ロイ・マクエル受難の日々㊴
コロナの予防接種を受けて3日ほど寝込んでました
第61話
「覚 悟」
─────────ユークリッド国中央平原。
虎と見間違えるほどの巨大な体躯。異様な気配を纏った銀色の獣が、ロイ・マクエルの目の前に姿を見せた。堂々たる威容。それは白銀の巨狼だった。
トウ・オーカとウルグ・リーレンは少し虚を突かれた。それが馬にも伝わったのか軽く暴れだす。しかしロイ・マクエルは既に巨狼に向き直っており、いつの間にか馬上に屹立していた。横にいるマーク・ザインも曲刀の剣の柄に手をかけている。
「任せて、兄さん」
ロイの呟きとほぼ同時、巨狼が低い構えからロイ・マクエルの頭部目がけて躍りかかった。巨躯な狼が見せたのは、10m以上ある間合いを一瞬で0にする信じ難い跳躍だった。
ロイの頭が噛み砕かれる。誰もがそれを想像した瞬間、僅かな煌めきが虚空に奔る
その直後、巨狼の頭部のみが、10m余り真上に刎ね跳んでいた。
飛び掛かかった筈の巨狼は、頭を無くしたまま、糸の切れた人形の様に、巨大な躰を地面に落下させた。無鳴剣を握ったロイ・マクエルは、かすり傷一つ負ってはいないようだった。
その場で戦いを目撃した全員が息を飲んだ。側で見ていたトウ・オーカやマーク・ザインは言うに及ばず、遠目にそれを見たエグルストン皇王やロビン・ガトリンも言葉を失った。白昼夢でもを見たかのように誰も、一言も、発する事が出来なかった。
静寂が、ユークリッド平原を覆う。
およそ人の技とは思えない、想像を絶する剣捌き。武芸に於いては達人の域に達するロビンやマークすらもその絶技には眼を見張った。ロイの身体からは強烈な死の匂いが放たれている。死線を越えたロイ・マクエルの強さ。その姿に皆が圧倒されていた。
「!!!………………………………………………」
一人の女性が馬から降りるとロイの横を走り抜け、今しがた落ちてきた巨大な狼の頭部に縋り付いた。嗚咽。この軍狼の飼い手だと直ぐに解った。ロイは感情を押し殺した声で語り掛けた。
「戦って死ぬ。戦場では当たり前の事です。貴女の狼もそれに殉じた。…………何の覚悟もないままで戦場には来るべきじゃない。無駄な骸が一つ、増えるだけです」
ロイは冷たい言葉をその女性に撃ち込んだ。女性は肩をビクンと震わせると、狼の頭部を抱えたまま顔をあげた。ロイを見上げる瞳には仄暗い炎が宿っていた。
「わ、……私は、世の巨悪たるぐ、愚王を討ち」
「貴女の想いは貴女一人のものだ。その狼は貴女の代わりに其処で死んでいる。今は涙よりも、それを無駄死に にするのかどうかを決める時です」
女性の瞳に宿る炎が揺らいだ。溢れだす涙に掻き消され、力無く肩を落とした。ぼんやりと焦点の合わなくなった瞳をロイから逸らすと、そのまま俯いた。
「マグナ…………速やかに軍狼の、命令解除、を」
「し、承知しました。アリーナ、様」
そこで、終わりだった。戦場に漂う狼の死骸から発せられる咽せ返る血の匂い。その中で、両軍の間にそれ以上の諍いが起きる事はなかった。周囲からはハッキリとした、安堵の声が漏れ聞こえてきた。
エグルストン皇王は馬上から、今回戦場となった一帯を眺めていた。指は顎髭を捏ねくり回している。皇王が考え込む時の仕草だった。
目の前では骸となった10頭余りの軍狼たちを鳴きながら抱えているアリーナ近衛騎士団の女性たちがいる。戦とは死と隣り合わせだ。長い平和の中でエグルストンは大国となり、大軍を従えた余も賢王などと呼ばれる様になった。
……何処かで、思い上がってはいなかったか。
エグルストン皇王【エグルストン・ロンバルディア・ゴルヘックス】は、苦い想いを抱きながら様子を見ていた。この無用の惨状は、戦の恐ろしさを忘れていた自分の迂闊さが招いたようなものだ。賢王などと聞いて呆れる、只の愚か者ではないか。
逆にあの少年は見事なものだった。あの若さで、あの幼さで、戦場における軍人の有り様をしっかりと理解している。今も川沿いから来た自軍の兵たちに、なにやら配置に関して指示を出している。
絶技の如き剣の遣い手ながら驕りもなく、如何なる時も物事の正中を捉える。そして一点の迷いもなく己の命を張れる。あの少年のような若者こそが、戦乱の世界を終わらせる存在になるのかも知れなかった。
あのような男こそ幕僚に欲しい。そう思った。ロビンの孫の一人だと聞いたが、まるで伝説の名剣を思わせるような少年だった。
あの男がエグルストン皇国軍の麾下に入り、王冠旗を翻して大軍勢を指揮するならば、またそれを我が国の幼き天才が補佐するならば、たちまちの内に東方異国の脅威を退けて、中央6ヶ国をまとめ上げるのではないのか?
エグルストン皇王は汗ばむ手を握る。年甲斐もなく血が熱くなる自分を感じていた。新しい時代が来ているのかもしれない。目の前の少年を見るとそう思わざるを得なかった。
そんなエグルストン皇王とは逆に、横に居たロビン・ガトリンはやや複雑な思いでロイを見つめていた。確かに飛び抜けた武の才はあった。しかし、あれ程の極みにまで至るとは予想していなかった。度重なる死闘がロイを叩き上げ、才能を開花させたのだろう。
あの武勇がもし世に知られたら、各国による手段を選ばない争奪戦に為るかもしれない。しかしまだ13歳の少年なのだ。完璧な存在でもなんでもない。
迷いの森で、憎しみの沼に浸かっていた10歳の頃のロイを思い出す。儂には解った。さっき見たロイはあの時の様に、何処かに焦りを滲ませていた。
軍狼たちを仕向けて誰かを襲おうとしたアリーナちゃん。それが昔の自分と重なったのかも知れない。なんとか防ごうと焦っていた。死線を越えてなお、剣を振るっていた。
ロイはかつて、私怨から狼をけしかけた事があった。無関係の狼たちを個人の道具として使った、使い捨てた。もう少しで取り返しが付かない事態に陥ったかも知れない。あの時は儂が全力で止めにかかったが、今回はそれを、ロイがやったのだ。
一人でアリーナ近衛騎士団の憎まれ役になってしまったが、軍狼の襲撃を発端にして戦に発展する可能性もあった。今にして思えばロイのとったあの行動しか、選択肢がなかったように思う。死線の際を歩いた事以外、いい対応だった。マークたちも良く我慢した。
……案外、心配はいらないのかもしれない。
見た限り、一癖も二癖もある武人を混合軍に組み入れながら連携も取れていたようだ。上手く人心を掴み、纒めていたのだろう。
纒めていく中で、ロイは絶対に可笑しなやり取りをやった筈だ。そうしてロイを知る者たちが、彼奴が苦しい時、死に直面した時、必ずや助けてくれる。
可笑しなやり取りだけは、からかい材料として後で聞いておこうとロビンは思ったのだった。
────────────軍狼襲撃10分前
「待て、何のつもりだ。どこへ行く?ロイ」
強固に組まれた方円陣形の前から単騎で出ようとするロイ・マクエルに、マーク・ザインが声を掛けた。
「精鋭騎馬隊だけあって見事な方円陣形だね、兄さん。見る限り抜かりはない。これなら中心で護られているバルサラさんもバンバさんも大丈夫そうだ」
「だからと言ってだな……」
「だから、僕が離れても大丈夫だね。兄さん」
「冗談はやめろロイ。軍狼たちを蹴散らすつもりかもしれないが、状況から見てもただの威嚇だ。あえて虎口に飛び込む必要はない」
マーク・ザインはロイ・マクエルの側に馬を寄せるとロイの馬の手綱を掴んだ。上手く隠しているが既にロイの身体からはほとんど闘気が感じられない。体力が戻っていないのだ。まともに戦える身体ではない。
「心配性だな兄さん。大丈夫さ、無理はしないよ。それに、残念だけど」
ロイ・マクエルが右手人差し指で前方を指差す。今は馬群の砂塵しか見えないが、マークにも獣の足音が砂塵よりも前から感じとれた。もう、間近に迫っている。
「どうもさ、威嚇じゃなさそうなんだ。乾いた殺気の様なものが伝わってくる。狼を相手に、後手に回っても碌なことにはならない」
ロイの身体に静かな闘気が沸き立った。
思わず驚いたマークは手綱から手を離した。ロイが、此処で死線を超えてきた!? そこまでの事態なのか? お祖父様を通してエグルストン皇王とは話は付いている筈だ。ロイにも事前に事は伝えてある。
迷いの森の主として数百匹の狼の頂点に立っているロイの言には真実味がある。しかしマークには、どうにも判らない。
今のエグルストン皇国は強力な軍を保持しているが、それを専守防衛に当てる事で、周囲との友好関係を保っている。
無論、今も戦乱の世ではあるが、決して裏切り行為が肯定される程の無法な乱世ではない。
大義なき戦や不義理は、時として周辺国から反発を招く、或いは連合されて総攻めに会う危険すら伴う。
まして不可侵条約を結んでいる友好国の援軍要請に乗じて戦を仕掛けるなど、自国の首を締めるも同然の行為だ。それが分からぬエグルストン皇王ではない筈だ。……何か、あったのか?
「例えば仮に、軍狼によってユークリッドの人間が命を落とすことにでもなったらもうどちらも後には引けない。泥沼の戦に繋がる端緒になりかねない。だから僕なんだよ、兄さん」
「……両国が衝突しない為になの? アタシは反対だ。もうこの戦は終わったのだ。無闇に血を流す事は避けるべきだ」
「同感だな、無理を重ね過ぎだ。少年」
マークを差し置いて、後ろに馬を寄せてきたトウ・オーカが心配そうに声を上げてきた。さらに後ろにはウルグ・リーレンもいる。
流石に二人ともよく見ているとマークは思った。万が一、軍狼に襲いかかられてもユークリッドやエグルストンと直接領地が隣接しないハウンズ家のロイならば、戦にはならないと踏んで、ロイが矢面に立つ気だと察したのだ。
「……兄さん、オーカさん。聞いて欲しい。あの軍狼たちは強い。肌に感じる圧が並の狼とは違うんだ。生半可な気持ちでは太刀打ちできない。確実に命のやり取りの覚悟がいると思う」
今のロイからはいつものおちゃらけた感じが消えている。真剣な表情だ。獣に言葉は通じない、確かに力を見せるのが一番だ。しかし、どこか変だ? 焦りか? ロイが? らしくない。
「……しかしな少年。それではなおさら一人でいかせられんじゃないか」
ウルグ・リーレンが呟いた。
「それでも狼は狼。此方が上だと分かれば襲わなくなる。下手に拡がられてあの数に囲まれたら、騎馬が50騎いても手に負えなくなるかもしれない。其れに」
ロイは後ろを振り返り、砂塵に目を向ける。
「……」「……?」「……どうした?」
「戦う以上は躊躇はしません。襲ってくる相手の全てを斬り捨てます。それを見せる必要がある。そう、思いました」
ロイ・マクエルには何か考えがあるのだ。その言葉で3人は察した。顔を見合わせ、渋々ながらも頷いた。
ロイはそれを確認するとすぐさま踵を返して馬の腹を蹴りつけた。馬が全力で駆け出す。既に軍狼たちは200m程先の、見えるところにまで迫って来ている。ものの数秒後、軍狼と交錯するロイの姿がマークには見えた。
ロイに襲いかかった軍狼たちが次々と地面に落下していく。それでも怯まず5頭6頭7頭8頭、馬に乗るロイに向かって矢継ぎ早やに飛び掛かっている。ロイを脅威と感じたのだろう。しかし躱されいなされ、次々首と胴を無鳴剣で両断されて斬り捨てられていった。
その圧倒的な武勇に、マーク後方の方円陣内からどよめきがあがる。ロイが軍狼10頭余りを斬り殺したところで、軍狼たちがようやく飛び掛かるのを止めた。唸り声を上げながらロイを遠巻きに囲んでいる。
マークにも軍狼たちの異変が解った。あの勇猛な軍狼たちが怯えている。頭が良い分、彼我の戦力差を直ぐに理解した。尾を下に下げている。
それを見てとったロイが、狼に背を見せる様に悠々と方円陣まで戻ってきた。騎馬兵たちから歓声が上がった。狼の返り血を全身に浴びているが無傷だった。まだ呼吸を落としていない。死線を越えたままの様だ。
そして軍狼より遅れること5分、ようやくエグルストン軍の本体が砂塵の中から姿を見せ始めた。
しかしそれと同時に、方円陣の前に巨大な狼が姿を現した。尾は上がっている。他の軍狼とは一線を画す威容の巨狼だった。ロイは前を向くと馬の上に立った。気を練り上げている。本気だ。それ程の軍狼だと感じたのだろう。マークは不測の事態に備えて曲刀に手を伸ばした。
しかしその曲刀が抜かれる事は、最後までなかった。




