水を払いながらようやく目を開けた。
「すまない、大丈夫か?」
「……な、なんとか」
もしかすると、ナナキは主に必死にしがみついていた?
答えは聞くまでもなかった。現在進行形で主の肩にしっかりと掴まっていた。あまり筋肉も付いていないその身体が今はとても逞しく見える。本来ならばこれは無礼に当たるかもしれないが、今は緊急事態なので許されてほしい。ナナキは決して不純な動機で主に掴まっているのではない。
「もしかして、泳げないのか……?」
「……お恥ずかしながら」
先程の有様をお見せしてしまった後では言い訳はできなかった。
「ナナキにもできないことがあるんだな」
「……あうぅ」
従者として主人に良いところを見せるどころか、情けないところをお見せしてしまった。特別な人間と言えども人間であることに変わりはない。人である以上、必ずどこかでミスをする。それと同様に、ナナキにも不得手なものがある。本当は何でもできるナナキで在りたかった。
「とりあえず浅瀬に行こう。そのまま掴まってろ」
「申し訳ありません……」
水の浮力と主の推進力に助けられて浅瀬へと。どうしてか、水の冷たさが感じられなかった。肌をくっつけるというのはこんなに熱を感じるものなのだろうか。お母様と死に別れてから、そんなことも忘れてしまった。ナナキは薄情者だろうか。
「ありがとうございます、良き主」
足の着く水位のところまで戻ったら、すぐに離れて頭を下げた。主人に助けられる従者など聞いたことがない。今日は多くの失敗をした。これでは敬愛なるお母様もがっかりされることだろう。申し訳ございませんお母様。ナナキはまだまだ未熟であります。
「気にしないでいい。それよりも、始めるぞ」
「始める? 何をですか?」
「泳ぎの練習」
そう言って差し出してくれる手を取っていいものか、悩んでしまう。主の表情は先ほどの無邪気な笑顔そのもので、決して面倒だとかそういう負の感情は感じられない。つまりこれは好意だ。従者という立場でこの好意に甘えていいのだろうか。
「……ぁ」
声が出た。
避けようと思えば避けれた。それを避けなかったということは、きっとナナキは一緒に遊びたかったのかもしれない。迷っていたこの手を取ってくれた彼と。ああ、やっぱり徐々にナナキは従者から離れているのかな。寂しい筈なのに、少しだけ嬉しい。おかしいな、この感情。
「ほら、ナナキ」
「……はい!」
今日は良くない一日であるのだと思う。ならもう、今日はとことんダメなナナキになってしまおう。時には開き直ってしまうのも悪くない。ナナキだって人間だ、ダメな日なんて今までだってあった。人並に、都合の良い言い訳を並べる日があってもいいと思うのだ。
「……よろしくお願いします、主」
だから強く、その手を握った。
「――――お兄様に図々しい態度をとるウサギさんが居るようね」
に、逃げ――――




