Ⅷ いっしょに、おさけ、のむか?
朴念仁は飛行機からタラップへと降り立った。空は綺麗な五月晴れであった。広い滑走路の向こうには、羽田空港のターミナルビル、そして東京の景色がある。未知の風景が海のように拡がっていた。
――ここが東朝鮮か。
不思議な感覚がした。
日本旅行の目的は、新しい出会いを求めることであった。しかしこの街には、かつて自分を振った恋人もいるのだ。彼女のことはずっと気にかかっていた。今、バッグの中には一つの小箱がある。そのことを考えると、どうしても情けない気持ちが浮かんでくる。これは何のために持ってきたのか。
――まったく、阿呆かっての、俺は。
憂鬱な思いを抱きつつ、ターミナルビルへ向かう。
念仁はサボり学生であった。留年しない程度に学業を最大限おろそかにしていた。以前は恋人に振り回されていたためであり、今は失恋の影響で様々なことが無気力になったためである。
日本へ来ようと思ったのは、突発的な思いつきであった。冬休みにバイトをしていたために資金は豊富にある。それらは元々、恋人を喜ばすために用意したものであった。しかし今はもう独りなのだ。それならばこれは気の向くまま遣ってしまったほうがいい。
ターミナルビルから首都高に乗り、都心を北上する。
念仁はオタクであった。韓国では「혼모노」と呼ばれる部類の重度のオタクだ。元からそういう傾向はあったが、失恋して以来、加速度的に悪化した。日々の無気力な生活をあらゆるアニメで埋めており、次第に現実との境界が曖昧になってきた。しかも本人はそれに気づいていなかった。
荷物を宿に置き、秋葉原へと向かう。
中央通り交差点に立ち、念仁は感動を覚えざるを得なかった。ビルにはアニメ絵の広告が堂々と貼られており、通行人にはメイドが混じっている。特に感動したのは、その一際大きな広告の中に『まほつゆ』のヒロイン・小鳥遊つゆりが微笑んでいたことである。
とても強く――心を打たれた。
念仁は思わず、その巨大な少女へ向けて土下座した。
それから日が暮れるまで、秋葉原を巡礼した。
アニメイトの中だけでも一日を過ごせそうだった。ここは少女たちの笑顔の桜竝木なのだ。花びらは金色に瑠璃に多様だ。目当ての物は『まほつゆ』のグッズや同人誌である。念仁は『まほつゆ』のファンだった。主人公・小鳥遊つゆりの優しさと勇気に心を奪われていた。本棚の恋人は、海の向こうから来た念仁を快く迎えているようだった。
夕暮れになり、念仁は秋葉原から引き返した。両手の紙袋には、同人誌やフィギュア・十八禁ゲームなどがぱんぱんに詰まっていた。
宿に戻り、念仁はそれらをベッドに置いた。
特に気に入った買い物は、小鳥遊つゆりの笑顔が咲いたTシャツである。上着を脱ぎ、さっそく着てみる。まるで胸の中につゆりが宿ったような気持ちとなった。
念仁は『まほつゆ』の内容を思い出す。
物語の終盤でつゆりは死んだ。しかしそれは生命としての死ではなかった。最終魔法によって一種の『神』へと変じたのだ。アイドルとしての究極の存在――時間と空間を超え、全ての人々に笑顔と幸福を届ける存在となったのである。
つゆりは全ての人々の心の中にいる。もちろん念仁の心の中にも。
胸元で微笑む少女を守護神とし、再び街へ出た。日本へ来たもう一つの目的を叶えるためだ。小鳥遊つゆりは心の恋人であり、霊体的つながりである。それとは別に、現実世界での恋人も欲しかった。
秋葉原から南下し神田駅で降りる。神田には有名な寿司屋があり、個人的に行ってみたいと考えていたためだ。
星は空にではなく地上にあった。明るい夜のなかを美醜とりどりの人々が行き交っている。念仁は心を奮い立たせた。さっそく一人の美人に目をつけ、声をかける。
「ぽくはー、かーんこくじんでーす。いっしょに、おさけ、のむか?」
彼女は何か悪いものを見たような顔をして逃げ出した。
念仁は少し傷ついた。けれども見知らぬ人から声をかけられたのなら、そういう反応をするのは当然なのかもしれない。念仁も最初の一回や二回で成功するなどとは考えていない。
気を取り直し、別の女性にも同じように声をかける。
しかし、今度もまた全く同じ顔をされて逃げられた。
日本語の呟器を覗いてみると、やはり嫌韓的なつぶやきは多い。一方で、韓国人の彼氏がほしいだの、韓国人みたいに綺麗に見えますかだのといったつぶやきもまた多かった。どうやら韓流ブームというのは実在するようだ。ならば、自分くらいの容姿であれば成功する可能性は高いのではないかと考えた。
しかし、七人、八人と声をかけてみても、成功する気這いは一向にない。むしろ誰もが異常者を見るような目を向ける。
これは嫌韓のせいなのであろうか。それとも、自分の日本語が下手で聴き取れていないのであろうか。宿やアニメイトでは問題なく通じていた。しかし聴き取れていない可能性も全くないわけではない。ゆえに、もう少し簡単な言葉に替えてみることとする。
「おねーさーん、ぼくといっしょにぃ、びーる、びーるぅ?」
しかしこちらもまた反応は同じであった。
それから、十人、二十人と声をかけたであろうか。全員から無視されたことに、さすがに心が折れた。日本の嫌韓が酷かったからなのか、それとも自分の容姿が思ったより悪かったからなのかは分からなかった。
空腹となってきたため、目的の寿司屋へ行くこととした。
神田駅からしばらく歩いたところにその店はあった。店内へ這入ると、テーブルもカウンターもほとんど空いていなかった。人気店というだけはある。念仁はその片隅の席へと通された。
メニュー表へと目を遣り、慣れない日本語で注文をする。
運ばれてきた寿司を一口食べて、念仁は驚いた。韓国で食べる市販の寿司とは比べ物にならない。生魚の醸しだす味わいが、酢飯の食感と山葵の刺激に絶妙なほど合っている。一貫目はすぐに平らげた。念仁はすぐさま次の注文をする。
隣の席に新しい客がやって来たのは、そんなときである。
奇妙な男だなと一目で思った。
歳は二十代半ばほどか。でっぷりと太った、眼鏡をかけた男である。吊りズボンを履いており、頸元には蝶ネクタイを締めている。下手な散髪屋で切ったのか、髪の毛は雑草に似ていた。そして額には「神風」と書かれた日の丸の鉢巻きを締めている。
席に着き、注文を終えると、彼は聞こえよがしに悪態をついた。
「ちっ――。朝鮮人が隣とか、せっかくの寿司も不味くならぁ。」
ぎょっとしたことは言うまでもない。微睡から叩き起こされたような気分だ。呆気に取られていると、彼はさらに悪態をついてきた。
「おい、何、見てんだよ、ウンコ野郎。」
念仁は、急には言葉は出なかった。結果、斜め上の問いが出た。
「何でー、俺が韓国人だって分かったんだ?」
「あん? てめぇ、さっきまで駅前でナンパしてただろが。いかにも朝鮮人丸出しの発音でよお。まあ、そうでなくとも、その黒縁眼鏡とキノコ頭じゃ一目瞭然だがな。何で朝鮮人は、みんなそんなマッシュルームみたいな髪型してんだよ? ひひひひ。」
最後の笑い声は明らかに演技であった。
「し、失礼じゃないかよー! 見じゅ知らじゅの人間に向かってよー、いきなり朝鮮人だとか、寿司が不味くなるだとかー、ウンコ野郎だとか言いやがってよー! 俺ー、お前のせいで寿司が不味くなたよ! それがー日本人の言う『おもてなし』ってやちゅか!? ちゃなきゃー、お前だけか?」
「おやおや、さっそく火病ですかな?」うへへへと彼は笑う。「今、九割の日本人は朝鮮が嫌いなんだよ。むしろ、朝鮮が好きな人間なんてどれだけいるんだよ? 俺は日本人として普通の行動をとったまでだ。それとも、今までこんな態度取られたことなかったのか?」
「ねーよ。お前だけだよ。お前、常識ねーのかよ。」
「朝鮮人に常識がねえとか言われたくねえわ。それに、俺だけじゃねえだろうが。お前、さっきから寿司女に無視されてばっかじぇねえか。」
この言葉は正直なところきつかった。よりによって、ナンパに失敗した直後にこのような男と出会うこととなるとは――。しかしながら、何も言い返さないのも癪だ。
「あんな糞女どもー、俺はー最初っから狙ってなんかなかたよ! 俺の実力を以ってすりゃー、АКВとか屁じゃねえんだよ! 付き合った女の子の数、多いすぎて忘れたけど、多分АКВとかもあったと思うよ! 韓国を、あーんま莫迦にすんじゃねーよ! ちょっとなー頭おかしーんじゃねーのかぁ、お前は!」
「嘘つけ。狙ってたの見え見えなほど必死だったじゃねえか。頭のおかしい奴が、自分のこと棚に上げて他人に頭がおかしいだなんてよく言えるな? 俺のどこが頭おかしいんだ? 朝鮮が莫迦にされるようになったのは、お前みたいな頭のおかしい朝鮮人のせいなんだぞ?」
「お、俺の、とこが頭おかしい言うんだよ、お前はー?」
「質問に答えろよ。今は俺が質問してんだよ。俺のどこが頭おかしいかって、俺はお前に訊いてんだよ。他人のこと頭がおかしいって最初に言ってきたの、お前じゃねえか。初対面の人間に対して、いきなり頭がおかしいとか言ってもいいと思ってるのか? そんなこと言うやつのほうが頭おかしいだろうがよ。」
男の寿司が運ばれてきた。店員は迷惑そうに、お客さん少し静かにしてくださいませんかねと言った。男は、分かってますと投げやりに答えた。
念仁は頭を掻いた。
「お、お前ー、今、俺のこと頭おかしいて言ったよな? 初対面の人間に対してー、頭がおかしい言てるのお前じゃねーか! そもそもー、初対面の人間に対してー朝鮮人とかーウンコ野郎とか言うほーが頭おかしーだろ。」
「訊いてんだよ、こっちが。それが日本人として当然の行動だってことは、さっき説明したばっかだろうがよ。朝鮮はコリアなんだからコリアンであるところのお前は朝鮮人だろうがよ。一体お前は何が不満なんだよ? そんなに日本が嫌いなら出ていけよ。」
そして男は、くちゃくちゃと音を立てながら寿司を食べ始めた。しかも、ああ美味しいなぁなどと小声でつぶやいている。口元からは酢飯や醤油が垂れていた。見ているだけで不愉快感が湧く食べ方だ。
「誰も韓国を好きな人間のことなんか話してねーんだよ、このやろ。韓国を嫌いでも、お前みたいな態度を取るやちゅがいるかいう話だよ。俺が朝鮮人なら、お前みたいなのは豚足で充分だろがよー。それが普通の日本人の態度ってゆーんなら、ここは豚足国だろーがよー!」
寿司を頬張りつつ、男は呆れかえったように言う。
「朝鮮人との議論というのは、いつもこれだな。理論的に追い詰められると、すぐにチョッパリだの猿だのネトウヨだのと言って罵ってくる。悪いことは全て他人のせいにして攻撃する。」
念仁は額に手を遣った。本当に頭痛がしてきそうだ。
「ったくよー、本当に今の気分、最悪だよ、お前のせいでー。お前もー、お前の国もー、本当にむかちゅくんだよー。もう俺、二度とこんな国こねーよ。日本なんて大嫌いだよ。日本なんて国は行かないほうがいいって、俺ー韓国のみんなにも言うよ。」
しかし、この言葉に男は満足しているようであった。
「そのとおりだ。全ての朝鮮人は、日本から出てゆくべきなのだ。そもそも、国交があることからしておかしいのだ。日韓は断交すべきなのだ。今こそ、日韓は断交するべきなのだ。」
「ああ、そうだよ!」
念仁は吐き捨てるように言う。
「韓国はー、もうこんな国と断交すべきなんだよ! お前ら、うちの国のアイドルとか音楽とか、もう二度と見るんじゃねーじょ! 韓国だってなー、アニメとかー漫画とかー作れるんだよー。お前らの国のもんなんかー、もう輸入する必要ねーんだよ。」
この言葉に、男は少し不快感を覚えたようだ。
「ふん! だーれが、朝鮮アイドルの音楽とか映画とか見るもんか! そんなもん観るのは在日しかいねぇんだよ。日韓が断交して困ることなんざ何一つしてありゃしねえんだ。ただし、竹島は返せよな! 代わりにこっちは日本中の在日をくれてやる!」
「独島はやんねーよ! 代わりにこっちはー北の共産主義者どもをくれてやる!」
「いらねーよ。共産主義者なんざ在日とマスゴミと民守党だけで充分だ! そいつらを半島へ追放するための日韓断交でもある。そうすることにより、日本に蔓延る内憂外患は解決する! 日韓断交万歳!」
「おお、同意するじぇ。韓日断交、ばんじゃーい!」
そう言い、念仁は寿司を口に放り込んだ。どういうわけか、さきほどよりも美味くなっているような気がした。そもそも今の状態からして、酒を呑んでいるような妙な高揚感がある。
「ってか、さっきの理屈は、ちょっとおかしくねーか? 韓日が断交すべきだってのは同意するが、断交したところでー在日を追放できるとは限らんじょ? 韓日が国交なかたときだってー、在日はあるし、北韓とは今も国交ねーだろーがよ。」
男は少し狼狽えたような様子を見せた。
「よほど都合の悪いことは引き受けたくないらしいな。まあ、いつものことだが。そもそも、何で密航者の子孫を日本が面倒見にゃならんのか。普通だったら、強制送還されてるだろ。」
「いや、そこまで言うんなら、断交する前に日本人の手で強制送還させりゃよくね? 何でそれしないんだよ。こういうブーメランもーネトウヨはいちゅものことだよなー。」
男の表情が急に変わった。手にしていた箸をかたりと落とした。
男は椅子から立ち上がり、ネトウヨって誰のことだよと言った。
「ここはネットじゃないんだぞ? それなのに、誰がネトウヨだっていうんだよ?」
「いや――お前以外に、誰があるんだよ?」
「ネットじゃないのに、何で俺がネトウヨになるんだよ?」
「たって、お前いかにもネトウヨみたいなことしか話さねーじゃん。」
「ネトウヨなんて人間はいねえんだよ。いるとしたら九割の日本人がネトウヨなんだよ。」
それなのに俺のどこがネトウヨだっていうんだよと言い、男は念仁の胸倉に掴みかかった。
逆上の理由は不明であったが、ついに実力行使に出てきたのだと思った。咄嗟の攻撃に念仁は身を退いた。しかし同時にハプニングが起きた。テーブルの上の醤油皿に男のひじが触れたのだ。醤油皿が落ち、念仁の胸へとかかった。
ほぼ同時に、男は念仁の胸倉から手を離した。
冷水を浴びせられた気分となった。慌ててTシャツの胸元をつまみ上げる。
胸から下は、変色した血のような色で塗り潰されていた。
「お、お、お、お前、何てことしてくれたんだ!」
今度は逆に念仁が男の胸倉に掴みかかる番であった。
「ちゅゆりちゃんに何てことしてくれたんだ! 殺してやる!」
しかし男は抵抗するどころか、呆然とした表情をしていた。
「あ、いや、あっ――すまなかった!」
「たまれ! 謝罪と賠償を要求する!」
「すまなかった! 謝る! 俺が悪かった!」
男は、怯える草食動物のような顔をしていた。急激な態度の変化に、念仁は少し冷静となる。しかし怒りが収まったわけではない。つゆりをこんな男に汚されたことが悔しかった。
しばらくして店員がやって来て、念仁をなだめた。
念仁は男の胸倉から手を離した。
店員が落ちた醤油皿を片付け始める。
男は手元のおしぼりを手に取ると、念仁の服を拭き始めた。おしぼりに醤油を吸収させ、染みを取ろうとしているようだ。無駄な動作には違いないが、その動作が念仁の怒りを萎えさせた。
頭を下げ、すまなかったなと男は言った。
「お詫びに、寿司代は全部俺が出してやる。」
「――本当か?」
「ああ。高いの頼みゃいいさ。」
しかし、報復とばかりに高いネタを頼む気にはなれなかった。
代わりに、この男に対する興味が湧いてきた。
「ちゅゆりちゃん、好きなのか?」
男はにやりと微笑み、当たり前よと言った。
「つゆりちゃんほど、俺の心を明るくしてくれた女の子はいない。つゆりちゃんは、誰の心の中にもいるんだ。『暗黒物質』の冷酷な陰謀を打ち砕き、『方舟』に乗れない人類にも未来をもたらしてくれた。俺たちツユリストの永遠のアイドルなんだ。」
「お前が言うことはーもっともだ。俺はーちゅゆりちゃんに会いに日本に来た。」
「そうか――そのための旅だったのか。」
男は口元をほころばせる。
「だが、勘違いしてんじゃねーぞ。俺がさっき謝ったのは、つゆりちゃんに対して申し訳ないと思ったからだ。寿司代をおごるのだって、そのためだ。道徳的優位を得たとか思うなよ。」
「あー、そんなもん、お前の態度見りゃーよーく分かるよ。――あとー、さっき言ったことはひとちゅ訂正する。韓国はー、確かに漫画もアニメも作れるよーになったかもしらん。けど、『まほちゅゆ』に勝るものは作れない。いや、たとえ日本だろーとも、今後『まほちゅゆ』よりいいアニメはー作れない。今までにもー、ない。」
男は大きくうなづいた。
「なるほど。今後、『まほつゆ』よりいいアニメが生まれるかどうか――正直なところ俺には分からん。しかし、『まほつゆ』が日本のエンターテインメント史に残る傑作であることに疑いはない。脚本や音楽のレヴェルが高かったことは、もはや褒めるべき点ではない。なぜならキャラクター描写――特に、主人公・小鳥遊つゆりの存在が、ずば抜けて優れていたからだ。優しさや勇気はもちろん、あの繊細な心情や覚悟を描き切った製作陣には拍手を送りたい。」
その言葉は、念仁には少し気にかかった。
「ちゅゆりちゃんをー架空の存在みたいに言うな。ちゅゆりちゃんは、単なるキャラクタじゃねー。全ての人の心の中にある――神だ。」
男の眼差しが真剣なものとなる。
「ふむ――生粋のツユリストというわけだな。」
「当たり前だ。俺ほどー、ちゅゆりちゃんを愛してる存在はない。『まほちゅゆ』のことならー何でも知っている。『まほちゅゆ』に関する本はもちろん、グッジュも全て買い集めた。コスプレだってしたんたじょ。さすがに、ちゅゆりちゃんにはなれないかったからー、『暗黒物質』の格好をしたんだがな。」
男は目を瞬かせ、念仁の顔をじっと見つめた。
しばらく経ち、ぽつりとこう言う。
「ひょっとして、貴方は『キムチ男言語三級』さんではないのですか?」
なぜだか急に敬語となった。
しかし「キムチ男言語三級」という日本語にはすぐ思い当たった。韓国語にすれば、念仁がイルペで使用しているニックネームとなる。なぜそのことを知っているのか。
「ああ、そーだが? 俺が『キムチ男言語三級』だ。何でそれ――」
「ええええ。マジで!? すげーじゃん!」
念仁の言葉を遮り、男は歓声を上げた。
「いや、マジでお前、すげーよ! 俺、お前のコスプレ画像、全部見たよ!? 怪々反応通信っていう韓国の反応ブログで! 『暗黒物質』とか『ジョジョ』とか、すっげー似てたじゃん! いやぁ、マジで昂奮するわぁ、こんな処で会えるなんて!」
怪々反応通信という名前のブログなら念仁も知っていた。
知らないわけがない――何しろ、彼女と破局の原因となったブログなのだから。
実際に覗いてみると、「暗黒物質」だけではなく、念仁が今まで行ったコスプレのいくつかも翻訳・転載されていた。怪々反応通信は、コメントの投稿者を「韓国人1」「韓国人2」というふうに記している。しかし、どういうわけか念仁だけはそのままニックネームが記されていた。コメント欄を見る限り、日本での反響も非常に良好であり、念仁はかなり満足したものだ。
「まー、喜んでくれて何よりだじぇ。」
「いやぁ、ほんとマジで驚きだわあ。――お前のつゆりちゃん愛は、怪々でもよく目にしてるぜ。管理人も面白がって、お前のコメントをよく翻訳していってるしな。つゆりちゃんが二十四時間履き続けた靴を死ぬまで嗅ぎ続けたいとか、つゆりちゃんの前で跪いて嘲笑と罵声と唾を吐き掛けられながら金玉踏み潰されて死にたいとか、よくあんな文才溢れるコメントが書けるな? ほっんとマジで尊敬する!」
そう言われて、念仁は再び不愉快感が湧いた。なぜこの男が急に馴れ馴れしくしてきたのか、ようやく理由が分かったからだ。所詮、嫌韓は嫌韓だったということか。
「とうせお前なんかにー俺の気持ちは分からんじぇ。」
「いやいや! これは皮肉とか、そういうんじゃないんだ!」
男は急に慌てだした。
「俺だって同じこと思ってるもん! けれども、こんなこと言えるようなやつなんて、身近にどこにもいなかった! 俺は、つゆりちゃんに串刺しにされて、豚の丸焼きにされて食べられたい! おしっこだって飲みたい! つゆりちゃんの味がして美味しそうなことは言うまでもないが、そうすれば、俺は気分だけでも女子中学生になれると思うんだ! こんな汚い顔も身体も捨てて、つゆりちゃんとキャッキャウフフとお話できるようになると思うんだ!」
そこまで言い、男は失言に気づいた顔をした。
店内は恐ろしいほどの静寂に浸されていた。客たちの談笑はもちろん、調理場から聞こえる音さえも一切消えた。冷たい視線がちらちらと男に注がれる。
しかし念仁は、清水に打たれたような感動の中にあった。同性からここまで熱い告白をされたことは初めてだ。彼の真心を疑った自分を恥じた。
「まさかー、同じこと思う人がいるとは思わなかった。」
念仁は右の手の平を自分の胸へと当てる。そこには微かな鼓動があった。
「僕はー、朴念仁と申します。貴方様はー、本物の紳士であるかとお見受け致します。とうかー名前を教えていただけないでしょーか。」
男は眉間に手を当て、眼鏡の位置を直した。
「俺の名前は、右川誠だ。人は俺のことを『嫌韓君』と呼ぶ。」
そのままではないか。いや――この際、名前は関係ない。
「嫌韓君――てすか。先ほどの台詞、お見事でした。熱意に打たれました。」
「いやいや、キムチ男殿の熱意に比べれば、拙者など足元にも及びませぬ。」
「いえ、貴方の熱い思いは、僕と全く同じものです。僕もー、女子中学生になって、ちゅゆりちゃんとキャッキャウフフしたい思っていました。ちゅゆりちゃんの靴の匂いを嗅ぎたいと書いたのはー、その純粋な気持ちからです。けれども、それは叶えられない望みです。女子中学生になるどころかー、靴の匂いすら嗅げないだなんて。――」
「ふむ。」誠は深刻な顔をする。「確かにそういったのは、リアルでは叶えられないでござるな。せめて、そういった同人誌とかを読むくらいしか。――」
「あ、僕ー、そーいう同人誌持ってますよ。正確に言えばー、ちゅゆりちゃんとー、ほじゅみちゃんがー、キャッキャウフフするやちゅですが。嫌韓君、興味ごじゃいますかー?」
「うむ、拙者もそういった百合物は大好物でござる。」
念仁はアイパッドを取り出し、公衆の面前であるにも拘わらず十八禁同人誌を開いた。白百合に似たシーツの上に、二人の少女が寝そべっている。『まほつゆ』の二大ヒロイン・小鳥遊つゆりと東雲ほづみである。寝間着を身にまとった二人は、一見すれば仲良く添い寝を始めるところの「よう」であった。
「うほっ! これは冬コミに出ていた『空き罐』先生の作品ではござらぬか!」
「そーです。『空き罐』先生様は、本当に絵ー上手いですよねー。特にこの、中学生特有の幼さと、大人へと成長する一歩手前の未成熟な感じが堪らんじぇ。ぐふふふふ。」
「本当に上手いでござるなあ。でゅふふふふ。」
それから二人は、猥雑さや描写の上手さなどについて論いながら、その同人誌を読み始めた。時には「つゆりちゃん大好き♡」「わたしもほづみちゃん大好き♡」などと台詞を朗読していた。二人は画面に喰い入った。無意識のうちに、頬と頬が密着し始めた。
「はあはあ。ぶふう。でゅふふふふふふふ。」
「ふうふう。ぶひい。でゅふふふふふふふ。」
カウンターの向こうから何者かが近寄ってきたのは、そんなときであった。
「ちょっとお客さん、いい加減にしていただけませんかね?」
頭を上げると、女将らしき人物が立っていた。年は五十代程度であろうか。まるで極道映画に出てくるような人物であった。その雰囲気に気圧され、戸惑いつつも、念仁は訊ねる。
「な、何ですかー、いい加減にって?」
「元から常識がないんでしょうかね。――さっきから、下品な話を大声でしたり、エロ漫画を大っぴらに拡げて読んだりして、他のお客さんの迷惑になるとは思わないんですか?」
「な、何だよ、てめえ。」
誠は明らかに不愉快そうな、反抗的な顔をした。
「お前、ひょっとして『まほつゆ』アンチなのか? つゆりちゃんがほづみちゃんとキャッキャウフフしてたら、愛らしさに喰い入るのは当然だろうが。大体、お前は店員か? 店員が客にそんな態度取っていいのか? まあ――どこでもアンチってのは憂ぜえもんだがな。」
「そうだじょー。お客様は神様だろーがよー。」
女将は何かを手に取ると、テーブルの上に素早く叩きつけた。アイパッドすれすれに、黒光りする刺身包丁が突き刺さった。
ゆっくりとした動作で、女将は襟元から腕を出した。胸にはさらしが巻かれており、肩から二の腕にかけて、荒れ狂う雷雲と、虚空を昇る龍の姿が描かれていた。
「あたしゃ今でこそ堅気の仕事してるけどねえ、あんたらみたいなのに喰ってほしくて寿司作ってるわけじゃないよ。他のお客さんに迷惑だ。代金はいらねえから――さっさと失せな。」
静かな声ではあったが、喉の奥から滲み出る怒りが感じられた。
おいこいつやべぇぞ、と誠は小声でささやいた。そんなことは言われなくとも分かっている。
誠がこそこそと逃げ始めたので、念仁もまたそれに続いた。今さらながら、他の客たちが浴びせる冷たい視線を感じていた。
二人は同時に店から出た。店内からは歓声が上がっていた。
百メートルほど遠ざかってから、誠は悪態を吐いた。
「畜生、あのアンチ野郎め! 俺、まだあんま喰ってなかったのに!」
「ふむ――ほんとー、何てあんな怒ったんたろーな。」
「ええい、こうなりゃ自棄酒だ! 金、お前も来るか?」
どういうわけか敬語が消えていた。
「朴たよ。――行くよ。まだ、ちゅゆりちゃんに対するお詫びも済んでねーしな。」
寿司女を酒に誘うはずが、あべこべに寿司男から酒に誘われるとは思わなかった。
しかし、どういうわけか念仁は誠に惹かれつつあった。不快なところはあれども、ひょっとしたら面白い人間であるのかもしれない。念仁は面白いことに目がなかった。
それから、二人は適当な居酒屋へと這入った。二人は、先ほどの失敗の原因を全く理解していなかったが、それでも無意識のうちには感じ取っていた。ゆえに、他人に会話を聞かれないようボックス席を注文する。
先ほどまで読んでいた同人誌を再び開き、その猥雑性や『まほつゆ』の素晴らしさについて語り始める。一つを読み終えると、次から次へと似たような同人誌を開いていった。
興奮は貪欲にアルコールを呑み込んだ。誠との相性はとてもよく合った。アルコールを摂取するに従い、会話の内容も次第に過激化していった。
やがて世界が回り始めた。どこからともなく群青の光が射しこんできて、居酒屋の風景を隠した。光には粉砂糖のような煌めきが散りばめられていた。つゆりがいつも『暗黒物質』と鬥っているところのイマージナルワールドである。巨大な盧武鉉が海月のように漂い、祝福の声を上げた。
「야、기분좋다!(やあ、気分いいね!)」
つゆりが実体として心の中から出てきて、二人を導き始めた。




