冬の海②
◇
リピュアは物思いに耽りながら海に向かって歩いていた。
その夜は寒いには寒いが、震えるほどではなかった。空気も冷たく澄んでいて、ゆっくり動く雲の隙間から、冬の星々が覗いている。
風が穏やかに流れて、内海の匂いを運んできた。
母なる内海は、星明かりを受けて、波打つ水面をきらきらと輝かせている。
その光景は白港で見るものによく似ていた。
リピュアは白い息で手を温めながら、瓦礫の隙間を縫ってさらに歩く。しばらくして浜辺に着くと、先客が波打ち際に立っていた。
「ジュール様」
リピュアが呟くと、ぼんやり立っていたジュールが振り返る。
ジュールはリピュアの姿を認めると、苦笑いを浮かべて言った。
「会議の席でも思ったが、その『様』ってのは慣れないな。まるで別人の名前みたいだ」
「そ、そうですか。では、なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「ジュールでお願いできないだろうか。その方が俺も落ち着く」
「呼び捨てなんて、その、こちらがそわそわします。ジュールさんでどうでしょう?」
「もともとは山の猟師だ。お姫様なのだから、呼び捨てでも構わないと思うが」
「そ、そんなわけには参りません!」
「ふふっ、まぁ、呼びやすいように呼んで欲しい。ジュールさんで大丈夫だ」
ジュールは生真面目な彼女に微笑み、少しだけ以前の仲間のことを思い出した。
彼女と同じように生真面目で、軍人だった女の弓使い。
ジュールが遠い目をしていると、リピュアが彼の隣に並んで尋ねた。
「ジュールさんは山の方のご出身なのですか?」
「ああ、外海寄りの山間に故郷の村がある。だから、海を見るのはこの冬が初めてだ」
「どうでしたか、初めて見る海は?」
「ああ~、冷たかったな」
「は、入ったのですか、冬の海にっ!?」
「足先だけですぐにやめた。俺は泳げないし、溺れるより先に凍え死ぬかと思った」
「この時季ですから。でも、夏になったら、泳ぐ子どもたちもいます。白港は浜辺も綺麗ですし、私も子どものころはよく泳ぎにいきました。泳ぎはかなり得意な方です。ふふ、何でしたら、私が泳ぎを教えて差し上げましょうか?」
「これは嬉しい申し出だ。ぜひとも、夏の白港に伺わなくてはならないな」
悪戯っぽく笑ったリピュアに、ジュールが真正面から笑い返した。
リピュアはジュールの気持ちのいい笑いっぷりに意表を突かれた。ドギマギしながら海に向き直り、そして、彼女は真剣な眼差しで前を見据える。
「でも、そのためには、取り戻さないといけませんよね……」
「ああ~、いや、追い込むつもりじゃなかった。忘れてくれ」
「いいえ、忘れません」
リピュアは宝物をしまう少女の顔でそう言った。
繰り返される潮騒が、束の間の沈黙に響く。
リピュアは銀の髪を揺らして振り返った。
彼女は言う。
「ジュールさん、白港奪還の指揮を執って頂けませんか?」
「俺が、指揮を……?」
「私が率いるより、兵の士気も上がると思います」
ジュールは答えない。彼女の真意を探るよう、じっと見つめていた。リピュアは怪物化した耳に触れながら俯きがちに続ける。
「私ではダメなのです。私は、あの怪物の指揮官に敗れています。そして、兵や民たちを率いる立場でありながら、私は一度、希望を捨ててしまった」
彼女もジュールから怪物化の条件を聞いていた。
契約と絶望。
心折られたものから怪物となる。
リピュアは自覚があった。青港と白港の陥落を知り、望みを捨ててしまったこと。兵や民を置いて、自分が先に絶望してしまったこと。
だから、彼女は言った。
「私には、皆を率いる資格がない」
その呟きを聞いて、ジュールはふと彼の言葉を思い出した。
「勇者というのは、職業でも、家名でも、国家資格でもない」
「その言葉は……?」
「偉大なる大僧正の言葉だ。それに貴女の理屈だと、俺にも兵を率いる資格はない」
そう言って、ジュールは右腕を持ち上げる。
心折られたものの証。
けれど、ジュールはそれを誇らしげに掲げた。夜の浜辺に煌々と明かりが灯る。ジュールの右腕が、真っ赤な炎を生み出していた。熱い輝きがリピュアの銀髪を照らす。
「俺も一度は絶望を知った。けれど、親友がそんな俺を救ってくれた。『勇者になれ』と道を示してくれた。だから今、俺はここにいる。俺は必ず怪物に勝つし、この悲劇の元凶も討ち倒すだろう。当然のことだ。絶望を乗り越えた俺が、絶望に飲まれた怪物たちに負けるはずがない。この右腕はその何よりの証となる」
「絶望を乗り越えた証……」
「白港を取り返して、それで終わりではないだろう。俺がこの悲劇の根源を断つまで、取り戻した街を守る指揮官が必要だ。絶望に負けず、民に希望を示す、勇気ある人物が」
「私に、務まるでしょうか?」
「思い出してみるといい。貴女にもきっとあるはずだ。託された言葉が」
リピュアはそれで、父の言葉を思い出していた。
『この手は、勇ましい剣士の手だ』
そう言ってくれた父の微笑みを思い出す。
どうして今まで忘れていたのだろう。
リピュアは自分の耳に触れる。
そのオオカミのような耳は、今は違う意味を帯びていた。
リピュアは少しだけ鼻を啜ると、照れ隠しの笑みを浮かべて言った。
「でもこれ、ジュールさんの証に比べると、やや頼りないですね」
「俺のより愛嬌があっていいと思うが?」
「私はジュールさんのヤツが羨ましいです。暖かいし、強そうです」
「便利ではある。上着の袖は次々に燃えていくがな」
「ああ~、私のこれも耳当てとかしにくいかも」
リピュアはぴょこんと生えているオオカミ耳に触れて言う。
ジュールは大きな声で笑った。
釣られてリピュアも笑う。一緒になって笑っているうちに、リピュアの目じりに涙が浮かんだ。父親を偲ぶ涙であり、絶望を踏み越える決意の涙だった。
散々笑い合い、思い切り泣いた後、リピュアは迷いの晴れた顔をしていた。
ジュールが凛々しい目をした彼女に問う。
「腹は決まったか、指揮官殿?」
リピュアは頷いた。
涙はもう止まっている。
「次の夏には、きっと泳ぎを教えて差し上げます」
そして、曇りのない笑顔を浮かべてそう答えた。




