アリスタリフ視点 母のその後と白い犬
アリスタルフ視点です。
たぶん、エピローグ前の時間軸。
テオがティナを見つけて少ししたぐらいの時期かな、と。
「こんにちは、アリスタルフ様。お加減いかがですか?」
スッと綺麗な所作で淑女の礼をとり、クリスティーナが小さく頭を下げる。
長い黒髪が肩から流れ落ちるさまが優美で、クリスティーナの中身を知っていなければ、この所作を見ただけで恋に落ちてしまうだろう。
パッと見ただけならば、誰もが恋に落ちてしまいそうな美しい娘にクリスティーナは成長したと思う。
ただし、本当に、外見だけなのがクリスティーナだ。
口を開けば途端に隠しきれない残念な部分が現れて、百年の恋も醒めてしまう。
「それで? わたくしの叔父様はどこです? それとも、従兄弟と呼ぶべきでようか?」
お祖父様もよくもやりやがりましたわね――とおよそ淑女とは思えない言葉が出てきたところで、にゅっと背後から伸びてきた手がクリスティーナの口を塞ぐ。
クリスティーナの失言は、以前は家庭教師が物理的に口を塞いでいたのだが、現在は夫のテオドールが同じように口を塞いでいた。
「ティナ、言い方!」
「あら、失礼しました」
テオドールにたしなめられて、クリスティーナは青い目を丸くして瞬く。
それからおっとりと微笑み、自分の失言を詫びるのだが、あまり反省はしていないのだろう。
そもそも、反省する必要のあることだとも思っていないのかもしれない。
僕が知る限り、クリスティーナはそれぐらい自由な娘だ。
傍若無人とも言う。
「ごめんなさいね。田舎暮らしが快適すぎて、淑女語はほとんど忘れ――」
「……ハルトマン女史の前でも、同じことが言えるか?」
「失礼いたしました。長閑な暮らしが続き、少々口が緩んでしまったようです」
お許しください、アリスタルフ様――とクリスティーナが淑女を被り直したところで、テオドールが満足気に頷く。
この残念美少女の手綱を握るのは、一人ひとりが個性の塊のようなイヴィジア王族であっても難しいようだ。
というよりも、イヴィジア王族の流れを組む祖母の血が、僕とクリスティーナにも流れている。
クリスティーナに暴走癖があるのは、もしかしなくともお祖母様の血だろう。
我が国の王族は、少々どころではなく自由なところがある。
「――それで、結局わたくしは、叔父様と呼ぶべきなのか、従兄弟殿と呼ぶべきか……どちらなのでしょう?」
「どちらかと言えば……どちら、なのでしょうね?」
僕も悩んでいます、とクリスティーナの質問へと答える。
本当に、これについては内心複雑なんてものではない。
父が流行り病で他界したあと、祖父はまだ若い母の未来を心配した。
それ自体は、素晴らしいことだったと思う。
思うのだが、祖父はその素晴らしい心根とは裏腹に、大層不器用な人だった。
不器用すぎて、母を実家へと追い出してしまったのだ。
まだ若いのだから、次の相手を探せ、と。
この件についてはいろいろとあったが、もう終わったことだ。
結局、祖父と母は和解した。
僕は母と再び自由に会えるように……なるかと思ったのだが、今度は母の父親――つまり、こちらも僕の祖父だ――が祖父ベルトランに怒った。
いや、まあ、怒るだろう。
当然だと思う。
嫁いだ娘が、夫が死んだからと子どもを取り上げられて実家に戻されたと思ったら、今度はその子どもが恋しがっているから、と娘との連絡を取り始めたのだ。
誰だって、『ふざけるな』と思うだろう。
娘を未来を考えて自由にしたいのか、亡夫との間の子どものために縛り付けたいのか、と。
娘の再婚のためには、舅とも、息子とも連絡は取らない方がいい。
そう母方の祖父が、母と僕たちが近づくことに反対したのだ。
ならば、と意見を出したのは、意外なことに母だった。
ベルトランと再婚すれば、堂々と息子に会えるどころか、また一緒に暮らせる、と。
自分の再婚問題も解決だ、と。
これには顔を合わせるたびに諍いを起こしていた二人の祖父も、声を揃えて反対した。
こんな爺に嫁ぐことなどない、と。
荒れに荒れるかと思われた母の再婚問題は、祖母が一蹴した。
一度目の結婚は政略上のものだったのだから、二度目は母の好きにさせてやればいい、と。
そして、好きにさせた結果が、僕とクリスティーナが呼び名に悩む存在の誕生である。
祖父ベルトランからは、母の生家を納得させるためだけの、形だけの結婚だと聞いていたのだが、形だけの結婚で結果は生まれない。
母から弟――叔父?――の妊娠を告げられた時の顔は、鮮明に覚えている。
この世の幸福はすべて今この時にある、とばかりに輝く微笑で、母はこう言ったのだ。
――押せば行ける。
そう思った、と微笑む母の顔に、悟った。
嗚呼、これは、クリスティーナの(悪)影響だ、と。
なにかと祖父ベルトランに対して反抗的な態度を取るクリスティーナに、母も影響を受けていたらしい。
僕の知る限り、いつも俯いてびくびくと何かに怯え、謝ってばかりいた母は、開き直ることを覚えたのだ。
ちなみに、母の妊娠を知った祖父は娘婿に決闘を申し込み、祖母は「娘の初恋の人だったものねー」とおっとりと微笑んでいた。
……だからといって。
親子ほども歳の離れた弟が生まれるとは、思いもしなかった。
祖父の息子なのだから、叔父なのかもしれないが。
「か、かわいい……っ!」
ゆりかごの中の赤子を覗き込み、クリスティーナが表情を緩める。
同じ孫の誕生、あるいは新たな叔父の誕生に、内心複雑なものはあるだろうが、クリスティーナは単純に喜ぶことにしたようだ。
赤子の頬を突きたい、と指を伸ばそうとして、眠っているところを起こすわけにはいかない、とまた指を握り締めている。
わきわきと両手を動かす仕草が、美少女――美女と呼ぶには、まだ少し年齢が足りない――と呼んで間違いない顔に不釣合いで残念すぎた。
……あれ?
時折、クリスティーナの視線がおかしなところへ向かう
ゆりかごの縁に向かって何かを払う仕草をしたり、ゆりかごの中から何かを掬い上げるような仕草をするのだ。
なんだろう、と注視すると、僕の視線に気がついたクリスティーナが顔を上げる。
少しだけ困った表情をしたクリスティーナは、視線を僕から少し下げると、今度は合点のいった顔で僕の犬の名前を呼んだ。
「カルロス」
そう呼んだところで、応える犬はいない。
黒犬と同時期に我が家に来た白犬は老齢のため、一昨年の春に死の国へと旅立った。
ずっと体の弱い僕の介助犬のような役割を果たしてくれていたので、少しだけ寝込む回数の減った僕に、安心したのだろう。
クリスティーナとも何度か会っているはずなのだが、そういえば、死んでしまったことは伝えていなかったかもしれない。
クリスティーナは、いつも僕の傍らにいたはずの白犬がいないから、不思議に思ったのだろう。
そう思ったのだが。
……?
白犬の名を呼んだクリスティーナは、当然の顔をしている。
うっかり僕と呼び間違えたのではなく、最初から意識して、明確に白犬を呼んだ。
なにか変だ、と戸惑っていると、クリスティーナの手が動く。
まるで名を呼ばれて近づいてきた白犬を歓迎するように腕を広げ、顎を撫でるかのような仕草までしていた。
いったいなにが――と瞬いていると、クリスティーナの囁く小さな声が聞こえる。
「新しい叔父っ子は、ちょっと精霊に好かれやすいみたいだから、カルロスが守ってあげてね」
こんな不思議なことを言いはじめたクリスティーナに、そういえば、といくつかの噂を思いだした。
クリスティーナ本人は、あまり自分のこと話さないのだが、クリスティーナについてはいくつも噂ある。
いわく、精霊に愛される『精霊の寵児』なのだとか。
いわく、神王の寵愛深い聖女なのだ、とか。
いわく、精霊の姿を見、精霊の声を聞く、精霊姫なのだ、とか。
他にも聖人ユウタ・ヒラガの生まれ変わりだとか、不可思議な力を用いて王都とグルノールの街の間を一瞬で移動してしまえるだとか。
クリスティーナにまつわる理解し難い噂は多い。
そんな噂の絶えないクリスティーナならば、この場にいない犬の姿ぐらい見えてしまえるのかもしれない。
……それは、ちょっと。
ズルイ、と思ってしまう。
健康な体に生まれたクリスティーナを、羨んだことはない。
祖父の干渉を受けず、自由に暮らすクリスティーナを、羨んだこともない。
けれど、死によって泣く泣く別れた白犬の姿を、クリスティーナだけがいまだに見ているというのは、なんだか、とても。
羨ましい、と思ってしまった。




